後日談(企画)
『零に触れる』
1.
英語の伝わらない国もたくさんあったりする。
「あー、えーと、ツナヨシ。ツ・ナ・ヨ・シ」
冷や汗を浮かべつつ、綱吉は自らを指差した。伸ばした襟足はゴムで束ね、すらっとしたコートに身を包んでいた。似合わないイエローサングラスは変装のためにつけている。
田舎町の物資配給を一手に担うような大型スーパーだった。
小さな詰所で、従業員と向かい合って座りつつ、綱吉は迎えがくるのをひたすらに待っていた。従業員は英語と日本語しか話さない外国人にいささかグッタリとしていた。
「……チュナヨシ?」
「イエス!」
従業員はエプロンの下にキャミソールをつけていた。Dカップはあろうかという豊満な二胸をテーブルに載せて、気だるげにペン先を走らせてメモを取る。紫のアイラインは、褐色の肌に映えて美しかった。
(な、なんか見えそうなんだけど……)胸の谷間まではバッチリ見える。寧ろその頂にあるものまで見えそうだ。綱吉は耳を赤くして、申し訳のない顔で従業員を窺った。
青年から滲みでるテレの気配は従業員にも伝わるらしい。彼女は、ふと微笑んだ。
「…………っ?」
ゴク、と、固唾を呑んだ。
間近に胸の谷間がある――、マニキュアのついた指先は、鬱蒼と自らの唇を指差した。
グロスで艶めく唇で、従業員は自らの名前を告げた。
「キャルラ。オッケェイー?」
「へっ? あ。オーケー……」
問答無用で腕を組まされ、ぐいぐいと胸を押し付けられた。綱吉は言葉を失う。かといって下を見るわけにもいかない――、イタリアンマフィアのボスにまでなったが、特殊な事情を抱え込んでいたために女性経験は豊富ではなかった。女性とベッドを共にしたことがない。距離を作ろうとすると、女はそうはさせないとばかりに腕を引っ張った。
「チュナヨシ?」鼻にかかった、甘ったるい言い方だ。
綱吉は喉の渇きを覚えずにはいられなかった。
「あ、ちょっと、そんな。あっ、あっ。や、そんなにっ、柔らかっ――て、あああ、やめてくださいぃっ」
二十歳を過ぎた美丈夫が真っ赤になって拒否してくるのは楽しいらしい。美女はニヤニヤとしてフウッと耳に吐息を噴きつけた。
ひぃいいっ。
喉で悲鳴をあげると共に従業員を引っぺがした――、と、音でも立てるほどの勢いで綱吉は硬直した。
詰所の前で、紙袋を抱えた青年が立っていた。
彼こそ、元・ボンゴレ十代目こと沢田綱吉が女性経験を持つには至らなかった直接の原因であるが。そんなことは、この場では大した意味がない。
サングラスをつけ、長く伸びた襟足を肩に掛けている。コートの襟首についたフェイクファーがちょっとファンシーに彼を彩っていたが、そんなファンシーささえぶち壊しにするような冷笑が唇を彩っていた。
「……い、いつから居たの?」
綱吉は目の前の美女を抱き寄せた。
アン、と、驚きつつも甘えた声があがったが、そんな場合ではない。相手は六道骸だ。彼の頭の中ではこの女性を殺す計画を立てているに違いなかった。サングラスのせいで視線は隠されていたが、骸は押し殺した声で告げた。
「二時間ほど探した。アナウンスもないからどこにいるか全然わからなかった」
いつもの敬語が無い。一切の感情も無い物言いだ。
(か、かなり、怒ってる……)ヒヤりとしつつ、綱吉は抱いた美女をさらに強く抱きしめた。相手の身の安全というより、恐怖のためには抱きつかないではいれなかったのだ、が。サングラス越しでも骸が両目を細めたのが見えた。
「…………」ふぁっく、ゆー。
か細く呟かれた言葉も、確かに聞こえた……。
沢田綱吉と六道骸、二人がヨーロッパの田舎町にやってきてから一ヶ月が経った。現在の住まいに腰を落ち着けてからは二週間。
骸の発言に驚いた店員が騒ぎだすのは、まあ、当然の反応だった。二人は転がるようにスーパーを後にした。レンタルカーに綱吉が乗車すると間もなく、断わりなく車体が動き出した。
「うわっ」慌てて、綱吉は座席に座りなおした。横目で骸を見るが、彼は眉間に皺を作るだけで文句は言わなかった。
(あ、意外とそんな大嵐にはならないかも)と思った綱吉だが、二軒目の大型量販店で買い物をするに至ってようやく間違いだと気付いた。既に相手はしかけてきている。
「骸さん、これ……、買ってもいい? 骸さん」
「…………」カートを押しながら骸は知らん顔をしていた。
洗剤を手にとって、裏の表示を読み始める。
綱吉は生唾を飲み込んだ。予感が確信になろうとしている。青年二人はしばし無言のまま、互いが手にした洗剤をジィと見下ろした。
(骸がオレを無視する、って、いうと――)
実際、それはかなりの有効手段だ。言葉も通じない異国の地、さらには逃亡者という身分。一切のお財布事情も相手の手中だ。骸に無視をされてしまえば、綱吉は完全に孤立してしまう。
ぞく、と、怖気が走った。綱吉は二度目のチャレンジを試みた。
「ねえ、手洗いしたいんだ。ホラ、日本じゃ外に洗濯物干す習慣があるの知ってるだろ? あれ、やりたい。一回づつのパックになってないやつが――」
「…………」青年は冷徹な眼差しをチラりとだけ送ってくる。
そして、応えないままで踵を返した。カラカラとカートの車輪が音を立てる。
「む、骸さーんー……」
綱吉が弱り果てた声で呼びかけた。
が、やはり無視だ。くそう。思わず内心でうめきつつ、洗剤を棚に戻した。
釈然としなかった。時折り、骸が仕置きじみた振る舞いをすることはあったが、今回はそれほど自分に非がないではないか。そりゃ迷子になったのは綱吉に責任はあるが。
(でも無視って。子どもじゃないんだから!)
「骸さんっ。怒ってるなら口でいえばいいじゃないですか!」
店を出る前に、綱吉は骸の肩を掴もうとした。
「!」が。相手のが実力的には上である。
彼は掴まれる前に綱吉の手首を掴み返した。ギリッと即座に骨が軋むほどの力を加えてくる。紙袋に購入品を入れ替えていた途中だった。
「……口で?」
いつもよりも圧倒的に低い声で、骸。
「あ、……そ、その」綱吉の口角が引き攣った。眉間にありありと皺を作った憤怒の形相がある。骸は、ゆっくりと自らの両眼を隠していたサングラスを外した。
ベキリッ。無残に、へし折ってから綱吉の手に渡した。
「あげます。今の僕の気持ち」
「あ、……うん」
なんとなく受け取ってから、綱吉は額に脂汗を光らせた。声帯を震わせつつ、告げる。
「……やっぱり、あの、収まるまで黙っててもらっていいかな?」
「そうします」振り返らないまま、骸は顎だけで頷いた。
オッドアイは忌々しげに歪められ、今にも人を呪い殺しそうな目つきをしていた。
こ、これは。相当頭にキテいる。
先に車に行ってる、と、口早に告げると綱吉は自分の両手を塞ぐ分の荷物をまとめて店をでた。――しかし、冷静になってみれば車のキーを持っているのも骸だ。
パーキングエリアに並べられたベンツの一つに腰かけ、綱吉は大きくため息を吐いた。彼が自分勝手だとかワガママだとか非道だとか、そんな問題は今更過ぎるのでぶり返すまでもない。ただ嵐が過ぎるのを待つだけだ。あまり考えたくないが、
(多分、今夜酷い目にあって終わりだろうな……。ついに刺されなきゃいいけど)
たまに骸はナイフを携帯したままベッドに上がるので、注意が必要だ。フゥ。鼻腔でため息をついて、辺りを見渡した。遠くに山々が連なっているのが見える。雲はまばらだった。
――と、綱吉は眉根を寄せた。パーキングエリアの片隅にワゴン車が止まっている。見事な緑色だ。
買い物袋を抱えたまま近寄ると、それは花屋だった。
老人が古びたパイプ椅子に座り、膝の上で雑誌を広げている。
ふうん、と、さしたる興味もなく綱吉はワゴン車のてっ辺から車輪までを見回した。かつて、ボンゴレ十代目として――、皆に囲まれていた頃には。
(花とか、プレゼントする機会もあったけど――)心臓が、バクンと鼓動した。犯した罪を後悔しろと、誘うように痛みを伴って跳ね上がる。
冷や汗が浮かんだ。綱吉が俯く。まさか、骸が花をあげた程度でごまかされるとは思えなかった。寧ろ彼なら余計に怒ることすらあり得る。できるだけ、女性的なものを連想させるような演出は避けるべきだ。
自分の靴先に見入ってしばらくすると呼吸が穏やかになった。綱吉は肩を落胆させる。踵を返そうとして、そこで、車輪の傍に置かれた小鉢に気がついた。
サボテンだった。根本は細く、先端がぷっくりと丸い。
売れ残りのようだが、それはサボテンであるからこそまだ生存しているようだった。鉢には泥がこびりつき、緑も褪せていた。茶色く変色した部分すらある。
(打ち捨てられてボロボロ、枯れる寸前……か。何だか似てるかも。オレに。……あるいは骸さんに?)まぁ、もっとも自分たちは捨てた側だが。自嘲気味に胸中で呟いて、買い物袋を下ろす。ポケットを漁れば、まだ小銭があった。綱吉はサボテンに声をかけた。
「おまえ、オレんとこに来る?」
――数時間後、やはり骸とは会話がないままだったが、二人はすべての購入品を収納し終えた。さっそく、綱吉は裏庭を目指した。
現在の住屋は庭付きの一軒屋だ。
といっても、数年間も住む者がいなかったらしく、うらぶれている。庭も雑草が伸び放題だ。骸は、隣人の家までに数十メートルの距離がある、ということでこの家を選んだらしかった。
「よし。ここなら日が当たるね」
裏庭には、最初から木製のテーブルが置いてあった。サボテンは夕焼けを浴びながら丸くなっていた。
うんうん。なかなかシックリとくる。
「今、水あげるよ」
微笑ましい気持ちになりつつ、綱吉は玄関に戻った。
ジョウロはないがコップで代用できるだろう。台所には先客がいた。相手が泥棒とか強盗とか、そういったものでない限り姿を確認する前に誰だかわかる。
六道骸は夕食の準備を始めようとしていた。
「…………」室内の暖房をつけたため、黒い半袖に迷彩柄のスラックスをあわせた姿だ。綱吉はコートを着たままである。何か、推し測るように綱吉の靴先から頭までを見ると骸は包丁を握り直した。
(な、なんか今の状況でそういうの持たれると怖いんだけど)
そろりと後ろを通る。が。コップを持ち出したところで骸が綱吉を振り返った。包丁の煌めきが見えて、ギクリと動きを止めていた。――そのスキを縫ったような動きだった。
懐に入り込んだ青年は、するりと両手を耳の裏にまで潜り込ませてくる。ガチャッ、綱吉の手からコップが滑り落ちた。
「むっ……?! んんっ!!」
ダンッ。後頭部が壁と衝突した。
ぬめりを纏ったものが唇を割った。舌を咥内で一周させると、先っぽを若干に尖らせてさらに咽喉の奥を舐め回してくる。
「ぐうっ……」苦しさに耐えかねていた。
(まさか、このままここで抱くつもりじゃ――)
綱吉の両手は無意識の内に骸を引き剥がしにかかった。剥き出しの腕を掴んで突っぱねる。彼は、その抵抗を容認した。濡れそぼった唇を舐め拭きながら、脱兎のごとく素早さでコップを拾う綱吉を見下ろす。推し測るような視線だ。
「でかけるんですか」
おまけに声には抑揚がない。
肩でぜえぜえといわせつつ、綱吉は信じられないように骸を見返す。ショックの余韻で呆けた声が出た。
「すぐ戻るから」
「どこに」
「す、すぐ近く……」
眉根が剣呑になった。何かを言いかけるように唇が薄っすらと開く。
――危険信号だ。即座に踵を返した。
「綱吉くん。今日を君にとっての厄日にしてあげてもいいんですよ」
(脅迫かそれは――――っっ!!)
実に五時間ぶりの会話だったが余計に疲れた。
サボテンの前に戻りつつ、綱吉はホロリと涙を忍ばせた。水を頭から浴びて、サボテンは夜露のような神秘的な光をトゲ先に乗せていた。
つついてみると、トゲがチクチクと指の腹を押してくる。
まるで返事をするようだ。長いこと、骸以外に話し相手がいなかった身だ。それにサボテンの全身を包んだこのトゲ。どこか、日本で同居していた頃の六道骸を連想させる。
「骸さん……、じゃあ、そのままだな」
(それにさすがにろくに相手して貰えないからってアイツの名前つけるのは癪だな)
雲で薄められていたが、辺りは月明かりで白く発光していた。綱吉はポンと自らの膝を叩いた。
「サボテンのテンちゃんって名前にしようか!」
ぷにぷに、トゲの少ない付け根を突付いてみる。綱吉はニッコリとして繰り返した。
「テンちゃん、よろしく」
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