魚の血脈のこころ

 

 


 

 生徒たちは、少年が再びやって来ていることにすぐさま気がついた。
『あの髪型。いつかの美形じゃん。何してんだ?』
『またデンパなこと喋りにきたのか。魚のは見つかったって噂だけど』
『今度こそ。今度こそ、話しかけなくちゃ……!』
 木枯らしの中、立ち去れずにでこぼことした円形を組んで談話する少年少女が複数。
 前回がそうであったように、少年が声をかけるのを誰もが待っていた。けれど当の本人は、そ知らぬそぶりで目を瞑りマフラーに顔を埋めるだけだ。風が吹くたびに小さな悲鳴が巻き起こる。五分、十分と時間が進むたびに円陣の数が増えていった。かげった光に照らされて、影がコンクリートに細く長く縫い付けられていた。
 ふいに、六道骸は顔をあげた。両目がパチリと開く。ざわめきが沸いた。
『あれっ。両目が青?』
『オッドなんとかじゃなかったか』
「綱吉くん」小脇に挟んでいたカバンを持ち替え、校門をでたばかりの少年を捕まえる。
 小柄な体躯とブラウンの瞳。沢田綱吉だ。
 綱吉は、唇を「イッ」の形にして骸を見上げた。
「ど、どうしたんですか? 学校は? ……その目はっ?」
「早退しました。それより君は大丈夫なんですか? あの電話だけじゃよくわかりませんよ」
「べ、べつに」さっと視線が逸れた――ように、骸には見えた。綱吉は辺りの人だかりを愕然として眺めていた。骸がヒョイと右手首を取り上げる。包帯が巻かれていた。
「やっぱり、痕は残っちゃうんですね……」
「む、骸さん。こんなとこだと困ります。行きましょう」
「貧血は起こるんですか? 病院で何かいわれました?」
「その話は後にして、とにかく走って!」
 背中を押して、綱吉が走り出す。骸も抵抗せずに走った。
『おい、誰か止めろ。逃げたぞ!!』
『なにが関係ないだ、サワダのやろー、思いっきり知りあいヅラしてるじゃねえか!』
『紹介しろ――!』
「おまえら、何してんだ!!」
 あわやマラソンが起きかけたところで、教師の怒号が響いた。生徒たちが足並みを崩す。その間に、骸と綱吉とは交差点を渡りきっていた。先に走ったはずの綱吉は早くも骸に抜かされていた。
 くるりとコートがはためき、骸が振り返る。青目が遠のいた校舎を見上げた。
「僕の個人情報、彼らにバラしちゃダメですよ。面倒くさい」
「む、骸さん。学校にくるのは止してください……。すごい目立ってますよ。明日なにを言われるか、わかったもんじゃないですから!」
 肩を竦め、しかし骸は確信した足取りで沢田家へと歩きだした。
 綱吉があとに続く。視線だけで見下ろし、骸が呟いた。
「退院、おめでとうございます」
「ああ、はい。でも俺こそありがとうございます。骸さんなんでしょ? 看護婦さんが、俺を運んできたのは格好いい男の子だって。目にカラーコンタクトを入れててびしょ濡れだった、とか」
 骸は遠い空を見つめた。冬の空は青みに白が混じっていた。雲は細長くて所々が切れている。
「……目を開けたら、よもや君たちがぶっ倒れてるとは思いませんでしたよ」
 声音には呆色が強い。
 目尻を引き攣らせ、綱吉も同じく空を見上げた。
「やたら出るなぁって思ったら、動脈まで切っちゃってたみたいで……。最後まで自殺未遂かと疑われました」
「事故ですよ。自殺なんて、とんでもない」
「まぁ、ナゾの野生動物と格闘したらしいってことになってますよ」
 最後は消え入った声だった。河川には多量の血痕が飛び散り、魚が腐った匂いが立ち込めていたために、ちょっとした騒ぎになったのだ。地元のテレビ局は奇怪な肉食生物あらわるというキャッチコピーで特集を組んだ。 (ほとんどホラー番組みたいなことになってましたけど)
「リボーンには……。会ったんですよね?」
 綱吉の瞳孔が広がった。空を食入るように見上げたまま。
「会いましたよ。入院した、その日に」
「じゃあ僕の家をでて、すぐそっちにいったんですね」骸の唇が笑う。
 何かを諦めるような、小馬鹿にしたような響きすらある笑い方だった。瞳孔を開かせたまま、綱吉は視線を移した。家の前で、二人の女性が顔を合わせていた。片方は母親の沢田奈々だ。
 もう片方はヒョロ長い背丈の青年だった。中年の女と向き合い、何かを話し込んでいる。
「お。ツナ」青年が二人を振り返った。スーツの表面が光沢を放つ。
 骸が一歩を下がる。ブラウンの両目は、俄かに潤んで青年を見返した。
「ただいま、リボーン」
「綱吉ちゃんにお兄さんがいたのねえ。しかも格好よいのねえ。オバサン惚れちゃうわ」
「ハハ。そりゃいいな。オレは女を大事にする主義だぜ、奥さん」
 リボーンは帽子のツバを下げた。百八十を超える長身なうえで、映画の一場面のような動作。主婦はパッと両手を結んだ。目がきらきらしている。
「まぁっ。奈々さん、今度は彼と一緒にウチにきてよ。ごちそうするわよ!」
「ええ、ええ……。そうさせていただくわ」
 クスンと鼻を鳴らし、奈々が微笑む。リボーンは切れ長の黒目を笑わせて、母親へと視線を返した。地方の親戚宅で生活をしていたと、近所に挨拶に回っているところで、骸と綱吉とに遭遇した次第である。主婦に別れを告げると、二人は次なる住宅に足を向けた。
『よかった。ほんとうに。母さんもうれしそう』
 固唾を飲む綱吉の、カバンがチョイと引っ張られた。
「え?」骸は、無表情のうえに目蓋だけを半分下げて、じっと綱吉を眺めていた。
「ああ、ごめんなさい。俺の部屋でいいですよね?」
 リボーンが肩越しに振り返った。切れ長の瞳はワケありげに骸を追いかけた。
 顎を持ち上げ、頷いて、沢田家にあがった。綱吉の部屋はすっかり整理がついていた。
「この部屋、オレひとりが使うことになりました。リボーンがデカくなったから」
 カーペットが取り替えられていた。ベッドシーツも新しいものに替えたようである。
 マフラーを解き、骸はその上に腰かけた。口がにわかに尖っていた。
「なんだか、彼って大きくなりすぎな気がするんですけどね。どこにあんな栄養が」
「そういいながら、面倒みてくれたんでしょ? 聞きましたよ。あのスーツも骸さんが工面したって」
「不可抗力ですよ。大の男が素っ裸で昏倒してたら、ビックリして連れ帰るじゃないですか」
 ツンと尖った唇のままで、骸。綱吉の両目はニッコリと笑っていた。
『やっぱり、骸さんはいい人だよ』
 少年は嘆息をもらし、膝のうえに肘をたてた。手のひらで顎を支える。
「死にかけた後に自転車走らせるとは、ほんと、思いませんでした」
「あっ。俺の自転車!」
「マンションの駐車場においてありますよ。サドルが歪んじゃってましたけど……と、いいますか、気にするポイントはそこですか」
「あはは。わかってますよ。本当に」
 言葉をきって、骸の隣に腰かける。綱吉は照れたようにはにかんだ。
「今の俺があるのもリボーンのあの姿も、ぜんぶ骸さんのおかげです。ありがとうございました」
 青目の焦点がカーペットに落ちた。(別に、お礼を言わせたいわけじゃないんですが)
 それでも少年は感じずにはいれなかった。胸を暖めるのは、たった今の言葉によって灯された篝火である。フウと、細い息を、長く吐き出した。綱吉はじぃと少年の両目を見つめた。
「骸さん、あなたはどうなってるんですか。その目は?」
 入院中に骸は見舞いにこなかった。そのため、実際に顔を合わすのは人魚の一件以来である。
 骸の青目は人魚のコバルトブルーより色が渋い。かつて、骸の右目――赤い目の隣にあったときの青色と、同じ色だ。依然として「六」が右目の網膜に焼き付いていた。
『リボーンはカラーコンタクトで黒くさせてる。でも、骸さんは』
「右目ですか? 六の字がまた浮かびました。おそらく、僕の大元――魂に刻まれてるものなのでしょうね。色のことを言ってるなら、赤いのは肉の色でしたし、いまの青はもともとの色ですよ」
「そうじゃなくて。あなたは人魚になったんですか? それとも……、まだ魚人で?」
「さァ」ふざけたような物言いだが、瞳は笑っていなかった。
 ただ、静かに、海の青さを思わせる両眼を横たえさせるだけだった。
「さ。さア、って」「そうとしか言いようが」
 眼前に突き出されたのは小指だ。
 綱吉が目をきょろきょろさせて、指先と骸とを見比べた。彼の唇は薄く微笑んでいた。
「僕が見舞いにいかなかった理由です」
「? どういう意味ですか」目の前でピコピコと畳んだり伸ばしたりを繰り返す。
 戸惑ったまま、綱吉はその小指の動きを握って止めさせた。骸が殊更に笑みを深めた。
「いろいろ試してみてました」
「何を」「体の変化についての実験」
「実験? 何かまたアブないことでもしたんですか」
「ごらんの通りです。小指が再生しました」
「は?」数秒の沈黙の後に、綱吉がギャアアと叫んだ。
 突き飛ばすように骸の腕を放り投げ、後退り、ギュウと枕を抱き上げた。
「なっ。なんてもの握らすんですか!」
「自分から握ったんでしょう。前のは……」
「言わんでいい! どうせ保存してあるんでしょ?!」
「してありますよ。砂が」「えっ?」
 緩んだ両腕のあいだから、抱いたままだった枕が転がり落ちた。
「砂が保存してあります。切り離して、すぐに解けて砂になってしまいました。人魚の死に方です」
「……そんな。じゃあ、骸さんは。人魚に」
「そういうこと、でしょうかね」青の瞳が翳りを灯した。
「今のところはリボーンがしたような変異は――。ああ、この話に入る前に、違う話をしましょう。綱吉くん。魚人の呪いを解く手はずが見つかりましたよ」
 沈痛な面持ちで枕を見下ろした綱吉は、そのままの姿勢で目を見開いた。
 数秒の硬直の後、平坦な調子で語る骸とは対照的に、喜色が少年の顔いっぱいに広がった。呆けた眼差しで骸を見返す、少年の唇は一文字が引かれたままだった。
「ほっっ、本当ですかっ? すごい!! やったじゃないですか!」
「喜んでくれるんですね……」ブルーの瞳だけがニコリとする。
 無理に押さえつけているような奇妙な笑い方だった。綱吉が違和感を覚える前に目を閉じた。
「けれども、君にとっては悪い話だ。輸血が不可欠なんですよ」
「え?」ピ、と少年が人差し指をたてる。
「僕だけではありません。リボーンも」
「え、ええっ?! なんでまた!」
「最初の質問に戻りますと、僕は今、魚人でも人魚でも人間でもない、非常に不安定な位置におかれているんです。僕は、いわば魚人が人魚の血肉を食べたようなもの」
 青目が開かれる。ゆらり、と、上下に揺れていた。
「自分を、殺したくて堪らなくなるとは思いませんでした」
「……っえ」理解に数秒を要した。骸は淡々としていた。
「僕が人魚に適合したことは、すぐにわかりました。目覚めた時には眼球が再生してましたから」
 うっと顔を顰めて、しかし綱吉は語る言葉を熱心に拾い上げていた。
「あとからきたんですよ。魚人でありながら人魚に適合したことの不幸とでも……」
「遺伝子のエラーが起きた、とでもいいますか。人魚が成人するには、魚人を殺して食べる儀式が必要になる。僕にとって最も近い距離にいる魚人はひとり。つまり、僕は、六道骸と名乗る魚人を食べれば、完全な人魚となって、意識の不死という呪いから逃れることができるわけです」
「ろ、ろくどうむくろを……」綱吉の声が震えた。青目は奇妙に揺れながら、細められた。
「魚人は人魚の下位生物ですから、人魚という上位生物でもって上書きさせるんです。僕の血肉と、魂に」慌てた声が割り込んだ。非難の濃い叫び声だった。
「ちょっと待ってください。無理だよ!! 自分で自分を食べれるわけが……ッ」
「くふふふふふふ……。小指、切り落としたのはそういう事情からなんですよ。食べてみようとしたんですけど無理でした」
「ひいいいいっっ」『エグ! 笑顔で言うな!』
 右目が手のひらで覆い隠された。左目はニコと微笑んだ。
「もちろん、人魚となって逃れるにしても、あちらは僕をクローンに仕立てるべく活動するでしょうから一筋縄ではいかないんですけどね。これはリボーンにも共通する問題です」
 綱吉は数秒だけ唇を円形にさせて、しかし、すぐに引き結ばせた。
「リボーンは僕の右目を、魚人の肉を喰いました。その効力で彼は成人を遂げた。けれども根本的な問題が解決していない。人魚をこの先も抑え込めたわけではないんです」
 手のひらは心臓へと移動する。綱吉は、引き攣ったままで間接のくぼみを見つめた。
「そう、ですよね。気になってたんです。リボーンが大人の姿でいられるのも人間でいられるのも、今だけなんですか? ……何かの、例えば骸さんに触れば、また人魚になっちゃうんですか?」
「はい」遊ぶような調子で、あっさりと骸が頷く。綱吉がことさらに目を開かせた。
「彼が赤子に戻る可能性はほとんど常にあります。人魚として覚醒する可能性も」
「そんなっ。じゃあ、え、えっと。もうすぐリボーンが帰ってきちゃうから、とにかく逃げないと!」
「その心配はありませんよ。あの様子なら今日はまだ大丈夫です」
「今日は? まだ?」尋ね、すぐに下唇を噛んだ。
「骸さん、焦らさないでください。あんた達の命にかかわることじゃないか!」
「別にそんな気持ちはありません」 「輸血のワケはなんですか」
 ぎっと睨まれ、骸は視線を明後日へと泳がせた。
 そうしながらも、間髪をいれずに言葉を返していた。
「人魚のリボーンと魚人の僕。そして人魚の血脈がありながらも死んでいく沢田の綱吉くん。この三人の血液を混ぜ合わせ、僕とリボーンに輸血します」
「そうすれば、皆が幸せになれるんですか?」
「……あのとき。君とリボーンは僕に血を飲ませた。人魚の血と沢田の血の両方でした」
「それがカギだったんです。綱吉くんが入院してから数日間は、リボーンは僕のところで寝泊りしてました。もしもに対処できるのは僕ですから。肌が触れないように手袋、夜は縄で括っておきました。しかし、彼とは関係なく異変が起きた。僕は、僕を食べたくてしようがなくなっていったんです。食欲や睡眠欲すらも凌駕するほどに」
 綱吉の額に、ぬめりを帯びたものが滲んだ。骸は枕のまわりをまんじりともせずに眺めた。
「リボーンの血を呑めば、僕を成人の人魚と誤認させることができるんじゃないかと……、つまり、魚人を食べた後の人魚と思わせることができるのではないかと、思った。リボーンに自らの採血をさせて、試してみましたがすぐに吐いた」
 頬で、汗の玉はしっかりした形となって流れて落ちていった。
「綱吉くん」青目が、ぴたっと綱吉に焦点を合わせた。
「君の血液とあわせることを考えました。それで、うまく抑え込めたんです」
「考えました。どうして沢田綱吉の血がまじれば飲み干すことができたのか? どうして僕は死ななかったのか? どうして魚人たる僕が人魚に適合できたのか?」
 構わずに骸は目を閉じた。やや紫がかった色をして、彼の唇は震えながら囁いた。
「沢田綱吉には人と魚、両方の血脈が流れている。君の血液は、つなぎに……なるんです」
「君たちには人魚の血肉を無効化する力があるんだ。それでいて人魚の血統でもあるので、僕とリボーンが拒絶反応を起こすことがない。リボーンに、僕と綱吉くんの血液とを混ぜたものを与えました。僕という魚人の血を与えることで成人の体を保たせ、綱吉くんの人間の血で人心を奮わせるために。時間をおいて彼に触れてみた。勝負でした。効かなかったら、僕は殺されたでしょうから」
 ふたつの青目が開く。綱吉へと戻った。
「君に習って冒険してみたんですよ、これでも」
 クスリと唇が笑う。
 青い視線は、色を意図的に隠そうと試みながらも、やりきれずに揺れていた。
「それ、で。どうだったんですか? 俺の血が混ざれば二人とも人のままで?」
「僕とリボーンは人間の姿で、無傷でここにいる。それが答えです。 ついでに僕だけでの血液も飲ませてみましたが、同様に吐き出しました。綱吉くん、君の血は魚人と人魚をつなげるだけでなく、この哀れな化け物を人の姿につなげておくこともできるんだ」
 綱吉が黙り込む。まっすぐ、骸を見返し、眉間にシワを刻んでいた。
『骸さんとリボーンを人につないでおく……? おれが?』
「人魚を無効化する君の血でもって、人間の血脈を強化してゆくのです。魚人と人魚、魚に侵された六道骸とリボーンに輸血する。そうして少しずつ不死への抵抗をつけるんです。同時に僕はリボーンから成人した人魚の血を貰う。リボーンは僕から魚人の血という栄養素を補給する」
「三人で、グルグルって血をまわしていくんですか?」
「そうです」こくり、大きく骸が頷き返す。その瞳にはしかし混迷があった。
「これが今の僕に思いつく最善の方法です。君がいったような、皆が幸せになれる方法かどうかはわかりません。輸血を何年つづけるかも、まだ見当がつきません」
「でも……。そうして、骸さんが人のまま成人した人魚の血を飲んで、人のままで人魚になれたら魚人の不死は終わりますよね。リボーンも人のままでいられる。人の体と、心をもって」
「成長もできる。――死ぬことはできませんが」
『あ』少年が絶句する。骸が、笑った。嘲りとも哀れみともつかないものだった。
「リボーンは僕を殺してやってもいいそうです。僕も、リボーンを殺してやってもいい」
 綱吉の瞳に色濃く浮かんだものは、骸のと同じ色をした混迷だった。骸の語る声音には硬いものが滲んでいた。悲哀と、少しの愉悦だと綱吉には感じ取れた。
「君の、沢田の不死への抵抗力がある血を飲みつづければ、君たちと同じに不死でありながらも死ねる体になるかもしれない。実際に、何年かあとで僕かリボーンを殺してみないとわかりませんが」
「それはやめてください」疲れてうめく声。骸は肩を竦めた。ニコ、と、笑顔があった。
「両方を助ける、ですか。その甘さが仇にならないことを祈りますよ」
「いつかの骸さんじゃないですけど、それこそ放っておいて下さい」
「おやおや」 気の抜けた相槌に、綱吉は、溜めていた息をふうっとまとめて吐き出した。
「いいんですね? なんか、聞いた感じだと未知数なことだらけじゃないですか」
「冒険、してみることにしたと言ったでしょう。僕も少しは習わなければ」
「はあ」「ただ、」骸が言葉を切る。
 混迷の消えた瞳には、今度はハッキリとした戸惑いがあった。
「君から採取する血液の量が半端なものじゃない。貧血は頻繁に起こるでしょうね」
「ああ。それぐらい、構いませんよ。いざとなったら母さんに手伝ってもらえばいいし」
 胸を撫で下ろし、綱吉がベッドをおりた。 動揺を震わせ、青い瞳が影を追う。
 綱吉はキョトンとして見返した。
「? 言ったじゃないですか。肉でも血でもあげるって」
 笑んだままで部屋をでた。お菓子はないのかと叫ぶ声が、階段をくだっていく。
 階段の真ん中で足を止めた。骸が、呼び止めたのだ。
「あなたはバカですか! どうしてそこまで僕に協力しようとするんですか」
「骸さん。……なんて顔、してるんですか」
「綱吉くんは僕に心を見ろといった。僕の苦しみがわかるといった。――君は、綱吉くんは、たしかに人です。不死の血脈がありながらも死ぬということでなく、あなたは人間だ。僕は君を好ましく感じる。闇が光に憧れるとはこういう気持ちでしょう……。しかし、光が、闇に憧れるなどという話は聞かない。どうして、綱吉くんはそこまで僕を助けようと思うんですか? 二週間前まで顔も知らなかった他人でしょう? ずっと不思議でした。教えてください。どうしてですか?」
「リボーンを助けたいと思うのと同じですけど……」返答には、沈黙を挟んだ。
「はじめは、リボーンと重ねて同情したんだと、思います。この人もこんなに辛かったんだって。でも」
『でもいまは違う』「どういうことですか?」綱吉がハッとして目を丸くした。
『そっか。心が読めるんだっけ……。って、やばい。大抵ろくでもないこと考えてるような気が――』
「そういう自省はあとにしてください。僕の視界にいる限りは諦めることですね」
 えええええ、と、ざわめきが綱吉の胸を占拠する。
 しかし骸が再び答えをせかしたので、ゴクンと喉を鳴らせた。
「あなたはリボーンを捜すといってくれた。命まで、かけてくれた。いい人だし、それに頼りにもなる……。大事なひとのために頑張るくらい、どうってことないって、思うんです」
「大事なひと……。ですか。ぼくが?」青い瞳がきらめいた。
「もちろんですよ。俺、骸さんが好きです」ニッコリと綱吉が笑い返す。
 じぃ、と、その笑みを食入るように眺める骸だが、その間にも綱吉は微笑んだままで眼差しを返した。臆することは何もないというように、胸を張って。
「不思議な人ですね……」呟いたきり、骸は沈黙した。
 数分の時間を要して、戸惑いを張らせていた瞳の青がクルリと裏返る。
「やっぱりバカだと思うんですけど……。敬意を払うには値する。見事ですよ」
 ニッコリ。喜色をまんべんなく浮かびあがらせた笑顔に、綱吉が一段分を踏み外した。
「ほ、ほめてんですかそれは」
「もちろん」目尻を引き攣らせたまま、綱吉が台所へと向かう。
 見送り、骸は両肩でめいっぱいに息を吸い込んだ。
 ずっと。それこそ、何百年も前からつかえていたものが取れた気分だった。自然と手のひらが右目に被さった。魚人の肉はなく、あるのは人間の眼球だ。(つかえていたのは肉ではない)
 やたらと空いた感覚があった。空いているのは右目ではなく、胸だ。胸の真ん中だ。
 気持ちのよい虚無感だった。重く、黒の縁取りを見せていたものの中心が破られて、軽やかな風を通すようになった。脳裏に浮かぶ笑顔に笑いかけるように少年は微笑みを絶やさなかった。
 階下から、がやがやした喋り声が聞こえてくる。
 奈々とリボーンが戻ってきたのだ。階段を駆け上がる音――を、骸が聞きつけたのとほとんど同時に、奈々の体当たりをくらっていた。
「君が六道クンだったのね!! 今回のこと、ツッ君とリボーンから聞いてるわ!!」
 壁に背中をくっつけて、よろめく。奈々は構わずに少年を抱きしめていた。
「ありがとう! 本当に……っ、色々と。お世話になったわ! ありがとう!!」
「お……。おかまいなく。リボーンさんの言葉ではありませんが、お互いさまというヤツですから」
 抱きつく腕から抜け出したところで、綱吉がやってきた。手にはプリンをふたつ。リボーンが後をつけて、騒ぐ骸と奈々とを覗きにきていた。リボーンが「ぶ」と噴出した。
「六道。テレてんのか?」青目がギラリと光って睨みをきかせた。
「母親という存在に接触したのは人生で初めてです。ほうっておいてください!」
「おま……。どこから生まれたんだよ」
「そう意識したことはないとゆー意味です!」
「ちょ、ちょっと。リボーン、骸さん」綱吉は慌てて骸を部屋に押し込めようとした。
 青目に仄かな炎があった。少年は自ら奈々へ向き直った。
「思い出しました。すいません、ミイラは僕が持ってます。腕を折ってしまいました」
「ぶ」と噴出したのは綱吉だ。青褪めて奈々を振り返るが、奈々は、顔をクシャリと崩して綱吉と骸と、二人にまとめて飛びついた。綱吉は腰をドアノブに打ちつけた。
「いいのよ! 君のおかげだもの! ツッ君も六道クンも、本当にお疲れさま。ありがとうね、ありがとう……っ。今日は夕飯、とびきり豪勢にするわ。何がたべたい?」
「肉」と、即答したのは、惨状を階段から見つめるリボーンだ。
 快い返事をして、奈々が階段をくだっていく。後を追いながら、にやにやと口角を吊り上げた。奈々に引き倒され廊下に転がった二人だけが廊下に取り残される。開け放たれた窓から風が吹き込み、ブラウンの頭髪と青みがかった頭髪とを撫ぜあげた。むくりと、起き上がったのは綱吉だった。
「……とりあえず。プリンでも食べましょう」
 引き攣った声音だ。同じく口角を引き攣らせて、骸も腰をあげた。
 じっと少年の背中を見つめる綱吉の瞳に、影が去来する。胸中に先ほどの言葉が残っていた。
「骸さん、ご飯たべていきますよね」骸が首をふる。
「帰りますよ。そんなつもりで来たわけじゃありませんから」
「じゃあ、どんなつもりできたんですか?」
 自室のテーブルにプリンを並べる。
 座布団をもってくると、骸は眉根を顰めて綱吉とプリンとを見下ろした。
「君の様子を見るのと事後報告です。知りたいでしょうし、君には知る権利がありますから」
 ものいいたげに骸を凝視する視線。戸惑いがちに綱吉が告げた。
「俺も、骸さんにご飯、食べていってほしいなあ……」
「なんでまた」「難しく考えることないですよ。ただの好意ですもん」
(ただの好意?)聞き慣れない、というよりも考えつくことが極端に少ない言葉だ。
 目を丸くする少年に驚いて、綱吉がてれたように頬を掻いた。目のすぐ下が赤かった。
「だから、ほんとに感謝してて……。 骸さんって俺より年上ですよね? そういうことも知らないし、これからも、長い付き合いになるだろうし。もっと、色々、話したいなって」
 ふいに脳裏にフラッシュバックしたのは、声だった。黒塗りのなかで綱吉の声だけが届く。俺、骸さんが好きです、と、彼は言ったのだ。数分の沈黙をおいて、骸は座布団に腰をおろした。切れ上がった目尻を丸くさせて、にわかに頬を朱色に染めていた。
「僕なんかを招いていいんですか。ほんとうに?」
「当たり前ですよ! あっ、好きなものとかあるなら、母さんに作ってもらって」
「お構いなく。ちなみに、僕は君よりふたつ上だと思います」
 おお、やっぱり。綱吉が感嘆をあげる。プリンのフタを剥がしながら、首を傾げた。
「ん? 結局、食べていくんですか」骸はにっこりと微笑んで、頷いた。
「ええ。お邪魔しますかね」綱吉が歯を見せてにっこりとした。
 少年の動作に習って骸も手中のものを口に運んだ。
 プリンなど、何年ぶりに食べているのか見当がつかなかった。しっとりと濡れたやわらかいものは、甘く香りながら舌のうえで蕩けていく。窓辺からは夜が泳ぎだしていた。骸の視線に気がついた綱吉が、窓を見上げた。 空は晴天だ。胸をからっぽにさせるほどに何もない。
「気持ちいい夜ですね。あれ、どっちが金星でどっちが火星かな」
 カラの容器にお湯を注ぎこむようだと、骸が独りごちる。
(これが、心から笑うっていうことなんですね)青い瞳を、静かに閉じた。
『? 骸さん、なんで笑ってるんだろう。もしかして金星でも火星でもない?』
「感心してるんですよ。僕に穴をあけたうえに、別のものを注ぎ入れようっていうんですから」
「……?」怪訝な顔に笑みを返して、とろりとしたものを掻きあげた。
 甘味が咥内いっぱいに広がる。例えあの深海を思わせる夜の中から、冬風が飛び込んできたとしても、容器に満ちた湯から熱を奪うことはできないだろう。
 骸はぼんやりと確信した。これが心というもの。心の、熱なのだ。



 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


>>もどる

>>あとがき(反転
完結、です。お付き合いをありがとうございました!
20×20原稿用紙で125枚でした。もとは第2話「肉と血」だけの話でした。
骸さんが研究目的でツナを捕獲してダークなまま終わるという。骸さんの境遇やツナさん方の事情が切羽詰まっていたためか、結末まで持っていってあげたくなりパラレル連作になった次第です。
この話の骸さんは、「光覆のあしあと」や他の短い小説の骸さん方と、性格をズラして考えてます。ジャンプ連載を眺めていて、骸ツナで両思いってありえなさそうだなー(06年01月現在)、なら、パラレルでやってみよう! という思考が働きました。こっそりバラしますと、「魚の血脈」の目標は、『両思いでハッピーになれる骸ツナ』を書くことと『実はいい人な骸さん』を書くことと『がぶっと喰われる骸さん』を書くことでした。一番最後のはご愛嬌! 両思いというより友愛にかなり近接してるというのもご愛嬌…、です! この後に発展するにちがいないです。
この後は、骸さん・ツナ・リボーンで輸血しあって生きてゆくのじゃないかと思います。

実は、当初は骸さんはリボーンをつれて海外に飛び立つ予定でした。
この時点での設定では人魚は不老不死だったので、ツナが骸さんの歳を追い越さないウチに呪いを消して帰ってくるよ〜、と約束して、あなたならできます! などといいつつ笑顔で見送る綱吉さん、というものです。でもこの終わり方って、両思いな骸ツナを目指すお話には似合わないなァと感じたので現在の形に落ち着きました。

一回、完結した数日後に全編に手直しをいれました。読んだのと違くないかーっと思われた場合は、そういうことですっ。こちらのがスッキリしてて読みやすいかな、と、思ってます。
人魚だったり血だらけだったり、喰われかけたり死にかけてたりとしてますが、ちょっとでもお気に召していただけたら幸いです。 読んでいただけて嬉しいです。ありがとうございました!

06.01.12 完結