リングとミリオン:最終ターン
「ルール・ラン・リング」
朝は、必ず訪れる。
明日がどれほど不確かであろうとも。
明くる日。自然に目が覚めて、いつもよりも早めの時刻にてハミガキに勤しんだ。
鏡にうつる少年は、いつも通りの、ぱっとしないただの沢田綱吉――
(……『リング』……?)
ほんのりと、曇りガラス、流れおちる水滴、うさぎ、くま、おおもり遊園のマスコットキャラ……、子どもの泣き声、それらが鼓膜やら視界の奧やらに貼りつく。
不明瞭な残滓はあるのに、どうしてか、不快な感じはない。
それどころか、胸は冴え冴えとする。
きゅっ。蛇口は閉めた。
(……ずっと……いっしょに……? ええっと……あー、ダメツナ、しっかりしろよ。今日は。しっかり頼むよ!!)
念じながら入念にタオルで手を拭き、ずぼらで面倒くさがりな自分のすんなりした行動に視線をくぎづけされた。
以前までは、手をぱっとふって、水気を飛ばしていた――、ような?
(いつのまに、新習慣……!?)
鼻白んでタオルを眺めているうちに、台所から味噌汁の匂いがしてきている。
昨晩、帰宅した沢田奈々が、台所で立ちまわっていた。
「早いわね〜、おはよう」
「……おはよ」
イタリア長期旅行の疲れもみせず、朝食を並べる。口は酸っぱくさせた。
「ちょっとツナ! あんた、まだパジャマのまんま! 私がいない間、ちゃんと生活できてたんでしょうねぇ? 卵は?」
「固めの目玉焼きー!」
(拍子抜けするほどいつもの日常っ!!)
ガンッとしながらイスに着き、そして朝食を終えてから大盛中学校の指定シャツにズボン、ネクタイをしめてブレザー制服を着用する。
そんな自分の全身を姿見に映して、髪色や目の色などをまじまじとつぶさに、確認する。
(……いつものオレだ、……『こうして、ツナヨシのもとに、いつも通りの日常が戻ってきました。めでたしめでたし』……ッて感じだ)
「…………、あほくさ」
自分に呆れて、綱吉は軽くぱちんと両頬を叩いて景気づける。
(いつもどおりなワケが、あるかって!!)
今、もう一人の沢田綱吉がなぜだか姿を現わして――、彼は骸の『リング』を求めてきて、骸は余命そのものらしい右目のカウントがもう『一』になって、そしてそれを仕込んだ張本人は齢九十になるという未来の幼馴染みご本人様で、彼はどうしてか骸に殺意があって、さらにクロームはもう一人の沢田綱吉の人質になっていて、デイモンは行方をくらませている。
(う゛う゛ーっ、わけわかんね! けど!)
「いってきまあーす!!」
奈々がイタリア旅行のことや父親の様子などを話してきたが、綱吉は手早く自宅を飛び出していった。
綱吉の知る限り、お隣の六道さんのタイムテーブルはこの具合であって――、
(よし、ビンゴ!!)
正解だ。
寒空の下にて、後頭部に房をつけた後ろ姿を発見する。
スクールバッグを肩から引っ提げて、いつも通りの――、じれったいほどいつもと変わらない、幼馴染みの少年。今は両目がオッドアイになった六道骸だ。
彼がふり向ききるより先に、横並びになった。
「お、――おはよ、骸!」
「…。おはようございます」
一本線が刻まれたような赤眼と、青い左の目が揃って、見下ろしてきた。
彼の歩幅がほんの少しだけ、緩められる。
空気を飲んで、はやる気持ちを抑えて続く二の句を待ってみる。
が、
「…………」
「…………」
瞳を、ぱちくりさせる。
綱吉は上目を遣って一歳違いの幼馴染みをうかがった。
彼の眼差しは、前向きに固定してある。
無に近い、顔つき。端正な横顔を綱吉がじーっと見ようが、関係ないようだった。
ますます、じぃーっ、太い睫毛やら色白の素肌などを目に留めて、綱吉は人知れずに空気を飲みくだした。
これまでの話をどう切り出したものか、出鼻はくじかれる。
(……お、おいいいいっ……!? おまえ、どうしたんだよ昨日あれからお前は?)
奈々の帰宅と同時に、六道家の食客たちは行方不明になった。
骸と綱吉は、謝罪されながら夕食をともにした。
そして解散。そして今。
これでは本当に――『いつも通り』。そんな感じだ。
この頃は風がするりっと肌をすり抜けるから、寒さが増した。冬は近づき、周囲はずっと騒がしかったから、ふたりきりでの時間が久しぶりだった。
綱吉はむずむずしてきて肝が冷える。
しかし、ただ単純に、彼を待ってみた。
余裕はないけれど、急かす必要性はないようにごく自然と思われた。
自分たちは、幼馴染みで……、ずっと昔っからの縁が繋がっているのだからだ。
隣をただ並んで歩く、それだけのことが懐かしいなんてな、わびしいような、寂しいような、奇妙な心地で実感してみる。
やがて、骸がぽつっと呟いた。
「君、将来、どーするんですか?」
秋風に、前髪は軽く揺らされている。
綱吉は、口内で前歯の裏側辺りを舐めてみる。なんだかちょっと困った。
「別に。特には?」
「ふうん」
どうでもよさそうな相づちだ。
ほかに、会話はなく、大盛中学校が住宅街のはざまにまみえてきた。
綱吉も前方を向きつつ、しかし綱吉は無視はできず混ぜっ返すようにして尋ねた。つむじ風がふたりの間をすり抜けていった。
「……結婚指輪……、今から学校サボって買いに、行くか?」
「冗談……、正気ですか、綱吉」
「でもクロームは? 指輪が必要になるじゃんか」
「彼女は、助けてやりますよ。放っておくのも寝覚めが悪いですから。ですが僕一人でどうにかできる」
「なるかぁ〜っ!? 学校行事じゃないんだからさっ!! あっちのオレなんかやばそーな匂いぷんぷんしてたし、オレだってとっくに巻き込まれてんだから!」
「馬鹿げた、『許嫁』とやらはもう解消されたようですけどね? どうとでも、なんとでもできますよ」
投げやりな言い方に綱吉はかちんとした。
じろ、はっきりと六道骸を睨めつけて、自分の顔を突きつけるようにして苦言する。
「その目は? どうするんだよ、あと一回こっきりなんだぞおまえ! っていうかオレと話してても右目は平気なの?」
「きみ、ぼくをなんだと思ってるんだか。そもそもその話は本当なんでしょうかね?」
「えええ!? そーゆー仕組みだって当の骸が――、あ、や、ガイさんが言ってただろ! そうだ。ガイさんだって今はどこにいるんだか」
「綱吉、君もう、いいですよ」
「はっ!?」
「君は、そんなに関与しなくていいです」
「はああああああっ!?」
「これは、もはや僕の問題だ」
冷や汗らしき一筋を頬に光らせて、六道骸は両眼を眇めて微妙そうに校舎を仰ぎ見た。屋上のあたりを。
そっけなく、冷たいくちぶりだった。
「色々ありましたけど、僕は、もう気にしませんから。君もそうしろ。男にも戻れて万々歳でしょ?」
「こ、ここまできてそんな言い方するーっ!?」
「完璧に終わらせられますよ。僕、ひとりなら」
(!! 『完璧』――、って)
「……ガイさんが、お前の説得に乗るのなんて、想像できないんだけど!?」
「綱吉」
切って絶つように。
厳しく囁くその声は、学校に集ってきた生徒を気にかけてかろうじて届いた。
綱吉は納得できそうになかった。
「タイミングがいいから言っておきますけど。僕の、将来の夢を教えてあげます。イイ大学を出て、イイ会社に就職して、順風満帆にこの生涯を終えることだ。君とはまっっったく目的意識が違うんですよね」
「……なっ……、なんだよ、いきなり……」
「そしてね。底辺で汗水垂らして肉体労働せざるをえない、愚かな沢田綱吉を鼻で笑うんです。昔っから僕の将来プランはこうですよ」
「ゆっ、ゆがんでる!!」
おはよう、おはー、などと生徒たちの挨拶が聞こえるなかで綱吉は両手の指をわななかせた。
つん、として明後日を向いている彼は、
「近頃の僕らは、――異常でしたよ。もう元の鞘に戻っておくべきでしょう」
「〜〜〜〜っ、で、でもおっま……!! お……オレが、お、女の子だったらそーゆう態度じゃなかったくせして!」
あくまでポーカーフェイスを、伶俐にして整った顔立ちを保ってみせていた彼が、これには仮面をかなぐり捨てて目を剥いた。
「ハァッ!?」
綱吉は、後ろめたさに口角を引き攣らせつつも、禁断のカードをきる。捨て身の切り札である。
「だって襲ったじゃん。おまえ」
「!!」
呪わしげにオッドアイの輪郭を慄然とさせて、骸は沢田綱吉を二度見する。
両足が後じさりそうになるが、だが綱吉は耐えてみせて踏んばる。今さらなかったことにはできないと思うから。
「……あんなおふざけ……、あんな、ふざけたまねは、……」
途切れがちに、驚きの表情に凝り固まったままで骸はそれでも呻く。
減らずぐちの彼ではあるが、だが確実に口数は減っていく。
「……あんな……ものは、気まぐれ、ですよ」
絞り出すようにすると、許せなさそうに綱吉を睨み返した。
「君は…」
二色の焦点が落ちくぼんで、それから持ち上がって彼は綱吉の全身を確かめる。
次の言葉は、声色からして覚悟が違う。
「男だ。それが本当です。この話、もう止しません? ガイとももう一人の君とも話はつける。事後報告はしてあげますから。それでいいですよね?」
「そっ! ん、っあ…――」
「会長! おはようございますーっ」
「おはよう」挨拶してきた下級生たちを盾にして、骸はすばやく生徒たちの波間に消えた。
取り残される綱吉は、喉元をパンクさせて詰まらせた。心臓は早鐘を打っている。
(んなあっ!! な、なんなんだよ!!)
よそよそしいなんて次元ではない、戦力外通告に等しい態度である。こちらは、体が勝手に早起きしてしまうほど、心配しているというのに。
仕方がなく、授業に出ようにもいつにも増してうわの空になってしまった。
「――だ、おい、沢田!」
「ひゃあいっ!?」
「っぷ。ひゃい、だってぇー」
「寝てるんじゃねえよ、ダメツナ!」
「ご、ごめっ!! 考えごとしてましたぁ!?」
「問い二番は? 沢田?」
「……わ、わかりません……!!」
ぎゃはは、くすくす、男子女子が先生にみっともなく返事する綱吉を笑った。
いつもなら赤面して立ち尽くす。が、今日は渋面になって眉間をよじらせるだけで、綱吉は堂々と席に体を戻した。
こうしている間にも時間は経過してしまう。
教室の時計は、もう四時限目だ。
(――オレ、がっかりしてるのか?)
秒針を目で追いながら、ハラハラする体内に渦巻く感情に名前をつけてみる。しっくりくる。
窓の外は明るく、晴天なのに。
嵐の大海原に放って置かれている気分だ。
(……骸のやつなら……、オレを頼ってくれるってオレ、信じてた?)
小学校までは、ほとんど一緒に過ごした。
一足先に中学に上がった骸は、綱吉が気づいたら色んな人達に囲まれていて、生徒会長なんぞに抜擢されていた。その年齢になるとさすがに綱吉も自分のダメさ加減を決定的なまでに痛感して、赤点やら自分の不始末やらに追われてヒィヒィするばかりの毎日になった。
そして、気づいたら、ほんの少しだけ、万能な幼馴染みに苦手意識を持った……。
そんな日常がこれまでにあった。それは確かだ。
(なんだよ……。そりゃ、どうせオレは頭もわるいし要領もわるいし、学校だろうがどこだろうが、いちばんダメなやつだよ。でも……)
今、どう考えたって骸は四方八方をふさがれているはず。
……あいつを、放っといていいのか?
ふと脳裏に過ぎるその声は、遙か未来にて、たったひとりきりになったという幼馴染みの彼の声音だった。
やさしくってあまかった。
(……最初っからなんもしない方がよかったなんて、ある、か?)
未来の幼馴染みの、あの励ましは、きっと死んでしまったという彼の幼馴染みに対してのものだったんだろう。今なら理解ができる。
勇気と愛、唄うようにしてまだ幼い幼馴染みに諭したものだ。
(…………)
綱吉は、考えては時計を凝視する。
(……、オレの日常って……)
クローム、デイモン、そしてガイ、彼女彼らは偽りであったけれども。
それでも、魔法が解けようが、笑った表情を覚えている。
昔に戻ったように骸と過ごした瞬間だって本物だ。
時計は、――もうお昼休みが来る。時間は無情である。
苦々しく、口中にて噛み含めた。
「……酷っど……」
(理不尽すぎんだよ、世の中って。ちっとも思い通りになんね……)
昼休み。
必ず訪れる朝のように、それは来た。
昼休みのチャイムが鳴って、教師が出て行くと生徒たちは立ち上がったり弁当を出したりと行動する。
教室を出て行きながら、うわさ話を背中にした。
「ねー、六道せんぱい、今朝見た?」
「見た! やっぱ目ぇ違ってた、うわさマジなやつじゃん! すっげぇきれーなオッドアイ? じゃん」
「この世の人じゃないみたいだね、あれ」
「ね、見てこれ! こっそり写真撮れちゃった〜!」
「ウッソ! やだアタシにも送って!」
(――ほら、うわさされ放題なんだぞ、お前は。でもオマエは、ほんとは捻くれてて皮肉屋でワガママで超怖くってでもどうしようもない寂しがり屋でっ――、オレがダメツナだとしても、オレ以外の誰がおまえをちゃんと助けてやれるってゆーんだよ!?)
だっ! 屋上へと続く階段を走り出す綱吉は、その途中でさえもおりてくる上級生たちからうわさを耳にした。
オッドアイと化した六道骸はいまや、時の人だ。
「でさぁ〜、会長と話せたんだぜ俺!」
「うちのチョココロネパン、生徒会長もよく買ってるらしーぜ。知ってた?」
「ドヤんなようっぜ。つか、骸サンは女子から手弁当の差し入れがあるらしーぞ」
「マジかよどんだけ!! 生徒会長!!」
「…………っ!!」
大盛中学校はじまって以来の、最強のムーブメントかもしれない。
だん、だん、と駆け上がって屋上の前の踊り場へ。そしてドアノブを手に絶叫した。
「んなあっ!? し、しまってるぅううううううううう!?」
がちゃがちゃがちゃ!!
施錠してある。その事実一つで頭が真っ白になってしまい、判断が遅れた。一分ほど放心する。
は、と正気を取り戻すと、今度は慌てて階段を駆け下りた。
三年の教室、そちらもハズレだった。
「え? 骸くん? さあ」
「先生によばれたんじゃないっけ? 目がさー、校則違反じゃないかって話」
「え? そんな話? うっそォ!」
結局、綱吉は大盛校舎中を駆けずりまわることになって、教師や生徒まで呼び止めた。脳裏では絶叫しまくる。ほんとにオレってタイミングがダメなやつだなーっ!?
職員室、次は男子トイレを覗きまわり、さらに生徒会室のドアを思いっきり叩いた。
「ご、ごめんくださあーい!!」
ドアの揺れ方から鍵がかかっていないことに気づき、急いで横へとスライドさせる。
がららっ!
「ぎゃあ!?」
「うわああっ!?」
ドアをはさんで、少年たちは叫んだ。
内側に立っている男子学生は、綱吉の知らない顔だ。
大人しそうなその生徒の肩越しに、つま先立ちになって六道骸の不在を確認して、拍子抜けして溜め息などしてしまう、が、
「な、なんだー、沢田綱吉じゃん!」
男子は、知っているふうに綱吉の名を呼ぶ。
「えっ!? あ、……!?」
「骸先輩? そんなら来てないぞ」
「……あ、ありがと、……誰?」
不躾な質問だったが、彼は気兼ねせず苦笑して答えた。
「俺、次の生徒会長なんだけど? ウケる、まじで会長の話通りにぜんっぜん総会とかの話聞いてないんだな」
「んなっ!! む、骸の、話通り? ってか次の生徒会長って――!?」
「? 変わるに決まってんだろ。来年はもう先輩は卒業するぞ」
「あ、そりゃ、……そっか」
「てーか、そんな反応も何回目だよっ! てね。骸先輩、まだ生徒会手伝ってくれるのは有り難いけどいかんせん、キャラ濃すぎてさー。オッドアイだし」
「…………」
どことなく不満げな新・生徒会長を見上げて、質問をつい投げかけた。
「……骸せんぱい……の、後釜って、貧乏くじじゃないですか?」
「ああ、そりゃあ。先生まで何気に比べてくるからな。宿命ってやつかな」
「……ですよね」
臓腑が萎んで、俯きながら綱吉も同意する。
本当に、そうだ。宿命だ。
「アイツの、幼馴染みでいるオレだってずっと貧乏くじだって、思ってました」
「へぇ、やっぱり?」
「……でも……、オレ、ちがうんじゃないかって、今。だってオレたちはちゃんとオレたちなりに、ちゃんと、幼馴染みを大事に想ってきてたから……」
つっかえながらも心情を吐露してみて、相手の視線の妙にはたとする。
次なる会長は、顔を驚かせて綱吉のさらに後ろを見ている。こころもち、目線もナナメ上向きになった。
釣られて後ろを向き、そして綱吉は飛び退いた。
「だあぁああああああああああああああああああああああああああああ!? い、いつからっ!?」
六道骸は、――苦虫を噛んだような苦い表情になって、なにやら生徒会絡みらしきファイルを小脇に抱えてて突っ立っていた。
唐突に、出し抜けに吐き捨てた。
「放棄してくれませんか」
「えっ!?」
「僕の、幼馴染みっていうやつ」
面倒くさそうに言い捨てるが、ファイルは次期・生徒会長へと引き渡している。
「これ。僕が自宅に持ち帰ってたデータと次の予算案です。よろしくお願いします」
「か、会長―っ!! ありがとうございます!!」
びしっと背筋を伸ばし、彼は人が変わったように折り目正しく直角のお辞儀をしている。
渡し終えると、来年には卒業する彼は、綱吉を無視して踵を返していく。通り抜けざまに、真っ赤な右目と『一』の文字が直視できてしまった。
その眼球に、瞳孔らしき丸い影はないのにどうしてだろう。
綱吉は視線の肌ざわりを覚えた。
生徒会室に背を向けて、早歩きで遠ざかる幼馴染みへと追いすがった。
「お、いっ! なんだよそれ! お、幼馴染みが、やめられるかよ自分の意志でっ」
「気合いでなんとかするんですね」
「ちょおおっ!? なっ、な、なんなんだよっ!? お前はっ……オマエはそれでいーのかよっ? オレはよくないよ!!」
廊下をずんずん進む、その後ろで精一杯の抗議をする。
生徒たちがすれ違っては声をかけてきて、骸の周りは騒がしかった。
「キャー! 骸先輩!!」
「い、今まで言えなかったけどオレさ、オレさあっ――」綱吉の声はその他大勢にまぎれて消えてしまいそうになった。
「かいちょー! ちょっと手伝ってもらえません〜?」
「骸くーん、ご飯まだなの?」
「すいませんね」
「おれ、思ったんだよ!!」
「骸ちゃーん! 今日暇?」
「すいませんね」
「思ったんだってば! おれ、お前の、助けになりたいんだよっ!!」
「…………、すいませんね」
次々と呼ばれてはそれを断って、横断するように昼休みの廊下を渡りきる。徹頭徹尾、綱吉の声は無視だ。
階段をあがりだして、そのとき、チャイムが校舎中に轟いた。
キーンコーンカーンコーン――…、
キーンコーンカーンコーン。
と、二連続で終わるはずのそれは、始業の合図であって、骸と綱吉にすると約束のはじまりでもある。
キィィー…、ん、と、最初の鈴音がこだまするうちに、綱吉が叫ぶ。
幼馴染みは、屋上への階段をのぼって、ポケットからは一つの鍵を取り出した。
「待てっ! まてよ、骸っ!!」
前に回り込もうとするが、足のリーチが違う。敵わない。
「――リング!!」
横に追いつくのがやっとの綱吉の耳に、こぉぉおん…と次の音色が届く。
チャイムに負けないように、綱吉は喉を搾って訴えた。
「オレ、いっこ、思い出したんだ。もしかしてさあ、結婚指輪じゃなくってもっと変な話かもだけど、覚えてないかっ? あの――あのときの飴玉っ――もしかして、おまえ、まだ持ってるんじゃ、っ!?」
ば、ん!
伸ばした手を払われて、そして逆に胸ぐらを引ったくるように押上げられて、綱吉は視界を疑うように両目を瞠った。背中は壁に叩きつけられた。
……かーん、コーン、チャイムが鳴り終わろうと、収束しようとする。
屋上のドアはすぐそこ、目の前だ。
真ん前の踊り場にて、まったく唐突に沢田綱吉の小さな体は壁際に追い詰められていて、覆い被さった骸はその唇を寄せて、綱吉のそこにキスを重ねていた。
刹那に触れるそれは、冷たくて柔らかかった。ほんの数瞬。
……きぃーん、こぉー…。最後のチャイムがはじまり、キスは中断される。
静かなオッドアイが綱吉を見下ろした。
綱吉が、喉の奥まで悲鳴すら押し込んで押し黙ってしまうのを見て、骸は後ろ手で鍵とは反対側のポケットを緩やかに探った。
そこから、ころり…、としたそれが手のひらに転がった。
おしゃぶりのような。
おおぶりの、碧色のジュエルリングだった。
「…――君はどうだか知ったこっちゃないが……。忘れるはずが、無い」
「…………」
呆けて、生唾を飲みくだす。
セピアに色褪せた綱吉の記憶よりも、遙かに鮮明なその碧色の輝き。
幼い頃のきらきらした思い出のように光るリングだ。
呆ける綱吉のすきまを掠めるように、二回目のキスが浅く唇の表面をさらった。
男同士として。正真正銘の幼馴染み同士としてのキスだった。
密着する彼らの胸元に、骸の差し出したリングがある。
くらくらきて宝石リングを凝視しながら、綱吉は発火するがごとく赤面する。そうしながら泡を食って絶句した。
チャイムの鈴音が遠ざかって急にすべての音を遮断される感覚。
……そのリングは、ただの単なるご近所さん程度の幼馴染みであるならば、まだ彼の手にあること自体が異常なものだった。
「――――っ…」
「震えて、きていますよ。綱吉。でも僕に何かを言う必要はない」
「っ!」
ぎゅ、握りしめてから骸はそれをポケットへと大事そうにしまう。綱吉は眺めるだけ。
何を口にするとしても、幼馴染みを傷つけるように思える。けれど、感傷に浸る間もなく、骸は屋上のドアに鍵を入れて施錠を解いた。
…こぉーおおおーん…と、余韻を残響させて、学校のチャイムは終わる寸前だ。
「お…オレがどうでもいいなんて…、大嘘じゃないか、オマエは」
「だから? 何がどうなる」
「んなっ!」
「全てが、壊れるだけ、でしょう? 僕は弁えてたんだ。もういい、もう帰っていいですから」
「な、なんだよ、そんな言い方はないだろっ!」
「君にはわからない」
――がちゃり。
扉が開く、彼が出て行こうとする、わけがわからなくなってくるが綱吉はすぐさま続いて飛び出した。
「わ、…わきゃるわきゃないだろ! はじめて知ってるんだぞ今っ!?」
「まったく問題なかった。今までは!!」
まるで決別のように、決意と諦観に満ちた背中があった。
「もういい、どのみち捨てるしかなかった。こんな気持ちのわるいリング! もう、僕たちも戻りましょう、忘れて、何もなかった、君に好意はないし幼馴染みの腐れ縁以上の感情なんてなんもない!」
フェンスが囲って、足場は無機質な剥き出しのコンクリートだ。
一面の青空がすぐ真上に広がっている。
立ち止まった骸に並び、彼の視線の先にある人影に手足が慄然となるが、綱吉の喉は呻く。
慄然とするのは、骸の気持ちと感情とその行き場についてもそうだ。
「な、なんだよそんなの! そんな、自分一人でなんで完結させてるんだよぜんぶっ……!」
「きもちわるいでしょうが。よくわかっている」
「むくろ……っ!?」
奥歯を噛むが、綱吉も視線は前方から外せなかった。
屋上の真ん中に――、居る。
彼は居た。
もう一人の沢田綱吉たる青年が、すらっとして細く鍛え上げてある肉体を上品なブラックスーツに包んでいる。
髪と裾を風に揺らし、両手にごつごつした装飾のグローブ、耳にはヘッドフォン。
キン、コン、カン、コン、と、とっくに鳴り終えたチャイムは、最後の最後にんんんん…とした余韻を風へと溶かしている。
チャイムが終了した。
真っ青な空に、ほんのわずかな沈黙が漂流する。
そして、沢田綱吉は、静かにその片腕を伸ばし、利き手の人差し指の先を単なる少年の六道骸へと差し出した。
凜とした、なにがしかの若頭のような声音である。
「――さあ、約束の時間だぞ」
「ええ」
投げやりですらある返事で、骸はつかつかと歩み寄って、……歩いていく。
たまらず、前にばっと飛び出して両腕を広げてガードしてみせたのが、綱吉だった。
「骸。おまえ、間違ってるよっ!!」
「……はっ?」
自分の後ろに居る彼の表情は見えない。
果てなき青空に叫ぶ。
「おまえが――っ今まで、ずっと! 大事にしてきたリングなんだ。守ろうよ。出来るだけ、オレもがんばるから!!」
「綱吉……?」
硬直して喉を渇かす骸に対して、未来の綱吉は薄く暗く笑う。
どうして彼がそんな表情になるのか。綱吉には謎だ。
彼はうなずき、肯定するように指を握って拳に固める。
「ああ――、そうだ。それでいい! その強い覚悟こそが、リングにさらなる覚悟の炎を注入するんだ!!」
「!?」口角をにぃっと吊り上げて、歓喜に歪めるその顔には狂気すら予感させられる。
が、負けじと、両腕は広げて立ちはだかった。
「行か、せない。オレが――、オレだって、骸を守れるんだ!!」
「吼えてろっ!」
た、軽やかに走って、なんなくすり抜けては呆けている六道骸の首元をわしづかみにしようとする。
が、
「ぴんぽんです!」
なにやらちょっと残念な感じがある、朗らかな声。
それが急に足元から湧き上がった。
綱吉が自分の影を確かめるよりも速く、ぬるりっと大鎌を携えるフード姿の青年が全景を露わにした。
「!!」
手を伸ばした未来の沢田綱吉の胸に――盗っ人がするように手を這わせて、かすめ取る。
デイモンは、難なく盗んだその筺を開錠してみせた。
ぐぐんっと音もなく少女が抜け出てきて現れて、彼女たちは本物の魔法使いのようにして屋上へと降り立った。三叉の槍を即座に手にしてクロームが綱吉と綱吉の間へと我が身をねじ込んだ。
「ボス!! 今度は、させません!!」
「――ちっ!」
面倒臭そうに舌打ちして、しかし後ろに飛び退き、青年は両手のグローブを握って姿勢と構えを取り直す。
そうして次は呆気にとられた。
彼の前では――、クロームは、屋上へと槍を突き立てるようにして、槍そのものの形状を変化させている。
ドライアイスのような霧が、屋上の床を舐める。
ざ……あ……!!
彼女は、おおきな瞳のまなじりを吊り上げて、珍しく冷や汗を浮かべながら、まっすぐに沢田綱吉を見つめる。
「ここは、私も譲れないんです。ボス……っ!!」
三叉に別たれたはずの槍は、今やユニコーンの角のようにして、一角へと結ばれて頑健な一本槍となった。
「!!」
それを目撃する沢田綱吉は、目を丸くして呟いた。
彼の頬もまた、汗が光る。
「……オレの知らないクローム……!?」
やっぱり、とでも言いたげに、もの悲しそうに眉を寄せるアメジスト色の少女は、一角獣の角のような槍を手に痛切に声を張り上げた。
「――――っ。本当に、私の世界では、白蘭は無力化されているの、ボス!」
「……そんな話は……、……眉唾……じゃあ、ないのか?」
声色を震わせる沢田綱吉は、ヘッドフォンからインカムを引っぱって何やら叫ぶ。
綱吉には、誰かの名前に聞こえる。
「正一! スパナ! 解析を頼む……!!」
「ツナさん、さがって。骸様も。私の後ろからでてこないで!」
一本槍を両手でナナメにして持ち、行く手を阻む彼女のその姿に、沢田綱吉は絶句している。
その耳に、なにやら情報は流れているらしかった。
「な、んだって……?」
震駭しては足掻くように吐き捨てる。
「観測不能……? オレ達の、知っちゃいけない未来……なんて、そんな。そんなのあって溜まるかよ!」
「!! きます!!」
「それをきいたら尚更っ――、引けらんねぇ!!」
……!! ……!! ヘッドフォンの奧でなにやら叫び声らしき雑音があるが、それを無視して青年は前へと駆けた。
「クローム!!」血反吐を吐くように叫びもした。
「それじゃ、オレたちの世界は終わるって明言されたようなもんじゃないか!!」
「……それは……」
否定できずに、言葉尻を濁す。
それは肯定するかのようだった。一本槍の美少女の傍らで、ちょっと宙に浮いているデイモンは、小悪魔っぽく微笑している。
「ん〜。そちらのボス殿は、私のことも伝承でしか知らぬのではありませんか?」
「!! ……初代、霧の守護者だろう?」
「ぬふふふふふふ。いえいえ、やはり! それ以上に私は貴男と深く関わる運命にあったのですが――やはりです! おまえは、行き止まりの世界の沢田綱吉だ」
「い、いきどまり」
目をまん丸に丸めてただ、絶望的にその単語を噛み含めて、沢田綱吉は両目をゆっくりに瞬きさせる。
ややして、怒気をもって喉を荒らげた。
「だから、なんだ……?」
じわじわと激昂して怒髪天を衝かれたように形相を凶悪に吊り上げた。
「破滅が確定してるからって諦めろって言うのか!? こっちは明日にでも死ぬかすらわかんないんだぞ!!」
クロームと綱吉の背後へと、棒立ちになっている少年へと手を差し出して声を引き絞った。
「骸!! リングを!!」
同時に駆け出している。
綱吉は、まだ呆然としている骸を背中で押して、屋上のドアまでさがろうとした。絶叫して返す。
「な、なんだかよくわかんないけど!! ここはオレたちの世界なんだぞっ!! おれたち、大事な幼馴染みなんだっ、オレたちの関係を壊すようなことは止めっ――」
絶叫は、途中で止んだ。
あ、綱吉は胸中で単にうなる。
「!」
背後から二本の腕が突き出てきて、それが綱吉をばっと引き寄せる。小柄な綱吉では潰されるように、六道骸の胸と両腕とにすっぽりと覆われる。
ぎゅううう、重みも体温も呼吸も鼓動の音すら、人肌のすべてが感じられる圧力。
(あ、…――、っ)
胸がぎりりっと痛んで弾むように綱吉の心臓が鼓動する。
頬は、意識もしないのにまっ赤っ赤に瞬時に染まって逆上せる。
背中と胸が接続されたように酷く熱くなった。
綱吉と骸がその肌のぬくもりに感動する暇すらなく――、パキん!
なにかが、壊れた。
「!! 骸っっ」
頭上をふりあおぎながら、綱吉は真っ青になって骸の名を呼んだ。
目が。造り物めいたオッドアイの右目、眼球に刻まれたカウントダウンの数字が、まるごと消滅していた。
そして猫目のような、縦向きの瞳孔があらわれて、右目を起点にして骸の全身にびきびきとヒビ割れが張り巡らされた。その右半身は皮膚が真っ黒く染まる。
「――んなあっ!!」
綱吉を抱きしめる、右腕までもが黒く侵食された。綱吉を抱きながら綱吉の目の前で骸が自分の右手の内側を覗いた。
皮膚がびしびしッと悲鳴を上げて、崩落する前の石像のようになる。
冷酷非情に、ふと呟き、けれどその声弦は誰の耳にも鋭く突き刺さった。
「カウントゼロ、ですね」
だあんっ!!
真っ白い稲妻が落ちるようにして校舎が揺れて、たわんで、落ちてきたのは黒衣に長髪を一絡げにまとめる男――、両目が青く、発光する千鳥格子のロングマフラーを首元に巻き上げている。
空のど真ん中からふってきた彼は、引き裂くように、綱吉と骸のちょうど中間地点へと落ちた。
瞬間、強烈な風圧に巻かれて綱吉の足は宙に浮いた。
はたはたと黒いジャケットを揺らし、もう一人の六道骸――『ガイ』と名乗っていた彼が、手首を握って綱吉をその場に縫い止めて守る。
そして、六道骸は、
「うわあああああっ!?」
「!?」
噴き上げられて、綱吉が目にしたときは既に屋上のフェンスの外側だ。
空中に放られた猫のようにして手足を広げている。
(なっああああああああああああ!? ああああっっ!!)
「っっ!!」あっという間に落下すると見えたが、骸はだが、しぶとかった。自力でフェンスへとしがみつく。
『骸!!』
絶叫してから、は、とする。
声が二人分だ。見れば、未来の沢田綱吉も少年の沢田綱吉と顔を見合わせる。
綱吉の脇からはひゅんと人肌の気配が消えて、ガイはもうフェンスの上に立っていた。
ガッ、問答無用でブーツの底で骸の掌を踏みつけて、フェンスから落とそうとする。
「ゴキブリですか、『君』は」
「ぐぅっ…!」
「――――っっ!!」
口をまんまるにして、未来の自分にもガイの蛮行にも骸のピンチにも驚きすぎて声を失う綱吉であるが、「きゃあああああああああああああああああああ!!」
つんざくほどの悲鳴と叫声に、強制的に正気づけられる。
(あ、ここ、)学校だ。
皆、午後の授業を受けているはずで、今の校舎の激震によって異常は知れ渡ったことだろう。
「せ、先生―っ!! 屋上から人がーっ!!」
「生徒会長っ!? あれ会長じゃないのかっ!?」
「きゃああああああああ!! 骸せんぱああああああああああいっっ!?」
「誰かいるぞ!!」
「落とそうとしてるーっ!!」
せんぱい! 会長! 骸! 口々に生徒が叫んであっという間にパニック状態へと陥った。わーきゃーと騒音が凄まじい。
「む…、骸っ!」
手足が痙攣するようになりながら、心胆をぞぞぞぞおっとさせて綱吉も駆けつけた。
フェンス一枚を隔てた向こう側に、しかしどうにもできず、眼下は覗く。無数の生徒たちの顔があって、ほとんど全校生徒と目が合った。
絶句して、自分の足元がすっからかんな空間になったような気分で、しかし綱吉は青褪めてもその名は呼んだ。
「が、ガイ、さっ」
なんてことないように、フェンスの上に立っている彼は、くふふ、とくすりとして綱吉に微笑した。
「茶番は、終わりです。綱吉くん。君が、誰とどんな未来を築くとしても、――それがおまえであってだけはならない。骸」
「……なっ……!!」
「骸様!!」
「…っ!!」
脂汗を滴らせて、フェンスに貼りつく骸がオッドアイを愕然と見開きさせる。
そんな少年の絶望を、青年が嗤笑しては覗き込んだ。
「世界一憎い相手に、世界一愛おしい、僕の愛し子が、その身を許すなんて。有り得ませんよ?」
俯きがちでどこか空虚な印象が常態するガイだったが、ようやく面を持ち上げた。
ぎらりとナイフのように鋭い眼光がブルーアイに秘めてあった。
「綱吉くん。…――君は、十四歳のまま、死ぬんですよ。ある、雨の日に。赤点の補習を独りで受けて……、僕は君を放って一人で帰宅した。そして君は、真っ暗な道を帰宅する途中でころんで打ち所が悪くて気絶してしかも排水溝の側溝に頭から落っこちてそのままそれっきり、なんでもないただの道ばたで、溺死するんです」
「…………!!」
「…………!!」
「…………!!」
綱吉と、フェンスの外の骸と、そして未来の沢田綱吉までもが、あごを落としてがーんっとなった。
白目を剥き、綱吉は戦慄の叫び声を上げる。背筋が凍った。
「そ……それはオレがもんのすごい馬鹿なのが死因では!?」
「いえ、僕のせいです」
ガイはすぐに、かぶりをふる。
「君が好きなのに、君を大事にしなかった」
「んなっ……!?」
青褪めるやら、赤面するやら、反応がおぼつかずに滝の冷や汗は流した。
ガイは、独白しながら痛ましげに眉宇に縦皺を寄せる。
「綱吉が、しょうもなくって、ばかでだめな子なんて僕はずっと、ものごころついた瞬間から知り抜いていたのに――…」
耐えかねたように、絶叫した。それは立派に仕立てられたスーツを着ている沢田綱吉で、彼は少年の綱吉とほとんど似たような表情だった。
青くなって、しかし頬を赤らめて嘆いた。
「しょ、しょうもねぇーっ!!」
遠慮せず言い捨てて、目の端は涙ぐませている。
悔しまぎれのように叫ぶ。
「な、なんっつー未来の世界だっ……なんつー死にざまだ! やめろ。骸もうやめてやれよ、みっともない! お前らもさっさとリングだけ寄越せ! もうこんな世界に介入してられっかよ!!」
自分の前に立ちふさがりながら、フェンスの骸に目がくぎづけになっているクロームにも啖呵を切った。
「退け、クローム! 霧のリング守護者もジャマをすんな、そこの大人の骸も! せめてアンタらもコイツらも未来はっ――あるんだろーがっ!?」
それは、未来のない男が、未来ある若者を僻むような卑屈な雄叫びである。
その絶叫を背に、クロームがフェンスへと駆け寄った。
「……、骸様っ!」
すかさず、ガイが手をかざし、防御壁のような透明な膜を貼った。
がぎぎぎいい! 奇妙な金切り音を上げて、クロームの一本槍が膜と真っ向から衝突する。諦めず、彼女は槍をふりかぶる。
「――骸様っ!! 今、行きます!! 持ち堪えてください!!」
「……ぐ、うっ……!」
「うあっ……ああっ……!」
防御壁の内側にて、綱吉は膝をふるわせながら、近くに浮遊してきたデイモンに援護を求めた。
「た、助けてよ!! 死んじゃうよ!!」
「いえ。無理ですね。クロームのあの立派な槍を見なさい」
「はああああっ!?」
「あれが、彼女の本来の力です」
がぎっ、がぎ! 一本槍で壁をこじ開けるべく苦戦している彼女をあごで指し示す。
まったく意味はわからず、綱吉はデイモンにつかみかかった。
「な、なんでもいいから手を貸せーっ! 落ちっ…んだああああああああああ!?」
すかっ、と、手はデイモンをすり抜ける。
自らのあごに人差し指を預けて、デイモンは神妙な面持ちになってふよふよしてみせる。
「ヌフフ。実は、私に実体はないのです。クロームの術によって肉体を構築していたわけで……ご覧の通り、今はあちらの槍に全力を投じている。ん〜。ただの亡霊ですねぇ」
「そんなーっ!?」
すかっ! すかっ!
半泣きしながら、綱吉は何度もデイモンに手を出し入れさせて、ぜいぜいして肩から息を吸った。
だんだんと涙ぐみ、洟水はすすって両目を真っ赤に充血させる。
決断までに、時間は十数秒もなかった。
一刻を争う場面だ。自分の身長の倍はあろうフェンスを仰ぎ、金具の編み目を手に捕まえた。
「……骸っ!!」
がちゃん!
自力で登りはじめると、フェンスの外側で息を飲む気配。
頭上からも、呼吸を止める気配があった。
「綱吉くん。――止しなさい、危ないですよ?」
「ど、この誰が言うっっ……!!」
憤慨して噴き上げるように呻くのは、潰れた虫のようにフェンスにしがみつき、今ですらガイに掌を踏まれている骸だった。
死にもの狂いで、未来の自分自身ですらある青年を睨んでいる。
「おまえっ……、究極の、ばか、だな!! みすみすと綱吉を死なせて僕を殺して、だからなんになるってんだ!!」
「贖罪……でしょうか? いえ、自己満足と断定していただいて結構だ」
すらすらと答える青年は、混じり気なしの悪意を声に孕ませる。淀んで曇った青い瞳は陰鬱に青空を反射させた。
「僕はずっと、この頃の……、十四歳の綱吉を見捨てた僕を殺したかった。それだけです」
「!!」
「くだらない!!」
目を瞠る少年の骸に、呼応したのは青年の沢田綱吉だ。
額から脂汗を跳ばして、クロームもその紫の両目を丸くさせる。隣に並んで、同じ場所にグローブの拳をめり込ませている彼が、迷わずに黄金色の炎を注入させた。
骸の身体に走ったような亀裂が、透明な空間に縦横無尽に拡がった。
「……ボス!」
「うるさい。勘違いしないでくれ、クローム……!」
「…――――」
フェンスを登ってくる綱吉を横目に収めて気にしつつ、しかしガイは自分に向かってくる侵入者を優先した。フェンスから、クロームと沢田綱吉の前に降り立った。
なにやら、この世のものと思えない交戦音がこだまするが、綱吉は脂汗を滲ませながら慎重にどうにか、少しずつフェンスを攻略していく。
「……骸っ……、もうちょ、っと、待ってろ……っ!」
「……ちょっ……、や、やめ、ろ……っっ」
切羽詰まって、悲鳴するように喘ぐのは、フェンスの向こう側で鬼の形相になっている六道骸だ。
綱吉の運動音痴などは知り抜いている彼だ。
さらには、死亡の経緯まで聞かされた。
絶対の確信があるように、制止しようとする。
「や、め、おちる、綱吉のが、……っぐ!」
「お、ま、――こんな、とき、ですら、ダメツナの悪口しか――言わない気かよぉっ……!! ううっ……!」
指に、錆びた金網が食い込んでヒリヒリする。その痛みは想像より遙かに鋭かった。
「うぐ、ぅ〜〜……っ!!」
自分の全体重が指先と足の先っぽのみに圧しかかる。
関節が千切れるほど痛くて、尻が鉛のように重たくって登りきるのは重労働だ。今まで体育では最低評価しか貰えなかった綱吉である、が。
「む……、むぐろぉっ……!」
(ま、ず、泣けてっ――!)
肉体への負荷がそのまま、こころに負荷を与えるようにして涙腺を痛めた。
骸からのキスも、ガイの告白も、そして今の絶体絶命の状況も、錆びた鉄がじくじくと掌を引っ掻く痛みもすべてが塩っ辛い。
視線はじょじょに高くなって、騒々しく悲鳴している学校中の生徒たちの顔がますますよく見えた。
(なん、で、今まで、当たり前で、そばにいて当然で、すきっ……とかキライとかそんなん、関係なくって、……そおいうのって、いいじゃんか、それで!!)
あえて例えるなら――、そう、長年を連れ添った夫婦のような間柄だった。
悪妻のような、ろくでなしの旦那のような、目の上のたんこぶのような。そんな幼馴染みだった。
(そんなん――、見捨てられるわけないじゃん!!)
泣きべそをかきながら、スプーン一匙ほどの勇気をふりしぼる。
よいしょ、と引っ掻き傷だらけの手でどうにか下半身を引き上げて、フェンスを跨いだ。
てっぺんからの眺めは、一段と壮絶だ。
――そこまで登ってきた綱吉に絶望してオッドアイを愕然と瞠る骸に、黒ずんでヒビ割れるその半身と、そして、
(うわ、しぬ、これ)
眩暈ばしる。
そこは断崖絶壁の淵だ。
教室の窓という窓から身を乗り出し、生徒が指差しては口々に騒ぐ。
「あれってダメツナじゃん!?」
「なにやってんだあいつ!!」
「きゃあーっ!! イヤーッ!! 会長〜〜っ!!」
「六道ぉ〜〜っ!! さ、沢田っ!? なにやってんだお前らは!!」
「〜〜〜〜っ!!」
すべての恐怖と混乱に目を瞑って、綱吉はたった一人の幼馴染みへと、あらん限りの力をふりしぼって手を貸した。
踏まれて腫れる手の甲を避けて、手首を両手でわしづかんで、ぶるぶるとしながら引っぱり上げようとする。
「――綱吉、…っ」
「おま、え。が」
知らず、声は漏れた。
後ろでなにやら想像を絶する激戦の気配はあるが、だからこそ急いでしゃべった。
「おれを……ガイさんの世界で放っといたとしても、それで、いいよ。オレには、……おまえしか、誇れるものなんてないんだからっ」
言っていてほろほろと落ちる目尻の熱源が涙であるとは、気づけなかった。
骸が、くしゃりと整った相貌を崩し、なにやら一人で打ちひしがれる。
「オレの、たったひとつの自慢なんだよ、おまえが!!」
「…………!」
一絡げの長髪をくねらせて扇がせ、攻防に挑んでいたはずのガイが、ふと立ち止まって綱吉をふり返った。
……ぼろり、と――その頬に一筋の涙が伝った。
ばっ!! ガイの左右から飛び出したのは、クロームと未来の綱吉だ。
その場に悄然と、行き場を失ったように俯くガイを背にして、彼女と彼は必死になって手を伸ばした。
「骸様っっ!!」
「リング!! 骸っ!! はやく、その力で今度こそ助けてやるからっ――!!」
「……ぐ、……くっ!」
綱吉に片腕を引っぱられながら、骸は左手でどうにか尻ポケットを漁る。
おおつぶ、おしゃぶりのような大玉のジュエルリングが取り出されて、フェンスのすき間を縫って沢田綱吉へと投げられた。
抜け目なく、青年はそれを手にキャッチする。
と、普通に、
「?」
ぽーい。沢田綱吉は一瞬だけきょとんとして、それは屋上へと捨てる。ゴミを捨てる感じで、簡単に。
目を丸くして絶句する骸と綱吉に、相変わらず、凜として叫んだ。
「リングを!!」
「ちょっっっとおおおおおおお!?」
「それがリングですけどぉぉっぉおぉおおおおおお!?」
「はあっ!?」
急ブレーキを踏んで、沢田綱吉は大慌てで放り捨てたものを――二度見、三度見として。
そうして、へなへなと膝を崩して脱力してしまった。
「な、んだ、よ……っ!? 飴玉にしか見えないんだが!?」
「ですよ!?」
「そーだよ!?」
「うっ、ひどい、非道いほど平凡なこの世界っっ……!!」
耐えきれなくなったように顔を覆ってなにやら悲観する。
そんな彼の様子に、こんな状況下であるにも関わらず、綱吉は骸と顔を見合わせてしまった。なんだ、なんだ?
両者ともに、目で疑問がって――目配せしてから、そのくだらなさに苦笑した。
骸が、虚脱したように笑う。
「……あっ」
次の瞬間は呆気なかった。
力が抜けて、骸の四肢がふわっとした。綱吉も引っぱられてふわりと浮力を感じる。
落ちていく彼の姿が、綱吉の目にはスローモーションに見えた。
ぱりっ…パリ、ぱりっ、どのみち、黒ずんだ皮膚が剥がれて骸は助からなさそうだなと瞬間的に悟りもする。右目は血の海のような赤みとなって、右半身を崩壊させていく。
そして、屋上から落ちる。
そのとき、綱吉は、逆らわず、そして骸から手を離しもせずに、ただ引っぱられるままに一緒に落ちる道を選択していた。
わっと空気が破裂するように、校舎を揺るがすほどの大絶叫が重なった。
綱吉は、落ちながら、骸の腕にせめて抱きつくように頬を寄せた。
「むくろっ……!!」
「……綱吉……!?」
オッドアイを愕然と開き、喉を詰まらせている六道骸。
びゅごうううううっ!!
轟音は耳元で吹雪き、胃が焼き切れるほどの辛苦に煮え立った。実際、恐怖がために綱吉はひたっと骸を見据えることしかできず、他は目に入れないように努力した。
「……おれ、どうせっ、死ぬんなら――……」
なまつばを涙と一緒にこぼして、祈るような気持ちで告白した。
「おまえといっしょがいいよ」
にへら、と泣いて笑うように顔面を崩した。
骸が、青空とともに墜落するような綱吉をその両眼いっぱいに目に焼きつける。透き通るほどの青さが目に沁みるように、切なそうに骸が――、単に、溜め息を吐いた。
「大馬鹿者め……」
ひくひくして痙攣して震える綱吉を左手で抱き寄せて、その頭を胸元に抱きこんだ。
その髪に、その後頭部に鼻を埋めながら、
「世の中って、理不尽じゃないですか……?」
必死になって耐え続けた、積年の恨みを放つようにしみじみとして語りかけた。骸のそんな声を久しぶりに聞いた気がした。
理不尽――そんな概念は、昔っから死んでいる。
若者社会では顕著なものだ。法律がなく、警察の介入もなく、単純明快なルールだけが存在する。動物っぽくてわかりやすい。
弱ければ、死にざまを晒すしかなくなる。
そして、この社会のルールは。
往々にして……、男同士での恋愛は、そこに含めては来なかった。
「ずっと、嫌気が差してたまらなかった。きみがすきだった……から」
ぎゅ、と恐怖をまぎらわすように、骸が綱吉の後頭部をさらに強く抱きしめる。
「……今、死ねるなら、……これより最高の死に方なんてもう無いんでしょうけど……、綱吉……」だいすき、万感が篭もったその声が、空中で逢い引きするようにして鼓膜に触れる。
綱吉は、てっきりそれが別れの言葉だと思った。が。
「!?」
「――…でも、完璧、な、おさななじみ……なんでしょうっ、自慢の!!」
骸の声色は死に逝く者のそれでなく、明らかな生気がみなぎっていた。決意があった。
ほんの数秒で終わる、死ぬ、その一瞬のはずが、
「おまえだけは、死なせ、られるかっ! 綱吉っ!!」
目を丸くして顔を上げようとすると、じたばたして闇雲に右手を伸ばしている六道骸がそこにいた。
ちりちりして、真っ黒く炭化しているような指先で何かをつかもうと――、校舎へと全力で投げ伸ばしている。
「っ!! っっ!!」
死にもの狂いの骸が、綱吉だけでも助けるべく最期まで諦めずにいる。
きゃあああああああああ!!
うわああああああああああ!!
戦慄する生徒たち、先生、彼ら彼女らの顔が通り過ぎては地面が近づいてくる。逆らえない引力だ。
綱吉の目に、新たな涙が浮かんで、青空へと昇って消える。
(も、う)ほんとうに。どうなってもいいや……、体の芯からそう思えて、綱吉からもぎゅっと骸を抱き返した。
おれのおさななじみは、かんぺきだ……。
幸せな気持ちが全身にみなぎる恐怖を蹴散らしてしまった。
すると、視界は広がって、聴覚すらも異常に鋭敏になって、その声が届いた。
「骸様!!」
「骸っ!!」
抱きすくめられながら、余裕が出てきて目尻から覗き見る、と。
遙か遠くのフェンスの上で、クロームが自分も飛び降りようとしていた。と、横合いから素速くフェンスに駆け上がる青年が居た。その男性の両目に涙が流れて頬は濡らしている。
「――――」
ガイの手が、クロームから一本槍を奪い取った。
そうして、眩いばかりの光が視えた。
真っ白な太陽、青空。自分が一人じゃないことをこころから実感して、こんな死に際なのに安堵ができる。
(あ、あ――…)
ひとり、青年を経て老人になってまで綱吉を想っていた、あのひとの話が頭を過ぎる。
(そんな、……勝手に転んで、側溝に落ちて溺死した、オレは……ダメツナが極まりすぎて、残念だろう、けど)
でも、どうか、今回はそんなに悲しまないで欲しいなと頭の隅で願う。
(…――オレは、好きなひとと、死ねるから)
理不尽だらけの世の中でも、こんな些細な幸せがあるのなら、案外、わるいものじゃないかもしれない……。
どおおおおおおおおんっ!!
爆発するように音と砂の柱が立って、四肢と胴体がばらけるような絶望的な速度を持った。しかしほんの刹那の瞬間だ。
次には、綱吉は、骸と一緒になってごろんっとグラウンドに転がっている。
は。――はあっ、浅い呼吸が飛び抜けた。
「い……生き、て、る?」
「……な、にが……っ!?」
抱き合う幼馴染みの横には、一本槍が堂々と突き立っていた。槍の穂先に、千鳥格子のマフラーが刺してある。
一絡げの長髪のようにして、それが、はたはたと尾っぽを揺らした。
綱吉と骸の目と鼻の先で、そのマフラーは光りながら粒子の泡となって消滅する。
(むく……むく、……ろ……?)
屋上に居る彼らは、よく見えない。
しかし、ガイらしき長身の影がフェンスに立って長髪のしっぽを揺らしている。隣にクローム、そして宙に浮いているデイモン。
あ然としつつ、目線をすぐ傍に持ち直すと、同じように頬や目尻やらを濡らしている六道骸が――、綱吉を覗き見してきていた。
二人の間で、ぼろんっと落ちるものはあった。
揃って、それを見やる。と。
「ぎゃーっ!!」
綱吉が絶叫し、骸は沈黙した。黙っても自分の右目は咄嗟に手で抱えた。
飛びつき、綱吉はその左手首を引っ剥がした。
「ちょ、見せろ!! 目!! 目ぇ!!」
「い、今、とれ……っ?」
「取れたよ!!?」
こわごわ、左手が外される。
綱吉は阿呆のようにただ叫んだ。
「あ、あおい!!」
「……青? ……元に――!?」
「あああああああちょおおおっ!! そこはっ!! おまえの赤い目ん玉が落ちてるからあああああああ!?」
「ヒッ!」
珍しく、短く悲鳴を上げて、骸が慌てて地べたに着けようとした左手を宙に挙げた。
生徒会長とその幼馴染みがそうして狼狽えるさまを、グラウンドにて、体育をしていたらしき生徒らが遠巻きにしている。若い先生が恐る恐ると近寄ろうとした。
ところが、学校関係者よりも速く、しゅたんっ!
「骸様!」
「んー、生きてますね!」
こともなげに、屋上から一直線に飛び降りてきて、クローム。
その肩には浮遊するデイモンを引き連れている。
同様に、ガイもしゅっとして音もろくに立てずに屋上から地べたに難なく降ってきた。
ひえ……、と改めて絶句する骸と綱吉の前で、クロームが自分の槍を地面から引き抜いた。
深くめり込んでいるので、段階をつけて、ぐ、ぐっと抜き、そうしながら目と口を驚かせて幼馴染みたちを見つめている。
「これが、骸様とボスが結婚できる、唯一の世界……?」
「見たところ、恋愛に発展さえしなきゃずっと夫婦も同義……といったオチのお二人ですかね。んー」
「…………綱吉くん」
ガイが、なにやら躊躇いながら、切なそうに青い瞳を細めさせる。
「あ、」
綱吉が顔を上げるが、
「あんたたち、……あんたたち、大丈夫なのーっ!?」
「ぎゃ!!」
女教師の怒鳴り声に萎縮して、綱吉は骸に抱きついた。
デイモンがしたり顔で指をぱっちんと鳴らす。
ぱっ! 写真が切り替わるようにして、風景がまるごと変わった。瞬時の出来事である。
抱きついた骸がよろけたので綱吉も一緒になってよろけて、そこは大盛中学校のグラウンド――ではなく、だいぶ、離れた場所だ。
「ここは」
「……大盛川、……ですね……」
大盛町の河川敷。その土手の中腹だ。
あ然とする綱吉に、やっぱりあ然とする骸が答えて、以前にも一同を空間転移させたことがあるデイモンはウインク一つでことを済ませてしまった。
自分の掌を見つめて、なにやら論評する。
「実のところ、夜の炎の能力ならば幽体でいる方が使いやすいんですよねぇ」
「……クローム……っ!?」
デイモンに目をやって、彼を従えているクロームまでも半透明と化していることに気づき、綱吉はまたも息を飲んだ。
彼女は眉を下げてちょっと残念そうに笑う。
「さっきので、エネルギーぜんぶ使っちゃいました……。でもご無事でなによりです、ボス、骸様」
「もう、長居はできませんね」
はあ、やれやれ、そんなジェスチャーをしてみせるデイモン。
クロームが、数歩を離れて佇んでいる青年へと、慎重に横目を遣った。
「……『自己犠牲』。術を解くのには、オーソドックスな制約だけど……?」
「…………」
沈痛な、暗い表情で居る彼ではあるが、問いかけには応じた。浅く、頷く。
「――解除設定は一つだけ。骸が、沢田綱吉の為に、己が命を捨てた場合にのみ。ですよ……」
「……なっ……!」
衝撃に呻くのは、骸だ。いつの間にやら復活している自分の右手と、右半身を目で確かめながら。
「おまえっ……、とことん、僕を殺す気だったんじゃないですかっ!?」
「……僕の綱吉くん、」
ガイは、そんな骸は無視して、たった十四歳の少年である綱吉を見つめる。
苦しげに喉を詰めて、己の胸に指先を宛てた。
「……僕の、……なかにも、きみが……、……きみの残滓があるって、信じてもいいものなんだろうか……?」
ちょっと、おい、など、だんだんと言動が荒っぽくなる当の骸にようやく目線を投げる。
少し、耐え難そうではあるが、少年の六道骸を真っ向から見据えた。
「お前は……、半分…いえ、百分の一くらいは……」
綱吉は、そんな場面は初めてのように思えた。
ガイは、いつもどこか目線を外して、ぼんやりと骸を見てきたような気がする。
「……綱吉くん、……なんですかね。毎日を必死に、精一杯に、生きてた。あの綱吉くん。……僕では千分の一ぐらいに減ってるかもしれないが」
「……が、ガイさん……」
綱吉が言葉に迷っていると、「おい」と、押しのけるようにして声が割って入った。
一応はそれを回収して、さらにデイモンの空間転移にも便乗してきたらしい青年の沢田綱吉だ。拗ねた顔つき。
包装紙を指で摘まんで、碧色のおおつぶの飴玉がそこにある。
骸と綱吉の思い出の品である、ジュエルリングだ。
「これ、こんなのが本当にお前らのリングだって言うのか? マジで?」
「…………」
綱吉は、両目が元のように澄んだ青色に戻っている骸と目配せする。
どちらからともなく、首肯した。
沢田綱吉はガーンッとした。
「ただの飴じゃん!?」
そんな表情の彼に、クロームもデイモンも、綱吉も骸もガイも目を丸くして、――は、として、こほん。
未来の綱吉は、かしこばった咳払いをこぼして、しかし悔しげに奥歯は噛んだ。
「くそっ……、こっちは、一分一秒だって無駄にできないってのに!」
「ふむ。しかし、沢田綱吉?」
口を挟んだのはデイモンだ。
鼻梁から口許に沿わせるように、人差し指を立てた。
「異なる世界線といえども、影響力を舐めてはいけない。この世界の君がある未来では死んでいるなら、行動には常々、気をつけることですね。おまえの魂は死神に魅入られやすいのですよ」
「……綱吉くんが死んだ側溝、ちなみに、僕の家の前の側溝ですから」
「げっ」
骸らしくない、潰れた蛙のようなうんざりした呻吟が聞こえて、綱吉はつい冷や汗して骸を窺い見る。
骸も、冷や汗して、本気で青褪めて綱吉をまじまじと見つめている。
「…………っ」
「…………っ」
そうして――、
自ずと別れの時間は認識できた。
クロームとデイモンが、彼女が手にする一本槍ごと八割方が透けてきた。
未来の沢田綱吉は一同に背を向けて、インカム越しになにやら深刻そうに、ずっと誰かと会話している。
ふ、……と、深々した嘆息に、綱吉は改めて――、この世界に元々居たはずの、もう一人の六道骸を見上げた。
彼はいやに落ち着きを払った態度で、悠々とクロームとデイモンに問いかける。
「そちらの綱吉くんと僕は? 大方、彼らの要請か、はたまた僕のなにかの暴走とかでこっちまで遠路遙々、足を運んで来ているんでしょう?」
「……それは。……このまま、お伝えするつもりだけど……。……こちらの骸様は、先にお体をモノにされちゃってるから……」
「へえ……」
話半分にして、ガイは苦く笑った。
「たのしそうな場所、ですね」
今度こそはっきりした嘆息を吐き出す。
沢田綱吉が、一同のもとへと戻ってきて、例のジュエルリングをひらひらさせた。一気に老け込んだような苦労している表情だ。
「……念のため、こっちのこれは、貰っていくことになった。異論ないな?」
「…………、ええ」
「…………、うん」
それは、――大事な、ふたりだけの思い出だったものだ。
しかし綱吉と骸は、互いを確認し合って、その存在と輪郭を目でなぞりながら、同意した。
骸が、飴玉に対する執着心からではなく、純粋にもう一人の彼を気遣うようにして口にする。
「よく、わかりませんけど……。君がよくなること、祈っておきますよ」
「がんばってね」
「……」
眉間をむっつり、不機嫌そうに――、しかしそこを二本指で抑えて、沢田綱吉は沈黙する。
「…………、…」
なにか、言いたそうに。しかし堪えて。
ややして、次にはそんな自分がちょっと馬鹿らしくなったように、小さく微笑をこぼした。
短く、少年らの行き先は祝福した。
「そっちは、どうかお幸せに……」
すい、と流れるような会釈を残して、背中を向ける。
口元のインカムへと話しかける。それを黙って、じぃっと見ているのは、青年の姿をしている方の六道骸だった。
その手は、いつも巻いていたロングマフラーのなくなった首元を軽く押さえている。物憂げな、しかし物言いたげなその視線に、綱吉がいちばんに気がついた。
「……骸?」
ガイは、同じように意味深な眼差しを、綱吉へと投げかける。
「…………」まじまじと、焼きつけるように丹念に。静かに、沢田綱吉を確かめる。
そうして低い声が告げた。
「この世界には、……もう、僕は不要ですよね? 君を、この命が尽きるまで、ただ眺めていたい気持ちもありますが……。不幸中の幸いでしょうか、僕ってチョコレートは大好きになっているので、」
理由のような、こじつけのような言葉を曖昧に並べながら、その間もじっと綱吉を見下ろしている。
短く、挨拶は残された。
「……でかけてきますね、綱吉くん」
「……、……うん」
綱吉の胸はずきんとするが、だが、涙は堪えなければと理性が訴えた。
引き止める言葉も、理由もなにもないはずだ。
半分、体をそちらに向けて立ち去ろうとする青年に、精一杯に喉は張り上げた。
「骸! ……あ、あの、――いってらっしゃい……!」
「ええ。いってきますね、綱吉くん」
それが、最後の会話になる。
彼は未来の沢田綱吉のあとを追った。のんびりとブーツの足で土手を降りて、忙しそうな彼を呼び止める。
「次元の移動ってどうやってるんです? 見たところ、科学のようですが」
「? ……骸……?」
スーツ姿の沢田綱吉は、ヘッドフォンに添えた手を離して、きょとん…と自分よりも上背のある青年を見上げている。
綱吉は、自分から、彼らから視線をそらした。
目の端はちくちくした。これが、きっと――今生の別れだ。予感が事実になって胸にずきんと響く。
クロームとデイモンも、もはや陽炎のように、もやがかっていた。
クロームは最後にぺこりっと頭をさげる。
顔を上げると、眉を寄せながら満面の笑顔だ。
「結婚式には、呼んでください。骸様、ツナさんっ……! 私の名前を書いてハガキを出せば届くようにデイモンにしてもらうから」
「何気なく私の仕事をとことん増やしますね……。ま、せいぜい、末永くお幸せに」
デイモンがしゃべっている傍らから、すう……、と溶けた。
砂が波にさらわれるように姿は掻き消える。
さらさらした、土手下の清流のせせらぎすら聞こえるほどの静けさが、やがてその場を満たした。
ふたりっきりになる――、後ろを見てみると、もう一人の自分たちは揃って姿をくらましている。
ガイは、あちらについていったのだ。
「…………」
「…………」
疲労感やら、現実感の欠如やら、微妙に困惑する胸を抱えて綱吉と骸が沈黙する。
骸が、ちょっとして、耐え切れなくなったようにして尋ねた。
「僕の目……。本当に、元通りですか?」
「あ。ああ……」
「ほんとに?」
「う、う…ん」
青空のようなその目の色をじっと見上げて、綱吉は照れてきてしまって頬っぺたをゆるく指で掻いた。
骸は、くらくらきたように、そんな綱吉にだんまりするが、
「……僕、引っ越しますね。近いうちに」
急に決意を表明した。
綱吉は「決断早っ!!」とすかさず、ツッコミする。
「あんな話を聞かされたんじゃね。いいですよ、別に。過去の思い出ばっかりの遺産ですし……」
「おまえんち、親戚のおじさんの所有って話じゃなかったっけ?」
「そこは僕ですよ? どうとでも、話をまとめてみせます」
得意げに、しかしいくらか頬を染めて、骸は自分の胸は手で抱えた。
転移させられたときから、ずっと距離は近くて、肩が触れ合うほどの近さだ。綱吉は久方ぶりの青い両目の骸をちらちらと窺って、骸も何度も何度も、それに見下ろして返していた。
「…、…………」
「――――」
自然と、ごくごく自然と、キスが交えられた。
綱吉はきゅっと両目を閉ざし、閉じる直前に骸は薄く目を開けているのが見えた。手が触られた。
「……引っ越したら、……そのうち、一緒に住みますか?」
「……ん、……ダメツナ、……だけどな……?」
「別に。いいんですよ」
寄る辺を探るようにしてゆるく手を睦み合わせて指と指を握らせた。
もう一度、確認するようにキスをした。
それが離れてから、さらに沈黙が過ぎていく。
綱吉は遅れて頬が紅潮してきた。鼻息荒く、落ち着かず、ふー、ふー、と深呼吸などしている。
骸まで照れていつになく肌色が赤いから、どこに視線を置くのも目に毒だ。
「か、っかか、かえ、帰るか、そろそろ!?」
「……ええ。今頃、大騒ぎでしょーけどね」
「って、学校にーっ!?」
「そりゃね。かばん、あっちですよ? 帰りづらいですけど、しらを切るしかないですかね……」
骸は、いつになく情けなさそうに目を剥き、後ろ頭をぽりぽりと掻くなどしている。
今回の騒動があってから、綱吉は骸をもっと深く知れたように思えてきた。
土手をあがりながら、右手は寄越されてはたっとなる。
「あ! ていうか、おまえ、体は!?」
「どこもぜんぶ治ってますよ。あの光の爆発のあとからですね」
「ど、どーいう仕組みなんだよ!!」
「知るわきゃないでしょ」
青い両目を眇めて、骸がツッコミを返してくる。
ここまでくると、当事者の彼ら彼女が不在なこともあって、綱吉はむしろ感心だ。
「はぇ〜……。どえらかったな」
「まったくですよ……」
土手の道に出て、校舎の方角を探してみる。
手ぶらの学生服二人組は、ちょっと目立っている。
「トンデモない。えらい、災難ばっかでしたよ、ほんと」
「な」
他愛なく会話しながら、ゆっくり、歩いての帰宅となる。
理不尽――そんな概念は、若者の社会では死んでいる。
それはそれとして、と、綱吉は思った。
(……やっぱオレってダメツナだな、とことん。だってなんか、好きってわかったら、オレ……、男同士でも好きだもんな)
超人じみていた彼ら彼女のようにはできず、こつこつと、自分の足で地道にここを歩いていかなくちゃならないけれど。
でも、とやっぱり思う。
隣人の幼馴染みはちょこんと見つめて、頬は染めた。
「でもやっぱ理不尽だな」
「? なんですか?」
「おまえじゃ、代わり映えしないっつーか」
「何の話ですか、それは。綱吉」
「オレの話!」
「なんですか、それ」
呆れるような骸を笑って済まして、綱吉は近すぎる二人の距離感も改めて面白くなってくる。
なにせ、ずっと幼馴染みだった――、六道骸なのだ。
こんな恋の結末は、やっぱり、理不尽だ。
おわり
>>エピローグ・ある日常
>>エピローグ・ある夜更け
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そそっとあとがき(反転です)
ながっっっっーーーーーーーらく、最終話を更新しないまま放置したお話でしたが、2019年になってようやくやっと…今なら最終話が書けるんじゃないかとチャレンジした結果、無事に完結させられました。ついでに本文もぜんぶ改訂です。がんばりました!!!
休止中にもお声掛けくださった方々、ありがとうございました。
そして思い出してここまで読んでくださったお方、めちゃくちゃありがとうございます。
元々はサイトのカウンターが100万超えたことのおめでとう企画でした。当時、いただいたリクエスト30個くらい?が、話にすべてぶちこまれてごった煮にされつつ出力されています。(幼馴染みとか女体化とか兎とか骸が学級崩壊させるとかだいたいすべてです)当時にリクエストを送信してくださった方々、たいへん、お待たせしました…!!
はは〜…( ´;ω;`)無事に完結できて…感無量です…一安心です。
何気に原稿用紙594枚ぶんです。いちばん長い連作ですか…ね…?!
ありがとうございました!!
2019/11/22完結
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