Flare<フレア>



ひとつでふたり。



  どれくらい走ればいいのか、わからない。
  走りつづけると行き先を見失いそうだ。わけがわからなくなる。どこに向かっていたのか、どれくらい走っているのか、どうして逃げなくちゃならないのか、全てがあやふやになってくる。
  走るってなんだろう? そんな疑問まで湧いてくる。
  呼吸が短くなる。息が切り詰められていく。
  目眩がして、ぐるっと回転する。
  転びそうだった。それを堪えて、前方に見えるガードレールにぶつかった。
  ぶつかって、両手でしがみついてから気がつく。ガードレールじゃない。歩道橋の上にいた。階段を昇りきったところで、うな垂れる。ぜえ、ぜえ、深呼吸の合い間に見下ろしたのは道路を走るトラックに軽自動車に色とりどりの何か。錯覚か、視界がぐるぐるとまわる。
「う……」
  喉に何かがせり上がる。
  前のめりになる。後ろから誰かがやってくる。
  その人は、階段をあがってすぐのところで足を止めた。
「どうして逃げるんですか。僕は、君なのに」
「知らない。お前みたいなヤツは知らない。誰だ!」
  彼は汗だくになっていた。まだらな、迷彩のシャツを腹にくっつけている。
「君。あなた。沢田綱吉、僕はあなたから生まれたものだ」
 フェイクファーなのか、灰色の混じりの毛玉がジャケットの襟首に取り付けられている。男は端正な顔をしていたが、ファーのモコモコに挟まれて儚げな印象があった。
「知らないって言ってるじゃないか……。誰? しらない!」
「姓は六道。名は骸。……あなたから生まれたものだ」
  少年は一歩を踏みしめる。
  ぜえ、ぜえ、と、深呼吸をして歩道橋に背中を押し付けた。
  気がつくときは、早かった。六道、骸、そう名乗った彼はぴたりと同じタイミングで呼吸をしている。オレと一分一秒、違わぬタイミングで肩が持ち上がってずり下がる。
  ぎくりとした。泣きたい気分になる。
「近づかないでよ! 何なんだ……っ、何なんだ! 何なんだよ?!」
「だから。君と同じものです。一つになるべきものだ」
 そう言って、骸は自らの心臓を右手で抑えた。
「君は僕を掬い上げた。時期がくれば、僕はあなたの中に帰ります。今のあなたはまだこの力に耐えられない、だから、そのための入れ物として僕という存在が作られた。僕はあなたの傍にいる。そして、必要なときに、あなたに力を貸しましょう」
  決められた言葉を語るように、少年が告げる。くらくらとする。
  心臓が痛くなる。目の前の彼が言うことを信じたくない。信じたくない。ずっと、昔から感じてた予感がある。それが実現するかもしれない、やっぱりオレって、
「違うんだ?」
「はい」
  彼は、予期していたように頷いた。
  膝をつく。インプットされた動きのように、傅いたままオレを見上げた。
  ぜえ、ぜえ。ふたり分の呼吸であたりの空気が熱を帯びる。オレは本当は人間じゃないんだ。人間とよく似ているけど違うもの。だってオレは燃えるものを見ているとわかってしまう。そこからいずる声に。炎のささやきが聞こえる、それが異常だと気がついたのは中学にあがった直後。つまり、つい最近だ。
「沢田綱吉は僕の声を聞いた。僕は炎のなかで君の目覚めを待っていた」
  とうとうと語る声音。ふ、と、過呼吸のような息に変わる。骸がそうなったように見えたけれど、すぐに呼吸が難しくなって自分自身に起きた異変だと悟る。
「――――」オレと同じように、は、は、と、短く息をしながらも骸が受け止めた。崩れ落ちたオレの身体を支えて、抱き上げる。間近で見る骸は、能面を被ったように作り物めいていた。
「……運びましょうね。君の、家に」
  苦しげにしながらうめく声。
  息が出来ない。骸は、眉根を寄せて汗を流していた。何かを責めるような目をしていて、その眼差しの強さにはゾクリとくるものがある。この人は、強い。直感的に呟いていた。
「どこに、ある……っ、か。知ってるの」
「はい。僕はあなただ。あなたの記憶は僕のものでもあります」
  こともなげに骸は言う。その逆もあるのだろうか、と、背中に担がれながら考えた。揺さぶられる中で辿ってみても何も見つからない。炎の熱さが、目眩のようにせり上がる。
 炎のカーテンに遮られて、よく見えない。骸に近づいちゃダメだよ。
 誰かに言われた気がした。その正体がわからない。六道骸と名乗る少年は、苦しげにぜいぜいと息してオレの家に向かっている。
 背中に汗が滲んでいるのがわかる。ジャケットを通しても汗が香る。
 その匂いには、不思議と嫌悪感がわかない。目を閉じると声の正体が鮮明になる。オレの姿に見えた。炎、揺らめく奥で六道骸が少年をからだを押さえつけていた。肩を壁に押し付けて、嘆くような声をだす。
  いつの映像だろう。今ではない。過去でもないはずだ。
  それなら、未来か。いつだろう。
「僕は君の中に帰る」
  先ほどと同じ言葉だ。
  けれど、そこには感情があった。
  骸は眉間に深く皺寄せていた。苦渋を舐めるようにしながら、唇をひたひたと閉口させる。そうしながら、戸惑いがちにささやいた。
「それが定め。僕の心臓と君の心臓は同じものだ。僕が影なら君が本体にあたる」
 よくわからない。骸が苦しげにするのもわからない。オレが、その骸を涙混じりに見つめているのもよくわからない。何かがふたりのあいだにあるらしかった。
「……なのに、どうしてでしょうね」
「今は二つに別たれていることがうれしいなんて」
「狂ってるとしか」いえない。
  途切れがちに呟く声。
  オレが、沢田綱吉が、耐え切れないといった様子で顔面を抑えた。
  あやすように骸が前髪に口づける。そうして、本格的に互いの唇を貪りだした。彼らに心底からビビりながらもオレは両目を開けた。いつの間にか深く眠っていたようだ。見慣れた光景が広がっていた。いつものベッドに寝転がって、朝に蹴って止めた目覚まし時計はまだ床に転がっている。
  オレの部屋だ。隅の方で、テーブルに寄りかかるようにしながら骸が座り込んでいた。額を拭いながら顔を顰めている。
「あ……?」
 何か。夢を見た気がする。
「骸、だっけ。ここにいるの?」
「……直に君の力に気がついたものがくる。そのものも人じゃない。君はまだ力を使えませんから。僕が代行する。僕はそのための存在です」
  機械的に呟く声に、面を食らってしまうが骸は気にしなかった。当然だという顔をしてオレを見返して、すぐに、そっぽを向いてしまう。窓の外に向けられる視線はするどい。
「……夢。オレ、夢を見た気が……。あんたの夢を」
「――――ぼくの?」
  するどい眼差しが、そのままで返ってきた。
 胃袋の底がキュッと縮む。何もいえないでいると、骸は首を振った。
「現実と空想とがごっちゃになっているようですね。眠りなさい。僕との邂逅は少なからず興奮するものだったんでしょう?」言って、骸は自らの胸を抑えた。瞳は静かに綱吉を見下ろす。
「……そう、こんなに震えている」
  だく、だく、脈拍が大きくつづいている。
  骸は薄く笑った。事務的な笑い顔だった。
「落ち着いて。眠るといいんですよ。そんなに興奮するのは心臓の無駄遣いだ」
「大事な夢だった気がするんです。あ、あの。むくろさん? オレは……あんたとは」
「さあ。目を閉じて」
  有無をいわせずに視界がふさがれる。
  骸の手のひらだ。ベッドに頭をやんわりと押し付けられて、体が沈み込む感触がして、どっと疲労が押し寄せる。体から何かが吸い上げられていくような感覚がひた走る。
  うとうととして数分が経った頃か、胸の上……心臓を探るように辿る指先を感じた。
 何か。感嘆めいたため息が聞こえる。間をおかずに唇に何かが触れたけど、その意味を考えるとか目を開けるとか、そうした思考は働く前に眠りについていた。
「おやすみなさい。……父さん」
 なぜだか鏡の夢を見た。
 無数の鏡がオレを取り囲む。ただ、その中の一つは骸を映していた。 彼の横顔は静かなもので、二色の瞳が人形のように丸く澄んでいた。この世の生き物に見えなかった。




おわり




……



つづき




炎の異形の夜の野の。




 互いの身体を離すと、綱吉と骸は目で見詰め合った。
「……俺とあんたが一つのものなら。いいよ。俺、不完全なままでいい」
「そういうわけには行きません。いずれ、負ける。……つまりは死ぬ。僕らはひとつにならないと生きていけない。それが、僕たちの――、いえ、僕の定めです」
 言って骸は自らの心臓を抑える。
  綱吉も、眉根を寄せながらそうっと自らの胸を辿った。
  とくん、とくん。小さな鼓動は、ピタリと音を重ねる。まったく同じタイミング、まったく同じ温度で鼓動するものを抑えながら、ふたりは互いの瞳を見つめた。
「…………」「…………」
 骸は目を閉じた。綱吉の視線を塞ぐような仕草だった。
 小さく、呟く。唇が濡れていた。
「どうして同じ心臓を持っているのに僕らの思考は違うんでしょう? どうして違う人格なんでしょうね。僕は君だ。君は確実に僕の映し身であるし、同一の存在なはずなんですけど」
「骸さん。俺はあんたを受け入れたくない。このままがいい」
「できない。僕は君の中に帰る。それが決まっていることです」
「だれが? 誰が決めてるっていうの」
  綱吉が悔しげに歯を噛んだ。
「……運命が」
 いくらか、冷淡な響きを伴って骸がうめいた。
「でないと僕らは負ける。僕は君のための入れ物です。……僕が君の中に帰らない限り、君は完全な異形にはなれない。つまりは負ける。死ぬということです」
 泣きそうな目をして、少年は首を振った。骸は薄く笑う。
 自らの心臓に五指をつきたてる。そうしながら綱吉の手のひらにもう片手を重ねた。綱吉は自分の心臓を抑えていたので、骸は、ふたり分の鼓動を指先で感じることになる。
「……それでも、帰りたくなくなる日がくるなんて思いませんでした。綱吉くん」
 淡々とした声だが、確かに呼びかけでもあった。綱吉が卑屈に眉を寄せた。
「なに。骸さん。いやだよ。俺をおいていかないで……」
「僕らはひとつになる」
「ちがう! 一つなもんか! 骸さんは死ぬんだ!!」
「ひとつになる。僕は君の中に帰る。元から君の一部です」
 ちがうちがう。小さくうめきながら、綱吉は骸の腕を振り払った。頭を抱えて、蹲るように壁に額を押し付ける。骸は黙ってその様子を眺めていた。
「ひとつになるって……帰るって……、そんなの骸さんがいなくなるだけだろ?! いやだって言ってるじゃないか! ……ずっと!!」
「ええ。僕も君の傍にいたい。このまま二つで別れていたい」
 骸がぼそぼそと呟く。珍しく、気弱げな声だった。
「でも出来ない」一転してピシャリとなる。骸は静かに強く茶色い瞳を見返した。
「君を殺させたくない。いざとなれば、……いつでも君の中に帰る覚悟はできてます」
 呟くとほとんど同時に、綱吉は喉をしゃくらせた。



おわり



…………



さいご




 どれくらい走ってきただろう。
  わけがわからくなりそう、彼は思う。
  どうしてここにいるんだろう? どうして負けたくないって思ったんだろう? 最初は、死にたくないだけだった。でも途中から……を失いたくないだけだった。
  勝ちつづけることがその悲劇を食い止める唯一の手段だった。そのはずだった。
「聞いてない」
  全身が凍りついたように冷たい。
  声に体温がない。肌に体温がない。痛いくらいに冷えてる。
「そんなこと。知らないよ。何なんですか。そんなの反則だ!」
  驚いた顔をして、骸は自らの両手を見下ろしていた。彼と向かい合うかたちで、綱吉は上空にいた。その背中からは炎が羽根を伸ばして火の粉を吹き上げている。
  分厚い雲が足元にあった。骸は、焦げ付いたフェイクファーにも気付かずにひたすら自分の両手を見下ろしていた。くろい。黒く焼き爛れて、炭になりかけている。
  綱吉の羽根によって燃えたのだった。今まで、こんなことはなかった。
「……でも、そうとしか。僕もこんなルールは知りませんでした」
  驚きを隠せず、骸は両手で胸を抑えた。
  ぎくりとする。綱吉が恐れたこと――そして骸が恐れたとおりに、彼は事実を告げた。
「止まってる。心臓が。動いてない」
「……ん、なの、ありえない!!」
「でも事実だ。そして僕は君の炎に焼かれる。……ということは、逆もありえる。……考えてみれば当然のことかもしれない。僕らはすべての異形を焼き尽くした。……でも、ルールでは最後に残るのは一体。ねえ、綱吉くん。ここには何体いますか」
「…………!!」
  ふたりの少年は、上空で互いを睨みつけた。
「うそだ!」弾かれたように、唐突に叫んでいた。
「しかし、残るのは一体。それだけが生存を許されてます」
「イヤだ! ここまできてその結末って酷くない?!」
  ほとんど泣き声になりながら綱吉が叫ぶ。骸は目を細めた。
「大丈夫。綱吉くん、僕は君を殺させない」何かしら、いやな予感のする響きだった。綱吉は強く頭を振った。いや。言い聞かせるように叫んで、涙混じりに骸を睨みつける。
「あんたは俺の一部だ。死んだら許さないよ?!」
「違いますね。もはや、僕らは……念願の別の個体」
 うたうような声だった。それが当然だとばかりに、骸は両腕を広げた。
「どうぞ。君がトドメを刺すといい。そうすれば君は人に帰る」
「……やだ!! それならせめて骸さんを俺の中に帰す!」
「もはやそれも出来ません。僕らは別々の個体だ。さあ。残れるのは独り。殺しなさい」
「いやだってば! 殺せな……っ、独りなんてやだぁ!! いやだよォッ!!」
 視界が霞みだす。いよいよ、綱吉の背中から噴き出る炎は萎れた。綱吉の心中を反映しての結果だ、骸が短く叱責した……が、綱吉は首をふる。
「ルールなんて知らない。……知りたくない!」
 炎のまとわりついた指先が弧を描く。自らの両腕を広げ、胸を差し出しながら訴えた。
「いい。残るのは骸さんでもいいんだ。俺は、……俺はあんた殺してまで生きたくない」
 何事かを囁こうとして、しかし、骸は言葉を止めた。それなら、と、小さく囁いて右手を自らの真前へとかざす。その腕は瞬時に細く尖って槍のような武器に変わった。
「僕は僕で勝手に死ぬ」
「――っ。いやだよ!!」
 綱吉が骸の腕に食って掛かった。
  ごうっ。炎が渦を巻いた。綱吉の全身が一瞬で炎に包まれる。
「…………っっ!」「綱吉くん!」
  だが、焼かれながらも綱吉は骸の腕を抱きしめた。
  震えながらしがみ付く少年に哀れみの眼差しが注ぐ。眉根を寄せながら、骸は下唇を噛んだ。腕を元に戻し――躊躇うように、綱吉の頬へと添える。今度は綱吉の炎が骸を焼いた。
 灼熱の中で綱吉が顔をあげる。もはや、どちらの炎がどちらを焼いているのかわからない。ただ熱い。異形の炎は、物質ではなく精神に作用する。こころが溶け出しそうなほどに熱く、痛くて、今にものた打ち回りたいほどに燃え盛っている。
「…………目を閉じて」
  小さく、噛みしめながら骸が言った。
  触れ合う個所が燃える。互いに唇が燃えるのを感じながら、ふたりは目を閉じた。
 げほっ。口付けを終えると、綱吉が咽た。唇を抑えた手のひらから、赤黒い鮮血が落ちていく。だが、骸は目を細めたままで何も言わなかった。心臓に手を添えてみるが、やはり、止まったままだ。
「それなら」風に吹かれながら、ささやく。
「放棄……、します。ルールなんて。僕も知らない。わすれた」
  口角を拭いながら綱吉が眉を顰めた。つまり。お誘いですと言って骸は笑う。
「世界を敵にまわしましょうか。一緒に」
「……いいの? 勝算は」
  勝算はないことはしない、それが骸のスタンスだ。
  くすりとして、彼は愉しげに歯を見せた。それだけだ。言葉は、何もない。互いの肌を焼いていた炎が治まって、体内には炎による引っ掻き傷が残るだけ。綱吉は、やがて自分でもクスリとした。
「うん。はい。そっちのがいいな」
 唇はひりひりとしている。しばらくは、くっ付けないほうがいいだろう。
 その代わりだとばかりに綱吉が腕をだした。気がついて、骸が口角を吊り上げる。
  恐る恐るとした動きだった。互いに確かめるように人差し指を近づける。触れた途端に、朱色の炎があがった。諦めとも恐れとも喜びともつかないため息がどちらからともなく零れる。
 離す気は無かった。ぎゅうと握りしめる。
 黒い煙が、じゅうじゅうと音をたてながら二人のあいだで揺らめいた。
「骸さん、火力強いね。くらくらする」
「君も。爛れちゃいそうだ」
 二色に瞳がにこっと細くなった。
「目を閉じたら駄目ですからね」
「わかってるよ。骸さんこそ、目を閉じないでよ」
  骸は素直に頷いた。それを見て、綱吉も素直に頷く。
  固く手を握り合ったままで、ふたりは太陽を見上げた。音もなく火の粉が辺りを埋め尽くす。灼熱が空を覆っていた。互いの炎で互いを焼きながらも羽根を広げて、一気に走りだした。




太陽に向けてフレアが走る、赤い閃光がふたりを見えなくした。

 

 

 

END.

 

 

 

 

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ふれあ。携帯電話、つながらない。

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神話をひもとこう。ふれあ。





06.11.24

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