魚の血脈:人間の血統
待った。しかし一向に向こう側の少年がドアを開けようとしない、ので、骸は自らドアを押しだした。
沢田綱吉は目を見開き、少しだけ後退りした。
「は、はやいですね」
「外の音が聞こえるとこにいましたから」
半そでの上に赤のパーカーを羽織っていた。その上に着ていたダッフルコートを脱ぎ、困惑していると、開け放しのドアが目に付いた。雑然とした室内にコンピューターが五台。デスクの周辺を取り囲んでいた。ノートやら書籍やらが、床にまで転がっていた。
「研究用の部屋ですよ」
目を逸らしながら言い捨て、骸はコートを受け取った。
黒のスウェットで、襟首には竜を思わせる紋様があった。
隣は三畳ほどの小部屋だった。奥に据えられた机に近寄り、電球を灯す。
「検診結果を。君はそこに座って」
「……骸さん、一人暮らしですか?」
「そうです」テキパキと周辺を片したあとで、少年は青白い用紙をめくりあげた。「ほう。基礎的なデータは通常の人間と変わりませんね。あ、血糖値が少し高い」
「ど、どうでもいいことに着目しないでください」
「まぁ、このデータ自体がどうでもいいですね。予想したそのものの結果です」
「なっ。なら何で受けさせたんですか! 三日かかったし採血もされたのに!」
「念のためですよ」机に座りながら、骸は戸棚から赤十字の白箱を取り出した。にわかに青褪める綱吉をおいて、手際よくビニール袋から注射針を取り出し、注射器にセットする。
「あ、あの……」
『なんで個人でそんなの持ってんだよ!』
「いろいろとルートがありましてね。蛇の道はヘビってやつです」
骸は朗らかに宣言した。
「二度目の採血、いきましょうか」
「うわっ、うわっぁああ!」
「逃げるんですか?」オッドアイが瞬く。
立ち上がりかけた綱吉の腰が、ストンと落ちた。急激に力が抜けたような不自然な座り方だ。
ついで、もそもそと腕が独りでにパーカーを脱ぎ捨てた。
「こ、このために半そで指定しましたね……」
「当然です」目を白黒とさせる綱吉の腕を取り、肘の内側に湿らせた脱脂綿を押し付ける。
鼻腔にツンとくる薬品の香りが室内いっぱいに広がった。
『こ、この人。こんな一等地のマンションに住んでるし、おかしすぎるところが満載だよ』
親指でグリグリと押し出し、血管を探す。容赦のないやり方に、ひぃっと喉を引き攣らせた。
「ここ数日、周囲から何を言われましたか?」
「リボーンには」唇が独りでに開いた。
「ばかやろうって怒鳴られました。匂いに腹が疼くんだそうで、部屋からでてこようとしません。母さんはものすごく怒ってます。はやくミイラを返せって。学校の連中は骸さんのことねほりはほり聞き出そうとしてきます。やっぱり頭のおかしい人だったって言っときました」
「ほう、それはまた」「イタ!」
ぎゅうと皮膚の内側を抓られた。『くそ……。口まで勝手に』
皮膚に青白い線が浮き出る。確認しながら、骸は口角だけを笑わせた。その笑み方にいやなものを感じて、ついでに脱脂綿が遠のいたことに固唾を飲んで、勢い込んで質問を投げつけた。
「あのっ。腹が疼く、って。食べたがってるってことなんですか?」
「綱吉くんには知識がないんですか?」
「お、俺は普通の人間だって言ってるでしょう! 生まれついての知識があるのはアイツだけです」
「そうですか。魚人は人魚が食す最初の供物ですよ」片手で、骸が手近な薬品を棚から引き寄せた。「……恐らく人魚も魚人も一対の生物なのでしょうね」
「チベットに人魚を食した老婆がいました。会ってきましたが、ほとんど化け物ですよ。ミイラが生きてるだけのような。彼女も僕と同じ意見でした。人魚の肉には魚人の遺伝子も含まれている」
『おばあさん? ――もしかしたらリボーンをなんとかできる?』
骸はフウと薄く息をついた。「人魚に寿命はありませんが殺すことはできる」
「彼女が僕に会ったのは、僕に殺してもらうためです」
「な?! あ、あんた人殺し?!」
「何を驚きますか、今更。それが彼女と僕の交換条件ですよ。人魚は防衛本能が強いですから、魚人の能力でもなきゃ殺せません。僕は彼女を殺してあげることを条件に、彼女から人魚の知識を丸ごと受け取ったんです」
綱吉が呆けた面持ちで骸を見上げた。骸はまん丸になった少年の唇を見下ろす。
「僕の知識では、魚人の生態しかわかりませんから。彼らの一族全体の生態を知ろうとするなら、人魚の知識も必要不可欠だ。二ヶ月もはなしづめ、でした。魚人を食べたケースは前代未聞だそうですよ。本来ならば人魚が食べるべき供物を口にしたのかーっ、とか、言われました」
「人魚って……」不審をありありと眉間に刻んだまま、顎を俯かせた。
「血が目覚めたら、理性が吹っ飛んじゃってケモノみたいになるって」
「ああ、そりゃそうですよ。ダイレクトに脳を侵されますから」
あっけらかんとした口ぶりだった。
ギクりと綱吉が背骨を反らす、そうしながらも見返す上目遣いには、驚愕が滲んでいた。
「チベットで彼女は神様のように扱われてました。死なない異様な老婆が山奥に一人きりでいましたから。しかし実際は、彼女は人を喰わないように、ケモノを抑えるために山に篭っていたんです」
『な……に? 脳をおかすって。どういうことだよ』
ニコリと笑顔が返る。
「どこまで知ってるんですか、君」
細められたオッドアイの奥で、黒いものがとぐろを巻いていた。
喉が硬い音とともに上下する。ブラウンの髪の毛が左右に揺れた。
「リボーンは口が固いお人のようだ……。綱吉くん。人間はね、肉を食べることで、中枢神経を人魚の遺伝子に置き換えられてしまうのですよ。脳の中身と、脊髄です」
骸は、顎で綱吉の背骨をしゃくった。少年の唇は青褪めた。
「ここに人魚の遺伝子コピーが住みつく。人間が人であるための心臓部に、遺伝子レベルで寄生されてしまう。人魚などと名称をつけられてますが、実態は異形のケモノ。人としての理性が最後の砦でしょうね、なくしてしまえば、ケモノの本性に乗っ取られるだけです。君のお兄さんは、いわばケモノを内側に押さえ込んだまま生を食んでるわけですよ」
『そんな――ことに、なってたのか。なってたのかよ。なんだよ。言えよ、リボーン!』
(本当に知らないんですね)わずかに赤目が細められた。
「コピーを住まわせること、つまり人間を自らのクローンに仕立て上げてしまうことが、彼らにとっての生殖行為に相当します。恐らく最初の人魚は、突然変異か……、はたまた神の悪戯か何かの研究動物か。とにかく、一体だけの生物だったのでしょうね。人魚が単独で生誕した場合は未熟児だそうで、人の群れの中で生まれるパターンがベスト。一人が人魚となって一人が魚人となる。そして人魚が魚人を食い、生まれてすぐの成人を遂げるんです」
「成人……」呆けた脳裏に、銃器の扱いが趣味の赤ん坊の姿がよぎった。
「ん? じゃあ、リボーンが肉を食べたら、すぐ大人になるんですか?」
「理論的には、そうなりますね」
「い、いきなりデカくなるんですかアイツ」
複雑そうに目を顰めるが、ふいに顔を持ち上げた。
「って、骸さん。何で注射針まで消毒してるんですか」
「使い回してるからですよ。そんな、使い捨てだなんて贅沢なことできませんよ。病院じゃないんですから」
『違法行為が目白押し――っっ?!』
「クフフ。君は面白いですねえ」ハネのついた注射針を手に、綱吉の腕を握りなおす。背筋をめいっぱいに仰け反らせる綱吉の視界で、プッと先端が肌の内側に潜り込んだ。
「…………ッッ」
「別に息を止める必要はないと思うんですけど……」
管に赤いものが走り、試験管へと滑り込んでいく。
目盛りと血流とを見比べながら、骸がクスリと声を笑ませた。
「人魚と魚人は喰うものと喰われるもの。しかし今は君が食われる側ですね、綱吉くん」
「ま、まだ終わらないんですか……ッッ」
「見ればいいのに。目盛りまであと少しですよ」ほどなくして、注射針が引き抜かれた。ぐだっと脱力する少年に消毒液と脱脂綿とが手渡される。手際よく片付けを行う骸を見遣りつつ、うめいた。
「その血、どうするんですか」
「僕の血液と混ぜて変化を観察します」
「そんなことで、不死を治す手がかりが掴めるんですか?」
肩を竦めるだけで、バタンと赤十字の箱を閉めた。
「あの。いっそ人魚の血を飲んでみたらどうですか。何か変化がでるかも」
「不死を解くのに不死を呑むんですか? いやです。冒険はしない」
「でも」「君は何か、勘違いをしてませんか?」
突き放した物言いに、綱吉が息を呑んだ。
「リボーンは未成人ですから成長もせず、死なないでしょうが、僕には制限がある。成長もするし、死にもする。試してみてダメでした、では取り返しがつかない。人魚の肉は、その体がクローンとして適しているかを吟味するところから始める。全員が適合するわけではない」
「でも、俺の血くらいで呪いが解けるとは思えないんですけど……」
口の中でぼそぼとと呟く。骸は、目をあわさないままで部屋をでていった。
仕方なしに追いかける、その足音を聞きつけて骸は言葉をつづけた。目蓋は半分とじられ、憎しみすら漂わせた鋭さでもって廊下の先を見据えていた。
「魚人の呪いはいわば輪廻転生ですが、人が、そのまま人に生まれ変われるとは限りません」
「虫。チョウチョにトンボにゾウリムシにミジンコ。植物。ヒマワリにトマトにツタ、動物、ネコイヌウシにシカ。鳥、ニワトリに」冷蔵庫の前に立ち、野菜室からビニール袋を取り出す。何十にも梱包されていて、たぷたぷと揺れ動いていた。脱脂綿で傷口を抑えながら、綱吉はただ背中を見つめた。
「地上には何億もの生物がひしめいている。その中の、どれかひとつに転生するんです」
「……彼らの身体で人の意識を持つ」
「これが、どれほどの苦痛かあなたにわかりますか」
淡々とした声音ではあった。綱吉は目を伏せた。
「この右目。網膜に『六』とあるでしょう。六度目の人生、という意味ですよ。そして僕は、六度目にしてようやっと人身に戻れました」
骸もやはり視線を合わせようとしない。
透けないビニールに目を凝らし、抑揚のない声で告げた。
「ご苦労さまです。今日は帰っていいですよ」
傷口の血液は凝固していた。パーカーとコートを着込み、沈んだ面持ちのままで綱吉は靴を履いた。扉を開けかけたところで、骸はビニール袋を差し出した。
ニコと、にわかに目尻が笑った。作った笑顔だった。
「どうぞ。待たせる理由はありませんから」
「……これ、魚人の血なんですかっ?」
先日のは採集できなかったのだ。骸がやらせなかったのだが、本人にいわせれば「そのためにセッティングした場所ではないので、穢れていて使えません」ということである。
両目を潤ませ、綱吉は袋を眺め回した。
「この分量で?」
「足りるはずです」
『や、やった?! これで成長できる?!』顔を明らめ、骸の手を握る。
わずかに後退る骸だが、しかし、力強くまばたきをして二の句をつないだ。
「少しずつ飲ませて、理性が保つラインでの投与を心がけてください。悪寒・目眩・吐き気など、具合が悪くなることが予測されますが、それらの場合は続けてください。即座に中止する条件は目に見える変異がでること、です。体液が青くなる、目が青くなるなど」
「わかりました。あ、あの。あっ」
ありがとう、と、言いかけた唇はしかし途中で力を失った。
「右目、また破ったんですか?」綱吉の肩が強張る。
「破らないとでませんから」
「…………」ぎゅう。骸の手を、強く握った。
「ありがとうございます。俺、明日も来ますから」
「学校があるじゃないんですか。日常生活を犠牲にしなくて結構ですよ」
長引く会話を、どこか面倒くさがっているような色のある声音だった。
「いいんです」
「?」骸が首を傾げる。
「俺……。自分の意志でも手伝いたいと思うんです」
「何をいってんですか?」
「ふざけてるんじゃないです!」
握った手に、さらにギュウと圧力をかける。
袋がたっぷたっぷと左右に揺れた。開きかけたドアから寒風が吹き込み二人の頭髪を逆撫でる。
「目指すところが同じなんじゃないですか? 俺はリボーンを人魚から解放したい。助けたいんだ。骸さんも解放されるべきだと思う。あなたも助けたいと思うんだ」
「ほう。で、何のつもりで言ってるんですか。マインドコントロールは解きませんよ。定期的に血を飲んでいただきます」
「そうじゃない! 何で、そういうふうに言うんですか。あんたはそんな酷い人じゃないでしょう」
「僕に人道的なことを期待してるならお角違いですよ。これまで、不死に目を眩ませた連中をたくさん潰してきました。チベットでも彼女を殺した」
「死なないことの恐ろしさを知ってるからでしょ? それがわかるから、おばあさんにも終止符をあげた。人魚とか魚人とか。死なない身体なんて手に入れるべきじゃない。どうあっても不幸だ」
オッドアイの、赤目で肉が蠢いている。
ブラウンの瞳は怯まずに赤を見上げていた。青い瞳がわずかに揺らいでいた。
「骸さんはどうして魚人を食べたんですか?」
貼り付けたような笑みが消える。
一瞬だけ怯んだが、綱吉はことさらに両手に力を込めた。
(ばからしい)骨が浮き立った小さな手を見下し、しかし、骸は喉までせりあがった言葉を押し留めた。かわりに少年の真摯な顔を睨んだ。
「……僕が初めに生きた時代は常に飢饉に見舞われてました。長老が浜辺で腐った肉を見つけました。青い肉片。先日に村人五人を人魚に喰われたばかりでしたから、誰も人魚の肉と疑わなかった。肉をこまかく切りつけて煮込みつけ、村中のみんなで食べました」
「これを食べれば飢えに苦しむことも獣に怯えることもなくなる」と、老人は告げた。
これで明日に心配はないと誰かが涙した。「しかし生き残らなかった。子供が一人、呑まず喰わずで生き長らえましたが、一ヶ月ほどで骸となりました」
「む、むくろ……さん」
「そう。僕ですよ」
俯いたまま、目だけをあげて骸が笑った。
はっと息を止めた。赤目がゴソリと動く。
青目は深く静かに、しかし確かな憤りを最奥で燃やしていた。
「思えばあの一ヶ月こそが、肉に同胞と認められる改変の時だったんです」
「君に先日、ミイラを持ってきてもらいましたね。外からみたら、あの時の僕もあんな干乾びた状態だったのでしょう。一ヶ月。喉は渇き腹は減り霞んだ視界には友の亡骸を見据えて、そのままで一ヶ月! 肉は僕という存在を吟味した。ただ右目だけが熱かった!」
「骸さん! 魚人が呪いだって言うなら人魚だって呪いです!」
ぐしゃと眉根が剣呑に歪む。グッと渾身の力で拳を握り返せば、綱吉がうめき声をあげた。力が抜けた一瞬を図って、骸が腕を振り解く。踵を返したスウェットの端に、しかし綱吉がかじりついた。
「怒らないで下さい。からかってるわけじゃ――っう、わ!」
聞かずに研究室に引っ込もうと、骸は片手で腕をいなす。反射的に、バランスをとろうと足がでた――が、段差に引っかかって、思い切りスウェットに体重を投げつけた。
「っつ?!」
ドサと硬く悲鳴をあげて、二人はフローリングの上に倒れ落ちた。派手な音で額を床に打ち付けたのは綱吉だ。それでも骸のスウェットは掴んでいた。
先に上半身を持ち上げたのは骸だが、掴まれているために身動きがとれなかった。
腹立ちに任せた舌打ちを洩らし、手のひらを剥がしにかかる。綱吉は全力で腕に力をこめた。
「いい加減に……っ。僕の気持ちも考えてください。人魚の末裔などと馴れ合えるものか!!」
「骸さんが呪ってるのは俺の中の血統でしょうっ? でも人は肉と血だけで生きてるわけじゃない。俺は本当に心からあんたを助けたいって――、そうだよ! 心があるんだ! 人には肉や血よりも重いものがあるんだよ! 俺の血じゃなくて、そっちを見てよ!!」
「ハ、くだらない」骸が鼻で笑う。
フローリングの上で綱吉も上半身を起こした。その襟首を掴む拳があった。
「この生を受けてから僕はひたすら」今にも、反対側からパンチが飛びだしかねない気配に満ち溢れていた。しかし綱吉も同じだ。歯を食い縛り、骸の襟首をつかみ返した。
「ひたすら魚人の呪いを解く方法を探しました」
骸も退かずに襟首を握る腕に力をこめる。精一杯に食いつき、自分も力をいれながら綱吉は骸を睨みつけた。忌々しげな光が、先にあった。
「その過程で何があったと思いますか。この体の両親は僕に愛想を尽かしましたし姉と弟は狂人呼ばわりする。もはや向こうは僕の居場所すら知らない。そのくせ商売が成功してるのだけは嗅ぎ付けて金をせびる。どこですか? 僕には心なんてもんがカケラもみえませんよ」
「そういう不幸なこともあると思います」
かすかに声がしわがれた。綱吉の眉が吊りあがる。
「でもそれだけじゃない。俺を、信じてください。血統じゃなくて俺自身を!」
「僕を放ってください。今日と同じにただ言われたことをやってください!」
「いやだ! 骸さん、しょっちゅう笑ってるけど本当に心で笑ってるんですか? 俺にはっ」
「君に僕の何がわかるっていうんですか。とにかく、もう帰ってください。邪魔だ!!」
「わからずや!」
ごっ、と、頭突きを見舞ったのは綱吉だった。
骸の体は後ろの壁に衝突して、リバウンドした。よろめいて、かすかなうめき声。
「リボーンは成長できない」畳み掛けるように少年が叫ぶ。
「ずっと。ずっとそれが辛かった。ダメな俺の分までよくできあがったヤツなんです。頭もいいし機転もきくし誰にも負けない自慢の兄貴だなのに家でじっとしてるしかなくて! 成長できないのが俺ならよかった、って。ずっと思ってた!」
「君はこの場で何を……」
額を抑えた手が、伸びあがって前髪を鷲掴みにした。
「言ってるんですか!」
「っツ!」壁に後頭部を叩きつけられて首を竦ませる。
その瞬間に飛び散った飛沫に、骸は息をとめた。
「なのにアイツはいつも笑って楽しそうにしてる!」
はらはらと頬を伝うものは、瞬きながら顎へと垂れて零れていった。
「ダメツナとか、口は酷いけどいつも助けてくれる。リボーンはすごく悲しい定めに生まれてる骸さんもすごく悲しいと思う。俺はあんたを心配してるんです。しちゃ駄目だって言うんですか?!」
「つなよしくん」青い瞳がよろめき、素早いまばたきを繰り返した。
「何がわかるかだって? 骸さんが本気で苦しんでることはわかりますよ!!」
「…………」かすかに。前髪がぶるりと震えた。
それを握る拳が震えたからだが、気づかれる前に少年はパッと指を広げた。壁に背を預けたまま綱吉はずるずるとフローリングを滑る。あからさまに明後日を見据えるのは骸で、綱吉を見ようとしなかった。
沈黙ののちに、噛みしめた両歯の後ろから、低く抑えた言葉をひねり出される。
「よりによって人魚から、ですか。誰からも同情されたくありませんでした。されたところでどうなるというのです。僕が惨めなだけだ」
肩がかすかに震える。
後頭部を抑えつつ、綱吉は混迷のまざった瞳で少年を睨んだ。
「俺は人間です」
「それを言うのを止めてください」
俯いた骸の肩が、いっそうに大きく揺れた。
「君は考えていない。その言葉を聞くたびに胸が打ち震える。僕は人間じゃないんです」
ドクンと心臓が暴れた。俯いたまま見上げる視界は薄い青に覆われて、骸には綱吉の表情がわからなかったが、ひゅっとした喉の悲鳴は聞こえた。ごめんなさいと、掠れた声が届いた。
『こ、これだから俺。どうしようもない。ダメツナ。ダメツナダメツナダメツナ!』
(――声。声? さっきまでまったくしなかったのに)
骸が顔をあげる、グタリとうな垂れた綱吉がいた。注視に気がついて、綱吉はゆるくかかぶりを振った。「き。気を、つけます。ごめんなさい、おれなんもかんがえてなくて」
ぐしぐしと涙を袖で拭う。「ごめんなさい」
「……いえ」気にするなとも言わず、骸はただ曖昧に頭をふった。
途切れた会話を取り付くろう気は、もはや両者ともに失せていた。
半開きになったままの扉から風が吹き込む。
クシュンと綱吉が堰をした。数分の間を置いて、彼は立ち上がった。
「帰ります。……明日もきます。学校終わったあとに」
「本気ですか」疲れきった声音だった。
「保証しませんよ。何も。そのうち、君の指の一本でも切ろうといいだすかもしれない」
「……そう言われるとイヤですけど。でも俺は。リボーンも骸さんも助けたい。必要ならあげます、血でも、……肉でも」
「後悔しますよ、そんなこというと」
「しません」
「しますよ」間髪いれず、ため息と一緒に吐き出す。
「しませんよ。ただ、大事に研究したげてくださいね」同じく間髪のない返答だった。
ビニール袋を拾い上げる綱吉の背を、じぃと睨むような眼差しで追いかける。
靴がズレていた。履きなおし、扉に手をかける。そのままで硬直する背中に声をかける気にもならなかった。扉がキィと押される。くぐったところで、少年が振り返った。
「やっぱり、あなたは根っこから悪いわけじゃないと思う。辛いことがいっぱいあって、そのせいで歪んでるだけ……に、見えます。今だって、やろうと思えばマインドコントロールで俺を追い出せる」
返答はない。「また明日。差し入れでも買ってきますね」扉を離す。と、パタンと音がした。
密かな足音がマンションの廊下を歩く。
エレベーターまで距離はない。骸がぐっと拳を握る。
「綱吉くん!」ガタンと、扉を壁に叩き付けた。
横殴りの風が青みがかった頭髪を掻き揚げる。走ってはいない。
しかし百メートルも走ったあとのように、心臓が上下に暴れていた。
「ありがとうございます」返ってきたのは豆鉄砲を食らったような表情だった。
しかし、すぐに。にこっと笑みにかわって、綱吉は手をふった。
スーッと左右から伸びたスチール製の扉が少年を隠す。エレベーターの稼動音がかすかに響く。
すぐに動けず、骸はしばらく佇んだ。カラスが鳴き、一条の夕焼けが横顔を照らしだす。眉間を皺寄せ唇を引き結び。しかし、目尻にはやんわりした笑みがあった。扉の内側に戻り、ノブを握ったまま数分。瞑目したのちに、研究室へと消えた。
一晩が経ち、骸が己の血液を採取し終えたころだった。
携帯電話が鳴った。
「……?」画面に映る名前に眉をひそめる。
(昨日の今日での用件。思いつきませんけど。やはり来ない、とか?)
コール音は鳴り止まない。(べつに。それでも。構いませんけど)
そろりと取り上げ、
通話ボタンをおした。
「骸さん……っ」
「綱吉くん?」
「どうしよう。骸さん、俺。骸さん骸さん骸さんッッ!!」
酷い声だ。咽び泣くような、乾いた喉でむりやりに叫ぶかのような。
受話器の向こうで少年は叫ぶ。「たすけて……。助けて!!」
(ああ、魚人の血を渡したのでしたっけ)
脳裏に残っていた笑顔が、掻き毟るように隠された。
エレベーターのスチール扉ではなく、もっと暗くて陰湿で、とどめようのないシロモノによるのだと骸は静かに悟った。そして、告げた。
「落ちついて下さい。今、行きますから」
>>第4話 :皮膚の下 へ
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