ロビーダマ

 

 

 沢田家が越してきた。隣家は無人だった。
 けれども沢田の長男にして独り息子の綱吉くんは、2日後に住む人がいるのに気がついた。
  理由はカンタン、家の裏側を囲むフェンスに穴を見つけて、靴が一足、転がっているのを見つけたからだ。綱吉くんはすぐには入らなかった。
  ようやっと決心したのは、おやつと懐中電灯を用意した一週間後。
 十二歳にして、彼は始めての大冒険にでかけるのである。近所に。
 フェンスをくぐり抜けるのは、まるでイバラをくぐり抜けるようだ。
 半そでだったので、両腕のそこここを引っ掻いた。それでも綱吉くんはめげなかった。彼にすれば、相当の勇気と根性をだしている。綱吉くんは弱虫で諦めやすいから、ダメツナとあだ名をつけられて学校でもバカにされちゃう男の子なのだ。
「誰か、いるー?」おどおどと声をかけながら、綱吉くんが進む。
 裏の勝手口は鍵がかかっていなかった。
 おじいさんかおばあさんが住むような、瓦屋根の日本家屋。
 綱吉くんは引越す前の高層アパートを思い出した。あそこに建ってたら、土地がもったいないから、こんなボロ屋はすぐに取り壊されてしまうんだろうと。小さいなりに考えて、ぎしぎし軋む床を歩いていった。
「…………いないの?」
 おっかなびっくりと。しながら、ふすまを開ける。
 そこには人が倒れていた。男の子が大の字になって寝ている。
 綱吉くんが絶叫をあげなかったのは、彼が、実に幸せそうな顔をして転がっていたからだ。笑顔で死ぬひとなんていない。だから、この人は寝てるんだとすぐにわかった。
 綱吉くんは、懐中電灯で男の子の顔を照らした。
 ツンツンに尖った髪の毛と、犬歯。人懐っこそうな寝顔に、強張らせていた肩がみるみる下がってく。綱吉くんが、緊張を溶いて長いため息をはいた、とき、だ。
「動くな」
 首筋に金属が押し当てられた。
「動くな。電気がでるからな、これ」
「っ?!」肌から少しだけ離したところで、バチ!
 電気と電気が激突した。スタンガンを手にした、ニット棒の男の子が佇んでいた。綱吉くんの手から懐中電灯が転がり落ちる。男の子は、首筋にスタンガンを押し当てたまま、壁のスイッチをさぐった。蛍光灯に明かりが灯っても、先ほどの男の子は畳の上でねそべっていた。
「何の目的でココにきた? オマエ独りなのか」
「お……っ、俺は。た。た、探検に」
「オマエ、バカか」
 怒った声で言い捨てる男の子。
 綱吉くんがビクリと肩を竦ませる――。
 ニット帽の彼がスタンガンのスイッチに手を伸ばす。
 しようがなかった。……僕の、出番だ。一歩を前に進みでた。
 ぎしりと家中の床が軋む。ふつうなら有り得ないことだけど、カンタンだ。僕がそうなれと願えば、そうなる。そういうふうに、世界はできている。
「骸さま」いくらか緊張した声で、ニット帽。千種が僕を呼ぶ。
 綱吉くんは涙をめいいっぱいに溜めた目をしていた。
 それを精一杯にあけて、信じられなさそうに僕を見る。無理はなかった。この小さな子供の、短い人生のなかで、壁をすり抜けて姿をあらわす人間なんてのには出会ったことはないのだから。
「千種。彼はお客さんですよ。お茶の用意をしてあげて」
「はい」少しの不審も挟まずに、千種。
 綱吉くんをほっぽって、床を軋ませながら闇に馴染んでいった。畳の上で寝転ぶ男の子はいまだ目覚めない。僕は階上を指差した。
「先にいってるね。自分で、歩いておいで」
「え……、っう、うわあ?!」
 僕の体が浮くのを見て、綱吉くんが腰を抜かす。
 この子は怖いものが苦手だ。雷も苦手で、嵐の夜には母親のベッドに潜り込むことすらある。バカみたいに僕を凝視するから、からかってやりたくなる。綱吉くんをいじめたがる連中の気持ち、すこし、僕にもわかるようだ。
「腰を抜かしてちゃダメですから。……五分。五分以内にこないと食べちゃいますよ」
 くすくす。僕が笑えば、家が笑う。
 ぎしぎしがちがちと、一斉に床と家財が揺れだして、綱吉くんが「ぎゃああああ」と絶叫した。
 叫んでも無駄だった。今、この家は、外とつながっていない。綱吉くんにはまるで幽霊屋敷だった。探検の舞台となる廃屋は、すてきな人が住んでる隠れ家じゃなくて、オバケのすむ化け物の洞穴だった。
「かわいそうに。綱吉くんは、ココを隠れ家にしてる寂しいひとを友達にしようとしただけなのにね」
 歌うように囁けば、キイキイとどこからかガラスの擦れる音がする。綱吉くんはまた悲鳴をあげる。それでも階段を昇ってくる。泣きながら階段を昇った綱吉くんは、赤地の座布団に腰をおろす僕を見つける。
 二階は、屋根とくっついているから、小さな一部屋だけだ。
 さらに狭いので、綱吉くんと僕の距離は一メートルもない。僕が顎でしゃくると座布団が躍りでた。茶色い円形のそれは、くるくる回って綱吉くんの前に振り落ちる。
「さて。いらっしゃい。僕は六道骸」
「……沢田綱吉、です」
 にこりと微笑まれて綱吉くんは困惑した。
「食べちゃうっていうのは、冗談ですよ。寛いでください」
「く、寛げっていわれても」
 綱吉くんは僕の両目を不安げに見詰める。
 赤と青の目が珍しいんだ。血のような赤と海みたいな青に挟まれて、肌は真っ白で、どう見ても僕は生きてる人間の形相をしていない。探検は、本当にほんとうの探検だった。綱吉くんはとんでもないものに遭遇したのだ。
「そう。僕は人間じゃないです。それで?」
「それで、って……」
「人ではないからって、だからって何になるのかと訊いているのです」
 この質問は綱吉くんには難しかった。黙り込んでしまう。でも心の中で綱吉くんは囁いていた。綱吉くんは家が呼吸をしているのに気がついていた。かすかに上下に震えて、すう、はあ、と、人間のように胎動している。
「骸さま。お茶です。そこのやつも」
 階上に顔と手だけを出して、千種。
 綱吉くんはビクリと震えた。僕が目だけで受け取ったからだ。
 まじないにかかったように湯飲みの一つは僕の手の中に。一つは綱吉くんの手の中に。
 途方にくれた目をして綱吉くんは僕をみる。幽霊とは少し違うと思っていた。僕は化け物だと愕然としながら囁いて、それから、自分が生きて帰れるのかと心配をした。
 僕はくすりとしてお茶を飲み込んだ。
「君が望むのなら、ここにいて構いませんけど」
「いるって……。母さんに怒られちゃうよ。夕方にはかえらないと」
「帰らないのだから、怒られることもないでしょう」
 要領を得ない顔をする綱吉くんだけど、とんでもないと内心で否定した。綱吉くんは母さんが大好きだ。本当は心配させたくないのだ。綱吉くんは、父さんがどこかに行ったまま帰ってこないから、その分まで母さんを好きになったのだ。
「千種と犬はずっとここにいますよ」
「あのふたりのこと? ……心配してるよ、きっと」
「しませんよ。あの二人は身寄りがありません」
 バカらしい質問だった。
「だから、僕が飼ってるんです」
「かって?」
 鸚鵡返しに綱吉くんがくり返す。
 にこりと笑う僕に気味が悪くなって、湯飲みをギュウと強く握った。
 僕はこの子が気に入ったようだ……うん、気に入った。
 怯えてる様子が手にとるようにわかる。見つけてから数日で、ここまで意識を読み込めた人間は初めてだ。今はもう、深層心理まで掌握できてる。
「ペットだってことですよ。僕がエサをあげて、ブラッシングしてあげて、撫でてあげて、可愛がって育てているんです」
「人間を……? きみが、骸が人間じゃないから、そういうことができるの?」
「そうかもしれませんね」
 もし仮に、僕が人間でも良心の呵責を感じるような類にはならなかっただろう。
 付け足しながら綱吉くんを探ってみる。二つの大きなブラウンを眺めるのが、やりやすい。綱吉くんは、また探検の気分になってきた。
 千種と犬は人間だから、友達になれるかもしれないと考えている。綱吉くんの勘定に僕は入っていなかった。少しいじめてやる理由は、じゅうぶんに、できたわけだ。
「今は綱吉くんも飼っていますよ」
「え?」「この家、呼吸してるでしょう?」
 不思議そうに眉を寄せて、でも綱吉くんは頷く。
「ここが、ここに通じているんです」
「えっ?!」お腹を指差す僕に、綱吉くんが声を引き攣らせる。
 変な想像をしてるに違いない。ニヤリとしてしまった。
「僕は幽霊じゃありません。化け物とも少し違う。僕は、この近くの山と土地が固まって意思を持ったものです。古いものには意思ができるって、聞いたことありませんか?」
「……つくも神」
「そう。よくできました」
 綱吉くんは記憶を手繰り寄せてる。
 引越す前に、この土地の本を読んでいたんだ。今度こそ友達を作ろうって意気込んでいたんだ。それは失敗に終わって、こうして、隣家のなかに寂しい人を探したりしているわけだけど。
「この家は昔からあった。だから、もう一部。君は新しく来たばかりだからまだ馴染まないけど、でも十年も住めば、その体の細胞まで僕が手にとって転がすことができるようになる」
 気持ちが悪そうな顔で綱吉くんがウエとうめく。くすくすと笑ったのは、演技じゃなかった。
「悪いことじゃありません。生きる土地の上に住むとは、そういうこと」
 神妙な顔をする綱吉くんは、ちゃんと、聞こうとしている。だから僕も真面目に言った。「土地は地上にある生きるものとも生きないものとも、全てと一帯になる。つまり、すべてに僕がいて、すべてが僕になるんです」
「……むずかしいな」独りごとのように綱吉くんが言う。
「そうでもないですよ。僕は君が考えてることがわかっていた。土地ですからね。君が地に足をつけて生きる限りはわかるんです。綱吉くんは、ココに隠れて住むひとの友達になりたかったのでしょう。君は友達が欲しかった」
 綱吉くんは悲しげな目をして、頷いた。
「そう」僕の目が笑っている。
 右手をあげると、ころころとビー球が天井から落ちてきた。
「そして僕は綱吉くんが気に入った。どうですか、友達になりませんか」
「えっ……。でも骸はおれでもあるんだろ?」
 この人間の子供は、決して芯から愚鈍というわけじゃない。
  ニコリと笑み返して、透明ななかに黄色い線が混ざった球体を顔の前で掲げた。綱吉くんが目を丸くする。これは、3日前、綱吉くんが来たときのために用意したものだ。与えるかどうかは、直接、話をしてから決めようと思った。僕は決断したのだ。次は君の番だ、綱吉くん。
「このビー球を呑む」
 神通力を丸めて、こねて、カタチにしたもの。
「すると君の足はほんの少しだけ土地から浮き上がる」
「? それって、いいことなの?」
「僕にとっては」
 意味がわからないというように、綱吉くんは首を傾げる。
 僕は黙り込む。これは、これだけは、十二歳の彼が自分で理解してくれなければならないことだった。僕は多くを語れない。語りたくない。彼がほんとうに僕の友達になる運命にあるならば、わかる、はず――――。

 

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