6927 usagi

 

 

 森の湖畔には、幹にもたれて読書する青いロングスカートの少女がいた。
 彼女を眺めてはウットリし、悩むようにぐるぐると湖のまわりを歩いていた少年は、
「…………よし。今日こそ、アリスちゃんを連れて行こう」
 ばしっと両手の拳を合わせて意気込んだ。頭にはウサ耳がついている。
 両手を包む真っ黒のグローブはばっちり臨戦体勢に入っていて、にわかに、青白い炎を浮かべてもいる。大きく、息を吸った。何事も第一印象は大事という。
(えーと、時間がない時間がない……って、言って、アリスちゃんの興味を引くんだ)
(落ち着けー、落ち着けー。ナンパじゃないんだから。全部終わった後で、さりげなく、)
「アリスっていうのは標的につける愛称なんだ。えっと、君は」
(ここらへんは、とにかくさり気なく! フツーに言うんだ)
「君の世界じゃ、京子ちゃんって名前なんだよね? 今度、遊びにいってもいいかな……!」
 言い切ると同時に、ばしんと頭が叩かれた。
「だっ?!」
「それを世ではナンパという。ダメウサギ」
「ちゃ、チャシャーー?!」
 ウサギ少年は、背後の枝に現れた巨大なネコにギョッとして後退りしていた。
 初対面ではない。ピンクとパープル、まだらなストライプの肌をした彼はチャシャ猫一族のヒバリといってこの辺りのボスである。ボス猫である。
「君んとこのボスがね」
 枝にしなだれかかったまま、ヒバリは尻尾をくるくると回せて見せた。
 つまらないように、水鏡の向こうの少女を見つめる。
「死ぬ気の秘薬を持ってでてった不肖のウサギを追っかけろって言うんだ。つまりね、そういうこと。諦めたら? 異種族交配なんてどーせ認められないんだし。それに、僕がここにいるんじゃ、君があっちの世界に抜けるのは絶対に無理」
「うっ。ううっ」
 チャシャ猫ヒバリは、自分の拳と尻尾のみでこの森の連中をシメあげている。
 その実力は本物だ。わずか一分前、死ぬ気の秘薬を飲んでパワーアップしただけの綱吉では勝てるわけがない。じりじりと、森の出口に後退る姿に、チャシャ猫は両目をしならせた。
 するすると枝から落ちて、自らのシャツの襟をつかむ。猫耳がピンと立ち上がっていた。
「逃げる気かな。甘いね。僕が、僕のシマを荒らしたヤツを逃がすとでも?」
「いやっ。あの、ヒバリさん。オレとヒバリさんの仲じゃないですか。一緒にリボーンつれて散歩したりとか」
「それはそれ。これはこれ。領地侵害は厳罰だよ、綱吉」
「ひいいいっ?!」
 仰け反り、脱兎のごとく駆け出す――!
 が、数歩のうちに綱吉は足を止めていた。森が終わる場所で、一人、ウサ耳をふるふるさせている人影がある。闇の色をしたウサ耳だった。
 ゲッ、と、うめいたのはヒバリだ。
「六道骸! アイツまでつれてきたの?!」
「いや、オレは何もしてないけど――」
「まずいな。こんな時間だ。女王様の機嫌を損ねると面倒臭いんですよね」
 懐中時計を開けて、燕尾服のウサギが立っていた。
  綱吉とヒバリに気がついて、片眉を持ち上げる。
「おや。リボーンとこのツナ君とヒバリ君。何してらっしゃって?」
「白々しいな。また綱吉のストーカーか!」
「…………」じろ、と、睨むような視線を返されて、綱吉は首を振った。
 頭をふる度に、ぴーんと伸びた真っ白いウサ耳がふるふると震えている。
「ヒバリさん。それは誤解で。コイツは、しばらく女王さまの命令でリボーンを殺そうとしてて……。そのあいだ、オレを人質に取るつもりでオレを追っかけてたんですよ」
「……赤ん坊を?」す、と、チャシャ猫の声音に冷気が混じる。
 ひぃっ。逆効果を悟り、二人から後退りした綱吉だが時すでに遅い。骸と呼ばれたウサギは、腹立たしげに自らの髪の毛をいじりだした。真っ白い手袋が木漏れ日の光を反射する。
「で、めでたく君に返り討ちにされて左遷されたと。死ね」
「ぼっ、暴言を吐くな! 堂々と!」
 ツンとして、骸は聴く耳をもっていなかった。
「僕の世界征服の夢を叶えるためにゃ女王陛下の首がいるんですよ! クソ! あと少しだったのに!」
「堂々と国家顛覆を宣言するな――っっ! 不思議の国はメルヘンなんだぞ! メルヘンでえぐい話をするな!」
 両手をわなわなさせる綱吉だが、ヒバリは不思議そうに骸に視線を向けた。
「綱吉に負けた? どういう天変地異が起きたの」
「…………」「…………」
 奇しくも、ウサギが同時に黙り込む。
 へえ。面白そうにヒバリが口角を吊り上げた。
「綱吉の口って軽いよ。明後日にはこのウワサが不思議の国を覆い尽くすと予言するね」
「…………」
「だあああっっ! やめて! 命の危機!」
 無言で燕尾服のポケットからナイフを取り出し、つかつかと歩み寄ってきた骸に、大慌てで綱吉がユーターンをした。ヒバリが悲鳴ぽく喉を張り上げた。その意味を、理解するヒマはなく――、
「あっ?!」
 ずる、と、足を滑らせていた。
 水でできた、冷たい砂のあいだを潜り抜けるような感覚。身体中の血の気が遠のいて、その一瞬後に、綱吉は泥のなかに顔面を突っ込んでいた。
「ぶうっ!」
「きゃあああ?!」
 ばさっ。頭上に硬い角がぶつかる。
 綱吉はハッとして本を振り払った。ショートカットの女の子が、驚いたように足元に倒れ伏した綱吉を見下ろしていた。
「あ、あれっ? 今ので抜けちゃった……?!」
 転んだ拍子に次元の壁を抜けるとは。世の中、何が好転するのかわからない。
 間近の美少女に感動しかけたが、しかし数秒のあいだに現実へと立ち戻った。彼は、この少女に誘いをかけるためにわざわざチャシャ猫の領地にまで足を運んだのである。
 消えかけていた死ぬ気の炎が復活しかけた。綱吉が、決心と共に立ち上がる! が!
「君はとこっとん僕を巻き込むのがお好きなようですね……?!」
「ぎゃあああーーっっ!」
 背後から聞こえたドス声に、盛大に前へと飛び出していた。
「きゃあっ!?」抱きつかれて、少女が肩を竦める。
 すぐに青褪めて綱吉は後退りを――しようとしたが、できなかった。
 骸は、暗い微笑みを浮かべてナイフを光らせていた。その燕尾服が、ちょっとだけ泥にまみれてしまっている。
「僕は私怨じゃ動かないんですが……、面倒なだけですからね。でも君は例外になりそうだ」
「な、なななななめちゃくちゃ十分私怨で動いてるじゃないかっっ」
 抱きついた体が、小さな悲鳴と共にさらに縮まった。
 綱吉もはたと気付く。アリスは、骸の手にしたナイフに気がついて顔面を白くしていた。綱吉の腕にしがみつくようにしながら、幹に背中を押し付ける。
「な、なんなのっ? 一体、あなたは……? それは耳?」
 恐怖に震える声音。骸は、冷めた眼差しを返した。
 瞬間的に、綱吉の背筋に怖気が走った。
「や、やめろ! アリスには――京子には手をださないで!」
 歩み寄る骸を阻んで、綱吉へと歩みでる。
「……面白い」にやり、と、黒ウサギは実にいやなやり方で口角を吊り上げた。
「じゃあ、ここで死んでみなさい」
「ぐふっ!」
 腹に無造作に拳がたたきつけられた。
 一瞬で、綱吉は力の差を体感した。身体を折り曲げながらも、必死に手のひらでアリスの腕を探る。そうして、掴んだとたんに、綱吉は奥歯を噛みしめた。
「なんなんだっ、よーー!!」
「!」
 肩で骸に体当たりをして、相手がよろけた隙に駆け出す!
 きゃっ。低い悲鳴。腕をひかれて走り出しながら、アリスは目を白黒とさせていた。
「い、いったい何なの?」悲鳴のような声だ。綱吉は苦しげに眉根をよせた。
「逃げて! オレが引き止めてるから」
「ど、どうしてあたしを助けてくれるの? ……きみの名前はっ?」
「いいんだ。ううん。オレが、馬鹿だった。違う世界なのに、焦がれちゃいけなかったんだ」
 白い耳が、前のめりになって綱吉の額に差し掛かる。
  アリスはその様子をじっと見詰めた。耳の動きに驚いて、そうしてから、翳りを浮かべた表情に気がついたようにまじまじと綱吉を覗き込む。走りながらの動作で、綱吉は、図らず胸に飛び込んできた少女にドキリとして息を飲み込んだ。
「あ、ありすっ……、京子?!」
 す、と、頬に掠めるものがあった。
 やわらかな感触だ。つむじ風がキスをしたようなもので、数秒のあいだ、綱吉はぽかんとしだらしなく口を開けた。
「ありがとう!」
 アリスは、鮮やかな笑みを浮かべて身を翻した。
 頬を抑えたまま彼女を見送り、綱吉はやはりだらしなく口を開けていた。
 起きたことが信じられない。十秒ほどあとには、カァッと顔面を茹でタコにしていた。今のは。どう解釈しても、好意からくるものなはず。もしかして、
「脈アリ……?」
 うろたえながら、綱吉は自らの言葉に照れるように両手で頬を抑えた。
  耳がピンと立って打ち震えている。――けれども、声は綱吉の胸中の盛り上がりをきれいに読んだようなタイミングで割り入った。
「……へえー。小さな恋の物語ってやつですか……」
 骸が、木の枝にのって双眸を細めていた。

 

つづく2. 

 


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