魚の血脈:泳ぐより歩く
不夜城と称される繁華街に人の流れは尽きない。
すでに三十分を待っていた。目線をあげれば、周辺の群を抜いて背の高い商業ビルがあった。
頂上には電光掲示板が取り付けられ閃光が明滅を繰り返している。駅前の小さな広場には人を待つ影がいくつもあった。風が吹くたびに背中を震わせる彼らだが、六道骸はそこにいなかった。
少し逸れた、駅ビルの入り口で鉄柱にもたれかかかっている。
そこからならば、電光掲示板と公園と駅の出入り口と、人の流れがよく見えた。
電光が十八時三十分を示した。さらに三十分が経ったのだ。
青目は暗く染まった天井を見上げる。
(前も遅刻していた。もしかしなくともクセなんですか? 綱吉くん)
キンと冷えた鉄柱に体温が移っていた。ぼうとターミナルを納めていた視界は、やがて下向いて、女の靴先を見つめた。ラメの入ったピンクのヒール。
カツンと鳴って、さらに一歩の距離を縮めた。うめいた。
「待ち合わせの最中ですから。遊びませんよ」
「アララ。牽制? でもわかるのよ。きみ、待ちぼうけをくらってるでしょ」
骸の目尻がわずかに引き攣った。金髪の女性がいた。毛先をカールさせて、両目の周囲には、くっきりしたアイラインが塗りつけられている。つり目が魅惑的な美人だ。
「見えるでしょ。三階がカフェ」
マニキュアが塗られたツメが、電光を抱えたビルを指差した。
「アタシ、あそこでコーヒー飲んでたの。捨てちゃいなさいよ。薄情なコにきみは勿体無いし、今ならとっておきのエスコートつけて楽しくさせてあげるわよ」
ミニスカートから腿を晒して、少年の肩にしなだれかかる。
「手馴れてますねえ」
視線は間近に迫った胸元へと注がれていた。
女がニヤリとして腕を組む。豊満な谷間がせり上がり、レースのすき間から肌色の肉がぷくりと突きでた。骸はただ見下ろした。
「でも僕はいらないです。謹んで辞退しますよ」
「紳士ね。それとも、装ってるだけかしら」
「どうでしょう」
ニコリと微笑みを向ける。
『装ってるだけね、ぶあついネコだわ』
やはり、ニコリとしたまま、もたれていた背中を起こした。
バランスを崩したヒールが硬い足音をコンクリートに響かせる。アンッと叫ぶ声には非難が込められていた。せせら笑い、少年は踵を返した。
「変な人がいるから場所を変更したとでもメールしますかね」
「それも勿体無い。きみが、よ。こんなイイ女が誘ってあげてんのんに!」
「人を待ってるんですよ。ナンパされるために立ってたわけじゃありません」
「男なら融通きかせなさいよ。その女が大事なわけ!」
「おっと。あなたには関係がないことだ」
後ろ手をヒラヒラとさせる。終了の合図を送ったつもりだ。
何かを言い募る声は聞こえたが、内容は耳を通り抜けていた。
広場に足を向ける――が、一分を待たずに、骸はギョッとして振り向くこととなった。
『む、むくろさんてば女の人とも待ち合わせしてたのか』
立ち尽くしながら、彼は呆けた眼差しを横をすり抜けた女に向けた。
『服みてくれるだけの約束だから、別に、俺と別れたあとの予定いれててもおかしくないけど……。ていうか、遅刻したから、もう店も閉まっちゃってるよな。メールで謝って、このまま帰ったほうがいいのか?』
「ちょ。ちょっと……。何、バカなことを」
そのまま、視線が駅へ赴くので骸は慌てて駆け寄った。
「綱吉くん!」
「あ、骸さん」
『やば、気づかれちゃった』
手中の携帯電話を見て、骸は失敗を悟った。
女との会話で、到着を告げる着信に気が付かなかったのだ。
後退りして、綱吉はじろじろと骸を見上げた。もはや見慣れた青い瞳。ブルゾンの下で黒地のインナーが覗いていた。暗緑と白のストライプがランダムに走り回っていて、スマートながらにインパクトがある。首に四重に巻き付けたチョーカーは紐が牛革だ。長方形のペンダントトップも銀製。ひとしきり全身を眺めたあとで、綱吉は眉間にありありと不審を刻ませた。
『女だ。俺と待ち合わせるにしちゃ気合が入りすぎてる』
口角を引き攣らせる骸に、勢い込んだ声が飛びかかる。
「で、その女の子と何時に待ち合わせしてるんですか? 七時?」
「待ってください……。何か、勘違いしてますよ。この後の予定はありません」
「水臭いなァ!」綱吉は目を丸くして電光掲示板を見上げていた。
「隠さないで下さいよ。彼女が来る前に帰りますよ。やっぱり女子って、二重に約束されてたってわかると機嫌を悪くしちゃいますよね?」
「違うんですって。約束は綱吉くんとしかしてませんよ」
目を白黒とさせる少年に、骸は、話を切り替えるという改善策を採用することにした。
ニコリと笑ってみせる。いささか乾いた笑い方だった。
「とにかく、行きましょうよ。ビルに入ってる店舗なら八時までは――」
『……なんで、かくすんですか』
ブラウンの瞳は検眼のごとく、じろじろと骸を覗き込む。
笑んだ眉根も唇もそのままで骸は硬直した。
『様子がおかしい。もしかして、俺には知られたくなかったのかな?』
『まぁ、俺なんて……。友達として自慢できるタイプの人間じゃないけど』
『う。でもそう考えるとショックだなぁ。本当のこと言ってもらえないなんて。まぁ骸さんと会ってから一ヶ月だし、人魚の一件でものすごく迷惑かけてるし……。高校での友達もあるだろうけど。……実は、信用されてないってこと、も、あるかもしんないけど』
「あ、あの。綱吉くん」
目の前でパタパタと手をふると、綱吉は両目を見開かせた。
「自慢できないとか信用できないとか、そんなの、あるわけがない」
「えっ?」上擦った声が張りあがる。
一瞬を挟んで、綱吉はズザッと砂埃をあげて後退った。
「読みましたね?! 俺の心んなか!!」
「不可抗力ですよ。勝手に聞こえ――」
言葉を切ったのは、言い訳が無駄と悟ったからだ。
綱吉はコートの前をすり合わせ、ぎらぎらした眼差しで骸を睨んでいた。
六道骸は他人の心の声が聞ける特異な能力を秘めている。本人は呪いの一部と言い、綱吉もその不幸を理解してはいたが、自省に近い呟きを聞かれるのは気持ちのいいものではなかった。何を考え、頭の中で言葉にしていたかを思い返して、綱吉はさらにハンマーで殴られたような心地になった。気恥ずかしさで、今すぐに逃げ出したい衝動に駆られた。
「ひっ……」
ぶるぶると肩口が戦慄いていた。
「ひどいよ!」叫びながら、俯く横顔は真赤に染まっていた。
骸は鼻でため息をついた。横目で広場を睨みつける。
「そう言われましても。イレギュラーな人間なことは君も承知してるでしょう」
待ち合わせに遅れたらしき男が、頭を下げて女に駆け寄っていた。
視界にブラウンの毛色が混じる。ハッとして振り返れば、一目散に駅に逃げていく綱吉の背中があった。追いかけようと踏み出した一歩はしかし、そのままで固まった。
衝動的に肘を鉄柱に打ち付けていた。
握った拳を開くころには、綱吉は見えなくなっていた。
震えたのも痛いのも、冷えた鉄柱ではなく六道骸である。苦々しい思いで自覚して、少年は急ぎ足で交差点へ向かった。行き先はない、が、留まることもできなかった。広場では未だに男が頭を下げている。あの二人の間をワザと通ってやろうかと、にわかに考えたところで足を止めた。
「あれは」
「ちゃーんと待ってたんだから!」
青目は、女の金髪とラメ入りのピンクヒールをじろじろと眺めた。
「お詫びにいいもの奢ってよね。まあったく、連絡もない男をかいがいしく待ちつづけたアタシを褒め称えてほしいわ。何時間、ひとり寂しく立ち尽くしてたと――」
近づくごとに確信を深めて、骸は女の背後に立った。
男が怪訝な顔をする。仕立てのよいストライプのスーツを着込んでいた。
見せ付けるように金髪を一筋、掬い取った。ギョッとして振り返った丸い瞳は、相手を確認するなり青褪める。骸は唇だけを笑わせた。
「おねえさん。さっきの話ですけど」
金髪を指で揉み解し、するりと解けた小さな束だけを残した。
そうして、ゆったりと口付けてみせる。鬱蒼と口角を吊り上げる動きは、見るものを赤面させるほどの妖しさが散りばめられていた。整った鼻筋がクンと動いて、塗りつけられたバラの香りを吸い込む。整った容姿がいかに人目を惹くか、熟知しているからこそできる仕草だった。
「やっぱりお誘いにのってもイイですか? 僕はフラれてしまったようで」
口付けたままで。石像のごとく硬直した男女に、ニッコリと満面の笑みを向けた。
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