6927 usagi2

 

 

「ぎゃっ……。ぎゃあああああ!!」
絶叫して踵を返し、しかし、遠ざかっていく少女の背中を見てハッとする。
(そうだ。守るんだ。骸を食い止めないと!)綱吉の双眸が歪む。それは恐怖というよりも畏怖に近い。何に畏怖しているかというと、そうした決意をした自分自身に対してだ。そこまでの勇気がでるウサギではないと感じていたのに。
 厳粛な心境で振り向いて、しかし、綱吉は間を置かずに飛び跳ねていた。
「うきゃああああ!!」
 骸がすぐ背後に立っていた。
 はらはら、木の葉が数枚辺りを舞い落ちる。
「――――っァ?!」鋭い悲鳴がウサギからこぼれた。
 綱吉だ。ダッシュで逃げ出そうとした身体が、中腰になって前のめりになる。ガクガク、膝の震えが全身に及んで、綱吉は耳を垂らしながら脂汗で肌着を湿らせた。
「ど、どこを……ひっ……」
「逃がしませんよ」
 涼しげに告げる声。
 骸の右手が、無造作に綱吉の腰下を握りこんでいた。
 そこには白い綿毛がいる。尻尾だ。ぎゅううっと握りこむように力を込めながら、骸は強引に尾を自分の方へと引き寄せた。
「あぐぅ……っっ」
 冷や汗と脂汗、すべてをいっしょくたにして綱吉が苦悶をあげる。
 急所が握り潰される、切迫した思考はそれだけを叫んでさらなる混乱へと叩き落してしまう。目尻に涙を浮かべて、綱吉は腕を伸ばした。止めさせるべく黒ウサギの襟首へと掴みかかる。
 だが、問答無用で、さらなる握力を加えられた。
「……ァ、あうっ……うう! や、やめろぉっ……」
 少年の身体にしがみ付き、綱吉は懸命に吐き気を堪えた。骸が嘲る。
「手ごろな大きさですね。捻りとってあげましょうか?」
 びくびくと綱吉の腰が震える。恐怖と痛みによるものだ。
 尾をぐるりと捻られて、肉が捩れる感触がダイレクトに伝わってくる。骸が笑みを深めるのを霞みがかった眼差しで見あげつつ、綱吉は涙をこぼした。
「う、うさぎの共食いは重罪……っっ」
「そんな法律が黒ウサギに通用するとでも? 僕らを舐めてもらっちゃ困りますよ」
 ぺろり。舌なめずりをしてみせる骸に、綱吉が低く悲鳴を漏らす。
「もう女王のパーティーには遅刻が決定だ。落とし前をつけてもらうのも悪くありません」
 耳が何度か痙攣を繰り返す。骸が手を離すと、綱吉は、燕尾服の衿を掴んだままで腰を抜かした。
 ぜえはあと呼吸をする。それからしばらくして、ようやく手を離すと、綱吉は尾を隠すようにして両手を後ろに回した。赤くなった両目で強く骸を睨みつける。
「何するんだよ……! これはひどい!」
「逃げようとしたのを止めただけですけど?」
「尾を掴むなッ。千切ろうとするなッ。死ぬッ」
「……別に君が死んだって僕は構いませんが」
 挑発するように、骸は手袋をつけた指先を口に含んで見せた。
 カリ、と、ゆるく噛む。クフフフ。続いた笑い声に、綱吉は後退りをした。今更ながらに、相手が話の通じる相手ではないことを思い出したのだ。退路の確保だ。ヒバリの縄張りに戻るのは気鬱だったが、戻らないと、ここで殺されるかもしれない。
「先ほどの女の子をアリスにするつもりで? クフフフ。アリスにしたところで、恋のお相手にはできませんよ」
「ほ……、放っておいてくれ!」
 二色の瞳が歪む。骸は笑っているように、綱吉には見えた。
「僕らは同じ世界に住んでますが、でも、あまりに見えるものが違うと思いませんか?」
 答えを必要としていない、それがハッキリわかる語り口だ。綱吉は眉間を引き寄せた。退路を――、湖を見つめて、固唾を飲み込む。骸は気にせずに口上をつづけた。
「共食いは確かに終身形だ。でも、別の意味じゃ規制されてませんよ」
(背中を見せるのはダメだな……。今度こそ引き千切られそう……、あっ。想像しただけで痛い!)
「例えば無理に交配しかけたりとか」
(どうやってあそこまで逃げ……)
「そういうことも、食べる、と表現できますね」
 綱吉は思考を止めた。放棄せざるを得なかった。
 至極真面目に、淡々としながら骸は語る。頭の上には静かな二色の瞳、オッドアイがある。
 冷徹な上に極悪非道で、目的のためには手段を選ばず黒ウサギの中でも類をみないほど凶暴で凶悪でタチの悪いウサギだと綱吉でも思うほどの少年だ。ヒバリも凶悪だが、彼は理不尽なだけでまだ会話が通じる。だが、骸にはあまり通じない。
 じり、と、骸と向き合ったままで綱吉は後退していた。足が勝手に動いていた。
「……今、おかしくなかったか?」
 予想通りの反応なのか。
 ふう、と、骸は気鬱にため息を吐いた。横顔が憂いに濡れる。
「僕を負かした君が、いとも簡単に色恋で――それも実りのない色恋に惑わされるのには納得できませんね。教えてあげましょう。特別に」
「はいいいいい?!!」
 先ほどの痛みも忘れて、身を翻そうとしたところで背中を突かれた。
 というか、骸は、蹴ったのだ。派手に頭から地面に突っ込み、綱吉は声もあげられなかった。
「ぶっ……。お、まえ、まさかっ」
 背中を抑えにかかる骸に抗い、綱吉はすぐに上体を起こした。
「まさかまさかまさかまさかまさかーーーーっっ!!」
「僕にクスリは効きませんよ」
 間近で叫ばれて、さすがに嫌気が差したのか骸がうめく。
「じゃあなんなんだこれはーー!!」
 襟首を解こうとする手を掴んで、綱吉が絶叫する。
 骸はとことん涼しげだ。冷徹な光が両眼に宿る。
「瞬間的には効力があったと思いますけど……。でも、持続はしてない。黒ウサギは生まれつきああした蠱惑剤の類は効き辛い」
「…………っっ?!」
 綱吉は目を白黒させた。
 恐らく、ウソはいっていないのだろうが。
『アッ』短く叫んで、顔を真っ赤に染めた少年。
 それが、目の前の黒ウサギと重なったのだ。
『…………こ、んな。バカな。うそだ』
 愕然と呟き、少年は自らの口元を押さえ込んだ。漏れ出る言葉を抑え、そうして思考をも抑え付けようとするかのように。黒耳を縮めて、ぶるぶる震わせながら首まで赤くした彼は、上体を綱吉にもたれかけたままで低く戦慄いた。
『く。くるな。触れるなっ』
 そのときは、まさに死を覚悟した。
 綱吉は突きつけられたナイフの存在も忘れて身体を起こした。
 逃げ込んだ民家は無人だった。医者なのか、薬品臭が漂う部屋を駆け抜けた部屋の小部屋に逃げ込んだ――。数日前の話だ。綱吉は、骸に負われてひたすら逃げ惑っていた。終いには首を鷲掴みにされ、薬品棚に押し付けられた。人質にできないなら。殺して、死体を人質にすると――相手に生死の確認ができないのならば、十二分に人質として勝ちがあると骸は言った――叫んでナイフをかざす。
 死を覚悟した。だが、死がやってくる前に、転がり落ちた小瓶が骸の後頭部を直撃した。
 無色だったが、それは、むわっとくるような甘い香りがした。驚いて、骸が首から手を離す。それから、彼は短く悲鳴をあげて顔を真っ赤に染めた。
『…………っ?!』
 混乱したオッドアイが、綱吉を見つめる。
 そうするだけで見る見る内に腕まで赤くする。綱吉が、あまりの変容振りに絶句しているあいだに、骸は窓を割って逃げ出していた。
『な。なんなの。いったい』
 唖然としてうめく。
 ころころ、目の前に先ほどの小瓶が転がった。
 拾い上げて、再び絶句する。そこにある文字は、極めて低俗なもので、言うなれば惚れ薬に相当する効果を及ぼすものだった。黒ウサギは魔術とか薬品とか、そうしたものに耐性があるので素直に効きはしないだろう――。そう、綱吉もそう思っていたのだ。が。
 まじまじと、戦々恐々と見上げる眼差しに骸が勘付いた。
 不快だといわんばかりに、眉を八の字に変える。
「何ですか……? 先日のこととは関係がないといってるでしょう?」
 言いながら、くらくらとするのか目を細める。
「あんな屈辱、うまれて初めてでした」
「そ、そおですか」
 でも、実はあんまりオレのせいじゃないと思う。
 胸中だけで呟く。骸は、綱吉を憎憎しげに睨みつけた。
「楽にはさせませんよ。アリスのことは諦めなさい。君はここで死よりも辛い目にあうんだ」
(く、黒ウサギがいうと冗談に聞こえないーー!!)
 そもそも、黒ウサギたちが女王に気に入られているのもここに理由がある。彼らは魔術やら秘薬に詳しく、おまけに暗殺技術にも詳しい。おまけにおまけに、家系がいいのか美形ぞろいと来ているのだから王家お抱えのウサギにならないわけがない。
「……お。おれなんか美味しくないよ……?!」
「マズいウマいは関係ありませんね。君だから意味がある。この場合」
「ひいいいっっ?!」
 スゥッと顎を舐められて、鳥肌が立った。
 思考が泥に落ちたように停滞し始める。過度の恐怖が故だ。
(は、はきそう)頭がぐるぐるとし始めていた。綱吉は強く強く両手を握り込んだ。眉根を思い切り顰めながらーー、一応、今まで起きたことを振り返ってみる。リボーンがやたらと恋しく思えて、先ほどは制裁を喰らいそうになったのにチャシャ猫の横顔も脳裏に蘇った。鋭くて黒い瞳をしている――実は、その色が綱吉は気に入っている。少女の背中が最後に思い浮かんだ。喉仏の上を舌が行ったり来たりしている。
(ーーだあああ!! なりゆき!)
 まだ死にたくない。よくわからんが、犯されるのもいやだ!
 その一心で、綱吉は上体を持ち上げた。唐突なことに骸が目を丸くする。下半身は彼が乗っているために動かせない。白ウサギは、必死になって骸の顔を手繰り寄せた。
 慌てるような光がオッドアイに宿る。耳が、ぴーんと伸びて向きを変えた。異変を探るような動きだ。がしっと頬を掴むと、綱吉は夢中で骸に口付けた。
「ん?!」
 くぐもった悲鳴。
 動揺が空気で伝わってくる。
 冷や汗混じりに、ベロと唇を舐める。そこで――口付けてから僅か数秒だ、綱吉は、骸によって引き剥がされていた。黒ウサギは、信じられないように綱吉の顔面を見返し――その唇を目に留めた。瞬間、ボンッと音を立てるほどの勢いで首まで赤くさせる。
「…………!!!」言葉も告げられない様子だった。
 即座に、骸が飛び起きる。逡巡するような、困ったような目で白兎を見下ろす。
 色の薄い唇が、何かを囁いた。こんなばかな。そううめいたように聞こえたが、ぼーっとしてしまって綱吉には何がなんだかわからない。真っ赤になったまま、骸は歯軋りをした。もはや一瞬でもこの場にいたくないというように、跳ぶような素早さで踵を返して逃げていく。
 やはりボーッと見送ってから、綱吉が小さく呻き声をあげた。
「た、助かった……?」(あれ、くすりが残ってるのか?)
 湖畔には綱吉以外の誰もいなかった。よくわからない。よくわからないが。
 また、骸がでてきたときには有効な撃退ができそうだと思えた。代償というか、使うのは、自分の体ということになりそうだが。白ウサギは、複雑そうにため息を吐き出した。

 

おわり

 


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