空孵


7.
 片腕に発射の衝撃はあった。確かに。
 たたらを踏んだ。体当たりをされた。誰かの両腕が、自分の腕を掴んで、からだから引き離そうとしている。
「あ、あんた……、しっ、信じらんない!」
 硝煙の香りが鼻腔を嬲る。彼は、茶色い瞳を見開いて、泣きだしそうなほどに相貌を歪めていた。そうしながら、握りしめた骸の前腕にさらなる力をこめた。
「何も……。こんな。何なんだアンタは」
「つなよし……くん」
 オッドアイを縮こまらせながら、骸は拳銃を足元へ落とした。
「そんなこと思わなくたって」混乱したように綱吉がうめく。
 堰を切ったように目尻に涙を溢れさせた。両腕をわななかせながら、二度、三度と自らの頭を振る。寝巻きのような服で、半そでの黒いシャツが日の光を反射する。信じられないように綱吉を見下ろしたまま骸は動けずにいた。
「最後なんだぞ?! そんな、そんなのっ。何も、最後に思わなくたっていいじゃないか!!」
「……綱吉くん」激昂した叫び声が、耳を通り抜けて心臓にひびく。
 どうして君が、とか、どうしてここに、とか。そんなことは、全てどうでもよく思えて骸は途方にくれていた。彼の言葉のはずなのに、初めて聞いたもののようでわからなくなる。考えることなんて、意味を求めることなんてできない。指が震える。冷めていた体が、一気に熱を抱くようで苦しい。
 両腕が独りでに動きだしていた。
「いきて、る」
 抱きすくめると、綱吉が大きく震えた。
「や、やめて。離せよ」
「……生きてる」繰り返す、それだけで額の真ん中が熱くなる。
 また、涙がこぼれた。両腕の中にあるものが暖かい。息をして喋っている。
 それだけのことが、何か、祝福めいていて熱いものが込み上げる。自分がそれに値する人間でないのはよくわかっていたが、それでも、骸は耐えることができずに両腕に力をこめていた。その、祝福を手放したら、本当に最後になると思えた。
「綱吉くん。生きてる……。いきてる」
 力が抜ける。がくりと、膝をつくと、引き摺られるかたちになって綱吉も膝を折った。嘆くような溜め息がヒュッと彼の喉をついた。
 わからなかった。憎らしいのに。愛しいのに。
 力を失い、脱力した痩身を掻き抱きながら、けれど骸は目の前が霞んでいく。涙が、黒のシャツを湿らせる。自分も脱力して、力が思うように入らないのに、彼が生きているのに、腕には渾身の力をこめているのに。
 唇が震える。奥歯を噛みしめていた。
「マフィアなんて」反転する。世界が揺らぐ。
 築いたものすべてを失う。わかっている。彼も、自分も。もとから、築いたもののほとんどは自己を繕うためのもので、彼への想いを歪ませるもので、憎しみを基盤にしたもので。けれどもそれがないと自分は自分でいられなくて。
 涙がでる。ようやく、骸は泣いていると自覚していた。
「マフィアなんて、やめてください……」
 強く、さらに強く。腕に力を込める。
 怯えたように、腕の中の体が戦慄いた。だからといって離せるわけもなかった。驚いたような、怯えたような沈黙。泣き声がした。
「やめて……?」たった、一言。綱吉が疑問の声をだす。それで、骸の呼吸がつまる。
 沈黙が落ちた。綱吉の呼吸も止まっているようだったが。
「やめる」疲労と疲弊をない交ぜにしたような言い方で返ってきた。
「やめるよ。それでいいんだろ」熱に浮かされたような、声。虚ろな瞳の下を光ったものが流れていく。わずかに体を離して、骸は綱吉を見下ろした。
「…………」(泣きたい)
 大声をあげて。
 殺したかった。その目に、自分以外の何者も映らないように。
 永遠に、隣にいてほしかった。自分に笑いかけられないなら、自分に向けて、泣き叫んでいればいいと思った。苛立ちを覚えることが多かった。大好きだった。疲れたように、諦めたように、苛まれたように体を預けてくる彼が。愛しくて、涙が。
 ぼくも。言葉にしたはずが、喉が、動かない。
 何も見えなくなりそうになる。何も感じなくなりそうになる。死にそうになる。死にたいくらいになる。死にたくなる。光に見えた。光るものに見えた。知りたいと思ったし、知ってほしいと思った。そんなことは初めてだった。殺したかった。愛しかった。でも、もう、
「守るから……」彼がいれば、彼がいるなら、ここにいるなら。
「僕もやめるから。全部」
 言葉にしきれないものが胸で大きくなっていく。熱くて、背骨を伝って脳髄まで響いて何かを喚き散らしている。骸の言葉に、驚いたように綱吉が顔をあげる。頷き返した。
「守りますから」声が震える。
「……守りますから」視界がかすむ。白くなる。
 青空が、青いはずなのに白く見える。茶色い瞳には、不思議と色が残っていた。白光を揺らして、震わせて、恐れるようにわなないて骸を見上げる。後悔に似た色がある。
「シャマルに頼んだ。死体を……、オレの複製を。わかるか」
「…………」ゆるりと、背中を撫でた。縋り付く、その体温に触れれば何も考えなくていい気がした。頭が真っ白になる。彼も、そうなればよかった。その思いで頬を寄せたが、伝わったかどうかは骸にもわからなかった。
(天命)頭上に、高く伸びた空がある。
 空の向こうに星がある。白いものも、赤いものも。
(知らない……。そんなもの)
 右目が痛い。暴れるように、内側から全身を噛もうとしている。それでも、もう、それで死んでも構わないと思えた。この腕にあるものだけで、全部、こと足りるように思えた。
「好きにすればいいよ。骸の、好きにしていいよ」
 堪えるような声。抱きしめた体が小さい。肩も背中も、全身を震わせている。
 背中に重みが加わっていた。嘆くように、綱吉が骸にすがり付いて抱きしめ返していた。濡れたオッドアイを細くさせる。小さく呟いた。
「一緒に逃げてください。どこかに」
 血管のなかで、血が滲みだした気がした。
 心臓に穴があく。その痛みで気が逸れて、右目の痛みが気にならない。
 声が。喉が痛んで、視界がブレる。綱吉の両腕に力がこもる。骸を引き止めるような、宥めるような意思があった。白くなる。頭の中が。
 指先から砂に変わるような心地がした。ばらばらに砕けて、体も何もなくなったみたいなのに、胸の熱さだけは残ってしこりになる。焼印のようにこびりついている。魂、そのものに。
「…………」涙が顎まで落ちていく。
 奪うようなキスでも、綱吉は黙って受け入れた。
 口唇は冷え切っているのに、熱い。胸が。まるで溶けあえるような気になる。
 その左目を選んで唇をつけた。骸が与えた傷が、目に見えて残る個所。互いに幾筋もの涙で頬を濡らしていた。全身から力が抜ける。
 屋上は寒い。外の世界が寒い。骸は薄目で綱吉を見つめた。
 彼も、見つめている。天上に広がる空。その青さが、互いの瞳に映っていた。

 

 

おわり






 

06/10/9 完結

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