炎というのは孤独を宿命とした生き物でした。
燃えているから、誰も触れることができません。隣にいることすら困難で、炎は、それを大変に憂いておりました。どうしてわたしのそばだけ空いているのですか、どうしてわたしにだけ友も恋人も許されていないのですか。わたしはひとりなのですか。この灼熱を抱えて炎として孤独に燃えて灰になれというのですか。
それを遠くから見ている人もいました。彼は、炎を哀れだと思いました。
彼は、やがて、水に頼んで空を埋め尽くすほどの暗雲を呼び寄せました。そうして、雨を降らしたのです。炎は縮み、消えていきました。彼を地獄のような運命から救えようと彼は考えました。
ところが、彼は、この一件により炎に呪われました。
炎に彼のこころは通じませんでした。彼も、決して付き合いがいいわけではなく心の機微を読める性分ではなく、どちらかというと鈍くて頭が足りないところの方が目立つ未熟な性を持っていました。それは、炎も同様でした。だから炎は彼を憎んで、自らに死を与えた彼を未来永劫呪ってやると雨の中で誓ったのでした。
遠い昔の神話は、やがて時に解けて散らばっていきました。
西暦0××年、島国で一人の少年が生まれました。
時はそれより少し進み、西暦0××年、また島国で一人の少年が生まれました。
彼らの出会いは穏やかなものでした。互いに互いを知らずにすれ違うことが二回ほど。そのうちに彼らは互いの名を知って、後から生まれた人間の方が気がつきました。
かれは呪われている、炎に呪われている、焼いて殺される運命にある。
その人間は、本当に厳密にいえば、人間といえる生き物ではありませんでした。
炎というのは大変高等な生き物で、一度死んだだけでは魂の消滅は起こらないのです。その、炎は、何度か生まれ変わりを繰り返して、再び炎に戻る日を待っているところでした。
彼はほくそえんだといいます。思わぬ目印になったものだと、この呪いを、あの理不尽な死を復讐するに極上の機会を得られたものと喜びました。
そういうわけでは、その日から、彼は壮絶な仕打ちを行いました。
彼らは互いに年端もいかない年ごろで、成人もまだでしたが、彼が思いつく悪戯は度を越しているものがほとんどの上、生死に関わるものも決して少なくはありませんでした。真夜中に全裸で道ばたに彼を放り捨てても後悔することはありません。死んでもいいと常に思っているのでした。
炎に呪われた彼にはひたすらに運がありません。逃げようとしても、逃げられませんでした。彼は涙ながらに許しを請いましたが、長らく時間が経つうちに諦めてなすがままになりました。
彼はそれでも構いませんでした。この度の生は、この復讐に全てを捧げる気でいたからです。
そうして何年かが経って、彼の身にふりかかる炎の呪いが芽をだす頃になりました。
彼は火傷をしょっちゅう背負いました。空から炎が降ることは珍しくありません。燃えた何かが、狙いを澄ましたように降りかかって彼の肌を焦がします。火の粉が舞えば、彼のもとへと集まります。
そうして不運も重なります。彼は、日に日にやつれていきました。
それでもすぐに死に至るような出来事は起こりません。呪いというのは、地道に相手の命を削ることを本願としているのが常であり、炎の呪いもまた例外ではありませんでした。
それは、彼が、川に落ちて岩にぶつかり両足を折った日のできごとでした。
「ぶざまですね。いよいよ、死ぬかと思って笑いにきましたよ」
鬱蒼とした茶色い瞳が、揺らぎながら彼を見上げます。
彼には、炎の呪いが目に見えました。少年を覆って今にも焼こうとしています。いえ、常に焼いているも同然でしたが。これを眼にするとき、かれは、いいざまだと思うのです。
枕のとなりに腰かけながら、彼は、わざと脚で水皿を蹴りました。
一瞬だけ茶色い瞳が嘆くように細められます。熱と痛みで歯を食い縛りながら、子供はぐったりとして床に伏せていました。何度か声をかけましたが、反応はよくありませんでした。
目の前の生き物は確かに死にかけているのです。呪いの効力は彼自身がよく知っていました。彼は薄く笑います。両目に黒い炎が浮かびます。
「……夢、見ました……」
子供は絶え絶えにつぶやきます。
へえ。なにを。どんなのをです。からかうように、勝ち誇りながら問いかけます。
「……かわいそうな人がいて。おれは、小さな草のツルになってそのひとを見てた。かわいそうだった。いつも俯いて下を見ていて、でも、たまに空を見上げるときは泣きそうな目をしていた。……その人はいつもひとりで、一人でしかいられなくて、それが天に決められたことだった」
「おれはいつでも皆といっしょにいた。おれはだめなやつで、他のツルよりずっと小さくて成長も遅くて天の光もろくに浴びることができないはぐれ物だった」
「でも、皆といっしょにいられた。でもその人はそうじゃなかった……つらい、くるしい、そんな声がそのひとから聞こえてくる。助けてあげたかった。でも、おれには声がない。ただの草だから」
彼は、僅かに目を見開かせました。じっと子供を見下ろします。
「そのひとは……大きくて、つよくて、とてもえらいものの一部だった」
「でも、ひとりきりだった。それがその人たちの運命で、でも、その人は特別に寂しがりやみたいでいつもそれがつらそうにしていた。おれもそのひとには近寄れなかった。ただの草だから」
「雨が……すきだった。気持ちいいから。あの人は今にも死にそうな声で悲しげにうめいてる。かわいそうだった。その運命から、助けてあげたかった……、それでおれは水に願いをかける」
そこで夢は終わるという。子供は話を終えた。そうして、呼吸が静かになっていく。
「…………」彼はしばらく立ち上がりませんでした。
夜が耽るころになって、水皿に水を足してあばら家を後にしました。
彼はぼうっと空を見上げました。言葉がありませんでした。声など、忘れたような気分で、喉からは奇妙な呻き声しかでてきません。
ふと、帰り道の途中で足をとめました。
森の真ん中です。暗い木々が、ゆらゆら揺れながら緑の葉を吹き散らさせていました。
何度目でしょうか。自分の生きた数を指追って追いかけて、それから、昔の神話へと思いをはせます。両手の指を全て丸めて、拳になりました。彼は静かに、呆けたまなこでその拳を見つめます。これよりも多く、たぶん、あの彼は炎の呪いに取り殺されているのです。
次の日の朝に、彼は一人で丘をすすみました。
あの彼の様子は見に行きませんでした。例えここで生きても、後には必ず炎が呪い殺すだろうとわかっていました。彼は、丘の頂点にたつと太陽を見据えました。そして、祈りました。
のろいを解いてください。ごめんなさい。謝りますから、といてください。
わたしは知りませんでした。思いもよりませんでした。考えることも何も信じることも今はできないくらいで、でも、時間はない。おねがいです。わたしたちの主よ、声が聞こえているのならば。
「彼の……、解放を」
熱心に祈りをささげたことはありませんでした。
炎は、真のことを言うなら主人すらをも憎んでいたのです。どうしてわたしを哀れむことはしないのですか。どうしてわたしには孤独であれというのですか。どうして、わたしには求めても求めても与えられることがないのですか。どうしてですか。わたしはそれを望んでいないのに。
「わたしは、もう……。呪うことを望みません。炎はもはや呪いたくありません」
低く、小さく、弱々しくも呟きます。そうして、光がまたたきました。
勝手なことを言う。
どこまでも勝手だが、だが、聞き入れよう。
ただしおまえらは二度と共には在ることができない。
ただしおまえらは二度と離れることはできない。
「……わかりました」
光がますます強くなります。
彼は、人の皮がなくなっていくのを感じました。恐らく、あの彼もそうなのでしょうと炎は思います。この選択が間違いであったのか、きっと間違いなのでしょうが、彼は考えるのをやめようとしていました。
おまえのきおく、そのほのお、すべて返してもらう。あの草もすべて奪わせてもらう。
頷くばかりです。身体から力が抜けて、炎は、やがて炎であったことすらも忘れていきました。そして光の奔流に飲まれていきました。次に目をあけることができるのか、いつになるのか、そのときにあの彼とまた会うのか、すべてがわかりませんでした。そして、本当にすべてがわからなくなっていきました。
二度と共にはいられず、けれど離れることもできないと、その意味を考えることはできませんでした。炎は自らの正体を忘れて隷属するものに堕ちました。炎の呪いは、真の炎となってひとつの魂を包み込みました。それは、いわば天によって与えられた新たな呪いでした。
そして、それもまた神話となって時に溶けて散らばっていきました。
炎の業の背負った生き物とそれに従う生き物のはじまりについて。
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