魚の血脈くうものとわれるもの

 

 

 


(放っておけばケモノとなり人を喰う)
(それは君の望むことではないのでしょう? 綱吉くん)肩が、ゆっくりと上下した。
 川の向こうには白壁の工場が郡をなしていた。煙突から真白の煙が立ち昇り青空をけぶらせる。
 一帯に人の気配はなかった。それを知っていて、骸はこの町外れの一角へと駆けてきたのだった。ネコのように細められたオッドアイには何も映っていなかった。
 赤と青の膜が、彼の視界のぐるりを覆って終局を連想させた。
(……ここでリボーンに喰われれば僕の魂は死ねるんでしょうか?)
(もし。もし、与えられていた役割が、西暦に蘇る人魚のための供物ならば)
(いや、そうだとしてもココで死ねば輪廻に終止符が穿たれるとは限らない。綱吉くん、君に答えたのと同じだ。試すにはあまりにリスクが大きい。冒険はしないと決めた)
 疑問に答える声はない。赤い槍を水平にして、両手で持っていた。静寂が満ちていた。
(さんざんに僕をしゃぶっておきながら、まだ手を緩めませんか。ケン、チクサ。みんな。君たちを死に至らしめておいて、僕はまだ手放す気がないらしい。今度は骨までを食べる気でいるようだ)
 槍をギュウとひときわに握りしめる。右足に体重を預け、めいいっぱいに振り回した!
 ギッ。くすんだ悲鳴をあげて黒い塊が砂利の上をバウンドした。
「やはり追いかけてきましたね」
 赤黒いウロコが足元に飛び散る。その生き物は河川の中に飛び込んだ。赤黒のウロコとコバルトブルーの粘液とが水面に広がる。ワニの口――に、よく似た人魚の口が骸に牙を見せた。
「エサを食べるときの形態。よだれまで垂らして、くははっ。綱吉くんには見せられませんね」
 犬のような唸り声。嘲笑じみたものが骸の口角に浮かび上がった。
「脊髄は人魚に侵食された。……脳は? 僕の声が聞こえるなら反応を示してください」
 くにゃりと歪んだ眉根が語るものは、しかし唇の語る感情と相反していた。
 憐憫を香らせるまなこが小さな人魚を眺める、もはや胴体までが口に侵食されていた。
 側面から四つ、細長いものが飛び出ている。手足だ。人魚の唸り声は秒刻みに大きくなる。心臓を炙られる。指先に力を込めた。
「やはり手遅れですか。奇跡は起きない……。クフフ。そんなの、よくわかってるはずなんですけどね。君の弟さんが、ひとの心がどうとか叫ぶものだから僕まで祈りたくなるようだ」
 河川を滑る風は生暖かかった。人魚から腐った魚の匂いがした。
「リボーン。君が憎いわけじゃない。君の中の、今、僕に牙を向けようとするその下賎のケダモノが憎い。チベットの春は成人でした。あなたが未成人と知って、こうなる想像をしなかったわけでもありませんが……。正直なところ、残念ですよ。君はもっとも僕に近い存在だった」
 グルリと赤い槍を回転させる。切っ先は人魚を見据えて、とまった。
「来なさい。引導を渡してやろう」
 コバルトブルーが鮮やかに光る。
 びしゃっと飛沫があがった! 陽光を盾に人魚が骸へ飛びかかる!
 深いシワを眉間に刻んだまま、少年は吼えた。
「君は死ぬべきではない、しかし僕は負けるわけにはいかない! 君に喰われてこの生を終えるなど冗談ではない。その次は何ですかアリですかヘビですか!!」
  ギイイイッ。槍の切先を人魚が避ける、が、それとほぼ同時に骸は槍を横に凪がせた。人魚の横っ面を叩いた手応えがかえる。手を持ち替え、砂利に突き刺した。
「神よ、とでも祈るべきでしょうかね……ッッ!」
 両目はすばやく天空を睨んだ。
「人魚と魚人。それが何だって言うんですかッ!」
 過ぎったのは、光を伴って過ぎったのは、ニコと笑う少年だった。エレベーターの扉が閉まる。
(引き止める権利などないとわかってる)(ですが。僕は)色互いの瞳に陽光が反射する。
 赤い瞳の奥で躍動を繰り返すものがあった、青い瞳は叫んでいた。
「僕のこころは人間だ! 体はたとえ貴様ら魚どもと同じでも、この心が圧倒的に違う!」
 黒い塊が牙を剥く。大地を蹴った。「貴様らに人間が理解できるのか?! 僕は人道に戻りたい。この願いだけは捨てずに今日まで生きてきた! これこそが僕の心がひとであることの証明だ!」
(魂と血肉が魚に侵されようと、僕のッ、心までは!)
(そうなんでしょう、綱吉くん?!)
 刃先はしかし人魚を串刺しにはしなかった。
「!」肩口から赤いものが噴き上げた。数歩を後退りつつ、ニヤリと口角をあげる。食い千切ろうと身体を左右にふる人魚の、後頭部を鷲掴みにした。
「貴様の負けだ……!!」
 歯を食い縛り、骸は自らの肩を突き刺した。グギャアアアと断末が河川に木霊する!
 ゲホッ、と骸の喉から噴き上げたのも自らの血液だった。槍は肩を貫通していた。「グ……ッ」
 人魚を刺したままで、ゆっくり槍を引き抜きにかかる。肩口から迸る熱痛は寒さを伴い、額に真ん中に卒倒しそうなほどの衝撃をうんだ。ボトリと槍が砂利に落ちる、その真中で串刺しになりながら、人魚はギエエエと異様な泣き声でもって骸に怒鳴り散らしていた。
 少年は薄笑いを浮かべた。吐き出した血でもって刃を生成した。
「終わりです。遺体は綱吉くんにきちんと届けてあげますよ……!」
 人魚の両目がカッと見開く。
「?!」手中の刃が、指の間からこぼれ落ちた。
「なっ! に……!」コバルトブルーが驚愕した横顔を照らしだす。槍の真中から尾に向けて、人魚の体がズリズリと後退を始めた。(金縛り! ――人魚の目か?!)
 鮮烈な輝きを灯した両目が。異常な熱心さでもって骸を凝視する。
 槍から抜け出した生物は、勢い込んだ頭突きを少年の腹に命中させた。
「ぐふっ」よろめいた背中に回りこみ、背骨を狙って蹴りを叩き込む。視線が外れた瞬間に金縛りが解けた、が、人魚は反撃のスキを与えなかった。ワニ口が左腕にかじりついた。
「……――ッッ!!!」
 唇を引き結び、しかし色違えの両目は飛び散る自らの血液を睨みつけていた。
 ザラ、と骸の血液が針へと変化する。
 間髪おかずに人魚が飛び上がって顔面へと頭突きを見舞った。
「ガッ!」 針は地面へと落ちた。伏せることを許さないとでもいうように、殴打が連続して振り下ろされる。血反吐が少年の唇を赤く汚した。どすん、と、最後に人魚は腹に喰い付いた。
 頭突きと間違うほどの勢いがあった、骸は浅瀬へと吹っ飛ばされていた。
 全身が引き攣るほどの衝撃が背骨を殴る。……肉が抉れていた。しかし、まだ肺には達していない。大の字に広がった手足をすり寄せ、うつ伏せになった。土砂のまじった水が口に入った。
「……これがっ、魚人が。喰われるだけで、決して勝てない、理由……ですか」
 ごふっと堰をひとつ、それを皮切りに口角から泡の混じった血液があふれ出た。
「そりゃムリですよ、……ッ、ぐ」
 眼前へと人魚が回り込む。コバルトブルー。脳の奥でキィイと響くものがあった。
 視界にいればマインドコントロールができると、それを言ったのは自分だったことを骸は思い出していた。(人魚にも似たような力が、あると……)
 声に出したつもりだった、が、ひゅっと喉が鳴っただけだ。
 うな垂れる頭を、水掻きのついた手のひらがガシリと掴む。
 青い粘膜が骸の視界に広がる。上顎と下顎に、頭だけをすっぽりと咥え込まれていた。左目の青が、歯の隙間から外界を見つめる。
「…………」
 体中が冷え切り、ぐたりと弛緩していた。
 工場の反対側は住宅街である。土手の向こうにあるものを、そのさらに遠くにあるものを。
 あの少年がどこかに在ることを思った。土手に現れた影に青目が揺れる。視界の全面が白に染まりかけていた。喉に新たな血液がせりあがる。
 小さな化け物の咥内は腐ったタマゴと、血と肉の匂いで満ちていた。
 この化け物の口で潰されるのだ。あまりに哀れで滑稽な姿を想起して、少年は肩を笑わせた。
「く、ふふ。くふふふふふふふふ……」
 輪郭がボヤけるもブラウンの瞳が光っていた。骸はやんわりと笑いかける。
(マボロシでもいいです、最後に君を想うことができてよかった)脳天が喉の壁に当たる。人魚は頭蓋を完全に咥えた。そして少年は目を閉じた。
(また。……生まれればいいだけの話ですから)
 グッと人魚の顎に力がこめられる。
 絶叫が、水面に轟いた。
「リボォオおおおお――――ンンンン!!!」
 土手の上を自転車が滑る、落ちる。ガシャンと酷い音も河川に響いた。
「やめろ!!! 喰うな!! ぜええったあいに、喰うなァアアア!!!」
 人魚の動きが止まった。横転した自転車を捨て、すりむいた膝頭にも構わずに駆け抜ける。蒼白の顔色に反して、額には無数の汗の粒が浮かんでいた。
 綱吉は愕然として赤く染まった川水に突っ込んだ。
「生きてンの?!! まだ首繋がってるよな?!!」
 がむしゃらに血塗れのコートを掴み、ワニ口から引きずり出す。
 コバルトブルーが見開かれて綱吉を見据える。綱吉は仰向けにした骸を砂利の上に横たえた。
「っ……」むせ返る血匂に息を呑む。すぐに叫んだ。
「むくろさん!! 返事!!」
 骸は目を開けなかった。指がピクリと動いた。
 気がついた綱吉がその手を握り締める。
「つな、よし……くん」
「生きてますね!」
「ど……して、ここに」
「わかったんです。リボーンの居場所が。やっぱり俺も人魚のひとりみたいで」
『すぐに救急車よばなきゃ。まだ。まだ助かるはずだ!』
 表情が固まった。携帯電話は自転車の下敷きになっていた。骸がゆるく首をふった。
「リボーンは空腹なんです……よ。魚人を、はらに。おさめれば、まだ、可能性が。理性が……もどるかも、しれない。僕の死骸。かれ……に、喰わせて、くだ、さい」
「だめだよ! 骸さんも助けたいって言っただろ!」
 うっすら、オッドアイが開く。綱吉の喉が引き攣った。
「やっと人に戻れたんでしょう。六度目までのことは俺にはよくわかんないけど、でも、もう五回も死んでんでしょお!」青い瞳が呆然として綱吉を見上げる。
 少年二人とも、顔色が真っ青だった。骸の、右の瞳だけが燃えるように赤々と発光している。
「六度目で、終わりにしましょうよお……っ」ガクガクと、震えているのは綱吉の腕だった。
 浅い痙攣を繰り返しながら、骸が自ら腕を動かした。
 指先に拭うほどの力はない、ただ涙を横に伸ばしただけだ。
 眉間を皺寄せた綱吉が骸の指を掴む、そして、彼の指でもって自らの涙を拭った。
「解明するんでしょ。それで呪いを解くんでしょう。リボーンも」 (リボーン) ハ、として背後を振り返る。綱吉は瞬間的に青褪めた。人魚は、すぐ背後でコバルトブルーの瞳を閃かせていた。
「リ、リボっ」だんと砂利を蹴り上げる。綱吉の肩に乗った。
 ワニ口がガパっと開く――骸が霞んだオッドアイを見開かせる、綱吉が叫ぶ前に、骸が叫んだ。
「ぐああああっっっ!!!」
 飛び出た真っ青の舌が、骸の右目を貫いていた。
 綱吉が腰を抜かした。舌が、くぼみから引き出した赤い塊を口中に引き込んでいた。
「み、右目だけですます……気……ッ」
 右目を鷲掴むように抑えたまま、背を仰け反らせ痙攣を繰り返していた。人魚も肩から落ちていた。砂利の上をのたうち、ウロコは独りでにビラビラと蠢く。
「ふ、ふたりとも……?!」それぞれにのたうつ両者に、忙しなく首をめぐらせる。
 喉元まで絶叫がせりあがっていた。『どうしよう、どうすれば。誰か』ウロコの生えた腕を握りこみ、もう片方で骸の手を取る。握りしめるしか、方法を知らなかった。痙攣がとまらない。
 ぼろぼろと涙を零すひとみは、やがて、小さな手からザラついたものが消えたことに気がついた。肩で息をする赤子が映った。ワニ口がない。
 ぜえぜえと体を弾ませ、憔悴した面持ちを持ち上げる。
「チャオ。なんとか、オレだ」
「リボーン……っ、よかった!」手の甲で目元を拭い、そうして痙攣のやまない指が視界に入った。不規則に跳ね上がる指先は、ツメを真っ白にさせてだらりと折れ曲がっていた。
「むっ、骸さんの様子が変なんだ。どうしよう?!」
 繋いだままの手にひっぱられ、リボーンが骸を覗きこむ。
 ぼろぼろの衣服を身に纏い、痣だらけの体で、リボーンは自らの顎を撫でた。
「ショック死とかな。あるよな、そういう死に方」
「そんな!!」
『ああ……でもほかも。ひど、い』
 改めて全身を眺めれば、目を背けたくなるほどの惨状がおきていた。
 噛み千切られた肩がいびつな形をしている。目尻を引き攣らせながらも、腹のへこみに目を凝らした。血に混じって奇妙な赤い。ピンク色の。
『こ、こんなに酷かったのか。これじゃ。これじゃあ』
「……む、骸さん。大丈夫ですか……」
『だめだ。なに言ってんだよ。大丈夫な、わけが』
「クフ……」眉間をシワ寄せたまま、口角からあぶく混じりの血液を流しつつ。
 しかし骸は眉根と青目。唇を笑わせた。かたく閉じた右目からはだくだくと血流がこぼれていた。
「残念、ですね。やっと、六道へ。ひとの、たましいが、ほんらい辿るべき輪廻に、まざれる……と」
「病院。だいじょうぶ、きっと、すぐに行けば。すぐに行けば助かります」
『だめだ。俺、ウソを言ってる。もう助からない』
 骸の微笑みが深くなった。「またいつか」
「君のたましいに、であえれば……いいです。ね」
『そんなの……。いやだ。だめだ!』
「だめといわれても」
「え?」
「くふ。いってませんでした、けど、……ひとのこころが、読めるんです、よ。魚人は」
「ええ……」曖昧な相槌だった。
 綱吉は、ひかりの薄れていく青い瞳をただ見下ろした。
 握った指は。風よりも冷たい。『俺』
 頬を伝う涙だけが暖かかった。骸の頬にぽたぽたと落ちていく。青い瞳は、開けたまま。徐々に濁っていった。笑顔のままで。
『俺。結局、この人を助けられないで終わるのか……?』
 リボーンが目を逸らす。下唇を噛み、俯いた綱吉の視界に、赤黒のウロコが映った。
 鋭利な刃先を見つけた。鋭利な。視界はその一点だけに凝縮された。ウロコを拾いあげていた。
『この人はそれを望んでいない。助かるかどうかも。うまくいくかどうかもわからない。でも』
『世の中なんてわかんないことだらけだ。ごめん、骸さん。冒険させてください』
 ゆらり、と、ブラウンの瞳に決意が湧いた。
「俺の血。不死の血脈があるっていうなら」
「ツナ?!」ざくりと手首の内側にウロコを突き刺した。
 引き抜けば、どばりと多量の血が噴出した。骸の口に宛がう、濁った青目が綱吉に焦点をあわせようとしていた。しかし、あわない。あわせるだけの力すら残っていない。
 ぐううと手首を縛めて、血を搾りだした。涙と混じって落ちていった。「呑んでください……!」
「あんただけを死なせたくないんだ。もし。もし、これで骸さんが死なない体になったなら俺も不死になる。だから、呑んでください……」
「つ、……な……く、げほ」
 新たな血流が喉を沸き上がった。
「死なないで。骸さん……っ」
「……、――――」骸の唇が蠢く。声には、ならなかった。
 フウとひびいたため息はリボーンのものだ。赤いウロコを摘み、少年を覗き込んだ。
「特別だ。オレのも呑んでいーぜ」
「…………」
 目蓋を閉じかけた青い瞳がリボーンを見上げる。
 そのまま綱吉へと視線が移った。しゃくりをあげながら、しかし、真剣に見下ろす顔があった。
「…………」骸は目を閉じた。息を呑んだ音が少年に聞こえる。もう、深くは考えられなかった。体中の感覚がとうに消えていた、最後に残っていた。胸の重みが、浮き上がるようになくなっていった。
 骸には馴れた感覚である。すでに、五回ほど経験していた。
(……次に重みを感じたときに。この体が虫であっても)
(後悔はしませんよ、二人とも)
(ありがとう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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