後日談

孵卵』 (かえらん)




3.
 ねずみが、いなくなった。
 そんな予兆はあった。とたたん、天井を走る音が極端に少なくなったからだ。
 ほとんど言葉が通じないため、綱吉にはネズミ退治を骸以外に頼むこともできないし道具を買うこともできない。ということは、やったのは、骸なのだろう。
(一日中、寝ているのかと思ってたよ……)
 このところ、骸は、朝と夜にオートミールの半分くらいは食べるようになった。綱吉の直感は、望むときに使えるわけではないからこういうときには心細くなった。
 買いだしに出るのは久方ぶりで、乾いた風が頬を撫ぜる。コートの裾を揺らしながら階段をあがった。カン、カン、鉄網が音を奏でた。
「…………あれ?」
 いつものように紙袋の中身を冷蔵庫と貯蔵庫に詰め終えて、綱吉は頓狂な声をあげた。寝室に人の気配がなかった。
「骸さん?」
 彼は、どこにもいなかった。
 朝にはいたはずだ。また、オートミールを食べさせた。
(でかけてる?)彼の状態を思うと信じがたいが、だが、ネズミの件もあるので一概には言えない。
 不思議な心地だった。この一ヶ月、この場所で一人きりになるのは初めてだ。いや、イタリアをでてから初めてと言える。
(どうしたんだろう。……失踪とか?)
 冗談のつもりで囁いたが、思った後で、あまり冗談に聞こえなかった。
 図らずも自分でギクリとしていた。綱吉の記憶では、骸は、異常といえるくらいに自分を見る――、常に見える位置に置いておかないと気が済まないというように。じりじり、胃に這い上がるものがある。
(ま、さか。理由がない)
 時計を見上げた。まだ昼食には早いが、生野菜を切ってサラダを作るくらいのことはできる。
 何もしてないよりはマシだ。奇妙な不安が、胸を焦がして綱吉を落ち着かせなかった。パンとジャムと一緒に、食卓に二人分を並べて待ってみたが、階段をあがってくる音色は聞こえなかった。
 窓がカタカタと音を鳴らす。風が強くなりそうだ。
 昼食の時間を大幅に過ぎてから、やっと、綱吉はジャムに手を伸ばした。
 その後はすることもない。アパートの掃除はとっくに終わってしまった。いつにも増して静かで、綱吉は頬杖をついたまま、ぼうっとしていた。
「…………」
 時間だけが過ぎていく。
 綱吉は、イスの上で体育座りの格好をした。やがて。横目で覗き込めば、時計の針は日付を跨いでしまっていた。
(おかしくは、なかった)
 窓がひっきりなしにカタカタという。
 きっと、建て付けが悪いのだ。ようやく綱吉は気がついていた。あんな、廃人になりかけた骸の相手をすることに思ったよりも夢中になっていたらしい。室内がぼやけて見えて、時計の秒針がおぼろに月光を反射していた。
(あの人、プライド高いから)許せないことも多いのだろう。
 薄っすら、わかっていた。彼は聡明で狡猾だ。
 愛。その言葉をずいぶんと多く聞かされてきた気がする。だけれど、本質的には骸当人こそがそれだけでは生きられない人間だ。もっと深く――陰湿で、淀んだ、複雑に絡み合ったものを抱えていてしかもそれを解く気がないのだ。いつだったか。彼は真水では生きられないと言った。
(……だってアイツだってオレに全部話す気がないし)
 直感だけは鋭い。でも、綱吉にはどう動けばいいのかわからないことの方が多い。
 ぼうっとした眼差しで、寝室へと続く入り口を見つめた。
 あそこに骸はいない。彼は消えてしまったのだ。
(そっか、それで、様子がおかしかったのか)
 立ち上がれば、足元がふらついた。
(けっこう短かったな)泡が脳裏を埋めるようだった。現実感が伴っていない。コートを取り上げ、財布と辞書と、――拳銃と。必要なものだけを服の下に押し込める。
(この生活も、終わりか……)
 外では枯葉が舞っていた。
 左目。義眼の裏にまで入り込むように研ぎ澄まされた風が吹いている。肩を縮まらせて、綱吉は目をこすった。
 アパートの階段を降りた。降りたまま、途方にくれていた。
(どうしよう。この後)あの骸が。いや、むしろ、骸にすら捨てられるとは。
 胸を撫で下ろす。それが正しい選択であると、誰かに、自分ではない別の誰かに言われたら、そうなんだろうね、と、返してしまうくらいには自信のない日々だった。
 明かりの強い方に歩き出しながら、綱吉は靴先を見下ろした。
 イタリアから出たときと同じ物。胸が、痛む。切り裂かれたようで、奥歯を食んだ。
(……帰れないよ)もはや、どこに行けというのだろう。
頬に当たる風がいっそうの冷たさを増して、ようやく、涙を零していることを知った。
(帰れないよ。骸さん。リボーン。みんな)
 捨てた。いまだに、葉書の一つを送るくらいの勇気を持てない。
 イタリア語を口にするのも怖いくらいだった。ああ、と、一人で頷きながら目を細めた。ぽろりと新たな涙が流れた。
(せめて、英語が通じるところに行かないとのたれ死んじゃう)
 この地方一帯はダメだ。だが、都会にでて人に自分の姿を見られるのもまずい。裏の社会では、綱吉は有名人だ。
(住むところと……、ご飯。これを確保しないといけないかな。住み込み……とか)
 アパートを振り返っていた。払ってある家賃分は、生活ができる……、だが、サイフにはほとんど中身が入っていない。
 そもそも、骸との思い出がある場所だ。怖かった。
 骸が、帰ってくることも。彼が本気で出て行ったなら、次は、殺すつもりで来るような気がした。彼は宙ぶらりんにしたまま放っておくようなことはしない。
 深夜であるためか、辺りに人影の一切がなかった。大通りへと続く道の途中で架橋が見えた。鉄製だ。氷のように冷えている。
 水面が黒く濁っていて、吸い寄せられるように足を運んだ。
 髪がなびく。骸と似てる、伸びた襟足。
(……切ろう。今度こそ)水は凍えきっていた。
 何か、生き物がいるかどうかもわからない。ただ黒い。空も黒い。とぼ、と、大通りへ向けて踵を返した。――意外と。引き裂かれたような痛みを感じてしまう。
 最初は仲良くなれると思った。今までの友人とは違う、でも信頼できる身近な人ができたと思った。次には憎くて恨めしい人になった。殺そう、そう、心に決めた。
 最後は、……骸に、すべてを任せようと思った。
 この、心も体もすべて渡した。それが、今更、こんな形でつき返されるとは思ってもみなかった。
「…………」泣き声をあげそうだった。
 胸に穿たれた穴が、責められているようで痛み出している。ぽたたっ。顎を伝い落ちたものが、衿を湿らせた。――その、次の瞬間に、綱吉は体躯を折り曲げていた。
「ぐっ?!」
 ガンッッ! 背骨に響く一撃。
 架橋の上から上半身がはみだした。
 ぱらっと飛び散った涙が、軌跡を描いて水面へと落ちていく。わけがわからず、もがくように腕を伸ばす――、手に馴染む感触があって、目を見開かせた。
 彼は、綱吉の襟首を鷲掴みにしながら怒り狂っていた。
「のがせるか。君――、なんで」
「えっ……」呆けた声がでる。骸の髪に触れている。
 がくがくと、手加減なく揺さぶられて首が仰け反った。
「何で――、何でついてきたんですか! こういうことをするため?! そんなにっ、――いや――、憎いなら憎めばいいって言ってるじゃないですか! 君が許す許さないはどうだっていいんだよ!!」
「あっ、やっ、落ちっ……?!」
 足が浮いた。橋から落とされかねない。
 骸は、本気で気付いていないようだった。激高したまま、肩を怒らせている。オッドアイが見開かれ、瞳孔が引き絞られていた。
「あっ……、あ、あっ」泣き出すように俯く。
 一瞬、力が抜けたので綱吉も体勢を立て直した。何がなんだかわからなかった。骸を押し返したが、途端に、再び彼が強く睨み返してきた。
「あっちのが恋しいんですか?! 君は……っっ、そんなに?!」
「…………っ?!」
 何を指しているのか、理解して綱吉は言葉を失った。
「僕は?! 僕のことは――何だって――なんで僕を選んだんだ!!」
「わ?!」話がすぐに通じそうになかった。
 頭がもげるような激痛が走る。骸が、即頭に掴みかかって右側の頭髪を丸ごと握り締めていた。そのままで揺さぶられ、綱吉の目の裏側にまで閃光が走る。
「痛いっ。やめて……?!」
 いよいよ橋の下に落ちかねなかった。
 ゆるく、首を振る。骸が地獄の底から呟くような声をだした。
「いかせない。行くならもう綱吉くんを殺してあげることもしない」揺さぶるのはやめたが、骸がますます五指を強く握りこませた。ぶちっ、と、幾重かの髪の毛が毟り取られた気配。
 だが、それよりも目の前で笑いだした彼にゾッとしていた。
「な、にを。言い出して」
「君は……、悪魔みたいだ。質の悪い娼婦みたいにまとわりついて離れない」
(まとわり……? オレが?)オッドアイに狂気が滲み出している。
 怒りのあまりに我を忘れているように綱吉には見えた。
 彼は、身ひとつでアパートを飛び出したらしく酷く髪が乱れていた。
 肌にぴたっと合わさった黒い生地が全身を包み、半そでのジャケットからはみ出た腕が、鉄橋に備えられた外灯によって鈍く照らしだされる。
「そうだ」
 またひとつ、新たな怒りが芽生えたというように骸が声音を硬くした。
「僕は君を選んだのに! 僕は――全て捨ててるのにっなんでまだ戻る気でっ」
「まっ。骸――」言葉が言い終わらない内の出来事だった。
 骸が、弾かれたように綱吉から我が身を引き離した。
「……貴様らは……!! 死ぬがいい!」
 空を仰いでの、怒りに満ち満ちた声音。
 手には槍が握られていた。それをたった今、ぶんっと強く凪いでみせたのだ。
 キィン!! 硬い音がした。綱吉はさっと血の気を引かせた。聞き覚えのある音色だ。
 かつて、骸に銃口を向けて何度も聞いた。――銃弾を弾いた音色。怒りと憎しみとでオッドアイは酷くうらぶれた色をしていた。
 綱吉を見返しもせず、ダンッと鉄橋を蹴る。外灯の上に着地して、次の着地地点に人がいたらしかった。ビルの屋上だ。
 ダンッ。発砲音が一度だけ響く。
「ひいっ?!」ほとんど同時に、死体が川に落ちてきた。二人。
 橋の上まで飛沫が届いて、綱吉が後退る。背中が、酷く痛むが、――戦々恐々として外灯の上に戻ってきた男を見上げた。
 三叉の槍、その先端が真赤に濡れている。
 綱吉は後退りした。す、と、横に移動した眼球が綱吉を射抜いた。
「…………っ」怒り。憎しみ、そうした部類だ。
 だが、今の者に向けた眼差しにはあっただろう殺意はない。心底からぞうっとしながら綱吉は後退りした。橋の上に降りてきた骸は、槍を置いて綱吉に歩み寄ろうとしていた。何かしらの嬲りは受けるだろうが、相手に殺意がない分、底なしに思えて恐ろしかった。


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