黒い服はカムフラージュであることを知った。
 彼の皮膚は粘液で覆われていた。その粘液は赤く汚れていた。人間と同じ肌をしているのは首より上で、あとは赤い粘液に包まれながら爛れているのだ。
 少年は、一日目をベッドの中で過ごした。彼は飢えているのだと言った。そして病気だと言った。呪いだとも言ったので、少年はひとつに考えを搾ることができなかったが、世界の新たな一面に呑まれようとしている事実を思い知った。
 ベッドの下にはコンビニエンスストアの制服が落ちていた。彼は少年の服を脱がせ自らの衣服も剥きとると、額をすりつけ肌を寄せ合いネコがじゃれるような仕草で少年に絡みついたが、それだけで、隣にあるだけで言葉もろくに発さなかった。
 日付が二日目に移行したときになって、彼は、
「君の平熱は心地がいい。さぁどこから食べて欲しい」と言った。
 悪魔の声帯というものがあるなら、彼の喉がまさにそれだ。
 しわがれた響きが耳から肌の裏側を犯して、ケモノさながらに獰猛に進入を果たしていって、心臓の直ぐ上で爪を研ぎながら微笑んでいるのだ。
 だが、彼の中身が笑っているとは少年には思えなかった。
 少年が恐怖で気を失うのを見届けても彼は微笑みを絶やさなかった。
 次の目覚めて、二日目が四日目に移り変わったことを知った少年は、食事を運んできた彼を見つけて呼びかけた。扉には鍵がかけられていて、外にでることはできないが、曇りガラスの向こうには団地のアパートがそびえ立っていた。
 おぼろげなアパートを後ろに従えながら、彼は手袋を被せた指で少年に触れた。
「出て行くというなら食べる。沢田綱吉は僕の同胞にしたからこの部屋で生きられる」
 少年は赤い粘液を頭から被ったかのように、ぐしょりと塗れていた。
 まなこまで覆い被られた少年には、室内すべてが、赤い粘液に覆われているように見えた。
「ヘビの食事の仕方を知ってるか。獲物を丸呑みにする」
 声は、鼓膜ではなく指から伝わるように感じられた。
 額をトンと押すその一突き。彼の叫びは地震がごとく戦慄いて少年の内部を揺さぶった。ぐらりと、再び気をやりかけて少年は歯を食い縛る。彼は目を細めながら言ったが、そのやり方は哀れむようなやり方だった。
「人間の子供を食うのは初めてだ。ですけれど、君はわたしを人だと感じた」
 触れればわかるのだと、しわがれた喉が続ける。
 その声と喋り口は酷く歳のいった老人のようだった。
 少年は、彼が差し出すスプーンを咥えながら一緒に粘液を飲み干した。想像していた血の味はなかった――ただ、舌に絡まり、片栗粉に似ていると少年は胸中で囁く。途端に彼は苦笑した。
「粉ではない。わたしの身体が解けたものだ」
 赤と青の瞳は、観察における鋭さでもって少年を見つめる。
 それを受け止めながら、少年は赤い粘膜に塗れたコンビニエンスストアの制服についてを考えた。少年が、沢田綱吉が扉をガチャガチャと乱暴に引き立てたのは、七日目の朝だった。
「いるんだろっ? オレはもう行くよ!」
 喉をじりじりとしたものが撫でる。
 ウエと口を抑えたところで、背後に彼が佇んだ。
「でていくときには食べると言った。意味がわからないのですか」
「でていかなければ、食べない。でもダメだよ。オレもうここにいたくない」
「なぜ」疑問形にすらなっていなかった。
 しかし、意図したものではなく、彼には正しい会話と発声の仕方がわからないのだと少年には感じられた。腹の内側がちりちりと痛む。
 寝食のたびに彼が傍にいた。赤い粘膜が全身に纏わりついた。
 この粘液が消化液なのだと気付いていたが、しかし、六日を過ぎても少年は生きていた。
「帰らないと。オレは家もあるし友達もある。生きてるなら、帰らなきゃならない場所がオレにはあるんだよ。みんなが心配する」
「わたしにはない。君はここにいなさい。その、茶色い目でわたしを見ているといいでしょう」
「ムリだよ。それだけで一生を過ごすなんてむりだ」
「なぜ」眉間を寄せて、彼が唇を尖らせる。
 室内の熱気が上昇していた。
 額から流れでた汗を拭った。暑さと、腹のなかの熱さとで少年は朦朧としていた。
「あんたはオレの名前を触れただけでわかると言った。そうだよ。オレは沢田綱吉なんだよ。沢田の家に生まれて、綱吉って名前をつけてもらった人間なんだよ。あんたに名前はないのか」
「わたしの名は骸。わたしがわたしに与えた」
 自らの胸をおさえて、彼は静かに両目を閉じた。
「元は亡骸だったこの身体にふさわしい名を与えた」
 時間はほんの数秒で、あけたときには意志があった。シュウウとヘビが舌を鳴らしていた。彼の、骸の口から聞こえてきた。
「なんとしても出るというのか」
「だから、……オレは沢田綱吉なんだよ、骸さん」
 扉のノブをつかんで、少年は目を丸くした。
 ノブが、ガチャリと回転を受け入れた。
 僅かに開いた狭間から白光が差し込んだ。そして綱吉は知った。
 部屋が赤く見えたのは己が、己のまなこが粘液に覆われているからではない。実際に、赤いのだ。この部屋の、家具も壁も天井もすべてが赤い消化液で覆われていたのだ。
「わたしは乾燥と冷気で死滅する」
 幽霊のように、虚ろに囁く声は真後ろから。
 すぐ、後ろから。綱吉が振り返る前に骸が二の腕に噛み付いた。
 ぶっと血の飛沫が沸くほどに勢いと力がこめられていた。特大の注射針を数本、同時に突きたてられたような痛みが肩を切り裂きながら脳天になだれこんだ。
 綱吉が呻き声をたてて粘液にまみれた壁へと倒れこんだ。
 憂鬱げに微笑んで骸が扉をしめる。少年の腕を取り、その、中指を唇に受け入れる。
 どこから食べようかと骸はかつて問うたが、中指からにしたようだ。
 絶望よりも諦めのが深かった。もとより、覚悟をして扉に手をかけたのだ。
 ずりずりと指が口に呑まれて行く。が、大口で綱吉の肘までを喰らいついたところで、骸は盛大に咳き込んで腕を吐きだした。ぜえぜえと肩を揺らし、粘膜の上に転んだ綱吉を睨む。
「は。は、はははっ、くははははは……っっ」
 そして、彼はそのまま上体を反らして笑いだした。哄笑だった。
 誰に向けたものか綱吉にはわからなかったが、自分の腕には、蛇が牙を突きたてた痕があった。赤い二つの穴が、隣り合って浮き上がり、仄かな赤雫を滴らせる。
 口早に言い切りながら、骸は、乱雑に扉を指差した。
「もういい。行け。わたしの前から消えなさい」
 綱吉の血が骸の口角に滲んでいる。
 骸の喉から伸びてきたのは、先が二股に別たれたヘビの舌だった。
 それが名残惜しげに綱吉の血を舐めたが、骸は、自らの袖口で気ぜわしく口角を拭い去った。
 綱吉が両目をまたたかせる。ヘビの舌が綱吉の舌に触れると同時に、首の下から赤い滑りが彼を浸蝕しはじめていたのだ。
 骸の美しかった肌が爛れ、赤く潤っていくのを綱吉は呆然と見つめた。
 青い湯気で視界が覆われる。赤い粘膜と交わったが、二つ色は混じりあうことなく、赤は赤、青は青として隣り合っていた。赤と青に塗れながら人の体が崩れていった。
 やがて、見下ろしていた。骸はついにはヘビになったのだ。
 黒いシャツに黒いブーツ、黒を放り出した上に小さな赤蛇がのたくっていた。
 綱吉が放心から立ち直るには、時間を必要とした。青い湯気が完全に消え去ったころ、双眸をいびつにして、喉を戦慄かせながら問い掛けた。
「人間になりたかったんですか?」
 掬い上げれば、赤蛇はとぐろを巻いて、二つの青い目を綱吉へ向けた。
 ふいと首を鉤状にさせて扉を示す。綱吉は、喉をつまらせたまま蛇を胸に抱いた。
「…………」
 しわがれた、掠れた声がした。
「あくまとひとの間に生まれた子供があったんです」
 チロチロと蛇の舌が手の甲を撫でる。綱吉は、目眩に襲われながらも自らの腹の底を思った。今や赤い粘液に覆われているのだと知っていた。
 ぐったりと身を任せるヘビは、それ以上、何も言わなかった。
 人は壊れるときには容易く壊れるものなのだ。あぐり、綱吉は大口を開けた。
 そして噛み切らずに飲み干した。青目を忙しく回しながらも、ヘビは自ら喉をくだっていった。
 綱吉は蹲ったままの体勢で、調子を窺うように腹を撫でた。
 顰めツラのままで問い掛けた。慎重に。
「これで人間として生きられることになるか?」
 腹の奥でとぐろをまく気配がした。

 

 

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