リングとミリオン:後日談

 

「ある夜更け」






 老齢のおおきな猫――、それが、その男への二つ目の印象となった。
 彼は、日中のほとんど寝て過ごしている。
 毛布にうずもれるようにして、百八十センチを超している長身痩躯をだらりとだらしなく寝かせ、ただ安寧と呼吸をつづける。
 たまに寝室に駆け込む用事があると、長い髪をキングサイズのベッドに散らして毛布に埋もれている彼は、のったりした緩慢な仕草で目線を投げて寄越すなどした。
 短く、会話することもあるし、何も言わずに立ち去るまでを見守られることもある。
 その日。
 彼は、ぼろぼろになって、自分の寝所に倒れるようにして滑り込んだ。
 ……しばらくすると、ベッドの奧から、目を覚ました六道骸が現れる。
 ベッドの端で力尽きている沢田綱吉の、その頬に、両手のひらを添わせた。
「……綱吉くん、……今日は一段とやられましたね。僕の手を貸しましょうか」
「う……、っ……!」
「銃弾ならまだ数発、残ってますから。君の治癒に使いましょう――」
「い、いいっ……よくわからんアイテムをまたっ……、いらない、必要はない。おまえ、こっちの事情ろくに知らないくせに、戦争だって知らないくせして!」
「…」
 明度の極まったブルーアイをぱちぱちさせて、六道骸は、心身ともにすりきれてぼろ雑巾となったような沢田綱吉を見つめる。
 どうにかベッドに横になって、返り血と擦過傷でぼろぼろになった手足を投げる。
 仰向けになると、両手で顔を覆って、しばらく呆然と自失した。
「…………っっ」
「…………」
 借りられた猫のように、青年は大人しいものである。
 きゅ、と打ちひしがれている綱吉の片手には自分の手を重ねて、簡単に、しかし力を混ぜてゆるく握った。
 ――、――っ、溢れ出すものを抑えきれず、綱吉は手の内側で涙して吐き捨てる。
「死んだ。死んだっ。殺されっ……た、また、もう、何十回だよ、もう、もう、オレなんてファミリーのボスなんか名乗ってらんねぇよ……っっ!」
「……そうですか」
「くそっ! くそ、くそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそっ……!! 白蘭っ――!!」
 怨嗟が、途中ではっと切れて、綱吉は指のすきまから大きく開くまなこを垣間見せる。
「――いくら、足掻いたって所詮はっ――ここは……!!」
 取り憑かれでもしたように、ぐんっと上体が跳ね起きて、青年の綱吉はみっともなくはらはらと涙しながら六道骸を凝視する。
 綱吉にすると、六道骸とはそもそももう何年も昔に、自分を庇って死んだはずの男だった。
「おまえ。なんで、ついてきた? ここは行き止まりの世界だ……。オレと、正一とスパナ、あの作戦に関わったオレ達だけの秘密にしてはいるが……だが、だけど、事実なのに……! おまえ死ぬってわかっててなんでこっちにきた!!」
「……興味があったから。だからですけど。それ以外は何もありません」
 骸は、繰り返してきた回答を述べた。
 たおやかに肩口に引っかかっている一絡げの長髪を掻き上げる。声音は甘く柔和で、意中の人間をそそのかすようにどこか残酷だ。
「君がそうしろというなら、僕を前線に出していただいても構いませんよ。こうして日がな、君の寝室で、君の匂いのする場所で……なんて、僕には贅沢すぎる」
「…………。死ぬぞ、おまえ。すぐに。あっちゅー間に、呆気なく」
 端的にぶっきらぼうに吐き捨てて、綱吉はうなだれる。
 ベッドシーツを指で掻き、指先を痙攣させる。
「骸も……ヒバリさ、も、獄寺君……山本っ……きょうこちゃ、おにいさ、ランボ、ハルまで、皆の親戚家族まで……っっ。……っ皆が皆、死ぬんだからさぁ、この世界じゃあさあ……!!」
「まあ、君が可能性に賭けて他の世界線にまでジャンプするほどでしょうから」
「おっまえ、なんか、前線に出したら一瞬で死ぬわっつってんだよバカ!!」
「…………。で、寝室ですか? ……僕の配置に、僕は口出しできる立場ではないのでしょうけど、どちらにせよこの肉体の実年齢は教えてあげたでしょうに」
「っっ明日も生きてるかわかんないなんて、オレたちこそっ――そんな状況なんだよ!!」
 ぼろ、ぼろと、目玉をこぼすように大粒の涙がふくらんでは頬へと筋を描く。
 身を切るように痛切に怒鳴ってから、迷子になった子どものように、じ、と六道骸を凝視しはじめた。過去の、失われた人々の面影すべてをそこに求めるように熱望する。
 そ、と六道骸がその片手を綱吉の肩へと乗せる。
 抵抗されない。
 それと見て、手のひらを滑らせて沢田綱吉の背中をきゅうと抱きしめた。
「…………っっ」
 ひりついた内臓にでも接触されたように、綱吉がびくんびくんと上下に揺れる。
 発作的に両手を伸ばし、骸の胴体を抱きしめてた。
 ぎゅぐうううっ……!!
 爪と指を立てて、シャツに幾重もの流線を刻ませる。
 自分よりも上背のある男性の胸にすがりつくと、すすり泣くようにして涙をぼたぼたと流した。
「……うっ……うあ……うああ……っ!!」
 同じく、苦しいほどの膂力で抱きしめ返しながら、六道骸はスゥと両眼を細めた。
 夜伽の相手のような、子守歌の奏者のような、母親のような父親のような、恋人のような――。それが、ここにきてからの毎日だ。
 地下深く、地下壕のように宿敵から逃れて建設された秘密の根城。そのたった一人の城主であるはずの男は、新たな六道骸を連れて帰還してからというもの情緒不安定がさらに加速した。
 骸は、知らない数人の男――、正一、スパナなどとも会話はした。
『……できうるなら、じゃあ、……メンタルケアをおねがいしますよ……』
 悲痛に顔をゆがめて正一と名乗った青年が、かすかな声で、骸に懇願した。
 スパナという男は飴を舐めながら――、綱吉と骸のジュエルリングを包装紙から摘まんで、不思議そうな顔をしていた。
「うっ。うっ、ひっ、ひっく、ひっっ、ひっく、ひっ!」
「……綱吉くん、……、かわいそうに」
 うすく笑って、だがその表情は沢田綱吉からはのぞめない。
 最後の寄る辺のように、ひっついて泣き虫に戻ったようにしてこの世の終わりを嘆く。寝室に、骸とふたりきりになると綱吉は抑えが効かなくなったようにそんな子どもに戻ってしまう。
 骸は、笑って、沢田綱吉の後ろ頭を撫でてその背中をさすって、ダメな幼馴染みをあやすように丹念に奉仕する。生きている沢田綱吉をひたすらに撫でて、その熱と重みと悲しみを全身に浴びた。
 泣き疲れて眠気に襲われてくると、綱吉は決まってうつらうつらに呟くことがあった。
「……うえっ……、う…、…………、おまえは、その気になりさえすれば……いつでもこんな、行き止まりの場所から、逃げて……いいんだからなっ……むくろ」
「そんな。まさか!」
 二十五歳の外見を保たせている男が苦笑する。
 眉を寄せて、沢田綱吉はよいしょっと胸に抱えてベッドに寝転がった。
 綱吉の耳に優しくあまく、流し込むようにしてうそぶいてみせる。
「僕は、ここがいちばんの世界です……、君の哀しみを癒やせる者はもはや亡者だけなんでしょう」
「…………う、……ひっ、く、…!」
「そんなきもち、僕にはよくわかりますから。……だからいいのです」
 後頭部をよしよしと撫でているうちに、吐けるだけの怨嗟と絶望を垂れながして、汚物まみれになるように沢田綱吉はその眼瞼を閉ざした。すっと落ちるように入眠する。
 明日には、新たな地獄があるか、あるいは――…
「……綱吉くん」
 …す、す、ぅ、と不規則なリズムがある。
 それを宝物のように骸は両腕で囲って抱き寄せる。
 その背中を掻き抱く。そうしているうちに、落涙のような淡い泡つぶが目尻に浮かんだ。骸は、強く抱きしめて安心させてやりながら、涙をすりつけるようにして。
 その前髪のつけ根へと、その頭に鼻を埋めながら、
「世の中って理不尽じゃないですか……?」
 己の罪深さに――、やはり、苦笑して自嘲するように嗤笑する。
 沢田綱吉だけを全身に感じながら、彼の恥部のようなものを慰めながら、酷く身震いするほどの歓喜がもよおされる。
「……ああ、……こんな、最低の男。なのに、ね……」
 末期の絶望がありながら、そこには悦びが含まれる。
「……この世界じゃ、僕が――、世界でいちばんの幸せ者になって、しまう。……すみません、ね、……綱吉くん」
 腫れた両目の青年がぐったりと胸にもたれて眠る。
 その両頬を掬い上げて、人知れず、そっとくちびるにキスを交わし、六道骸も目を閉ざした。
 明日は――…
 誰も知らない、彼岸の世界にて。
 ある夜更けのことである。




 おわり






>>もどる