後日談

孵卵』 (かえらん)




「まっ――、待って! オレ逃げてない! 戻るつもりなんてない。戻れるワケないよ――」
 言って、胃が捩れた。うっかりと痛いところを口にした。綱吉は骸を睨み返した。
「っていうか逃げたのは骸だろ?!」
「……僕? どうして僕が」
「ずっと塞ぎこんでたじゃないか! オレといると辛くなるんだろ?!」
「…………」骸が、足を止めた。
 僅かに眉を跳ね上げて、首を振る。
「そんなことはありませんよ」
「嘘だ。オレがずっと気付かないとでも思うんですか」
 オッドアイが煙りだした。不思議と、――綱吉には悲しむような仕草に見えたが、骸は両目を細めてみせる。
「……僕は逃げません。それに、僕は必ず君のところに戻る」
 怒りの色はまだ消えない。カァッと、徐々に綱吉の胃袋にも熱いものがせり上がった。髪をもぎ取られた頭を抑えて、唾を飛ばす。
「どこにいたんですか。今日。いなくなるから――、何も言わずにいなくなるから。オレ、捨てられたのかと――」
 骸がはっとして顔をあげた。
「それはない」
「嘘だ。骸は悩んでた」
「……僕に捨てられると悲しいんですか? 泣けるほど?」
「!」ギクリとして、慌てて目尻を拭った。
 じ、と、綱吉を見つめたままで骸が距離をつめる。
「僕から逃げたんじゃないんですね?」
 確認に、頷きながらも綱吉は奥歯を噛みしめた。
「骸こそ、オレから逃げたんじゃないの?」
 肯定も否定もしない。そっと肩を掴まれた。
 骸の瞳に、もう怒りはなかった。憎しみもない。深い色を浮かべながら、赤目と青目が近視の距離で覗き込んでくる。
「互いに説明する必要がありますね。喋れますか」
「…………うっ」
 しゃくりあげながら、こくこくと綱吉が頷く。
「僕は君に頼まれた通りにネズミの駆除を。屋根裏で盗聴器を見つけたので、――今日の昼前に。それで、ちょっと挑発したら乗ってきたので殲滅にでてました」
 言われてみれば、微かに血の匂いがあった。
「オレ、はっ……、帰ってきてもいないから。どこかに行っちゃったのかと」
 薄い溜め息が左の頬を掠める。骸が、疲れたように綱吉の頭髪の上に顔面を乗せた。
「アパートの鍵、開けっ放しで行ったでしょう。……どんな気分がしたか。君が、……僕が目を離したのをいいことに逃げたのかと」
 声が掠れていく。ひっく、と、喉を震わせたが綱吉は語調を強くした。本当に、見捨てられたと思ったのだ。
「骸さん。オレに言うことないの」
「……いいえ? 痛み分けでしょう」
 綱吉は、喉を鳴らして骸の背中に腕をまわした。彼の性格の悪さは今更すぎる話で、誠実さという面においては行動で求めた方がはっきりしたものが返ってくる。
 労わるようなキスが左の目蓋に落ちる。いつもより遥かに優しいやり方で、啄ばむようだった。
「綱吉くん。君は僕のものだ。ほかに行こうとか、そんなことを隅で考えるようなら容赦しない」
 本気なんだろう。綱吉は腕に力をこめた。
「せめて、出かけるときは何か置いていってください。わからないから。……オレだって不安になる」
「綱吉くんも。半日くらい僕がいないだけで出て行こうとしないでください……」
 口が減らない男だと綱吉は思う。骸の腕が背中を抑え付けた。先ほど、鉄橋にぶつけられた痛みがぶり返す。骸のことなので、わかった上でやっているのだろう。
 眉根を寄せながら、綱吉は降りてきた口唇を受け入れた。
(もしかして、少しだけ逃げたかったのかな。オレも)
 骸を前にして、冷静を取り戻してみるとずいぶんな早とちりに思えた。舌を舐め合った後で乾いた涙の跡を意識できた。風が吹くと、突き刺さって、少し痛くなる。
(逃げる? 骸さんから?)
(……無駄だ。骸はオレを見つける。絶対に)
「うん。そうする。骸がけっこう薄情だって覚えとく」
 早口で呟くと、骸が半眼を返してきた。
「……まあ、いいです。いいんです。この町、でましょうか」
「体は? 今でも無理してるんじゃないですか」
「動ける」短い返答で終わりだ。
 面食らいつつ、綱吉は唇を尖らせた。
「荷物は?」
「僕の荷物は実際のとこあなただけですよ」
 さらりと言い捨て、懐を探る。骸も最低限のものは持っているようだ。差し出されたのは拳銃のグリップだ。
「いい。持ってる」オッドアイがしなる。褒めるように。
 槍を折り畳み、ジャケットの下のベルトに差し込むと骸は踵を返した。夜風が、ぼさぼさだった頭髪をさらに逆立てたが気にする様子がない。
 その肩に並びながら、綱吉は眉根を寄せた。
「何人なの? 手強い?」
「五人。さっきので四人まで殺した。手強くはありませんが経口の大きい銃を使ってる。僕か君か、どっちに恨みがあるのかは知りません」
 一緒に行動するようになって、骸の身体能力の高さに驚くことがあった。彼は普通に歩いてるだけに見えるのに、綱吉は小走りだった。
「…………」
 骸は近頃の生活でやつれ気味だ。
 亡霊のように死に掛けた目をしている。特に、右目が。
 骸の右側に回りこむと、彼は怪訝そうに横目を向けてきた。赤い瞳は、視えていないはずだったが、それだけでも意思があるように動く。
「何のつもりですか?」赤い瞳の向こうにある青い瞳。
 それを見つめて、綱吉は低い声で囁いた。
「オレ、左目見えないから。骸も右目見えないだろ」
「…………」赤い瞳の浮かんだ『六』の文字が煙ったように見えた。綱吉は左側の視界が死角になる。かつて、目の前にいる人物に視力を潰されたからだが。
 静かだ。目も唇も、顔面も無表情になって骸が黙り込む。
 同じように黙っていると、五つほど外灯を通り過ぎたところで左手に触れられた。指の間に自らの指を潜り込ませ、ぎゅっと五指で握りこんでくる。
 綱吉が見上げれば、骸は小馬鹿にしたような顔で笑っていた。
「うらめしいですか」
「恨んだところで、堪えるような人間じゃないだろ。骸さんは」
「その通りですね」くすり、笑って、オッドアイを細くさせる。染み入るような、感じ入るような声。顎を引いて、骸は小さくうめいた。
「綱吉くん。愛してます」
「…………どうも」
 昏さを含んだ両眼をじっと見つめて、綱吉。
 骸は、すぐにニコリとした。握った手のひらを顔の前に持ってくる。
「取り合えず駅前で何か食べてから出発しませんか? お腹空いちゃって」
 薬指に口付けられたことはわかった。
「刺客は?!」だが、それよりも骸の発言にギョッとして綱吉は歩幅を乱す。
「来る時はくる、来ない時はこない。いちいち気にしてられませんよ。朝まであと二時間くらいでしょうし」
「んなっ?! 一般の人を巻き込むわけには――」
「お腹空いて死にます」
 ニコニコとしたまま、引く気配を見せずに言い切る。
「あ、アンタが日頃からちゃんと食べないから……」
 口をぱくぱくとさせたが、骸は笑みを深めて自らの右手を見せた。綱吉の左手を握っているわけだが、それを、ぎゅううううっとさせる。
 骨が軋むほどの握力。綱吉が首を竦めた。
「……ああ、それと。綱吉くん。コレ、いつの間に僕の荷物から取ったんです?」
 咎めるような声と共に骸が足を止める。一瞬、意味がわからなかったが、彼は結んだのとは逆の腕で迷うことなく綱吉のコートの中に潜り込んだ。
「ひゃ?!」
「さっき、橋の上で見えたんですけど」
 辞書だ。手のひらに収まるほどのコンパクトサイズ。
「君にはこんなもの必要がない。僕がいますから」
「あっ?! な、何するんですか」
 しれっとしたまま、骸は舗道の隅に本を投げ捨てた。
「いきましょう」「ちょっ……、えっ」
 辞書と骸とを交互に見つめるが、問答無用だ。先を行く骸を恨めしげに見上げつつ、綱吉がうめく。この一ヶ月ばかり、一人で買い物をするだけで死活問題だったのに。
「お、オレ、ここらへんじゃ全然会話が通じないんですけど……?!」
「……」数秒の沈黙。骸が肩越しに振り返った。
「いいんじゃないですか。それで」
 夜を背中にしたままで骸が言う。絶句したが、だが、最後には綱吉は浅く笑いだした。
「僕と通じてるんですから、問題ないでしょう?」
「ああ……、うん、ああ、骸らしいね」
 くつくつと喉が鳴る。そうすると不思議と綱吉の胸は熱くなる。涙がでそうだった。
「駅前はまだ真っ暗でしょうから、それまで、どうします? ホテルでも入りますか」
 チラ、と、意味ありげな眼差し。刺客に追い立てられて町を出ようとしてるなんて、思えない。それくらいに空気が穏やかだ。綱吉には、骸とこんな時間を過ごす日がくることも信じられなかった。空を見上げていた。
「そこらのベンチに座らない? 星が綺麗」
「君は、僕の格好を見てそういうことをよく言えますね」
 風は冷たい。薄着をアピールする骸に、綱吉は苦笑した。
 一緒にコートに入る? と、尋ねると、骸の両目が丸くなる。まじまじ、窺うように綱吉の全身を見つめた後で、楽しげに頷いた。しばらくは。しばらくは、骸との関係が平穏なものになるだろうことを予感して綱吉はコートの前を開けた。ショックを受けたのが効いたのか、骸は今朝までの虚脱ぶりがウソのようにしていた。
「僕が着るから、綱吉くん中に入ってくださいよ。その方が合理的です」
「……身長のこと言ってる?」「もちろん」
 いけしゃあしゃあと言い放つ骸に、その目にある喜色に頭を抱えつつ綱吉はうめいていた。骸が、自分をおいて逃げたなど思うなんてどうにかしていた。
(ああ、骸さんが逃げたと思えたのって、オレも少し逃げたいって思ってたからか。やだな。第一、逃げるっていったって……、骸さんはまだオレがイタリアに帰れるとでも思っているのか)
 こめかみが鈍い痛みを訴える。そっと、背中から包み込まれて目を上向かせた。
 骸がいる。これが、どれだけ、ファミリーのみんなを裏切っていることになるのか綱吉にもわからないことではなかったが。
「……ね、抱きしめてくれる?」
「おや。君からそんなこと言うなんて珍しいですね」
「いいんだ」駅前は広場になっていた。ベンチに腰かけ、人がいないのをいいことに骸が綱吉を膝の上に乗せる。ひとつのコートに包まったまま、コートの下で、骸が綱吉を抱きしめた。
「震えてますね。そんなに寒いならコート返しますよ」
 首を振る。奇妙そうに骸が覗き込んできたが、綱吉が黙っていると、彼は空を見上げた。一面、黒い。雲がかかっていたが、隙間からまばらな星影が見えた。
「いつか……、日本に行ってみましょうか」
 低い声で、骸が言う。大胆な発言だと思ったが、綱吉は、何も言うことができなかった。肌が触れ合った部分があたたかい。
 コートの中があたたかい。しばらく、このままでいたいと芯から願っていた。





おわり









>>つぶやき(反転
『空孵』あとがきに書いた、
開き直るのに数年がかりな骸とツナのイメージでの後日談になりました。
しばらくしてツナがぼうっとしてきたら骸さんは面倒見つつ好き勝手にしそうな気が…



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