天濫



6.
「おい。起きろ」
「…………」蹴って起こすな。
 と、反射的に思ったが、声がでなかった。
 視界を開けば、赤ん坊の顔があった。骸は目を細める。明け方の、やや白んだ室内。縛られた両手首。手首と胴体とのあいだに挟んだ、大量のクッションと毛布。
「近所の廃病院を手配できた。行くぞ」
 赤子がしゃがみ込んで、紺色のネクタイが枕に落ちる。
 汗でビッショリになった身体を起こし、骸は両手で顔面を覆った。右目から、無数のヘビの胴体が生えた気がする。胴体をバタつかせながら、頭が消えた頭が消えたと喚き散らしていた。
「……掻くなよ」リボーンがうめく。
 眉間を皺寄せ、骸は布団を剥いだ。
「これは……」目が丸くなる。
 呆れたようにリボーンが言った。
「お前が暴れたんだろ」
 右足にしがみついて、綱吉が眠っている。
 骸は無意識にうめいた。口唇は動かないので、喉だけが奇妙に震える。
(まさか、昨日の夜からずっと――)意識に霞みがかかったようで、思考が続かなかった。顔面をグシャグシャと掻き混ぜる骸を置いて、リボーンが綱吉を蹴り飛ばした。
「うえっ」「邪魔だ」
「…………」
 引き攣りながら顔をあげれば、綱吉の顔に、いくらかの引っ掻き傷を見つけた。
「……こんなことをして、恩を売ったつもりか」
「ァあ……? 知るかよ。面倒クセーこと言うな」
 部屋の入り口で、サングラスの男が待っていた。中肉中背、鉤鼻とその上のホクロが印象的なキャバッローネのルッソーニだ。一同は、明け方を待たずして出て行った。
 骸の右目に、眼帯をつけられたのはその日の夕方だった。取れるようになったのは、二日後。先日の一件と比べれば、雲泥の差がある親切なやり口だった。
 リボーンが、口頭でディーノからの謝罪を骸へ伝えた。
「……僕はいつになったら帰るんですか」
「家のコトが心配なのか?」
 骸は公然と無視をした。
 ベッドの上から、乱雑に木の生えた林を見下ろす。人里を離れた山奥だった。
「ケータイにツナからの着信はきてるぜ。話したいのか?」
 つまらなさげに帽子のツバをさげて、リボーン。
「まさか。清々してますから」
「そうか?」彼が去ると、病室は静寂に立ち戻った。
 骸は窓の上を見上げた。群青の色をした空が、山の向こうまで広がっている。
 ――三日後、手ぶらの両手をポケットに入れて、彼は同じように空を見上げていた。先を歩く少年があった。沢田綱吉だ。挨拶もないまま家を出た骸の帰宅に、涙を零したのは奈々だった。
『ウチがイヤになっちゃったのかと思ったわ。持病があるんですって? よっぽど悪くなったかと――今度からは、連絡してよ? ゼッタイだからね!』
 玄関にかけつけた綱吉は、小脇に二人の子供を連れていた。怯える子供たちをヨソにして、少年が瞳を潤ませる。『六』の文字が浮かんだ右目を、まっすぐに見つめていた。
 よかった……!  噛みしめたような声。下唇の下にシワがよって、縦線が浮かんでいた。
 骸が、足元へと落としていた視線を持ち上げる。彼が足を止めていたからだ。茶色い瞳が骸を覗き込もうとする。綱吉は半そでのパーカーを着込んだ格好だ。ポケットの中から、チャリンと小銭がぶつかる音がした。
 スーパーからタマゴを買って来いと、奈々からの指名を受けたのは綱吉一人だった。
「気分が悪いの? 買い物くらい、一人で全然大丈夫だけど」
「いえ……。僕は、あの女から手厚い歓迎を受けるのがイヤで君について来てるだけですから」
「あの女って……。母さんって呼んであげてよ」
 綱吉が、冷や汗交じりで半眼を返す。
 無視して、骸は空を見上げた。半そでの上から薄手のカーディガンをかけていた。半分が透けたホワイトで、女物。出かけに、奈々が無理やり押し付けたものだった。
「でもホント、母さんの言うとおり連絡くらいしてくださいよ……」
 呻き声に、呆れが混ざっていた。
「起きたらモヌケの空だし。心配するじゃないですか」
 オッドアイは一瞬だけ綱吉を追いかけた。フンと鼻が鳴る。
「懐柔し損ねて残念でしたね」
「あんたな……。どーしてそういう方向で」
 振り向きかけて、しかし綱吉はため息をついた。
「まぁ、いいや。今日は口論ナシだからね、骸さん」
 せっかく母さんもご馳走作るって言ってるんだし……。ブツブツとうめく後頭部を視界の隅にして、夜空に夏の大三角形を確認した。星がよく見える夜の色だった。首を巡らせれば、さそり座のアンタレスも見つけた。不思議そうに、綱吉が空へと視線を向けた。
「何してんの? 星?」
「病室にいるあいだ、ヒマだったんで星座を確認してました」
 綱吉は、アンタレスだけに気がついた。アンタレスは赤い。
「火星……?」骸が首を振る。
「アンタレスの語源は゛火星に対抗するもの゛。火星に対するアンチ・テーゼの意味があるんでその解答は見当違いですね」
「あ……、そう」
 引き攣った声だ。別段、骸は気にかけなかった。カーディガンがそよぐたび、鬱陶しく肌に纏わりつく。夏の始まりを過ぎて、辺りの空気は湿気を帯び始めていた。
「…………」「…………」
 スーパーにつくまで、十分もかからない。二人ともが知っている。
「空が……遠いな」誰にでもなく綱吉が呟く。
 率直な感想らしきそれが、骸には何かの暗喩に聞こえた。少年へと視線をおろす。頭ひとつ下のところで、彼はアンタレスを見つめていた。
(……アンタレスは、赤い)
「僕の右目は」意思より先に、言葉が口をついた。
 数秒後に自覚したが、骸は、不思議とうやむやにさせる気分にはならなかった。思ったよりも、喉を通った声音は、落ち着きを払っていて内心で安堵した。
「ずっと昔に潰された。素質があると言って、ファミリーの人間は僕に赤い眼球を移植させたがっていました。戦闘能力に特化した、……完成までに数十人の脳みそを破壊した曰く付きのシロモノでした」
「頭を?」返した綱吉の声は、緊張していた。
「ええ。この右目は、死者への精神感応を繰り返してきましたから。……移植を終えた瞬間、僕はその全ての記憶を、疑似体験しました」
「どんな気分が、したんだ……?」
 恐る恐ると、綱吉が問いかける。
 骸は面を喰らった顔をしたが、すぐに気を取り直した。
「筆舌にしがたいですね。吐きそうになった、とだけ言えます」
「何か思ったりしなかったの」
「なんで、僕がこんな目にあうんだろうかと」
 物いいたげに茶色い瞳がウロウロとした。骸の額といわず首元といわず、迷ったように行ったり来たりする。骸がクスリとした。
「この眼の呪いに付き合うのは、僕の宿命みたいなもんですよ。この眼も、それがわかっている。これは僕の神経の塊だ」
 文字のついた義眼でなかったときには、体内でヘビが暴れているような錯覚があった。今は無い。ヘビ達は、頭を取り戻して、各々に安堵しながら尾を伸ばしていた。
 骸の指先といわず、足首といわず、脳の端々まで。
(すこし、喋りすぎたか)直感的に呟きつつ、見下ろした。
 青褪めた顔をそのまま、綱吉は逡巡めいた光を瞳に乗せていた。シニカルに眉を持ち上げる。赤い星座。暗闇を纏ったような、広くて果てのない夜空。眼に見えない、巨大な生き物がいるかのように、天空の暗がりは存在感を持っていた。
 じぃとした視線を顎の辺りに感じる。
 しかし、それだけで何も言ってこないので、骸は先を続ける気になった。あるいは、綱吉はそれを待っていたのかもしれなかった。
「彼らは、研究に関わって死ぬことを名誉だと言った。狂っているでしょう。芯まで腐敗している」
「……名誉だって、今でも信じてるの?」
「まさか。当時でも――、いや、彼らを殺したとき、それは有り得ないと確信した」
 一切の感情が遠のいていくのを感じた。聞き入る少年の瞳孔が、怯えたように細くなる。ヘビが尾っぽをバタつかせた。額がツンと痛み出した。
「……僕は、君も嫌いだし奈々も嫌いだしこの世の人間全部が嫌いだ。この想いを変える気なんてない」
 骸は、ニッコリとして言い捨てた。
「だから、君も僕を毛嫌いしてくれてけっこうなんですよ」
「……む、骸さん……」
 綱吉は弱々しくうめいた。俯く。
「日本語の使い方、ちょっと間違ってる気がする……」
「そうですか?」飄々とした返答に、綱吉は血の気のない顔で頷いた。
 オッドアイは、空の端を見つけようとするかのように空を泳いでいた。執念深い輝きが瞳に秘められている。が、ふと思い当たって、骸は視線を降ろす気になった。逆に、尋ねてみたくなっていた。
「……今、どんな気分ですか?」
「え? あ。……ちょっと。ウン……、でも、大丈夫です」
 不明瞭な声で頭をぶんぶんと振り回す。
 奇妙なものだと骸は思う。その反応で満足している自分がいたし、肩を並べたまま空を見上げる日がきたことも。ポロリと二つ目の質問がこぼれた。
「君は、本当にマフィアになる気で?」
「そっ。そんな気、ないよ。リボーンとか皆もうその気になってるけどさ」
「へぇ……」
 都会の空に映った白光は、少ないながらも天空の隅まで散らばっていた。
 光が弱くなって、また強くなる。それを繰り返す。ぱ、ぱ、と点滅しているように見えた。夏の夜空には人を切なくさせる何かがあるよう思える。骸は、薄く両目を細めた。
 もう少しだけ、スーパーを通り過ぎてるという事実に目を瞑ることにした。



>> 7. へつづく

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