魚の血脈皮膚

 

 

 


「リボーンが!」
「……おかしいですね」
 マンションをでて十分。タクシーを急がせ、綱吉のナビゲーションで辿り着いた。
 その部屋は、綱吉とリボーンが共同で使う私室だった。家具という家具が床に引き倒され、窓ガラスには深々とヒビ。床中に、赤々とした血痕が飛び散っていた。
「昨日のアレを、血を、舐めただけなんです。母さんはバアチャンの家に飛んでいきました!」
 真っ赤に腫らした目で、天井の一角を凝視する。骸も同じモノを見つめていた。
 張り付くものは赤ん坊に見えたが、赤黒いウロコが素肌の上にびっしりと生え揃っていた。その生き物は、喋るとともに口から白い蒸気を吐き出した。
「テメー……」
 内側に響くような、篭った声音だった。
「なにしやがった。毒を盛ったか?」
「何もしてませんよ。君がリボーンですね。初めまして。僕の算段では、君がこの世に残る最後の人魚です」
「は、よく調べてくるぜ。オレを殺せればテメーは満足なのか? ツナを懐柔しやがって」
「違うよ。そんなんじゃない。リボーン、骸さんはそんな悪いヒトじゃ――」
「チベットの春を殺したのはコイツだ!」
「ああ……。二十八歳の赤ん坊なのでしたっけね。なるほど。しかし本当に私は何もしてません」
 探るように、黒い固まりが目を開けた。
 輝くほどのコバルトブルーが骸をねめつける。取り乱すことなく少年はブルーを見返した。
「……私の魚人と、君の体とは相性が悪いようですが。どの程度か、わかりますか?」
「大分、進行しやがった。腹が空いてしようがねえぜ……。保ってあと二日だ」
「そんな!!」綱吉が悲嘆をあげた。ぱっと骸を振り返る。
「お願い。助けて。助けて、骸さん!」
「…………」オッドアイを細くして、顎を撫でる。やや間があったが、骸は頷いた。
「あまり期待はしないで欲しいですけどね」
「あ、ありがとう……。よかった。ありがとう!」
 ぐしゃりと顔を崩す少年にハンカチを差し出し、薄く息を吐いた。
「とりあえずは私の自宅に行きましょう」
「あっちになら、色々ありますもんね。リボーン、おりてこいよ!」
「ちっ……。他に手はナシ、か。癪だぜ」
「文句いってもしようがないだろ。大丈夫だ、今度こそ俺を頼れよ。大きくしてやるから!」
「おまえな……。ムカつくから、急にえばんな」
 リボーンが部屋の中央に着地する。骸が屈んでまじまじと見つめたので、殊更に眉根を歪めて後退る。不本意だといわんばかりの不敵な笑みが両者の口角を彩った。
「ちょ、ちょっと。二人とも」
「クフフフフフフフフ。いい度胸ですね。まっ、どーせウチにくれば見放題ですよ」
「コイツもムカつくな。その内、撃つぞ」
「日本じゃ発砲は違法ですよ」
 ニヤリとして、骸がウロコの一片をひょいとめくった。リボーンがうなる。
『所持も違法だっての。せ、性格的に合わないっていう問題があったか』
 半眼で彼らを見下ろす綱吉だが、その両目はすぐに見開かれた。オッドアイも見開かれ、後退るべく体をひく。が、リボーンはしがみついていた。
「な、なにやってんだよ?!」
「……――っ?!」
 ビシビシッ。肌のひび割れる音をたてて、リボーンの顔面にウロコが広がり始めていた。瞬きのあいだに生え揃うほどの素早さだ、リボーンは驚愕して自らの体を見下ろした。
「離れねェ……! 腕が勝手に!」
「ンなバカな!」
「これは――。まさか。相性が悪いんじゃなくて」
 ビシビィッ!砕ける音とともに赤いウロコが飛散し、リボーンが大口を開けた!
「?!」ばくんと二つに分かたれて、まるでワニの口だ。骸には喉の奥までよく見えた。確実にワニとは違っていた。形状は似ているが、中の粘液は真っ青である。声を失う間に距離がなくなっていた。グッとくぐもった悲鳴が木魂した。
「リボーン?!! 骸さん!」
 口中で手をつき、右手で上顎を、左手で下顎をおさえて閉まるのを防いでいた。
 キツく眉を顰め、噛みしめる奥歯が唇のスキマから覗く。
「つ……ッ、綱吉くん。スキ。スキを作ってください、はやく!!」
「どーなってんですかこれは!!」
「抜群に相性がいいんです!!」
 ウロコのひとつを拾い、綱吉が飛びかかる。
 ガッとリボーンの腕に命中した。ワニ口が綱吉を振り向く。「!!」背を仰け反らせる綱吉の、その鼻先で赤いものが閃いた。気がつけば少年は骸に抱えられていた。指を噛み切ったらしく、親指の皮膚の下から赤い鞭が長く伸びていた。
「グッ……あっ、アアアアア!」
 右目を抑えてリボーンが背を丸めた。
 飛び退く間に骸が一撃を加えたのだ。腕から放されて、綱吉が目を白黒とさせた。
「どうしたんだよ、しっかりしろよ! リボーン!!」
「下がった方がいい。少し抉られました」肩を抑えて、骸。
「ばかやろ、放っておけるか! リボーン!」
「くるんじゃねえ、バカはテメーだ!!」
 リボーンは顔面を押さえ込もうとしていた。
 小さな黒目でぐるぐるした混迷が走る。噛みしめた叫び声が響いた。
「ダメだ……ッ。ウッ、グ。アアア!」
「リボーン!!!」
 ガッシャー! と派手な音とともに黒い塊が青空に躍りでる、へたりと綱吉は腰を抜かした。
 その横を骸が駆けた。窓枠にかじりついて辺りを見回し――、最後に太陽を見上げた。
 骸はかすかにうめいた。
「人魚と魚人が一対、ですか」
(さらに人魚は未成人)
「え?」
「リボーンは見当たりませんね」
「そんな」ぐっと、喉につまる何かを飲み下そうとした。しかし小骨のように刺さっていた。
 虚ろな瞳が、骸を――青空を、見上げる。透明な雫が頬を伝い顎を伝った。声はしわがれ、酷く左右にブレて聞き取りにくかった。「あ、アイツ、アイツの人魚の血。覚醒しちゃっ……?!」
「わかりません。五十パーセントといったところですね」綱吉がうな垂れた。
 パタタッと連続して零れる音。カーペットにいくつもの円形のシミが刻まれた。ギュウウウとカーペットを毟りながら、拳を握り、肩が上下に笑いだしていた。
 眉間をキツく軋ませて、視線を窓へと戻した。
(最悪のパターンは、理性を失い人魚に乗っ取られること。あの様子では――)
 色違えの瞳が鋭く街並みを見下ろす。声にだそうとは思えなかった。
 綱吉のしゃくりの混ざった泣き声が部屋に満ちる。真冬にしては暖かい風が吹いていた。
 前髪を掻き揚げれば、後頭部でクセをつけた黒髪がハタハタ左右にはためいた。太陽は高い位置にあった。泣き声だけが鼓膜を打つ、泣き方としては大人しいものだ。けれども赤子がするような、キンキンと響く泣き声に聞こえた。 ふ、と、目を細めた。眩しかった。
(……だめだ。考えが、……まとまらない……)赤と青の目を閉じてから、またあけた。
 拳をつくり、綱吉を振り返る。少年は窓ガラスの破片も構わずに顔を突っ伏して泣いていた。差し出したはずのハンカチは後方でガラス片といっしょになってくたびれている。
 綱吉くん、と、呼びかければ真っ赤に腫れた顔面が持ち上がった。
 骸はにこりと微笑んでいた。
「嬉しかったですよ」
「え?」
「昨日。僕を助けてくれると言った。嬉しかった」
「骸さん……?」人差し指で目を拭い、綱吉が目を凝らす。逆光のなかに佇んで笑う、彼のその姿はひどく綺麗に思えた。その笑みに力がこもっていないように思えた。
「リボーンを捜しましょう」
 声をかけるヒマも与えずに、少年は窓を乗り越えた。コートがはためく音だけが二人の鼓膜を震わせる、隣の屋根に飛び移ったところで綱吉の『声』がした。声だのに鳥肌が生えていた。
『なに。なんだこの違和感。骸さんを行かせちゃいけない気が』
『魚人は人魚のえさ。そのためのいきもの』
『まさか――。骸さん、戻って。だめだよ、だめだ!!』
『今のリボーンはあんたを食べようとするはずだ!! 死ぬ気ですかッ?!』
「…………」ワニ口に突き刺された肩口に手を当てる。
『行っちゃだめだ!!!』徐々に離せば、ズ、と、体内の血が引き出され槍の形で固まった。くらりときた。縛めるように固く握りしめ、空の青を反射させる屋根板を駆け抜けた。

 

 

 

 

 

>>第5話 :くうものと喰われるもの へ

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