魚の血脈

 

 

 

 



 存在は知っていた。
 骸はその事実にいささかの安堵を覚えた。
 語る言葉のひとつひとつに綱吉は息をつまらせる。事前に調べた情報は山とある。組み立てておいたプラン通りの言動をこなし、組み立てた通りの結果を呼び込んだ。
 ――では、また後ほど。
 その言葉で骸と綱吉が別れを告げて、数時間が過ぎた。
 往来の中で骸はマフラーに顔を埋めていた。自宅に戻り、私服へと着替えた。
 といっても選ぶ暇はなく、汚れてもいいものを寄せ集めただけだ。制服と同系色のブルゾンを最後に羽織った。柱に背を預けてから、三十分は経っていた。さらに三十分を待った。不夜城とも称される繁華街に人の流れは尽きない。右から左へ駆ける風に頬を殴らせておいて、さらに三十分が経つ頃に、駅とは反対の方角へ顔を向けた。
「骸さん! 待ちました?」
 小走りに駆ける姿があった。頬が赤い。
 ニコリと、口角をあげた。
「いいえ。今、きたとこですよ」
「そうですか……。なら、いいんですけど」
『唇、青褪めてる。本当かな』
 微笑みを崩さぬまま、けれど底を見せない態度を保ったまま問い掛けた。
「約束のもの、持ってきてくれましたか」
「はい、てこずりましたけど。そちらは……?」
「ちゃんと持ってきていますよ」
 まじまじと骸の爪先から脳天までを見つめ、だが秒ごとに不審が深まった。
「手ぶらに、見えるんですけど」オッドアイが、肩にかかるものを見つめた。
 竹刀袋があった。が、中身は竹刀よりも横に太いようで、奇妙なおうとつが見て取れる。
 少しばかり俯いて笑む。その姿に掻きたてられるものがあって、綱吉は竹刀袋の紐を握った。
「綱吉くんは。そういう形で、持ってくるんですね……」
「こうやる以外に、どうやるっていうんですか」
「ヒント。肉体は入物にすぎませんよ」
 笑みが邪に変わる。ビクンと身体を震わす少年から目を離し、ビル群を指差した。ネオンの明かりが見えず、人の流れにも背いた一角である。
「君ならできるはずです。別にいいですけど。行きましょう」
『よくわかんないな。この人、猫かぶってる?』
『……いくらなんでも、俺、殺されないよなあ……?』
 骸は、肩越しに少年がついてくるのを確認した。
『いい人そうに笑ってるけど、食べて、いるんだし。俺はそういう力が無いって、わかってもらえてるとは思うけど。でも。いや、いざとなったら』
 ゆるゆると、手のひらが左のポケットへ向かう。骸は両目を細くしならせた。
(そんなものでダメージをくらうと思うんですか。本気で?)
 前へと向き直りつつ、注意は、背後へと向ける。分散した意識が、ブツ切れになりながらも耳に潜り込んだ。『待ち合わせ時間、二時間もすぎてる。謝るか病気のフリするか、どっちだ』視界にないものを見据えようとしているためだ。『経費の使いすぎだばかやろーめ』
『今日こそ早く寝なくちゃ』
 OLの横をすり抜けて、綱吉が隣に追いついた。
「リボーンは置いてきたんですね」
『時間がなかったからロクに事情を話せなかった』
『茨城のオバアチャンのとこ行って、帰るだけで時間ギリギリだぞ』
 に、と僅かに 目尻を笑ませる骸だが、綱吉は真前を見据えたままでぶっきらぼうに言い捨てた。
「いてもしようがないじゃないですか」
「なるほど? その通りですね。僕としても彼に用はありませんから」
「そうなんですか。でも、あっちはホンモノの人魚ですよ」
「今更、ホンモノなど啜っても足しになりませんよ。僕には君みたいな――、君のその竹刀袋のなかにあるような、境界線の存在の方が重要なんです」
「はあ……」『? どういうことだ? よくわかんないや』
 視線を前へと戻しつつ、眉根がぐにゃりと剣呑にゆがんだ。
 過ぎる人影が極端に減少した。あっても丸刈り頭でタバコを咥えてる男や、目の焦点があやふやで左右に揺れながら歩いているような輩だ。
 ビルの裏口に回り、骸はポケットからヘアピンを取り出した。
 地下街に通じる階段をくだって、ショッピングモールまで歩いた。
「こんなとこがあったんですか。気づきませんでした」
「数年前に閉鎖された場所です。何でも、治安が悪くて経営がうまくいかなかったとか」
 モールの中央部には直径数メートルの噴水があった。水は抜かれている。
「どちらから行きますか」
『いざというときは逃げられるほうがいいよな』
「骸さんからどうぞ」
 ニコリと笑って、綱吉。
 同じくニコリと微笑み返し、骸は右手をあげた。
「では恐縮ながら」
 右目に宛てる。艶やかな赤に息を呑んだ。
『! そこに……、いれてたんだ』
『なんでわざわざ目に。リボーンの言った通りだ。危険すぎる賭けだったか?』
『いや、でもリボーンが成長できるようになるかもしれないんだ……。魚人の肉さえ手に入れれば。あとはどうにか骸さんから逃げればいいんだ』
 骸が噴水のフチを跨いだ。綱吉に微笑みかけたまま、両足をいれる。
「ビニール、用意しなくていいんですか?」
 慌てて、ジャンパーのポケットから四角く折り畳んだものを引っ張り出した。以前までゴミ袋と指定されていた、不透明の真黒な大判ビニール袋である。広げ、綱吉は頷く。
 微笑を深くして、噴水の中央へと向き直った。
「僕の不死は右目が象徴しています」
「この赤は血の色。そう、この網膜の薄い膜の向こうには肉がある。僕がかつてに食したもの。多量の血をとれば肉に等しい栄養が得られるはずです。そうすれば綱吉くんの望みどおりになる」
 ゴクリと固唾を飲む音。骸は自らの右目に指を突き立てた。
 そうして綱吉を振り返る。彼は小刻みに震えながらも、足元に流れ出る異常なほどの血流を喰いいるように見下ろしていた。『これだけあれば……! リボーンが大人になるには充分だ!』
「くふ……」ため息のような嘲りが漏れる。しかし綱吉はジィと血を眺めていた。
 噴水のなかで、骸の膝下まで血の池が広がる。指を引き抜いた。網膜はすぐさま再生した。右目の奥で魚人の肉が瞬いた。綱吉が近づいてくる。
「採集はまだ許しませんよ」ピシャリと、骸が言った。
「あなたの肉をよこしなさい。人魚の肉を」
『……ほんとうに、人魚の肉なんでしょうね?』
 骸がわずかに瞳孔を開かせた。綱吉は竹刀袋を引き摺り下ろす。
 現れたのは、細長く引き伸ばされた小人のミイラだった。
「これはまた。見事ですね。完全な体で保存されてる」
「血は一滴もありません。……それでもいい、約束ですよね?」
「ええ、そういう約束です。僕は人魚のミイラを手に入れ綱吉くんは魚人の肉を手に入れる。君のお兄さんが育つに足る分量の血で代用して」
「リボーンは」反射的に応えて、しかし逡巡するような間をおいた。「こ。今年で、二十八なんです……。なのにまだ一歳の姿をしてる。そんな不条理がまかり通っていいはずがないでしょう」
「ほう? 君たちの存在そのものが、それなりの不条理を備えてると思いますけど」
『骸さんも同じでしょう。あなたみたいな人がいるなんて、俺は聞いてない』
 薄い笑みを貼り付けたまま、差し出されたミイラを受け取った。頬はカラカラに乾いている。老婆のミイラだ。これが、数百年も前に綱吉たちの先祖を産み落としたのだ。
「俺ん家の家宝ですからね、それは」
「綱吉くんの家は、昔から人魚返りが多いのですか」
「リボーンみたいに丸ごと立ち戻ったのは初めてだと思います……。そもそも、直系の沢田家以外は、もう人魚の子供だということすら忘れてるんじゃないかと思います」
「くふふ。僕には君のような人間がありがたい。僕もその範疇ですからね」
 科学の到来以来、世界の一般認識は大きく変動した。沢田の家はその波を浴びながらも立つ位置を変えることがなかった、が、骸は変化の波すら知らずに生を食んでいた。
(たった数百年で。世界がこうも変わるものとは思いもよらなかった)
(……思いもよらない。こうして僕が西暦の時代に立つことすら)
(長老もケンもチクサも誰にも思いよらなかったことなんでしょうけど)
 ちり、と焦げ付くような煌めきを乗せてオッドアイが思考に沈む。右目から滴るものは段々と細くなり、ついには途切れた。(もう、みんな転生した頃合なんでしょうね。それほどに永い)
 綱吉はビニールを噴水に沈めた。
『見た目はただの血だ……』
『でもこれを呑めば。意識の不死を与えられるっていう』
『魚人の肉で、ずっと前に俺たちの祖先が主食にしてた生き物の血……』
「見た目こそ人魚と同じなんですけどね。魚人というのも上半身は人、下半身は魚」
「けれどその存在の目的が圧倒的に違う。魚人は人魚のエサであるためだけに存在してる」
「それもまた、哀れな話ですね……」
 ちゃぷ。綱吉の手が水面に触れた。骸が目を細めた。
「何かの意思のようで身震いがする。僕は奇妙に思いますよ。魚人を食べた僕と、人魚の子孫である君とが同じ時間に人として存在しているなんて。喜劇と悲劇を一緒に上映してるみたいで」
『? 骸さん?』『何を言って』
「僕は前に虫でした。その前は猫。六度目にして、やっと人に戻ったんですよ」
 不審げに眉を顰め、骸を見上げながら綱吉が聞き返す。
「戻った? 意識の不死って、体が死んでも記憶――、意識? 人格? そういったのは永遠に引き継がれるんですよね。えーと……。魂の不滅? それが魚人の不死だってリボーンが」
「不完全な不死ですよ。それは不死とはいわない。呪いだ」
 くすりと笑う。紅目がギラギラとしていた。綱吉が血からビニールを抜き取り、きゅっと紐を締めた。さらに別のビニール袋で赤黒く変色した黒地を覆い隠す。血の赤が両手に広がっていた。
「僕の目的をどのようにお考えですか、綱吉くん」
「……今度こそ、完全な不死を手にいれようとしてる人。そのためにこの町にきたんでしょう?」
「前半が違いますね。いちばん、肝心なトコですよ」
 顰めた眉をさらにきつく縛めて、綱吉が左ポケットに手を突っ込んだ。
「お願いですから、変な行動起こさないで下さいね」声が震えていた。骸が笑う。
「君には不死の血脈が流れている」綱吉が首を振った。さらに微笑みが色濃くなる。
「そう。それだのに君の一族は死ぬ。人魚の血を宿しながら不死でない、人と同じに死んでいく。永い付き合いになると言ったでしょう、僕の目的は君そのものですよ綱吉くん」
「だから。何時間か前も言ったでしょう。俺はただの人間!」
「それでもかまわない」
「同じ答えかたをするなよ!」
「そうでしたっけ?」
 無造作に、 抱えたミイラを投げ捨てる。プラスチックの造花が生けられた鉢に突っ込んだ。
 うげっ。もげた腕を見て、綱吉が喉の奥で悲鳴をあげた。
「む、むりやり持ち出してきたのに……っ。家宝なんだぞ!」
「ミイラなんてただのエサですよ。君のためのね」
『本気か。何考えてんだ、この人!』歯を食い縛りポケットからバタフライナイフを引きだし、ほそかな金属音と共に刃先が飛び出した。
「クハハハッ。手が震えていますよ」
「ほ、放っておいてください! 俺を食う気かあんたは!」
 ビニール袋を足元において、腰を屈めてナイフの切先をつきつける。
 不慣れなことが明白な手つきで、両手で柄を握ったまま沈黙した。次の動作に悩んでいるのだ。が、硬直するうちに、思考は別の場所に及んでひとつの結論をだしていた。
 ギリ、と綱吉が奥歯を噛んだ。
「最初からその気で騙しましたね。今日の夜をわざわざ指名したのは……。あっ、苗字知ってたじゃないか! 死なない魚だとか、まわりくどいやり方で誘い出したのも!」
「そうですよ。時間の猶予を与えたくなかった」
 しれっと。 当然のように、骸が頷いた。
「冷静になれば、ひとりで僕に会うのは危険だとわかってしまうでしょう? ギブアンドテイクに見せかけて急がせれば、違和感を感じさせずに呼び出せると思いました」
 小ばかにしたように、不敵な微笑みが頬にはりつく。
 人の好い笑みなどもはやかなぐり捨てていた。全身から不穏な空気が立ち昇り、彼そのものが研ぎ澄ましたナイフのような存在感を持っていた。
「この、ばかやろ……」
「自分に言ってるんですか?」
「そうだよ! このばか――!!」
「クハハハ。君はなかなか愉しませてくれてますよ」
 血塗れた手のひらが綱吉に延びる。
 ナイフを強く握りこむ綱吉だが、そのたびに、切先のブレが大きくなった。骸は愉しげに小刻みな揺れを見据え、手を引っ込めた。頬は俄かに朱色に染まっていた。
「興奮してきました。君のような人でよかった。やっと。やっと運気が向いてきたんでしょうかね」
 胸元に寄せた手のひらを握る。刹那、血の池の一部が伸び上がり、細長い形状のまま骸の手中におさまった。「なっ。なんだよそれは!」
「人魚も同様のことができるはずですよ。これで、彼らは何時間でも戦うことができる」
「あ、あんたも魚人の知識があるのか」頷いて返し、骸が槍を掲げた。
「うっわ!」槍の先は三叉に分かたれている。
 内の一本が、綱吉の足元に深々と突き刺さっていた。
「こ、殺す気じゃないか……っ!」ナイフを握りこみ、綱吉が踵を返した。頭上で吊り下げられた案内板の上で視線が彷徨う。噴水からでないまま、骸は呪詛を口にした。
「逃がしませんよ。末裔の居所を探るのに大分、時間をとられているんです。君のメカニズムを解明すれば僕の呪いも解ける。不死の血脈を持ちながらも死んでゆく人魚と人の子孫どもよ」
「お、俺を解剖する気かよっ?!」
「僕はその神秘が欲しい!!」
「わぁっ?!」
 水面に波紋が広がった。
 と、手を叩かれてナイフが弾け飛んだ。
 ガチッと冷えたコンクリートとぶつかり隅へと滑り込んでいく。すぐさまナイフを追いかける背に、骸が短くはき捨てた。
「血に素肌で触れたのは迂闊でしたね」
「エッ」思わず振り向きかけて、しかし手がナイフを取り上げていた。
 迷うことなく骸につきつけ――た、はずの刃先は、自らの顎下に向かった。
「?!」
「魚人の肉は右目に。しかしその血脈は全身を巡る」
 ひたり、わずかに顎に潜り込んだ刃が、一滴の血液を滴らせた。
 骸の目が笑った。右目の下には、おびただしい血流の痕がありありとこびりついていた。
「な、ウソ。そんな……っ。手が!!」
「クフ。コントロールは難しいんですけどね。綱吉くん、そのままの姿勢でこちらに」
 槍を手放せば、その途端にビシャっと音をたてて破裂した。
「……こ、っの……」喉元につきつけたナイフは震えもしない。引き剥がそうと躍起になっていることは、両肘が派手に戦慄いてることから窺えた。
「こちらに」
 骸が繰り返す。 チとさらに一ミリ、刃先が食い込んだ。
 よろめきながら近づく少年に笑みを返して、骸は手のひらを血色の噴水に静めた。
「これを飲みなさい」サラと指の間を真紅が伝っていく。
「い、いやだよ……っ。魚人の肉なんて呑めるかっ」
「僕は完全な魚人ではないので、食べても不死は得られませんよ。それに肉ではありません。これは血です」ハッと綱吉はオッドアイを見上げた。破られた右目の奥で、赤黒い固まりが赤黒い――うすい、炎のようなものを滾らせていた。視線に気がついて骸が鼻で笑う。
 綱吉の顎下でナイフがさらに進入し、ツウを赤い線が柄まで流れ落ちた。
「君の血を無駄にしたくありません。さぁ、どうぞ」
「ふ、不死にならないなら、どうなるっていうんですか……ッ」
「先ほどの槍を見ただろう。僕は血を操れる。その血を呑めば、――君は、人魚の血統があるのでいささか不明瞭ですが、それでも三日はマインドコントロールが効くでしょうね」
「ま、まいんごこんとろーる?! 冗談じゃないよ!!」
「日常に不便は在りません。効力があるのは僕の視界に君がいるときだけ」
 手のひらの窪みに溜まった血だまりを綱吉の顔面に突き出した。潤んだ瞳が赤を映して右へ左へとゆらめく。それはやがて、血で染め抜かれた腕から肩へと。いまだに右目から赤い線をのりつけている骸へと赴いた。骸はニコと笑ってみせた。唇だけで。「呑みなさい」
「……俺を殺すつもりじゃあ。ないんです、か?」
「サンプルを殺しては話が進まないでしょう」
『信じていいの?』『俺』『どうなって』
 顎にナイフを突きつけたままで、綱吉は真っ赤な水面を見下ろした。瞳の赤い光が、いっそう左右に踊る。骸はただ見下ろした。そろそろと顎先がくだる。
 伸びた舌は、おっかなびっくりに水面を舐めた。一舐めで硬直した。
『錆びた鉄の味が』
「すべて啜ってください」
 眉間を皺寄せて腰を屈め、綱吉は唇を潜らせた。
 喉が上下する。ゴク、ゴク、と、一呼吸ごとに響く音で、ようやく骸は瞳も笑わせた。こんな場面でなければ、綱吉が微笑ましく感じるだろう、それほどに優しげな笑い方だった。

 

 

 

 

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