うさぎの時間が来る2:3


「あの子にイノチをあげてちょうだい。ほんの一滴の露でもいいんだ! ぼくがどうなろうとも構わない! あの子を助けて!」
(うさぎさん?)
 ベッドに横たわりながら子どもはうつらと眼を開ける。
 母の泣き顔があった。子どもの手を両手で握っていて何かを叫んでいる。頭の中でトラックのブレーキ音がこだまする。
(ばいばい、ミミちゃん。さ、ツナもお別れを言うのよ)
 ……ばっ、ばぁいばい……。
(ツナ! 危ないわよ)
 できうる限りのスピードで走ってからハタと思う。車が走り回っている車道にまででてしまった。
(キャー!!)
 少年は眼をまん丸にして、目の前に迫りくるトラックのヘッドライトを見つめた。脳髄まで侵す強い光のホワイトライトが視線を釘付けにする――ライトの一つが、まだ幼い体に激突して、辺りにガラス片と血痕とを飛び散らせた。
「少しだけでもいいんだ。このまま見殺しにするなんてぼくにはできないよォ!!」
 大勢の大人が――白衣を着た大人が自分を見下ろしている。
 呼吸が苦しい。何かの装置を口に嵌めて、くもった空気を吸わされている。これのせいで苦しいのかと思えた。
(いたい……)
 無性に悲しくなって綱吉は涙をこぼした。
 母親が喚くように医者に何かを言う。
「また会いましたね」
 夜を思わせる声が聞こえた。
 眼球を右斜め上に持ちあげる。ベッドのふちに背の高い青年が立っていた。白衣の人間が慌ただしく行き交う中で、平然とパンツポケットに両手を突っこんでいる。超然とした態度で、綱吉には、一目でお医者さんも母さんもこの人が見えていないと理解した。
「赤いお目々の……お兄ちゃん」
 ふと気が付けば、呼吸器も外れていて、綱吉は体を起こす。あたりはまっ暗でベッドと青年しかいない。
「僕にはわかる。こんなに苦しいなら死んでもいいと思ったでしょう?」
「うん。もう歩けなくなるかもしれないんだって」
 言いながら子どもは絶望感に見舞われる。
 青年はまるきり他人事の態度で、それどころか悪戯にからかうように口角に笑みを当てた。
「不幸ですね。死んだら楽になれますよ」
「…………」
 先程、ベッドから見上げた光景が頭に残っている。
 綱吉はもじもじとしながら青年を見上げた。
「でも……お母さんが呼んでるの。行かなくちゃ」
「元の場所に帰りたいんですか」
「うん。かあさんがね、死んだら雲になるって言ってた。だから雲みるたびに悲しいの。オレが雲になったら、母さんはずっと悲しくなっちゃう……もう手々繋ぐこともだめなの」
 じぃ、と、見下ろしていた紅い瞳が、面白がるように奥の瞳孔をくぼませる。
「かわいい子ですねぇ。そうですねえ。君みたいなのがいなくなったら、お母さんは哀しさにあまりに気が狂うでしょうねえ」
「戻らなくちゃ」
 言いながら、ベッドから置きようとすると、青年が子どもの右腕を掴んだ。
「悲鳴は絶えることなくつづく。頭の中の声はやたらにしぶとく君の救済を訴える。アジアでは言霊という呪力があると聞きますが、ミミに力を与えたのは君達親子でしょう?」
「お兄ちゃん? 眼が光ってる」
 綱吉の眼差しは、紅く光る青年の両眼からそらすことができない。
「直に消えるとはいえ腹立たしいものは腹立たしい。ね。僕は君の名前すら知らないんですけど、そんなにあの子にとっていい飼い主だったんですか」
「……なにするの?」
 戸惑った声には怯えが混じる。顔が近づいてくるのだ。
 青年はオッドアイを細くして子どもの後頭部を撫でた。怖くない、と、教える手つきではあったが、子どもの頭が手のひらに収まるとわかると彼は嬉しげに笑みを深める。
「…………」
 軽く唇を重ね合わせられた瞬間、熱いお湯に全身を放り投げられたかのような衝撃が走った。喉が渇いてもいないのにげほげほと噎せ返るような刺激だった。
「!!!」
 汗でびっしょりになって子どもが両目を見開かせる。
「ツナ!!」
 母親も医者も看護婦も、わっと歓声をあげた。


 自分のものより少し大きな手のひらが、あごを掴んでいる。骸の親指があごの骨に当たっていてゾワリとする。
「……っン……」
 後ろ手をつけば、のし掛かってくるので、綱吉は骸に組み伏せられる恰好になる。それがわかると肘を絶対に曲げちゃだめだと意識が湧いて肌が粟立つ。
 キスの衝撃を何十倍も上回る破壊力がある。
 骸の舌が潜りこんですぐだった。
 ぢゅるっ。ずっ。咥内が丸ごと吸引される気がした――
(のッ……んでる)
 なにを? 唾液が吸い上げられていく。
 理解した途端に、綱吉は飛びあがるほどに恐怖して手足をよじらせた。
「むふー!! むー!!! むちゅっ、あ!」
「――――」
 ごく……、と、のどを鳴らすと骸は角度を変えて口づける。
 冷静に薄く開いた黒い瞳を見つめて、綱吉は、目尻に涙を浮かべたまま首をふる。母親にミルクをねだる子どもが、チュウチュウと吸い付いたふくらみに催促するように骸は何度か綱吉の舌を吸った。
「むう……げっ、げほっ!!」
「……」
 喉をまたごくりと言わせて骸は妙な顔をする。
「何すんだ?!!」
 綱吉は妙な顔どころじゃない。半泣きで真っ青で驚きとショックに打ちひしがれている。口元を手の甲で拭うと、ベッドを離れようとした――が、腰に力が入らずに愕然とする。
(?! え? 気持ちよかったのオレ?!)
 思わず危ぶんだが、そうではないようだった。腰が砕けているのは何か――気持ちがよかったからとかでなく――まるで今のキスで体力を奪われたような感じだった。
「むくろ……?!」
 ベッドに手をつき、肘をふるわせながら、綱吉は困惑を強めて尋ねる。
 心臓がどくどくと脈打ちする。頭の真ん中、額の真上が酷く痛んだ。昔、大怪我した場所だ――奈々が言うにはトラックと正面衝突した部位だという。助かったのが奇蹟だという大事故だったそうだ。
「骸」
 もはや綱吉の声に非難はなかった。
 懇願がにじんでいた。無表情に、淡々と見下ろしてくる眼球は黒いだけで全てを呑込んでしまいそうだ。軽口を叩くこともなく弁明もせずに骸は静かに綱吉を見る。気味の悪さで呼びかける声が掠れる。
「なにか言えよ! おま……オレをこーゆう風にみてたのか?」
 手を伸ばしたその時、本格的な目眩に襲われた。
 ぐらりと体ごとかしぐ綱吉を骸の腕が支える。
「君にあげたものを少しだけ返してもらいました。ちょっとね、キますよ」
「う……ぐ……」
 苦悶に骸は笑みを返す。
「君をとても大事にしていたウサギさんは雲になってお空に昇りました。雲は雨になって大地に落ちていく」
「…………骸?」
「妖精はね、信じるものがいなければ死んでしまう。君は何を信じたんでしたか。空にあがって雲になったミミを信じたのは? 君はその時に力の大部分を使い尽くしてはいるようですが」
「なんで……お前がミミを知って……る……?」
「夢だからですよ。これが全て、君の夢だからです」
 力強く即答されて、綱吉は、霞始めた視界を大きく見開かせる。ドキドキして全身が脈打っている。
「そう……なんだ」
 この頃、妙な夢ばかりを見ていたので、ありえる話だと思った。それにあの骸がキスしてきて妙なことをしてきた。多分、夢だ。
「そうですよ」
 言いながら骸は綱吉の右手を取る。
 中指のツメ先をかじるように、口に咥えながら味わうような表情を見せた。
「悪夢のひとつです。昔から妙な夢をたくさん見たでしょう? これもその一つ」
「妙な夢……、うん。小さいオレのそばに、おおきなウサギがいて、オレにいのちをあげるって言うんだ」
 微かに震えだした背中を撫でて、骸は、微笑を浮かべる。
「夢から目覚めてしまえばすべて忘れますよ」

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