空孵
4.
(骸は……、あれは、どうにかならないのか)
彼を見る。その度に、ぐちゃぐちゃとしたもので何も考えられなくなる。
軽いときは数秒で済むが、酷いときは数分も続いて身動きが出来なくなる。
(どうにか……。どうにか、できるのかな、オレに)
左手から血の気が失せていた。身体にシーツを巻きつけたまま、眠りについてからどれくらいの時間が経ったか綱吉にはわからなかった。
人払いはした。午前中は、誰も自分の部屋に近づかないようにさせた。首を横向かせて、綱吉はゆっくりと左腕を持ち上げる。赤いものが、流々と指先まで滴っていた。
「っつぅ……」昨晩からこの調子だ。
夜更けに訪れた彼が、そうした行為に及ぶのは予想がついていた。だが、今回は嬲るような児戯の果てに本当に刺された。
上半身を起こせば、激痛が背骨を焼いた。
「ぐ……!」骨と筋肉のあいだを狙ったようなきれいな刺し傷だ。並みの腕では、こうはできない。シーツを破り、巻き付けて、綱吉はシャワー室へと自分の身体を引き摺っていった。
手早く身支度を整えて、時計を見れば、まだ朝の七時だ。
部下が部屋にくるまでには時間がある。スポースウェアのジャケットを――今日のは、赤と白のストライプだ――羽織ると、窓を向いた。
ボンゴレの個人邸宅は街から離れたところに建っている。地下鉄に乗るまでには一時間。まだ、時間はある。体に無理をさせれば出かけられなくはない。
(あの場に骸がきた。情報が洩れてるんだ)
髪をいつもよりクシャクシャにして、ヘアスプレーを吹きかけた。
簡単な処置だったが、何時間か保てればよかった。鏡を見れば黒髪のボンゴレ十代目がいる。
(誰か内通してるか、憑依されてるか、それか盗聴器でも仕掛けられたか……。でも、昨日ので思い出した)
鏡の少年に、サングラスを被せてみる。上出来な組み合わせだ。パッと見にはボンゴレであるとは気付かれないだろう。ポシェットを腰につけて、綱吉は窓枠に足をかけた。左腕が卒倒しそうなほどに熱を持ち、腰ががくがくと小刻みに震えていたが、構って足を止める気になれなかった。
今しか、ない。自分が誰のものだか、誰に生かされているかを思い知らせてあげよう――、そんなことを言いながら、彼は、楔を埋め込ませたままでナイフを突きたてた。熱くて痛かった。失神しかけながら、死に物狂いで息をしていた。その熱が、まだ脳裏に残っているようで、燻りながら綱吉をせかしていた。
脱走をするなんて、リボーンが健在ならば無理だ。だが、彼は今、病室で横になっている。
綱吉は、街並みの向こうに浮かんだ太陽を睨みつけた。
(犬――ケンを見たんだ。あそこの通りで)
仕事に追われて、すっかりと忘れていた。
一ヶ月も前になる。ヴァレッティが弟をなくし、有力マフィアの一人であったマヤが死んだ。
太陽が高いところに昇る。黒髪の彼は、軽装のままでうらぶれた通りの真ん中に立っていた。もう一つ向こうが、マヤが居住としていたマンションがある通りだ。
数人の子供が石畳にチョークを滑らして遊んでいる。たまに、婦人や老婆が道を行く。
長閑な場所だ。長年――二年と半年ほど。いくつかの修羅場をくぐり抜けた。わかったことは、こうしたときには、自分に備わっているという超直感が役にたつということだ。
散歩だと自らに言い聞かせて、両足を遊ばせる。赴くままに歩いた。
子供たちは、唐突に現れた少年に驚いて目を丸くした。今ほど、気配を完全に消せたことはないように綱吉自身も感じていた。火がついたように左腕が痛んでいたが、それが強くなるたび、却って意識はクリアになっていく。
ポシェットの中には、銃を詰めた。薬莢も。
(殺す……。殺すつもりで、オレ、ここにいるのかな)
一軒の、縦に細長いアパートの前に立っていた。
木製の造りで、老朽化が進んでいる。日本だったらちょっとした縦揺れで崩れてしまいそうだ。
「…………」 (殺す。オレが殺さなくちゃならない)
昨日。今から二十四時間くらい前。隼人の行動は速かった。血だらけのリボーンを見ると、即座に抱き上げて外へと運び出した。綱吉は泣きながらディーノに連絡を取った。
(でも、)
君は僕には勝てませんよ、と、骸は言った。
その理由が、綱吉が本質的に自分を恐がっているからだと。
視界が縮む。全身を包む脱力感の果てに、咽ぶほどの慟哭が待っている。認めたくはなかった。拳を硬くしていた。――あの瞬間、昨日。たしかに、骸に逆らうことはできなかった。
アジトを特定してどうするつもりなんだろう?
自らに問いながら、アパートへと足を踏み入れた。ネズミが五十匹は同居してるに違いない、四隅にフンがたまっていた。どこからか人の話し声がする。生活臭のする、貧しげな居住だ。
(隼人に電話するとか……、リボーンに相談……。でも、へたなことして刺激するのもどうかな)
取り留めなく考えて、階段を昇る。いけるところまで行ってみる気になっていた。
(でも、ここにいるとわかっただけでも。打つ手はあるはずだ)
固唾を飲み込む。隅の、一室の前で足を止めていた。
302号室。中から、ドタバタと足音がした。
「ちょっ。柿ピー! ひっでぇじゃん! 遊ぶくらいしてやれ!」
息を呑んだ。その次に聞こえた穏やかな声が、誰のものだかすぐにわからなかった。
「へえ。それはそれは。チェノーは偉いですねえ。うん」
「骸さあん! そいつだけじゃなくて他のも構ってやってくらはいよ! あて、ててっ。バカヤロー! オモチャの尻尾じゃないんだぜ?!」
「チェノーはかわいいですねえ」
誰かが転んだ。どっと子供たちが笑い声をあげる。
「お兄ちゃん面白ーい。ねえ、前のは? アタシ、ゴリラ好き!」
ギャアア! ひときわに大きな悲鳴で扉がブルブルと振動した。恐る恐ると、綱吉は耳を近づけた。冷や汗が浮かんでいる。不思議と、彼だけの声が耳に届いた。
「ああ……。いいですけど、やるのは今度にしましょーね。僕は眠いんですよ。あまり寝てなくて。ああ、そりゃ、とっても良い事があったから。覚えてますか? チェノーはある人に少し似てる……。目が。そうそう、ボスですよ。そのボスと遊んでました」
彼がこんな発声もできるとは意外で、息を呑むほど意外に思えて、綱吉は硬直していた。
「え? ああ、大人の遊びですよ。君は気にしなくていい」
からかうように、含みを帯びる。
あ、と、綱吉は胸中で呻いた。こうした声を聞くのは、初めてじゃない……。六道骸を我が家へ招き入れて、一緒に生活をして、しばらく経ったころは、彼はこんな声で自分に語りかけていた。
「はぁ。そうですか。でも、そればっかりは。僕がそうやって遊ぶのは……語弊がありますが。本当に僕がそうやって、楽しめるのはボスだけなんですよ。彼以外ではもう悦くならなくてね」
軽く、溜め息が続く。トタ。思ったよりも、近いところで足音がした。
「それじゃあ。犬、後は任せましたから」
(やばい)踵を返しかけて、しかし、肩越しに振り向いた。また、信じられない思いがした。
「大事なコマの一つなんですからね。機嫌を損ねないように」
当たり前のように骸が告げていた。トタトタとした音が大きくなる。
「…………」思わず、左腕を庇っていた。階段の下に逃げ、息を押し殺す。
扉が開く音。足音はさらなる上階に向かっていく。
今なら。今なら、不意打ちができる。けれど。綱吉は強く眉根をすり寄せた。
じくじくとしたものが、肌に吸い付くようだ。ポシェットを押さえたまま、動くことができない。脂汗が滲みでて、何もしていないのに、ハッ、ハッ、と、呼吸が小刻みになっていった。途中から、綱吉は息を止めていた。骸ならば、僅かな空気の流れにも気がつくように思えて手足が怯えていた。
迷いのない、しっかりした足音が止まる。パタンと扉が閉まる音が続いた。
その少し前から、綱吉は、膝のあいだに自らの頭を押し付けていた。ビッショリと背中が濡れている。とたんとたん、ネズミが壁の向こうを駆け抜けていく。それに触発されたように、顔をあげた。目を見開いたまま、愕然と自らの足元を見つめた。
(……オレじゃ骸を殺せない)
こめかみが焼けるような熱を持つ。
自らの胸を辿っていた。そこには、何もない。肌と肉と骨の下に心臓があるだけ。リボーン、と、呼びかけていた。一ヶ月は入院させたいと医者が言った。
(時間がないのに。アイツが動く前に。隼人。山本。ヒバリさん。お兄さん。みんな)
脈打つ速度が、だんだんと速くなる。昔は違ったように思うけれど、本当は、死んでから後悔するのでは遅いのだ。皆が死んでからでは遅いのだ。激しい情動じみたものが込み上げてくる。あの人は綱吉にはよくわからない。昨日の今日で、あんな、穏やかな声をよくだせるものだと思う。
全身で呼吸をしながら、階段の上を見つめた。そこに骸がいる。
(しっかり。しないと――。結局、骸がずっと追ってるのはオレなんだから。アイツがオレを愛してるっていうから、だから、アイツに何かできるのはオレだけなんだから!)
脳裏に、星空が蘇るような気がした。
見上げていたあの頃に、戻れるわけはないと知っている。無数の星が瞬く中で、赤いものを指して彼は名前を教えてくれた。彼の右目のように赤く染まった星の名前。
忘れようと、心がけていたが、まだ綱吉は覚えている。
「皮肉な話じゃないかよ」
何が? 自分で問いかけながら、目を閉じた。
わかっている。自分は。骸には勝てない。でも骸を殺したい。
「わかってるよ、」途中で途切れて、言葉がでない。
どんなやり方であれ、それに形を与えるのに戸惑う。
彼を否定しながら肯定しているようで、それはリボーンたちに対して背徳の意味を与えるようで恐ろしい。けれど、だから、自分は骸に勝てないのだ。閉じた目蓋を微かに震わせた。
「…………」薄く、開く。
睫毛に涙のような粒が乗っていた。無性に恐ろしい。鳥肌が生えていた。彼に関することは、全てこんがらがってぐちゃぐちゃとしていて、呼び方にすら頭を抱える。そのくせ、激しいので、全身が熱くなったり冷たくなったりする。左腕が燃えるように熱くて、いたい。
(骸のことだけ考えれば始末の方法がわかるのかも)
(しれ、ない)(それをやるのは)
(――オレの、天命なのかもしれない)
覚悟を決めろと、イタリアに渡る直前にリボーンが繰り返して言っていた。小刻みに、胸を刺す。曇りガラスから差し込んだ光が髪の毛をちりちりと焦がそうとする。
(覚悟。天命ってなんだろう? 骸さん。リボーン)
綱吉は、頷いていた。懐で、ぶるぶると震えだしたものがある。
黒いボディの携帯電話。受話器から、戸惑ったように叫ぶ声がした。
『十代目?! どこにいるんですか!』
「隼人。抜け出してごめんな。今、そっちに戻る」
『……辛いんですか?!』思い切ったように、尋ねてくる声。首で頷き、しかし、口は否定した。
「大丈夫だよ。ヴァレッティの葬儀だもんね。ちゃんと、喪服に着替えてから行く」
扉のガラス戸に、黒く染まった頭髪が映った。