うさぎの時間が来る2:2


 



 その夜の眠りはいつになく深く自らの意志ではまぶたをピクリとも動かせなかった。朝日を感じる。目覚まし時計が鳴る前に、珍しく睡眠中の自分自身を意識することができたのだが、これでは焦燥感が募るばかりでどうにもならない。
 綱吉の意識は覚醒と睡眠との間を浮き沈みする。
(ミミ。母さん)
 幼い少年が――、小学校一年生のオレだ、と、綱吉は思う。
 黄色い学生帽をかぶって、彼は、幼稚園に張り巡らされた鉄柵越しにうさぎの厩舎を眺めていた。
 鉄柵を掴んだ丸っこい手のひらは震えている。子どもは眼に涙をためて悲しげに喉をヒクヒクとさせる。
「お母さん、動物さんは死んだらどこに行くの?」
「遠い小山の向こうよ、ツナ」
 彼女は瞳の奥をにじませて空を見つめる。
「小山は、空の上にあるの。だからわたしもツナも行けないわ。でもミミちゃんはたまに雲になって観ていてくれるの。寂しいけど、我慢しましょう。ツナ」
 母の言葉を聞きながら眼を拭う。
 離れようとしない息子を見かねて、母親は自らも金網に手をかけた。眼を閉じて、小さく語りかける。
「ばいばい、ミミちゃん。さ、ツナもお別れを言うのよ」
「……ばっ、ばぁいばい……」
 苦しげに裏声をひねりだすと、綱吉は、さっと身を翻して車道へと駆けていった。
「ツナ! 危ないわよ」
 慌てて追いかけていく母親の背中を見つめながらハタと思う。どうして、自分は、過去の姿を眺めているのだろう。こんなところであの子は何をしていたのか?
(ミミは、オレが小学校に進学してすぐに死んじゃった。母さんがペットはいやだって言うのはきっとミミのことがあるから)
 己のふちに留まる記憶を重ねて思い出していく。
 突然、赤い眼をした青年が脳裏に浮かびあがった。赤いのは片側だけでもう片側は蒼い。
(アレ? あの変な男は両方とも青かったのに――)
 よく似た男だけど、これは誰だろう?
 長く伸びた身長に見合った大きい手のひらに大きい足、肌にぴったり吸着するような黒衣をまとってブーツを黒光させている。現実味が欠けた驚くほど長い髪をしているが、しなやかに伸びた黒髪は、黒曜石のように光るから美しい。動物のしっぽみたいに彼の足の間から覗いている。
「今のままじゃ君はエサとしてしか認識されないんですよ」
 首を伸ばして青年が物憂げにうめく。
「あれは化け物なんです。十年ほど前、はじめてこの国にやってきて、標的とするエサを決めたんです。育っていくのを眺めているんです。それは彼が生き延びるための観察行為でもあった」
(ん?)
 一方的に耳を傾けていたが、ここにきて口を挟んだ。
「もしかしてオレに話しかけてるの?」
「君は無意識レベルで彼を引き寄せているんだ」
「彼って誰のことだ?」
 青年が青く染まった眼球を持ちあげる。熱っぽく見つめられて綱吉は図らずもドキンと心臓を伸縮させる。ときめきとかいう甘いものではなく驚きと驚嘆に似ている。きれいな瞳をしているものだ。
「彼は僕の混じったもので、僕は彼の混じったものです」
 頭を左に傾げて、青年は悲しげに呟いた。
「僕は、」
 魂の苦悶が声音に表われる。枯らした音色が低く綱吉の脳にひびく。
「君を食べたくない……」
 ともすれば泣いているとも思える喋りように、眼を丸くしたままで、綱吉は体を硬直させる。
 ハッとした。肉体がブレた衝撃の後に、毛布を両手で掴んで体を起こす。眼を見開かせると、白い朝日が飛び込んで瞳孔を焼いた。
「ウワァッ!」
 悲鳴をあげて眼を庇い、綱吉は自分の心拍に耳を澄ます。
 パジャマが湿るのを感じた。
 誰が何を食べると言ったか、夢にしても気味の悪い話である。


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