群青


8.
 さすがに、立ち上がれる気がしなかった。
 腕と足、左腕と、右足。両方を、それぞれ貫通されていた。屋上の鉄臭い床板にうつ伏せになって、綱吉は、呆然と四隅の一つを眺めていた。拳銃も、鞭も、もはや武器になるものは全て取り上げられていた。全身を裂いたような痛み。朦朧とする。
 つかつかと歩み寄ってくる足がある。目の前で、止まった。
 彼は満足げにオッドアイを歪めて見せた。
「僕を愛してますか? 綱吉くん」
「……まえ、なんか、きらい……大嫌いだ」
「ありがとうございます。僕も大っっっ嫌いです。愛してますよ」
 口角を昏く笑ませ、骸が頷く。
「……げほっ」(も……、ワケ、わからな)
 喉に競りあがってきた血に咽て、綱吉が仰向けになる。
 呼吸は楽にはならなかった。一発、腹を掠ったものがあったが、それが酷く痛む。くらくらとしながら堰を繰り返していると、指が降りてきて額を撫でられた。
「君は僕のものだ。僕のものになった」
 呪詛のようだ、と、胸中でうめいていた。気配が、段々と近づく。
 綱吉は薄目を開けた。唇に柔らかいものが当たる――、骸の鼻筋が、綱吉の鼻と擦れた。額と額が擦れあう。動物同士が挨拶をするように、何度か繰り返した後、骸が綱吉の唇を舐めた。右手で顎を鷲掴みにする。
 ギリギリと締め上げられば、意図も読めた。綱吉の頬を一筋の涙が辿る。
「ん……」
 びちゃ、と、濡れた音がした。
 素直に咥内を開けていた。もはや、気力も限界だった。数時間前の情事を思い出さずにはいられなかった。全身が、竦みあがっていた。
「綱吉くん……。かわいい」
 怯えた様子が気に入るらしく、骸がうっとりとした。
 自らの舌を差し出す。そうして、綱吉の咥内に差し入れた。びちゃびちゃとあちこちを舐め取り、内側の歯列を撫でて、奥で縮まっていた舌を引っ張りあげた。
「ふむっう」鼻にかかった悲鳴。綱吉の腕が、骸の肩を抑えていた。
 覆い被さった体が、手に負えないほどに巨大に思えた。実際。先ほどの、あの、二十分ばかりの出来事で決別したのだ。確実に、根本から。
 昔は、まだ話が通じる部分があったように思えたのに。友人になれると思ったのに。
(オレが……。完全、に。この人を壊したのかな……?)
 キスと言えるのか。それにしては、ひたすらに辛い口付けだった。
 舌を骸の咥内に引っ張り込まれていた。吸い上げながら、彼は、傷を残すように根元をカリカリと甚振った。唾液が顎を垂れる。ほとんど、顔の半分をべちゃべちゃにしながら骸は執拗にキスを繰り返していた。
 酸素不足と痛みと、全身をガクガク言わせるほどの恐怖で失神しかけながら綱吉は視界を細くした。赤い瞳と青い瞳。底が知れない――底のないものが渦巻いている。
 宿敵は、喜悦を隠そうともしない。見惚れるように目を細め、綱吉の口唇を食んだ。
「綱吉くん……、そんな、絶望に浸っていないで。僕を見なさい」
「あ、う……、んッ」
 ガリ、と、唇に噛みつかれた。
(ああ、もう)昔の話を、思い出すのはやめよう。
 静かに決意をしたが、それとは関係なく骸は口唇を貪りつづけた。
「かわいい……。壊したい。殺したい……。僕のもの」
 ようやっと、骸が顔をあげたときには、綱吉はほとんど酸欠になって青白い顔をしていた。
「僕のものだ、綱吉くん。僕の綱吉くん」自らで確認するように囁き、しかし、骸は声音に冷たく研ぎ澄ませた氷を混ぜ込んだ。さりげなく。
「他の人に触れさせたら、許しませんからね。君も、もちろん、触れた人間もただじゃ済ませない」
 瞳の奥に、愉悦が渦を作っている。狂ってるように綱吉には見えた。
「む、くろ……。それ、意味……」
「君には恋人がいる。それを忘れるなということです」
 その頬を挟み込んで、上向かせる。
 鼻頭をペロリと舐め、それから吸い付いて、また口唇を舐めてから、キスをしてから骸が腰をあげた。君を殺すのは、まだ時期じゃないですねと低くうめく声がした。
「さて。それじゃ、僕は行きますよ。君にやられた腕も痛いですし、骨もまた……、くっつけるのに時間かかるんですよね」
 面倒臭そうに呟き、左腕の包帯に触れる。それから、千種が残したリュックを肩に引っ掛けた。ああ、思い出したように、出口に向けた足を止めて振り返った。
「僕を止めたいなら追いかけてきなさい。今度こそ、ね」
「む、くろ……」
 虚ろにうめき、首を横向ける。
 肩がぜえぜえとする。痛みと酸欠と、心臓辺りの、酷い虚脱感。絶望感。息が絶え絶えの少年を、楽しむように見下ろして、骸は漆黒の光を瞳に揺らめかした。
「次の逢瀬を楽しみにしてますよ」
「待っ……」
 バタン。無情な音とともに、骸が去った。
 屋上に取り残されて、綱吉は、しばらく扉を見つめた。
 青い世界が、終わる。青味が引いて、白くなっていく。ほんの少し。短い、ごく僅かな時間しか存在しない世界が収束していく。血塗れで、顔中を唾液塗れにしたまま空を見上げた。短い。今までの生活も、彼と過ごした半年ばかりの期間も。ごく僅かな時間しか存在し得なかった。
 血に塗れた両手、下肢の痛み、左目の疼き。意識が遠のいていく。
(……イタリアに行こう)
 完全に失う直前、綱吉は囁いた。
 朝日が横顔を照らす。夜明けだ。げほ、と、堰がこぼれて唇から血が溢れた。




おわり

 

 

 



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>>群青あとがき(反転
「天濫」からバトンタッチな「群青」でした。原稿用紙約96枚分。
ツナが骸を殺すことを自分で決める・イタリア行きを自分で決める、までが主軸にあるツナ視点の話でした。骸さんは、再登場〜群青終了までのあいだに段々と狂気の揺れ幅を大きくしていくさまが表現できればいいなと思ってました。最後に、ツナを殺すと決める骸さんに違和感がないとよいです。
同一世界観のまま、「空孵」にバトンタッチです。これで、全体の完結になります。

お読み頂きありがとうございました!
最後までお付き合いいただければ幸いですっ。

06/9/24 完結