群青
1.
潤滑油はつけた。
あとは装着を済ませるだけ。
「……っとぉ」鼻先と鏡面との距離は僅かに五センチ。上下反対ではない、右目と左目の動きも連動している。両目をパチパチと瞬かせて、動作を確認すると、綱吉は踵を下ろした。家をでたのは五分後だ。
校門前の桜を見上げるのが日課になっていた。リボーンが、冗談混じりに、
「桜が散ったら決意を言えよ」
と、言ったからだった。
(桜が咲いてから言うのは卑怯だよなあ)
そろりとした動きで、人差し指を左目に触れさせる。
まぶたの下がゴロリとした。いつからだったか。確実に、二年前にはなかったクセだ。その瞳は、なかば、マフィア抗争の果てに失明したようなものだった。
(イタリア語どころか英語もまともに喋れないのに……)
高校に入学してから一年。学校での勉強よりも、自宅での勉強の方で今は忙しい。校舎前で、カバンを小脇に待ち伏せしている生徒がいた。目つきの鋭さは相変わらずで、中学時代よりも背が伸びたために最近は妙な貫禄を醸し出した彼は獄寺隼人だ。
(中身はいつも同じなのにね)
「十代目。カバン、お持ちしますよ」
「ああ。いいってば。おはよ、獄寺くん」
獄寺は、まるで従者のように綱吉の後をついてきた。
当然のように懐から手帳を引き抜く。
「リボーンさんからの伝言です。今日、逃げたら命がないと思え! だ、そーです。十代目、もうちょっとでTOIEG三百点いくじゃないですか。頑張りましょうよ」
「いや、……いくらやっても無駄だよ。オレ勉強できないもん」
獄寺が、自らの灰色の髪を撫でつけた。
「オレもできる限り尽力します。やればできるような気がしないですか。大丈夫ですよ、十代目ならぜったいに!」
(そりゃ、獄寺くんはもう目標の八百点取ってるからだ)
チャイムが鳴ったことを幸いにして、綱吉は教室に駆け込んだ。二年のC組。獄寺と山本とクラスが別れた今、この空間だけが、綱吉に日常的な生活を実感させる場所だった。
「あー、もう。おはよう」
「はよう。ツナ、追っかけが手を振ってるぞ」
茶パツのクラスメイトは、高校からの親友だ。本宮と言う。
マフィアのことは何一つ知らない。ボンゴレやら十代目やら、罰ゲームでついたあだ名だと綱吉は徹底的に主張を繰り返していた。窓越しに獄寺に手を振って、姿が見えなくなると、重々しく鼻腔を膨らませた。
失明事件以来、リボーンは厳しくなったし獄寺は態度を変えた。
(山本まで手厳しいし)頭の端が、ずきずきと痛む。
「おまえ、高校中退するってマジ?」
「そんな噂、どこからでてるの」
「アイツ。今の追っかけ。オレ、声かけられてさ。中退するからあんまり……、なんだ、必要以上に十代目のお心を惑わせるなっつって」
ポリポリと頬を掻いて、本宮は黒目を戸惑わせる。
綱吉は首を振った。大げさにため息をつく。
「オレにそんな大それたことできる度胸があるって思ってンの?」
「思わねーッスね。おまえ、すぐ逃げるもん」
「ご名答」
あっけらかんと返しつつ、しかし、綱吉は複雑だった。
獄寺に悪意がないことだけがはっきりとわかる。あとは、ぐちゃぐちゃとして取り留めがなく、人に説明できるほどわかりやすい感情ではなかった。
(……高校卒業も待ってくれないなんて)
ボンゴレ十代目になる、だなんて遠い出来事のように綱吉は考えていた。
ならないと言い続けて、周りがその気になってるけどもウヤムヤで、そうして曖昧に済まされていた事態が二月になって急転した。ディーノが狙撃され、キャバッローネファミリーはかつてない苦境に立たされた。
(オレだってディーノさんの力になれるならなってあげたいけど)
(でも、それがマフィアになるっていうのは)
少し、違うのではないか。
数学の授業を聞き流しながら、校門前の桜を見下ろした。ひら、ひら、散っていく。
日本に生まれてるのに、日本人なのにどうしてイタリアに行かなくちゃならないんだろう。いまだに、自分の家系図をキチンと理解すらしてないのに。綱吉はゲッソリとして目を閉じた。
自然と、左目に指が伸びる。近頃はやけに気になるものだ、綱吉はわずかに頭を振った。
失明事件の首謀者は、いまだに行方知れずだった。リボーンは、屋根から撃ち落としたと言うが。彼がそれしきのことで死ぬとは綱吉には思えなかった。
(考えたってしようがない……。って、ああ、これが考えてるってことか。どうしたんだろ、今日は)
左目を亡くしたという事実が覆らないのだから、考えるだけ無駄だし、落ち込むだけ無駄だ。それが、事件の主犯者を思いだす度に呟く合言葉だった。
(考えない……。考えちゃダメだ)
綱吉は顔をあげた。
数学の授業だったはずが、いつのまにかクラスメイトは着替えを始めていた。
「おまえ、ボケボケしすぎじゃないの。体育だぞ」
「あ、ああ。そう。そうなんだ。数学、宿題とかでた?」
「……ダメツナだなぁ。でてねーよ。ってゆーか、倉本どうしたか知ってる? 来てないみてぇ」
「さァ。メールも何も来てないからわかんない」
「五限、小テストあるって教えたはずなんだけどなァ」
(?)直感的に、綱吉は首を傾げた。
なぜだか。なぜだか、気がかりに思える。
奇妙な違和感で体がざわついた。ざわついたが、その原因はわからない。ピ、ピ、と笛に合わせた屈伸運動をしながら綱吉は首を振った。この頃、色々なことが重なって落ち込み気味だ。その延長でワケのわからないことで気分が沈むに違いない。
左目がズキズキとする。程なくして、綱吉は早退を申し出た。
「どっかで、時間潰してから帰ろ」
気分転換は大事だ、ウン。
下校時間になれば獄寺と山本がついてくるが、このところの綱吉は、実は彼らとも顔を合わせたくないのだ。彼らは現実的に物事を考える。現実を見なければならない、その事実が綱吉をますます憂鬱にさせる。手早く制服を着直して、左目をゴシゴシとしながら校門を出た。
桜の花びらが、ひらりと首筋を掠める。
数歩も行かないうちに足を止めた。止めざるを得なかった。あれ。乾いた声が、喉を通って消えていく。両手を左目に被せていた。右目が痛いのか、心臓が痛いのか、わからないくらいに痛みがあちこちから湧き起こる。急激な変化に、視界がぐらりとした。膝が折れる。
コンクリートについた両手まで、がくがくと震えていた。
「……な、……」
すぐ、目の前で靴が見える。
黒いスニーカー。彼が、腰を折って綱吉に手のひらを差し出した。
ゆるく頭を振る。救急車を呼ばれるのではないかと、恐ろしかった。リボーンはボンゴレの息がかかった以外の病院で診察を受けることを許さない。
「大丈夫、です、から――」
「でも、君は随分と怯えてるように見えますが?」
「……え?」
驚いて、綱吉は自らを抱いていた両腕を解いた。
痛みかと思った。けれど、確かに、言われてみるとコレは悪寒だ。全身を内側から刺して突き上げるほどに手痛い悪寒だった。
綱吉はぞっとしながら顔をあげた。
彼は髪が伸びていた。襟足が肩を過ぎて、背丈も少しだけ伸びたように見える。
「久しぶりですね」
にこりと両目を笑わせる。
少年は、黒のタートルネックを引きおろした。露わになった唇も笑みを模っていた。うっすらと開いたまま、やや色素の薄い唇が、一文字一文字を愛でるようにして名を呼んだ。
「……綱吉くん」
>> 2. へつづく
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