墓標に赤いめかくし







話 みえない相手







 朝。綱吉は、ベッドに四肢を投げ出したまま呆然としていた。
 起きなさい、叫ぶ奈々に返事をやったばかりで、黒曜第一中学校から帰って一週間が経っていた。寝そべったまま、そろそろと唇を辿っていた。
(苦味。……ちょっとくすんだような、果実っぽさ。柑橘類の)
(もしかしなくてもヒントかな。この香りのするやつが裏切ってる?)
 口付けを交わしたことはなかったから、挿入後の錯乱した頭でも覚えていた。
 数秒のあいだに、鼻腔をくすぐる香りがあったのだ。愕然としたまま窓辺に立ち寄った。窓の下には、獄寺隼人がいた。肩を小刻みに揺らして、綱吉がでてくるのを待っている。
(香水……あるいは、タバコの銘柄?)
 ギイと、ツメがガラスを引っ掻いた。
「リボーン」
「自分で見つける。それがルールだ」
 無感情に言い捨て、リボーンは、着替えを終えた。
(確かに身近だ。身近だけど。身近だけど、……さすがに、これは)
 言い聞かせてパジャマを脱ごうとしたが、指先が震えていて、ボタンを掴めなかった。
 十分の後に、綱吉は食パンだけを胃袋に落として獄寺の前に立った。ニカリとした笑みはなく、獄寺は気ぜわしげに眉を顰めた。
「大丈夫っすか? なんか、今日はより一層顔色が優れてませんけど」
「いや……うん、平気だよ」
 近頃、獄寺は登下校の付き添いを欠かさないのだった。
 睡眠不足と精神的な疲弊とで綱吉がグッタリと青い顔をするからである。さすがに、ずっとついてくるので邪魔だと思わないでもなかったが――。
(でも、オレを心配してくれてるからやってンのかと)
 もし、と、綱吉は続けた。考えただけでも薄ら寒かった。
(どうしてオレが疲れてるのか、理由をわかってるから面倒みてるんだとしたら……。獄寺君はリボーンに逆らわないから、命令されてるンなら……、す、るの? 獄寺君)
「ッチ。また風紀委員の検問か。やたらと多いな」
 校舎が見えてくると、獄寺はうめいて胸ポケットのシガレットケースを内側へと移動させた。綱吉は目尻を戦慄かせ、決心して尋ねてみることにした。
「獄寺君。タバコってさ、香水みたいな匂いとか……する?」
「え?」「いや、しないならいいんだけど」
「モノによっちゃ、しますよ。イタリアではよくフレーバーシガーが売ってました」
「へえ……。獄寺君も、使うの?」
「使いません。味はしっかりしてますけど、匂いがキツいんで」
 ふうん。できる限り気のない返事をしたが、獄寺は不思議そうに綱吉を覗き込んだ。
「吸いたいんですか?」
「いやっ。そ、そーいうわけじゃないけど」
「? じゃあ、なんでですか?」
「あっ?! や、やっぱり吸いたいかも」
 上履きをひっかけ、カカトを踏んづけるようにしながら、獄寺はやはり不思議そうに眉を跳ねさせていた。すこしだけ、唇が尖がっている。
「お体によくないッスよ」
「あ、獄寺君、自分が吸うのにそういうことを言うんだ……」
 肩を落とす綱吉に、獄寺は浅い苦笑を返すだけだった。
 が、教室に入る前にポツリと囁いた。
 訝しがる声色だった。
「十代目、いつの間に跳ね馬に会ったんですか?」
「へっ? ディーノさん?」
「ダメっすよ。ああいう、だめーな大人を見本にしちゃ。そりゃ十代目がタバコを咥えてらっしゃる姿もハードボイルドでお似合いスけど――」
「ちょ、ちょっと待ってよ。どうしてディーノさんがでてくるの?」
 肩掛けカバンがずり落ちた。窓から顔をだしたのは山本で、呑気に声をかけてくる。
 しかし綱吉の耳には入らなかった。キンキンした耳鳴りが聞こえる。
「吸ってるのを見たんスよね? だからいきなりタバコのフレーバーなんて……。そもそも、タバコの煙がダメじゃないっすか」
「あっ。獄寺君、知ってたの?」
「そりゃあ。右腕として当然です」
(って、それなら何で吸いつづけてンだよ)
 思ったが、それよりも疑問を優先した。
「……ディーノさんて、香りつきのタバコ吸うの?」
「たまーにオレンジのフレーバーシガー吸ってますよ」
「――……十代目?」かたい音ともにカバンが床板に落ちた。
 落ちましたよ、と、言われてのろのろと首を下げる。そしてそのまま固まった。双眸を限界まで広げて、この世のものとは思えないほどに――。爪先を凝視していた。
「よっ。おめーら、何で教室はいってこねえの?」
「十代目……?」獄寺が首を伸ばす。
 山本も目をキョトンとさせた。
 顔を見られないよう、しゃがみ込んで、カバンを握りしめた。
「ごめん……。オレ気分悪い。早退する」
「へっ? 十代目、そんならオレも」
「こなくていい! 命令だ!!」
 怒鳴り声で教室中が静まった。山本が開け放したままのドアの奥で、京子も目を丸くしている。廊下を走り抜け、階段をくだりながら綱吉は自らの唇を抑えていた。
(命令……? なに、いってんだこの口は)
 体中が心臓になったように跳ねてて、それなのに手足が冷たかった。
 脳裏で、金髪の青年が白い歯を見せていた。自宅に飛びかえった綱吉に奈々が目を剥いた。押しのけ、二階に駆け上がりながら、叫んでいた。
「リボーン! ディーノさんの連絡先ッ」
「ああ」リボーンは驚かなかった。
 平然と、淡々と、自らの携帯電話を差しだす。胃の中に冷たいものがなだれこんだ。
(どうして……、理由をきかないんだよ?!)三度のコールのあとで、受話器を取り上げる音。ディーノさんっ。喉をつまらせながら呼びかけて、一瞬、何を尋ねていいのかわからなくなって、――とにかく、いちばんに確認したいことを絶叫した。
「今、……いまっ、イタリアですよね?!」
『ツナか? ――ジャッポーネにいるけど?』
 兄弟子は普段と変わらぬ口調で言い切った。
 久しぶりだな、どうした……と、語りかける声が。耳に刺さるようだ。部屋の片隅で、赤子は黙り込んだままハードカバーの一ページをめくっていた。

 

 

つづく

 

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