群青
6.
きみの中、最高だ……。そう言って、少年は二度目の滾りを噴き出した。その声が脳裏をよぎり、口角が引き攣った。
(最悪……。最低。死にたい)
掻きだしたものは、濁った土気色をしていた。頭の内側がガンガンと何かに叩かれる。心臓が内側から腐るかのような気分。酷い、手酷い絶望感だった。
(あう……)彼は、ダイナマイトを投げつけられて姿を消した。取り残され、綱吉はその場にへたりこむことしか出来なかった。呆然と涙を流すだけで言葉もでない。同じく、呆然とするだけの友人二人と長いあいだ見つめあった。酷く惨めで、――、思い出すだけで綱吉は言葉もなく頭を抱え込んでいた。
「おい。終わったのか」
馴染みの声が、何か、恐ろしい刑罰の執行を宣言するように聞こえる。
「もうすぐ三十分も経ちますけど……」獄寺が、申し訳なさそうに顔をだした。その下からリボーンが顔をだす。綱吉が友人に担がれて帰宅して以来、ずっと奈々をごまかすのに専念したため、綱吉と顔を合わせるのは今が初めてだ。
苦渋を浮かべて、リボーンは綱吉の全身を一瞥した。小刻みに震える指に、泥交じりの白濁が絡み付いているのを見つけて舌打ちする。
「チ。やっぱな。獄寺、面倒見ろ」
「は……」唖然として、獄寺。綱吉はギクリとして、激しく首を振り回した。リボーンが諭すように告げた。
「自分でできねーなら仕様がねえだろ。獄寺、構うな。そのままで放って、変な病気になる方が困る。あと、ツナ。山本がママンの相手してる。騒ぐと気付かれるから、静かにやられてろ」
リボーンはあからさまにため息をついて脱衣所を出て行った。青褪めながら、獄寺が首を振る。
「あ、いえ、オレはそんなつもりじゃ」
じりじりしたものが喉元まで這い上がる。獄寺隼人は、とにかくタイミングが悪いだけで悪気がないことは綱吉も知っていた。知っていたが、喉が今にも焼けだしそうな熱を持つ。半分、泣きながら、逃げだそうとした背中を呼んだ。自分では、出来そうもないことだけがよくわかった。
「獄寺、く……。て、てつだ、……て」
胃袋には何もないはずなのに、吐き出しそうな気分になった。結局、湯船に浸かっても体温が戻った気はしなかった。痛いくらいに手足が冷えて、見下ろせば、全身がぶるぶると震えつづけていた。
首筋にも二の腕の内側にも、あらゆるところに吸引の痕があった。
「…………」よろめきながら、パジャマを着込んだ。やはり、身体中に散らばった赤い傷痕を隠すには不十分だ。
強引に行為に及ばれたため、いまだに腰が抜けていたが、壁を攀じ登るようにして自室に向かった。リビングから談笑めいた笑い声がする。
倒れこむように転がりこみ、布団を頭まで被って身体を丸めた。眠れてしまえば、まだ楽だった。人の気配がしても無視しつづけたが、その言葉には、綱吉も顔をださずにはいられなかった。
既に深夜を過ぎた。獄寺と山本は沈痛な面持ちで部屋の隅に座っていた。リボーンですら、いつになくつまらなさそうに綱吉を見つめていた。
「わかったか?」
「……、ほ、本気で言ってる?」
身体中の血が遠ざかって、目眩がした。
「こんな時にウソついてどうする」
(こんなとき)綱吉がギクリとする。獄寺が気まずげに、それでいて複雑そうに綱吉を見つめていた。山本は静かに目を細めたまま、やはり、綱吉を見ている。
彼らの視線を否応なく意識し、その度に慟哭めいたものを喉につまらせながら、綱吉はリボーンの言葉を待った。赤子は、言葉を選びながらもささやいた。
「ディーノの死体は見たくねえだろ……。来週末、キャバッローネも出席するマフィアの集会がある。大舞台だ。奴らも仕掛けてくるだろう。潜伏して、テメーはキャバッローネの無実を晴らす。ボンゴレ十代目のデビュー戦としちゃ上出来だ」
「母さんは」綱吉が、悲鳴に近い掠れた声をだした。
「ヒバリに任せてある。あいつは高校卒業までここにいる」
「帰ってくる予定は?」
切羽の詰まった質問だった。
何かを確認するように、推し量るようにリボーンが綱吉の目を覗いた。
「ねェよ。ツナ、日本を出るんだ」
「……リボーン……」
視界が潤みだす。山本が頷くのが見えたが、綱吉はそれすら否定するように頭を振った。弱々しい仕草に、リボーンが鼻を鳴らす。
「出発は来週の日曜にする」
綱吉は布団を被りなおした。顔面を枕に押し付ける。
(そりゃリボーンはディーノさんを助けたいんだろうけど――、オレだって助けたいけど! でも、だからって、だからって――)
目を瞑れば、下肢がじんじんとした痛みを呼び込んだ。
(だからって、オレに全部捨てていけって……)
(酷い……。いやだ、もう。いやだ)
何もかもが綱吉の意に染まらない。真っ暗になった視界に、動く人影。眉根を寄せたが、今は考えたくなかった。眠りだけを強く願った。どれほど経った頃か。
声が、鼓膜の内側で蘇った。
突如として静けさが破られ、犯し貫かれていた。最高だ……、と、熱を孕んだ呻き声がした。
「綱吉くん。気持ちいいんでしょう? 痛い?」
どこから声がするのかわからなかった。暗闇に組み敷かれているかのようだ。
「はな、して。離して! いやだ!」
「気持ちよかった……。痛かった。綱吉くんも、ねえ?」
「あああぁああ?!」
左腕が血塗れになっていた。上へ逃げようとした顔面を鷲掴み、くすくすしながら暗闇が下肢を動かした。赤い瞳。『六』の染み付いた赤い瞳。
(うあっ、あ、ああああああ!!!)
飛び起きて、バランスを崩した挙句に顔面を床に擦り付けた。
綱吉は呆然として体を仰向けた。天井。まだ、体の節々が痛いが。左腕には怪我がなかった。
「ゆ、夢?」いつの間にか、寝ていたようだ。
暗く染まった室内を見回し、綱吉は片腕で自らの体を抑えこもうとした。
(あんなこと……。夢にまで見るなんて)喉が渇いて、仕方がなかった。
時計の針は深夜の四時を指していた。冷蔵庫に向かうと、オレンジジュースがあったが、冷たさだけが喉を通り甘味を感じない。
「…………」綱吉は苦々しく眉を寄せた。
この家には骸が残していったものが数多くある。リビングのテーブルも、その一つだ。振り返り、見つめる。必要以上に過敏になっていることを意識せざるを得なかった。パジャマの衣擦れさえ、彼の愛撫と似ているようで怖気がする。飛ぶように自室に戻って私服を漁っていた。まだ、若干に寒いが、袖がない服のが良かった。胸前のボタンを留めつつ、ふと、ハンモックの方へ視線をやって綱吉は悲鳴をあげた。
リボーンが起き出した気配は無い。が。
「しまった。リボーンから借りたピストル、教室に置きっぱだ……」
ハンモックの下には、リボーンご自慢の銃器コレクションがあった。獄寺と山本が気がついたとは綱吉には思えない。同じくらいに、焦燥していてそれどころではなかった。
(あのままじゃ誰かに見つかる……。オレの指紋とか付いてるだろうし、リボーンに半殺しにされるくらいじゃ済まないかも)
気分転換に散歩を兼ねると思えば、安いものか。思い直して、綱吉は踵を返した。腰が痛いが、歩けないほどではない――。と、ふと、窓を見上げた。
「…………――」
明け始めていた。辺りの闇が、薄く、引き延ばされたように薄くなる。
もうすぐ、あと一時間ほどで完全に夜明けが訪れる。何度か瞬きをして、やがて。
そろそろと、綱吉は腕を伸ばした。カートリッジがあれば、それでいい。何度か装填の仕方は教えられているし、まだ覚えている。心臓が早鐘を打っていた。コレクションの中に、望むものはあった。小走りに――と、いっても子供が歩くような速度が今の限界だが――、学校を目指した。
教室は酷いありさまだった。ガラスは床に飛び散り、机とイスが散乱している。見回すだけで、目的のものを見つけた。薄い闇が引いて、青味が強くなっていた。
屋上へ続く階段を上がりながら、深呼吸を続ける。
がくがくと震える両手で、装填を終えた。真新しいものを見るような思い。直感は確信へと変わっていた。片手に拳銃をぶらさげたままで、綱吉は屋上の扉を押した。
普段なら鍵が掛かっているそこが、容易に、外側に開いた。
彼らは、一瞬、動きを止めた。時間が止まったように、瞬きもせずに綱吉を凝視する。
リュックサックに戻しかけたアルミケースを落として、千種が叫んだ。
「ボンゴレ! どうしてここが?!」
「柿ピー! アイツ、チャカ持ってるびょん!」
「待って。骸さんと二人にして。話がしたい」
綱吉が、うめくようにして告げる。
なに? 彼らの反応は鈍かった。戸惑ったように、千種が骸を見下ろした。引き千切ったカーテンの上に体を横たえて、胴体に包帯を巻いていた。
「……さっき、また鎮痛剤を打ったから」
「寝てンだよ。テメー、邪魔するなら容赦しねえぞ。骸さんの命令がなかったらなァ、ボンゴレぐらい――」
ギョッとして犬が言葉を切った。
おもむろに、骸が上半身を起こしたのだ。注目を浴びながら、彼は自らの額を抑えた。眠気が残っているようだった。
「綱吉くん。なんとなく、来るんじゃないかと思ってましたよ」
「骸さま。安静にしないと……」
「千種、犬、彼の言う通りに」
体に被せていたジャケットを払い、骸が立ち上がる。
「早く」彼が掴みあげたものもまた、銃身のグリップだった。
迷彩柄の半そで。その左腕には、赤味がかった包帯が厚く巻かれていた。綱吉の足元から頭頂までを見つめて、骸はクスリと口角を寛げた。
「元気そうですね。よかった。少し、初めての君には手荒すぎたかと後悔してましたから」
謝罪するなら、そっちではなくて友人の前に引き立てたことを詫びるべきだ。思ったが、綱吉は黙り込んだ。その横を、鬼のような形相で千種と犬が通り過ぎていく。
扉が閉まる。一度、強く両目を閉じた。
「……オレ、は、ですね。母さんがいて京子ちゃんがいて山本と獄寺くんがいて、リボーンが、また現実味のないことを言って……。それが日常だと思ってたし、それが良かった。それだけのことがずっと続いて欲しかったんだ」
両目を、開ける。明け方の、ほんの短いあいだに起こる蒼い世界が目の前に広がっていた。屋上のフェンスを背中にして、骸が立っていた。
「君のそれは、矛盾していますよ」
緩やかに、骸がフェンスに体重をかけた。
わずかに息が荒い。実際、犯されたのは綱吉だったが、怪我の具合は骸の方が重大だ。深呼吸混じりに、骸は、静かな面持ちで綱吉の足元に視線を向けた。
「いずれ、こうなることはもっと早くからわかっていたはずだ。リボーンは冗談で君にマフィアになれと言っていたワケではない」
「それでも、オレはそうなるとは本当には思ってなかったんですよ」
曖昧に微笑み、綱吉が頷く。骸が蔑むような目をした。
「貴方がやり続けていたのは、ただのポーズだ。知らないフリとも言う。ぬるま湯が好きなんですよ、君は。要するにね」
「そうかな……。そんなつもり、なかったんだけどな」
少年二人が染まる色も青、互いの間にあるのも青、空が、一面同色の薄青に染まっていた。
俄かに両目を細めて、骸は冷徹に唇を尖らせた。
「僕を引き取ったこと、僕を招いたこと自体がその延長にある。君は流れに逆らおうとしない。だから、何も考えずに僕を受け入れようとした……。ねえ、悪意のない行為が必ず人の為になると思いますか。思うなら、君は、君はいつか身を滅ぼす」
その、瞳の、オッドアイが瞳孔を縮めた。アンタがオレを滅ぼすっていうのか。低く、うめきかけた言葉は、しかしあまりに真実味があるので綱吉は声にする前に引っ込めた。
「綱吉くん」熱に浮かされたような声で、骸が呼びかけた。
「愛してます。殺したいくらいに」
風が、吹いた。
吹かれながら、綱吉は片手でぶらさげたものに、もう一方の手を添えた。低く呟く。
「アンタ……。何なんだ。オレを好きっていいながらオレが厭になるようなことばかりを起こす。イタリア、行くことになりそうですよ。このままじゃキャバッローネが潰れちゃう」
「ああ、そうですね。僕も今月末までにはイタリアに戻らないと」
平然と、骸が頷く。綱吉は沈痛に眉根を寄せた。
「やっぱり、骸じゃないか! どういうつもりなんだ!」
「……だから、君が好きだから。どうです? 今日は……。僕らはお互いの体を知った。僕は、今までの誰とやるよりも悦かった。少し、痛すぎましたけど。僕は、また君のことで頭がいっぱいになった。どうしてでしょうね? 別に、どうでもよく思う日もたまにはあるんですけど……、でも僕は君が好きみたいだ。愛してるんですよ。いつも、頭から離れない」
「やめてよ。それは変だよ。アンタはオレを憎んでるんだ!」
骸が、オッドアイをくすりとさせる。
「なかなか的を突いている。でも、それだけじゃない」
「理解、できな……っ。できないよ! オレが知ってる愛情ってそういうもんじゃない!」
「だから、なんだと? 君の事情なんか知らない。綱吉くんが好きだ。君はどうなんですか。君の中には、もう――」
ギクリとして、綱吉が後退る。強く、骸を見つめ返した。
「やめろ! 今日のことは事故だ!」
「違いますね。天命。僕が進むべき道の途中に、君がいる。いや、――君を引きずり込むことができた、と、いうかもしれない。僕たちは一つになった……。綱吉くん。君の中にはもう僕の片鱗が潜り込んでる。君は、そんな絶望的な目をするようになった」
「そんなことない――」
「いや、ある。僕にはわかる」
「…………っ!」両腕に、力を込めた。ガクガクと激しく震えだした。今回は、興奮している自覚があった。吹き荒む風が、頭髪を揺らす。骸は、ゆっくりと自らの前髪を耳にかけた。
「僕を、撃つつもりでここまで……?」
綱吉が突きつけた銃口を、悠然として色違いの瞳が見つめる。
笑みが、狂気をまとって顔面を裂いていく。違う。綱吉は、風の中で小さく呻き声をあげた。
「では、どんなつもりで?」
強風の中でも骸は聞き逃していなかった。
シャツをはためかせながら、興味深げに綱吉の言葉を待つ。
心臓が痛かった。脂汗が滲みでる。
「お願い――」リボーンは何ていうだろうか。
獄寺は、山本は、母さんは、京子は、ハルは、ランボは。皆は。瞬時に沸き起こったものが、奔流となって綱吉の喉を詰まらせる。両目を潤ませたが、それだけで、綱吉は二の句を継いだ。
「殺させて、骸」
「やっぱり、そうじゃないですか」
「違う。オレも、一緒に死んでやるから」
骸が両眼を大きくさせた。正気を疑うような顔で少年を見返す。
「一緒に地獄に行こう。……それで、いいよね?」
銃口を向けたまま、綱吉は悲痛な面持ちで言い放っていた。
>> 7. へつづく
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