天濫



5.
 地球の温暖化が進めば、日本にはスコールのような雨が多くなるという。
(まさにそれかな)
 思いながら、ネクタイを外した。
 ビショビショで、ほとんど真っ黒に変色している。ウエッとうめいて、洗面器に放り投げたところで扉の開く音がした。
「母さん? 梅雨ってとっくに終わっ――」
 勇んで尋ねて、綱吉は口角を引き攣らせた。
 少年が扉に背中を預けていた。二週間前から、なんとか母親とは親しくするようになってくれたが、あの買出しの日以来、綱吉にはさらなるブリザードを浴びせるようになった六道骸だ。
 俯きながら、踵の裏側に指を押しこんだ。靴が落ちて、ビチャッと水滴を辺りにバラ撒いた。
「あ……」綱吉が帰宅したときよりも雨は激しくなっていた。
 台風を連想させるほど強く窓ガラスが叩かれる。靴下をペタペタさせて、骸は綱吉を無視して玄関にあがる。垣間見えた横顔に、綱吉はギクリとして竦みあがった。
 亡霊のような顔つきで、生気めいたものがない――。
 何か、彼を消耗させる出来事があったのは明白だった。
 よろめきながら壁に寄りかかり、骸はリビングを覗き込もうとした。
「あ……、い、今、みんな買い物行ってるみたいで」
 憔悴したオッドアイが綱吉を睨む。
 ビクリと、綱吉は戦慄しながら壁に貼り付いた。ビシャビシャのカバンを片手に、体を引き摺るようにして骸は階段を目指す。
「なにが、あったんですか」
 胸には奇妙な違和感が燻っていた。振り返らないままで一段目に足をかける骸に、綱吉は奥歯を噛んだ。宝刀を振りかざすことにした。
「濡れたまま歩くと母さんが怒るんだよ。ここで着替えていって」
「…………」無機質な瞳が、肩越しに振り返る。
「父さんのお古だすから着替えてよ。それに、そのままじゃ風邪ひく。今、お風呂沸かしてるから」
(あ。あれ?)違和感が、決定的なものとなって綱吉の足元を揺らした。昨日までの――、今朝までの骸とは決定的に違うところがある。
 骸が警戒するように後退り、右手で片目を覆い隠した。
「それ。右目。……どうしたんですか?!」
「やめろ……。触るな。痛む」
 少年が後退る。綱吉が追い縋った。
「六の文字がないじゃないですか! どうして――」
「違う眼球だからだ!」
 荒々しく言い捨てて、骸が体を反転させた。
 もみ合いになりかけた二人のあいだを、ピィ――ッと汽笛が通り抜けた。
 風呂が沸いたのだ。綱吉が顔をあげる。
「ぐっ……」反対に、膝を追る人影もある。階段の手すりに縋るようにしながら、右目を庇うように背中を丸めた。彼の身を、壮絶な何かが襲ったのは事実だと綱吉は確信した。遠慮がちに、しかしハッキリと告げた。
「骸。風呂、行こう。ここじゃ冷えるよ」
 グッタリとした体を脱衣所に引き立て、揺さぶると、骸がとろとろした動きでネクタイを外した。
 綱吉は、じろじろと視線をやった。
(右目、義眼だったんだ……)記憶を辿れば、そうと考えられる仕草はあった。『五』の道で彼は眼球をひっくり返したのだ。
 燻ったような赤色を眺める内に、骸は全裸になった。右の手首には焼け爛れたような痕がある。
 綱吉は落ち着かなかった。せめて、彼が湯船に入ったら立ち去ろうと思ったが、曇りガラスの向こうで、人影は一向に動こうとしない。
 ついに、カラカラと戸を横に開けた。
「骸。何やっ――。って?!」
 ハッとして骸と綱吉が後退りした。
 右目。骸の赤い右目から、赤々とした筋が顎まで垂れていた。両手を鉤爪のかたちにさせて、爪をまるまる赤く濡らしている。
 ぞおっとして綱吉は後頭部を壁に押し付けた。
「痛むのか」
 骸がじりじりした眼差しを寄越す。
 ガリ、と、反射的に左手が右目を掻いた。
「か、掻いちゃダメだよ。血がでるだろ」口にしてから、出血の原因がそれだと気がついた。体中の血液がヒュッと冷え込んだ。
「っ、……、っっ……」
 ぜえぜえと息をし、骸がオッドアイを見開かせる。
 青い瞳のなかで、豆粒のように瞳孔が縮みあがっていた。
「やめろって!! 骸?!」仰天して、綱吉が悲鳴をあげた。
 ガリガリと右目を掻き毟りだした手首を抑えたが、腕の一振りで壁に飛ばされた。強かに打ちつける――、咄嗟に、綱吉は風呂桶を鷲掴んだ。 頭に湯をぶつけると、彼はギクリとしたように動きを止めた。
「おっ。オレも風呂入るから! とっとと湯船いってて!」
「な……、……」
 いささか正気を取り戻して、骸が戸惑った。
 血のついた自指に気がついて、驚いた顔をする。濡れた前髪から、立て続けに水滴が落ちていった。急いで衣服で脱衣所に放り投げた。リボーンも奈々もいない、骸はこの状況。
(何なんだ。骸、一体どうしたって)綱吉が、面倒をみるしかなかった。
 骸は湯船にいった。水面から肩から上をだし、水中の自らの両手を見下ろしている。
 いつもの習慣で、綱吉は黄色いアヒルを湯船に浮かべた。男二人で浸かるには狭い浴室だ。体育座りのようになっても、足が触れるか触れないかがギリギリの位置だった。骸は文句を言わなかった。後頭部を壁に預けて、露わになった喉仏を忙しく上下に揺らしている。
「……」「…………」
(聞いても……。いいのかな)
 縮こまりながら、綱吉が茶色い瞳を上向ける。
 骸とのあいだにアヒルが浮かんでいた。ちょっとガキぽかったか、と、後悔の念が浮かんだ。
「う――、づ……」綱吉がビクリとした。
 顔面の右側を抑えて、骸が体を起こした。
「か、掻いちゃダメだよ」
 ゼエゼエと息をして、無機質な蒼目だけが綱吉を射抜いた。
 視線を合わせているのは辛かった。膝のあいだに顔を埋めても、しばらくは骸の視線を感じた。けれど、彼の呼吸が落ち着けば静かだった。靜過ぎるくらいだ。
(――……犬さんが、言ってたっけ)
 呆けたオッドアイは、湯の上を行ったり来たりとするアヒルを眺め始めていた。
(骸は、元々は大人しくて目立つタイプじゃなかったって……。ファミリーで、事件を起こすまでは喋る場面すら珍しい人だった)
 骸は綱吉が思うよりも細い体つきをしていた。
 筋肉はあったが、肌が青白く――所々に、何年も前につけられたような傷があり、頑丈そうには見えない。右手首の火傷が大きかった。実験の痕だ。
 虐待の痕でもあるのかな、と、綱吉が脳裏でうめいた時だった。
「――っえ?! あ、なに?」掠れた声が、やや上の位置からおりてくる。
「充分。暖まりましたから。もう出たいんですけど」
「あ、お、オレもでる」
 リビングには奈々達が居た。
 右目の変化に、気がついたのはリボーンだ。
「それは……。ルッソーニか? 移植手術か。お前の意思か?」
 半眼を返す骸に、奈々が立ち上がる。
 血の気を失せた顔色だ。骸の額へ手を当てると、短く悲鳴をあげた。
「熱があるじゃないの! さっきの通り雨ね?」
 骸は人の体温を嫌がる。だが、今はされるがままだ。自室の布団で仰向けにされる。再び、ぜえぜえとした息遣いになっていることに綱吉は気がついた。
「……ゴメン。風呂、入っちゃまずかったね」
(言ってくれればいいのに)
 いささか理不尽な恨みを覚えつつ、綱吉は氷枕をタオルで包んだ。奈々に代わって、看病を引き受けたのだった。
「その様子じゃ、合意の上ってワケじゃないのか」
 正座で縮こまる綱吉の横で、リボーンは、堂々と骸の右目を覗き込んでいた。青目が、怨めしげに歪んでいるが気にする様子はない。
「ディーノは反対してたんだぞ。ただ、エストラーネオファミリーを毛嫌いしてるヤツがいるからな。その研究成果であるテメーの右目、潰したがってたぜ」
「……、もう、潰されて……?」
「いや。まだだ。ディーノの了承をせずに行うほどルッソーニはバカじゃねえ」
「おい、ルッソーニって誰だよ」
 骸とリボーンの会話に綱吉が割り込んだ。
「コイツを見張ってたキャバッローネファミリーだ」
 ゆっくり、上半身が起き上がる。骸が嫌気が差したように吐き捨てた。
「キサマらは、所詮、他人事だ。知らないから……、僕の身体は、……、移植手術ごときで、身体とのリンクを切り離せなど……うっ」
「無茶するなって! リボーン、右目を取り返せないのか?」
 骸の肩を抑えながら、綱吉が振り返る。赤子は顰め面で首を傾げた。スーツの懐を漁り、携帯電話を取り出す。自慢の衛星携帯電話だ。
「過度な期待はすンなよ」
 リボーンの背中を睨みつづけたが、扉が閉まると、脱力したように骸は布団に沈み込んだ。
 反射的に腕を引き上げ、ツメをたてたまま右目を覆う。綱吉は喉で悲鳴を噛み殺した。
「骸、また、掻こうとしてる……!」
「あ――」
 不意に、怒りが込み上げたかのように相貌を歪めた。怒りは躊躇いなく矛先を変えた。
「君は満足だな。このまま、この――六道輪廻の記憶がないままの僕で、いたほうが、便利なんじゃないか?」
「そ、そんな……。そんなこと思ってない」
 敬語をかなぐり捨てた喋り口に、気後れしながら綱吉が言う。
 忌々しげに骸の口角がつりあがった。
「くっ、くく、ハッ……。畜生が……!」
「だっ。だから、掻くなってば!」
「僕に、触るな……ッッ」
「あんたが掻こうとするからッ――!」
 骸の左手が、綱吉の顎を鷲掴みにした。
 下顎が粉砕されるのではないかと、疑うほどの握力だった。みしみしと骨の軋む音が稲妻のように脳天を駆け抜けた。
「――――っっ」
 戦慄した綱吉を見て、骸が手を離す。ばたっと後ろに倒れこんで、両手で顎を抑えた。
 じんじん、痛みと恐怖とで視界が潤む。骸が両目を顰めたが、綱吉は、部屋を飛び出そうとはしなかった。懸命になって少年を見返すと、彼は出鼻を挫かれたように綱吉を見返した。布団に身を沈めて、天井を見上げる。自分に言い聞かせるような呻き声が聞こえた。
「六道の、記憶は……、呪いに似てる。視神経が、目が違うと言って……僕を責める」
「……そん、な、ことが有り得るの……?」
 いまだに怯えの消えぬ瞳で、綱吉。
「わからないでしょうね。実際の感覚は……、しかし、右目を基盤にして全身に繋がっていたから、僕は六道輪廻の力を自在に使えた」
 奥歯で噛んだまま喋ったような声。
 綱吉は、何度か堰を零した末に骸ににじり寄った。腕の震えを抑え付けて、少年の後頭部へと触れる。枕とのあいだに氷枕を差し込んだ。抵抗は無かった。
「オレ。行くけど。お粥かなんか、作ってもらった方がいい?」
 綱吉は腰をあげて、電灯の光量を落とした。
「……君、さわだ……、綱吉くん」
 力の無い呼びかけと共に骸が両目を閉じた。右手と左手を重ねたまま、前へ出す。意味を図りかねた綱吉だが、骸の口元へと耳を寄せた。か細く声がする。
「縛れ……。翌朝になったら死んでたなんて、僕も、ごめんですから……」
 右目の、目尻がビクビクと戦慄いていた。綱吉が固唾を呑む。自分の部屋に戻り、ネクタイの替えで骸の両手首を縛った。ギュウウと強く締めると、苦しげに薄目が開いた。両腕のあいだにはクッションでも毛布でも、柔らかいものをたくさん詰め込んだ。
 終える頃には、骸はクッションの山を抱きかかえた形で横になっていた。ぜえ、ぜえ、と呼吸が荒さを増していく。縛られた指がガリガリと布を掻いた。
「待って……。オレの枕も、貸す」
 鳥肌を立てながら、綱吉は腕の下に枕を差し込んだ。
 せめて、フローリングに腕をぶつけない方が痛くないだろうと踏んだからだ。
「オレもディーノさんに言うから……。前の目に戻れば、そんなに酷くならないんだろ?」
 クッションに顔を埋め、押し付け、骸は返事をしなかった。首筋まで真っ赤になって鳥肌状のツブツブを肌に浮かばせている。体内にいかなる変化が起きているのか、綱吉が察しきれるものではなかったが、心臓が震えた。部屋をでると、リボーンが待っていた。
「どんだけかかるかわかんねェ。テメーは骸についておけ」
「……うん」
 骸から、少し離れたところで座ったままカーディガンを肩にかけた。
 人影を訝しむように青目が光ったが、それだけだ。苦しげな息遣いが断続的に響く。氷枕を取替えに四度ほどリビングと行き来をした。
 頭部を持ち上げると、ビクリと首筋が緊張する。
 綱吉は、恐る恐るとしながら眠りについていった。心臓が燻る思いがした。
(この人は……。何を考えて、生きてきたんだろう)



>> 6. へつづく

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