空孵


6.
「え?」
 言われたことの意味がわからず、純粋に聞き返していた。
 清々とした日差しが差し込む。まだ午前中だ。もう少しで午後に変わる。
 机に本を積み上げ、骸はその内の一冊を広げていた。そこよりも数歩下がった、光の当たらない陰の場所に佇みながら、千種は下唇を噛んだ。頷く。
「…………ええ?」
 いくぶん、否定の声音を含んで骸が聞き返した。
 理解できない、というように首を傾げる。千種の隣で、犬が両目を大きく震わせていた。片耳にイヤホンを差している。切羽詰まったように、だが、静かに千種は繰り返した。
「死にました」
「誰が」
「沢田綱吉。ボンゴレ十代目がです」
「…………なんで」
「自害です」
 右の赤目と左の青目。
 それを丸々とさせて、骸は千種を見返した。
 まったく感情めいたものが見えない、透明で、透明なだけの眼差しだ。骸は推し量るような声をだした。
「……自害……?」
 本拠地にしたアパートには、いくつか部屋を借りている。
 静かに辺りを確認した。本。と。銃器類。日常的に使うものをひとまとめにしてある。数日前、脇腹を刺されたので、手当てに使った包帯が血をつけたまま隅に転がっていた。ざっと見て回って、千種に戻る。
 先ほどと同じで沈痛な面持ちをしていた。蚊のなくような声で囁いた。
「自害って、自殺でしょう? そんなことが……」
「寝室で自分の頭を撃った模様です」
 白いシャツが陽光を反射して眩しかった。下肢を包んだ黒い布地と黒いブーツは、その眩しさを殺していた。それが、何か、自らを繋いだ綱のようだった。現実感が薄く感じられた。
「確かなんですか。罠の可能性は」
「……今、ボンゴレファミリーのようでも大変みたいれす」
 呟いたのは、犬だ。自らの片耳に嵌めていたイヤホンを、骸へと渡す。
 静かに、彼は自らの耳に金属を押し当てた。
 慟哭。罵倒。怒号。かすかな、銃声。
(これは、たしか、綱吉くんの携帯電話にしこんだやつ……)
(寝室……、か。場所は)
 ボンゴレ十代目の右腕がいる。
 彼が、何かを喚き散らしていた――、十代目っ、何でなんですか! 続くのは、嗚咽で、言葉にすらなっていない戦慄きだった。
(何で……?)ふつ、と、沸くものがある。何かわからない。だけれど、何故、何故そんなことをするのか、と、問うのはおかしい気がした。問われれば骸には多量に思い当たるものがあった。彼を追いつめるように、……追いつめるつもりで、追いつめてきたのだ。ずっと。
 コトリ。落ち着いた動きで、イヤホンを机に置いた。
 僅かに、何事かをうめくように唇が開いた。開いたが、何を語ろうとしたのかは骸にもわからなかった。自らの右腕を衝動的に掴みあげる。肌が引き攣るくらいに握りしめて、骸は何度か口唇をぱくぱくとさせた。千種が、怯えたように声を尖らせた。
「骸さま?」
「……わかりました」
「骸さま。大丈夫ですか。オレら、これから」
「追いかけないと」「え?」
 無表情のままで千種を見上げ、骸は淡々と呟いた。
「すぐに。綱吉くんが。逝ってしまう」
 無表情に近い瞳。まったく顔の筋肉を動かさず、死人のように全身を硬直させた中で唇だけが喋っていた。
「綱吉くんが死んでしまいました。ダメなんです。彼を死なすのは僕でないとダメなんです」
 感情のない瞳。日差しの中で、きらりと光るものがある。
「ゆるしがた、い」目尻に浮かんだそれは、顎まで静かに伝わっていく。 顎から落ちて、シャツに灰色のシミを作った。だくだくと止め処なく流れた。次々にシャツを湿らせた。
「僕の、愛の深さを知る前に彼が逝ってしまう……など」
 言葉を区切ったまま、しかし、それ以上は喉を動かせず骸は沈黙した。
 無表情のままで、涙を流しつづける姿。千種と犬は互いの顔を見合わせた。静かに、語りかけたのは千種だった。犬の手を励ますように握りしめた。
「骸さま。おれたちがあなたを愛してます」
 呆然と壁を見つめたまま、骸は動かなかった。
「そうですか」オッドアイのふちを光らせたまま、虚空を眺めている。
 犬が自らの鼻頭を強くぬぐう。二人は、そろって腰を折った。
「……いってらっしゃいませ」短い敬礼だった。呆然と壁をみるだけで、骸がそれを見ているのかどうかも怪しかったが、それでも二人は部屋をでていった。千種は拳を硬く握りしめた。
 イヤホンが何かの音をたてている。キンキンとした音。拳で潰す気にもならず、数十分の後に骸も部屋を後にした。貧民街にある安アパートだ。屋上にはフェンスすらもなく、剥き出しのコンクリートの上に、申し訳程度にマットが敷かれている。
 屋上の上には青空が広がっていた。
 空は、きれいな青色をしていた。水色に白を混ぜ合わせたくらいの、淡い、けれど濃い色をしたブルー。そうした色合いは人間の手で再現をするのは難しい。透明なようで、青くて、青くて、どこを見ても一様に同じ色をしている。冬のなかばとあって寒寒しい色でもあった。イギリスの方の上空にはまだらな雲が伸びている。
「…………」風が吹き付けて、髪を撫でた。
 両目がしなる。一面の青が、目の毒に思えて僅かに視線を下げた。
 青。目を閉じた。
 何度か、共に空を見上げたことがあった。
 回数を数えたことはない。けれど、三回か、四回くらいになるはずだ。一度目は星を見た。二度目も星を見た。三度目は、朝焼けの前の僅かな時間に共にいた。
 骸が声をかければ返事をしたし、見つめれば見つめ返したし、たまには笑いもした。三度目のときは憎らしげに、それでも自分だけを真っ直ぐに据えて強く眼差しを返してきた。あの茶色い瞳に、星が映って、空が映って、自分が映る。それで満足していた。そのまま、時間が止まっていれば本当に満足していたと骸は思う。
 わずかな金属音が鼓膜を震わせる。
 懐から取り出したものは、長年、愛用したものだ。
 薬莢を装填しなおした。望む効果が得られず弾丸は、憑依弾ではない。変哲のない、ふつうの。詰め終えると、骸は引鉄に指を置いた。
 風に晒され、ぶたれても、頬の涙が乾いた気がしなかった。
 青空。それを再び見上げてから、目を閉じた。もはや、何を見ても意味はない。彼だけ。彼だけが、目蓋の上に浮かんだ。後は黒い。どろどろとしていて、頭痛を起こすほどにモヤがかっていてハッキリしなくて、骸は恐怖を起こしながら銃口をこめかみに押し当てた。心臓が壊れたような気がした。もう、とっくに壊れていたけれど。それでも、まだ、生きていられる気はしたのに。
 死んだなんて。そんなのは、反則だと脳裏のどこかで嘆く声が。
 心臓に穴が空いたようで、そこから血が洩れたようで、体に力が入らなくなる。
 押しつぶされるようだ。空に。怨めしくなってくる。世界が。幼い頃、自分の傍にいた大人たちが。リボーンが。沢田綱吉が。それでも、本当には最も恨みがましく思っているもののが何であるかは骸もわかっていた。
 今、それに銃口を突きつけている。
 もっと。もっと、何も考えず、何も感じず、何も憎まず、何も愛さない、そんな、――そんな、人間らしさが一切ないものに。人間でないものでいたかった。人は嫌いだ、
「……生まれてこなければよかった」
 薄く、呟いて、引鉄を引いた。
 ぱあんっと弾ける。青空。彼の姿。もう、ぜんぶ感じなくなるなら、それでもいい気はしていた。



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