リングとミリオン:ターン7 


「乙女のじかん」







 早速、六道骸はそのオッドアイに目をつけたミーハーな生徒たちにターゲットにされた。
 大盛中学校の廊下はいつになく賑やかだ。
「六道さん、おはようございます!」
「オッドアイのせんぱいも素敵ですーっ! 『六』のっ……、あれ? 『六』の字じゃない……?」
「差し入れですこれ! こっちはお菓子でこっちはアイマスクで……あ、あの、握手をしてください〜っ!」
 きゃ〜っ! 黄色く絶叫があがる。
 骸は、機械的に左手を差し出しながら、あくまで柔和な生徒会長の面を保っていた。
「おはようございます……。君たちは、一年生ですかね?」
(タイミングがねぇーっ!!)
 ゴーンッ! と、集団の外にて、かかとは踏んづけて上履きを調整しながらも綱吉は冷や汗を掻いた。
 ……まあ、なんとかなるか、ふと浮上した懸念は後回しで悩むこととする。
 しかし、立っている綱吉に、渦中の少年の方が反応した。
「沢田綱吉。なんですか、僕を見てましたね?」
「あ。……あ、ああ、まあ。大丈夫?」
「は? ああ」
 背後の連中を一瞥する彼は、やっぱりあくまで人好きのする生徒会長モードではある。
 にこにこしていて、
「どーでもいいでしょうが。んなことよりなにか? まだなにか?」
 朗らかな声がトーンを潜めて耳打ちする。口調こそは乱暴でうざったそうだ。
 綱吉は、やはり冷や汗して、表面上はにこにこしているだけの生徒会長を気後れして仰望する。
 ……まあ、いいんだけど、と胸中でなんとなく言い訳する。
「……思い出したんだけど。今日、オレんとこ体育あったわ」
「はあああっ!?」
(あ、やば……)
「綱吉っ、君、そんな――、バカじゃないですかっ? 朝一番に気がつけそんな単純な事案は!!」
「うわ、わっ!?」
 いつものノリで胸ぐらに手が伸びるが、骸は目を丸くして何かに気づき、手は後ろに引っ込める。
 手首が代わりに握られた。人垣を避けてずんずんと進みはじめる。
「会長っ。あのぉ、お目々のお怪我は!?」
「ああ、お見舞い、どうもありがとうございます。僕自身は健康なんですよ」
「ちょ、骸、――骸っ!」
 内緒話のトーンを早口でまくしたて、綱吉は十秒で考えたプランを説明した。
「男子トイレできがえるよ。なぁ、体操着こっちに置きっぱにしてるからホントに忘れちゃってただけでさあ……! なあ? 骸? 怒ってる!?」
「最初から、学校は休めばよかったんだ」
「んな! 意味なくサボるとキレるくせにーっ!?」
「意味なく……? そんなカラダで……?」
 生徒会室の方面に来ると、さすがに生徒は追っかけてこなかった。
 小声ではあるが、ふり向くなりぴしゃんと雷は落とされた。
「バカですね君は相変わらず」
「ひゃ!? な、な、なんだよぉっ!?」
 いつもなら不良のように胸ぐらをつかんできて揺さぶったり首を締めてきたりと乱暴し放題の幼馴染みである。
 綱吉は、それらを覚悟して手で顔を庇うが、だが骸は手出しはしない。オッドアイで軽く睨むだけだ。
 拍子抜けする綱吉に、渋面から吐き出された溜息は当てられた。
「……それ、ノーブラ、ですよね」
「んっっな!! い、いきなりなんだよ!!」
「赤面するな。赤くなるな!」ヤケになって骸が語気を荒らげたしなめる。綱吉に釣られたように、にわかに赤面した。
「わかるでしょうがっ。普通に考えて! 君のぶらじゃーなんてあるわけないし、だから……。いえ昨晩のうちに対策考えておくべきだったかもしれませんけど……、ともかくも君は、綱吉、こう、」
 ぶつぶつ、口早に吐き捨てながら、骸は綱吉のニットベストを引き上げさせ、ゆったりめのボディラインに調節している。
「女体化してるわけですから……ゆったりに……だらしなく……、いつもみたいに着るんです。下手したら一発でノーブラがバレますからね?」
「む、骸がさっき引っぱってきたんじゃん……!」
「せめてサラシとか巻けないんですか?」
「持ってるわきゃないだろっ!」
 骸は自らの口前にロウソクのように、人差し指を立たせた。しー、と警告を発する。
「あと、そうやって騒いで妙な注目を集めないことですね、今日は!」
「んなあっ……! そ、……そうか?」
 息を飲み、しかし眉を困らせて綱吉は次なる指示を待つ。
 大昔から、綱吉にとっての頭脳担当は、六道骸である。
「どうしたらいい? オレ……?」
「そう、ですね」
 歯切れわるく、骸も困り眉になった。
 ちょうど生徒会室の前である。きゃいきゃいした話し声が廊下に響いている。スクールバッグから、鍵が取り抜かれた。
 喉を詰まらすようにしながら、しかし義務的に、骸が結論らしきことを言う。
「ちょっと触ってみましょうか? こっちにどうぞ」
「触る? オレに?」
「ほかに誰がいるんですか」
「…………」
 なんでだ? と、疑問は口にするのがなんだか躊躇された。
 血潮が急上昇しはじめ、胸はどぎまぎと弾んだ。
 大人しく入室はして、肩から自分のかばんを下ろした。
 生徒会室は静まりきっている。窓もカーテンも閉めきってあって、生徒たちのしゃべり声から完全に隔離された感じがある。
 骸は、自分は肩にかばんを引っ提げたまま、やおら手を伸ばした。
「これ。サイズはわかってるんですか?」
「……わかるわけないだろ」
 ぐにゃ。制服の上から、長い指が沈み込んでいく。
 ぐにぐにされているとなんとも表明しがたい違和感が胸中に流入してきた。
 本来は男同士であるから、あってはいけないような波である気がするから、綱吉は気まずくなってきて俯く。
 重さを量るようにして慎重に触っている骸が、汗して辟易した。
「ちょっと。女のように、反応しないでくれません? 気持ち悪いですよ」
「わ、わるかったな。どうせダメツナだ……ッ!」
「そうは言ってません。しかしこれテーピングとか……今からでもできません? 保健室から包帯もらってきますか」
「それでどうにかなるもんなのか?」
「さあ? 君に聞いてるんです」
「えぇぇ? わ、わかるかよ。おまえ、オッパイついたことないだろ!」
「そんな経験あってたまりますか。綱吉、ここでは変に騒がないでくださいよ」
 外に生徒たちの気配は絶えずある。登校時間なのだ。
 頬を引き攣らせて牽制しておいて、骸は制服ニットを捲って服のなかまで探ろうとしてくる。さすがに心臓が動転した。
「えっ! ちょ、いくらなんでもそれはセクハラ案件すぎない!? ちょ、……つ、つかっ、オレですらまだあんま触ってないのにィ……!!」
「……自分で自分にセクハラしてたら世話ないと思いますけど……」
 後ろによろけるが、好奇とみて骸は胸の上までニットベストをたくし上げさせる。
 真っ白なシャツに、くっきりはっきり、二つの丘のようにしてふくらみが視認できた。凹凸は骸の両手にすっぽりと包まれた。
「……柔らかい。……この、手に物足りないかんじは、いかにも君らしいですね」
「も。揉むな、こら、コラ!」
 半分以上は諦めているが、綱吉は熱っぽく汗してツッコミする。
 胸はそれぞれ軽く腫れるように、じんじんする触覚が残る。はじめての肉体感覚だ。
 自分でちょっと触ったときとは、まるきり違う。
 両目を剥き、喉を詰まらせ、一揉みされるごとに呻き漏らして綱吉はうだうだと片言を口にしている。
「う、ぅ、ん、ん、お、い、ら、乱暴に、すン、なよ、なんか、痛い……? かも……?」
「……これ、長引くならブラジャーを購入すべきかもしれませんね。せめてスポーツブラくらい……。下は、タンクトップ一枚ですか?」
「う、うん、そう」
 胸を揉まれながら、ひそひそと声を交わすと無性にいけないことをしている気分がした。胸の奥までがくすぶった。
 蒸れるような自分の体臭が気になってくる。
「く、黒、タンクトップ。……だけど?」
「ああ、黒なのは。透けてるのでわかる。……女っ気がないですねー」
「あってたまるかっ!? あ、ちょ、さすがに!?」
 ぷち、とボタンが外された。
 骸がようやく自分のスクールバッグを足元に置いた。実にスムーズに、どこか馴れた手つきでぷちぷちと制服を脱がせていく。
 タンクトップ一枚の胸元を触られると、綱吉はさすがに鳥肌を立てた。
(ひっ!!)
 マイルドな静電気が全身を突っ切るようだった。
 背筋から、お尻にかけてぞくぞくする。
「な、――な、な、な、なっ……ぶらじゃあのおおきさなんて……さ、さわって、わ、わかるの? そもそもっ!?」
「暴れられたらわかりませんけどね」
 逃げ道に岩を置かれて綱吉が口ごもる。そもそも、お前に触診される必要性はないだろ、とツッコミもはばかられた。
(いやでも、オレがちゃんと男なのを知ってるのはこいつだけ――、だ、から? っていうか……)腹のうちはハラハラしてきた。骸がちょっと冷や汗しているから、端然とした顔立ちを穴が開くほど見つめてしまう。
 綱吉まで妙な気になりそうになる。頬を染めて、その疑念を噛みしめた。
(――興奮してないか――? お前……?)
 ――これは……、ツッコミしちゃだめなやつだ、直感は働く。
 彼は、淡々と品評してはいる。
「Bカップ……てところでしょうか。君、ヒョロいからアンダーバストがかなり下がりますね」
「……カノジョ情報、なん? そういうの……?」
(そういや、二人目以降はなんかショートカットの……胸があんま無い子だったな。最初の子はすっごい巨乳だったけど)
 過去、骸が自宅に連れ込んだ女子なんてそんなに覚えてない……ように思われたが。
 綱吉が自分でも意外に思うほど、詳細な容姿が回想に浮かび上がった。
 顔立ちまで覚えている。うーん、と、右手で乳房をもみもみしながら、左手の指を曲げて自らの下顎に押し当てて、骸は賢そうに前言を撤回してみせる。
「……アンダーバストが……。……Aカップでもいいかもしれません」
「そんなにちっちゃい?」
 綱吉に余分な知識はないが、一番下のサイズを言われると、せっかく女体化してんのに……となぜだか残念な気持ちになった。
 骸の指先が、タンクトップ越しに胸の頂点をとんと撫でる。
「トップバストはぎりニットでごまかせる範囲とは思いますが。にしても僕の手に完全に嵌まっちゃうサイズですね」
「うわっ! や、やらしい触り方すんなよなぁ。人の体だと思って!」
 骸をふり払って、自分の手で胸を抑えて揉んでみるが、だが綱吉はいまいちピンとしなかった。
 不思議そうに眉を寄せる綱吉に、骸が妙味な苦笑をする。
「昨晩、けっこう触ったんじゃないんですか? 自分で……。なんといっても女子の体ではあるんですし」
「そ、……そりゃあ。まあ」
 自分で胸を揉んでみながら、綱吉は躊躇いがちに告白する。
 男同士だ。男の会話とわかっているのに、果てしなく気まずい……ようには感じる。
「やわらかいなーっとかは……試してみたけど……。太腿もなんだかむっちりしてる気ィするよ。あと女の子って股間は位置に困んないのがいいなって……思――」
 骸の手に、上から乗っかられて、主導権を奪われるようにむにむにとされる。一緒に女体化した肉体を試してみるような行動だ。
 共犯者であるにしても、だが、体は綱吉のものだ。
 一緒に触りながら品評するほどの男気はなく、綱吉は率直に頬を紅潮させてしまう。
 骸は、手をそこに置いてみながら、なにやら口早に綱吉の言葉を咀嚼する。
「ちんちんがないのは便利だなって訳ですね? そんな、もとから君、おっきくはなかったのに」
「チンポジの話だよ! 誰がサイズ感の話してんだよぉおおおっ!?」
 骸のオッドアイは、少なくとも左目は、普段よりも瞳孔が大きく広く感じられた。
 目の下が熱っぽく、綱吉と同様になにかを必死に忌避しては体温を急上昇させている様子である。綱吉は、そのうちに耳まで真っ赤に染まった。
 ごほん! 場を正すように、咳払いして骸はツッコミする。剣呑な眉。
「このエロ中学生。女子に免疫ないからって自分の体に欲情してんですかね?」
「ひ、ひとのこと、言えるのかお前は。散々に触っておいて!」
 叫び、さらに意識させられる。
 骸が水に流すように軽口を叩く――が、綱吉は、顔を上げたとたんに呆気にとられて口をぽかーんとさせる
「――骸っ!?」
 ぎょぎょ、声は裏返った。
「骸。っ目が、『四』になってる!!」
「え?」
「目の数字! 数が減ってる。最初は『六』だった。昨日から『五』で、んで今は『四』だぞ!?」
「…………!」
 スマートフォンを手に取って、鏡面にして骸は自分の顔をすばやく確認した。
 眉が寄る。少し不安げな沈黙。綱吉がしゃべっても一分ほどは応答がなかった。
「馬鹿らしい」
 と、やっとの言葉はそれだった。
「妙な、小細工をされてるんでしょうね。君が女体化したように」
「だ、大丈夫なのか……!?」
「今のところはな」
 髪のきわを手で拭って、どうやら脂汗を拭っている。
 その姿に綱吉も自分が汗ばんでいることを自覚した。
 ……ただ、恐怖やら畏怖やら、そんな意味ではない様子だった。綱吉の汗はやっと引き始めているのだ。
(な、なんか、……なんだ、この罪悪感はっ!!)
 やたらに後味は悪い。
 骸もなんだか気まずげに、綱吉と目を合わさずにスクールバッグを肩に引っ提げた。
 時計を見て、早口で言う。おためごかしの印象はある。
「そろそろ、授業、ですね。お前は保健室にでも行ってなさい。今日は一日そこにいて、頃合いを見て早退するんですね」
「う、……うん」
「保健室の先生には僕が言っておきますから」
「わかった」
 舌を酸っぱくさせながら、綱吉もスクールバッグを肩に掛け直した。
 骸に、なにか言わねばならないような使命感は抱く。このままこの奇妙な空気は持続させては、まずい……ような気が。
 骸に自然と保健室まで引率されて、しかも骸が鍵を出して保健室を開けたのでようやくやっと、念願のツッコミができた。
 がびーん! と顔面を崩して力の限りに叫ぶ。
「て、――いうか、だから!! お前ってばどんな権力の持ち主なんだよ!!」
「信頼の証ですよ?」
 鍵の束をかちゃりっと鳴らし、骸はそれをスクールバッグにしまった。
 保健室は誰もいなかった。コピー紙になにやら書き置きして、骸は挨拶もそぞろに外に出る。
「綱吉、それじゃ。ベッドで寝てたらどうですか」
 曖昧に頷くと、がちゃり、と外から保健室が閉められた。
 綱吉は、机に置かれた書き置きを覗いてみる。
 ――『彼は腹を壊したそうです。早退させてあげてください』と、その下段に六道骸の署名書き。
 遠のく、骸の足音。保健室はひんやりして静かだった。
 朝の光に照らされるカーテンは黄色く輝き、綱吉は吸い寄せられる羽虫のようにしてそこへと歩いていった。
 ベッドに、腰をおろしてみる。改めて自分の幼い乳房に手を当てる――
「…………、…っ?」
 ど、ど、ど、ど! 思っているよりずっと大きく速く、鼓動が胎動している。
 鏡を見てみれば、頬が真っ赤に赤らんでいた。

 

 しばらくすると保健室のドアが開けられた。
 足音が周辺を歩き、やがてカーテンを開きにきた。養護教諭の若い先生は顔見知りだ。
「あー、骸ちゃんの幼馴染みくんだね。どうぞどうぞ、帰れそうになったら声かけてね」
 返事をしながら、骸の名前の効果ってすげーな、と普通に感心もしてしまう。仮病を疑うような質問ひとつなく済んでしまった。
 毛布にくるまって午前中から学校のベッドに横たわり、綱吉は眠気にも強襲されていた。
(……ダメツナとしては……、状況はサイコーなんだよなー……)
 真っ昼間、保健室でだらだらと……。さぼり魔として夢見るシチュエーションである。
(超VIP待遇だろ。すごいわ)
 しかもあの幼馴染みの許可つきだ。
(骸……、骸の、……目。……ガイさんによるものだってクロームは言ってたっけ……)
 こういうときは、だが、考えてもしょうがないことが脳裏を堂々巡りしがちだ。
 綱吉は、反対側へと寝返りを打った。
(……てか、いつ男に戻れるんだ? ぶらじゃあ、買うなんて……イヤだあああ……。骸に買ってきてもらえんかな? それかガイさん……、デイモンなら頼めば簡単に買ってきてくれそうだけど、なんかヤだな。クロームに頼むのなんて論外だしな。って、なーにを真面目に検討してんだオレは! あ゛〜っ……!!)
 ごろろん、さらなる寝返り。
 目を閉じてまどろんでいると、闇に少女の姿が浮かんだ。
 紫色の瞳をしている。目はこちらに向けてあるが、顔は抱きしめている三叉の槍へと向けてある。太腿を搦ませて佇むその姿が蛇のようにくにゃくにゃしていた。
 は、と目を開ける。
「…………」
 ごく短期間、眠ったらしい。先生に断りを入れて綱吉は保健室を出た。
 男子トイレのマークを見上げて、ちょっとだけ、尻込みした。
(だ……。男子トイレで女子が用足すってどう考えても……でもオレ男だしな!?)
 おっかなびっくりに男子トイレの個室に入る。
 昨晩、既に経験済みとはいえ、下着をおろす瞬間は非常に緊張した。
「うぅうっ……!」
 一握りのプライドと、人間としての尊厳が拮抗する。
 だが、試練はトイレを出てからだった。
「わっ!!」
 個室を出ると同時に叫んでいた。
「お? なんだー、ダメツナもサボリかよー」
「な、な、なっ……。なにしてんだ、よ」
 愚問だな! 胸中にツッコミする。顔見知りの同級生もそんな表情で、情けない男を呆れて見るように綱吉を見た。
 男性便器の前に立ち、小水を終えてチャックを上げている。
(あ。いいな)と、その感想は、自分が今まさにそれが不可能だからこその感想だ。
 だったが、同級生はさらに機嫌を損ねた。
「てめ、なに見てんだよ!」
「え!? うわ、ご、ごめん、変なつもりじゃ!!」
 慌てて自分の手洗いをはじめるが、赤面する綱吉に向こうはさらなる不信感をつのらせた。
 横並びにくっつき、肩をぶつけて威嚇するように絡んできた。
「おまーさあ、ダメツナ! ろくどーさんとあんなに仲良かったっけぇ? 幼馴染みなんだって?」
「え……、あ、い、いちおうは……」
「ろくどーさんああ見えても顔が広いんだぜ? 沢田ばっかに絡んでるってウワサになってるぜ」
「ええええ? い、今だけの話だろ……」
 それは、本当の感想だ。ごたごたしている今だけだろう。
 実際に、中学に上がってからの骸とは、綱吉は疎遠気味だった。
 ずる休みやらあまりにダメダメな事件やらをやらかすと、当たり前のように躾のような乱暴はされるが……。
 無体な仕打ちの数々を思い出し、今日の親切な骸も思い出して綱吉は少々複雑になる。
 そのときだ、同級生が手を出してきて水場を奪った。
「おい、水貸せよ」
「うぎゃああっ!?」
 ぎゃああ! 向こうも悲鳴して、水はびしゃびしゃとそこらに跳ねる。綱吉の手の甲が跳ねて蛇口を塞いでしまっていた。
「うぎゃああああああああ!?」
「ざ、ざっけんなよテメー!」
 一緒に水まみれになった同級生が、声を荒らげて急いで蛇口を閉めた。
 じろり! とそれから綱吉を睨む。
 綱吉は、びしょ濡れに水を含んで重たくなったニットベストを抱えるようにして、自分の胸に両腕をまわしている。
「わ、わざとじゃないーっ! ごめん!!」
「てめぇ、謝りながら逃げるんじゃねーっ!! このダメツナーっ!!」
「ぎゃああああああ!!」
 腕をふりあげられて、綱吉は全速力で男子トイレから逃げ出した。
 避難先は保健室だ。あそこなら、今は六道骸の息がかかっている! 確実な味方だ。
 と、角を曲がって一歩目だ。
 目を瞠るほどの真っ赤な右目と、青い左目の少年――彼と視線ががっつりと交差した。
 そして衝撃は激突した。
「うぎゃっ!!」
「うぐ」
 骸は、咄嗟に後方にブレーキを踏んだらしかった。
 体格も体重も負けているはずの綱吉が骸を押し倒し、その上に乗っかった。痛みに喘ぎ、やがて涙目で綱吉は自分の頭を撫でさすって身を起こした。
「イッづ、ごめ、ず、頭突きした……ッ」
「……たっ……!」
 あごの下を手でさすって、骸は顰笑している。
 綱吉の髪の毛の先からは、ぽたぽたっと水滴が垂れた。骸の服の胸に点々とシミが広がった。
 引き攣り笑いしている骸が、認めがたそうに綱吉の全身を見咎める。
「な、なんで濡れてるんです……?」
「あ。さ、さっき――アアっ! オレ今追われてるんだよ! クラスのやつにまちがえて水かけちゃって! 骸、なんとかしてくれよっ」
「……誰もきませんけど……」
 控えめにツッコミするその言葉の通り、追っ手はなかった。
 え、と固まる綱吉に、骸は冷静だ。
「今、授業中ですよ。そんな大騒ぎして追いかけっこする馬鹿はそんなにいるわけないでしょう……。様子を見に来てみれば、当の本人は不在で、しかも廊下の向こうからは悲鳴が聞こえる。おかしいですねぇ?」
「…………!!」
 露骨に、骸の眉間に太いしわが刻まれている。
 上半身をゆっくりと起こし、綱吉に手を貸すようにして立ち上がろうとする。
 いつもの骸なら――、以前の骸ならば、この場で綱吉を締上げているはずだ。ネクタイで首を絞めたりなんてするはずだ。
 綱吉は青くなる。が、彼は手を出しはせずに、しかしイライラして小言を吐き捨てた。
 君ってやつは、と、憤りを飲むようにして一息を入れてから、
「ノーブラで水浴びた挙げ句に全力疾走してたな? ほんっっっっっとに大馬鹿じゃないか? お前――っ」
「あ。ど、どっちにしろ、怒られるのな!?」
「君がそうさせるんでしょうがっ」
 小声であるが、はっきりした怒気に彩られている。
 骸の手が自然と首にきたので綱吉はやっぱり拷問されると思った。
「ひぃいいえええっ!? ……っ!? っ!?」
「――、――寝てろ、馬鹿!」
 綱吉のネクタイを引っつかんで、しかしそれ以上はどうにもせず、骸は奥歯を噛む。
 八つ当たりのように、保健室の戸を開ける手つきはいささか乱暴になった。
(なっ、)意識せずに綱吉は自分の喉首をさすっている。
(お、……女の子だったら。……乱暴されないのか? もしかすると)
 この腐れ縁も、男女であるなら、ぜんぜん違う形になってたんだろうか……なんてつい真面目に考えてしまいそうになる。
 保健室は、養護教諭の姿が消えていた。勝手に骸がベッドに腰をおろしている。
 綱吉のかばんに並べて自分のかばんを下ろした。
「……骸。授業は?」
「理由つけて出てきた。もう少ししたら、早退しますよ。やっぱり放置してると君は危なっかしいから」
「なっ! し、仕方ないだろ。トイレぐらい!」
「トイレねぇ……」
「ば! そ、想像すんなよ! すけべ!!」
 なぜだか骸のたった一言で全身が熱くなる。綱吉はそそくさと話題をそらした。
 先生は? 聞いてみると骸による工作行為だった。
「保健室便りの印刷にいきましたよ。僕がこの場を預かるということで。ちょうどいいじゃないですか、居ると面倒ですから」
「お、お前、先生とどんな関係なんだよ」
「君には関係あります? それ」
 がーん、と顔面にショックを表わしながらも綱吉もベッドに座った。
  帰宅するにしても、まだ濡れている。もうちょっと乾くのを待ちたい気分だ。あっさりと骸に命令された。
「綱吉、脱ぎなさい」
「…………は?」
 骸は目の前で自分のニットベストを脱いだ。サイズがワンサイズ上のそれが綱吉の手に渡される。そこでやっと交換という選択肢が浮かんだ。
「あ! ああ、なるほどな」
「……君って……まぁ、いいですけど」
 ちっともよくなさそうな微妙そうな引き攣り顔で、しかし骸は綱吉が脱いだベストを引き受ける。
 勝手知ったる様子で、ハンガーを出してくるとカーテンレールから吊した。窓を開けて風通しをよくする。
 てきぱき動くその姿に、そしてその横顔に目を惹かれて、綱吉はまじまじと口にした。
「やっぱり、『四』に読める……。お前の赤い右目」
「そうみたいですね。どーにも、できませんけど……」
「どうなってんだろうな」
「さあ?」
 ふたりして、互いにじっと見る。
 綱吉はオッドアイの右目を。骸は――…
 ……きゅ、と綱吉は自分の胸元を両手に隠して唇を尖らす。
「おま、どこ見てンだよっ」
「ノーブラはやっぱりダメですね、君……こおゆうの、自覚あります?」
「ひゃっ!?」
 ちょん、人差し指の先っぽで的確に胸を突っつかれて甲高い悲鳴が漏れた。
 思わず、自分の喉首も押さえる綱吉だ。声帯まで女子に聞こえる。
 隣に腰を戻して、骸が呆れるようにして、しかし遠巻きにふたつのふくらみを見やる。
「警戒心がないんですよねぇそもそもが……。男子トイレって。そんな場所で実は女だとかバレたら君、もう学校来られなくなるかもしれませんよ? おまけに水被って出てくるとか、無防備すぎてどうかしている」
「な、なあっ! な、なんだよ? 一緒になったやつはクラスメイトだったんだよ。それに逃げ足はあるぞ、オレ」
「そんなこと問題にしてません」
 拗ねるように骸が肩をすくませる。
 ちょっと可愛げのある言い方だったので、綱吉は油断して苦笑した。
 その瞬間だ。骸側の手首に、なにやら指がまとわりつき、絡め取るようにして片腕が持って行かれた。
 スプリングは軋み、綱吉の視界が反転して保健室の天井が視界いっぱいに広がる。
 頭上に、しれっとした骸の顔が伸びてきた。
 オッドアイがどこか酷薄で、ガラス球のような冷淡さがある。声も抑揚がなくて恐い感じがあった。
「――逃げられてませんけど? 君?」
「……なっ……!」
 彼は、結果を口にする。
「僕はこうした場面を言ってるんですよ? 逃げ足の速さに相手との関係性、意味がありますかね。例えば僕は君の幼馴染みでもあるが、今は男と女でしょう?」
「んな……!!?」
 今日まで、幼馴染みから受けた脅迫なんて星の数ほどある。
 が、そのどれよりも群を抜き、ダイレクトに心胆を竦み上がらせる脅し文句だった。思わず声を失って綱吉は放心した。
 混乱して、笑みもなく、ただ単に見下ろしてくる二色の瞳を見上げる。
 能面のようなその表情に新たな恐怖が広がる。
 体が女性化しているからか、何が起きるか想像できないからか、本能なのか性格なのか、胸の内が暴雨に晒されて激しく狼狽える。
 綱吉がベッドを軋ませて抵抗しても、シーツに抑えつけられた両手はびくともしなかった。
「……」骸は、眺めるだけだ。
 息をぜえはあさせるだけさせて、ついには綱吉が降参する。
 血の気を引かせながらも、わかったよ……っと悲鳴のようにして喉をしぼった。
「わ、わるかったよ。はなせよ」
「逃げてませんけど? まだ」
「にげ、にげられ、ないよ……これじゃ。わかったから放してくれよ」
「うーん。どうするものか。こういう選択権すら、こういう場面じゃ僕にあるんですよ?」
「わかったってば!」
 自暴自棄になって叫ぶが、幼馴染みは頑としてどかず、綱吉に防犯意識らしきものを叩き込もうとしてくる。
 語り口こそは淡々としたものだ。
「言うつもりは別にありませんでしたけど……。君、もし男だとしても普段から自分には絶対に何もないって妙に確信してますよね? そおいうの、わかるんですよね。僕のようなタイプの人間には。騙されやすい性格が筒抜けって言いますかね……女だったらすぐつけ込まれてぐちゃぐちゃな目に遭うんだろうなぁと簡単に想像できる、今みたいに。ほら、君、今みたいな目に遭って初めて怖くなってきてるでしょう?」
「…;…む……むくろ……」
 もはや、綱吉の声は哀願のそれだ。哀切にきりきりと胸を痛ませて訴えた。
 首筋に、六道骸のよく通った鼻筋が潜り込んでくる。軽くすんと鼻を鳴らし、いつもと違う、と事実を羅列する。
「おろし立てのシャツみたいな匂い。女子だとわかるような変態もいるでしょうよ。綱吉、むざむざ、誰かに襲って欲しい訳じゃあありませんよね」
「…………っっ!」
 心臓が高鳴りすぎて、綱吉はわけがわからなくなってきた。
 末期の力をしぼるように、頭は左右に揺する。
 はからず、目尻の涙腺がゆるみそうだった。勘弁して欲しかった。
「悪かった、よ。気をつける。もういいよ…!!」
「そういう逃げ方、するんですか? それならどんな目に遭っても文句なんか言えませんが――?」
「お、おい。おいってば。っ!」
 一層、声質が冷たくなったと思えば、両眼のまなじりを締めて骸がなにやら憐れんだ。
 そしてその手が綱吉の胸元へと伸びる。朝の触り方とは全く違う触り心地だった。
「!!」
(あ)
 急に――、骸は何人も体験済みであるという事実が、骨身に浸みた。
 これはそういう触り方だった。
 驚き、改めて骸を見上げると、すぐ真上にある彼の表情は奇妙な達観を泳がせている。
「犯すってんじゃないですよ? もちろん。……ただ、女になってる今はどういうことがあるんだか、……ダメツナな君にもよくわかるように、教えてあげてもいいですよ」
「あ……、ちょ、さ、さわるなよ。さわるなよぉおっ……!」
「女の子になりたてのくせに、もう興奮してるんじゃ相当だらしがない女ですよ? 綱吉……?」
「うぅうううううっ……ぅあっ!」
 シャツとタンクトップを一緒くたに捲られながら触られて、綱吉の足が盛んにシーツを引っ掻く。
 骸は片手分を既に潜らせている。もぞもぞ、地肌を直接に触って、綱吉にその肉体の変化を存分に味わわせる。
 もはや涙ぐみ、綱吉は根を上げるようにして絶え絶えに訴えた。
「や、やめて、わかった、わるかった、おれわるかったから……! は、は、はず、はずくて死んじゃうから、こんなんっ!!」
 胸の上から視線を流す幼馴染みは、喉を上下させてゆるく頭部を左右に揺する――、揺らそうとした。
 綱吉の指摘で、その動きが中途半端に止まった。
「…おまっ、目また変わってるし!!」
「――えっ?」
 オッドアイをまんまるにして、骸が綱吉の上からどく。鏡に向かった。
 慌てて跳ね起きる綱吉は服のめくれなどを直した。
 骸は、オッドアイの紅い眼球の下に指を当てて『三』文様に変化したそこに愕然としていた。
「なっ! ……な、なんで」
「ちょ、ちょっと前からそうなってたぞお前っっ……!」
 その驚きは綱吉にもずっとあるが、それ以上にやたらと驚いていて、骸をゴミでも見るように見てしまう。
 こんな気分は、今まで男子として受けてきた暴行では味わうことがなかった感情だ。
「む、骸、さい、最低だからなっ! おまえっ!!」
「……なんですか、僕は君に、」
 オッドアイを『三』にさせて顔面を驚かせながらも、負けじと綱吉に言い返そうとする。
 そんな六道骸だったが、突如の襲来があった。
 ベッドを外界から隔てる黄色いカーテンがじゃっとレールを鳴らして開かれた。
 綱吉と骸が揃って度肝を抜かれてふり向く、それと同時に。
 ぱぁんっ!
 火薬臭がして、煙があがった。そして骸の姿が消えた。
「なっのぉおおああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
「はい、そこまで」
 ピストルの銃口を向けながら、カーテンを開けてその場に突っ立っている青年は、骸とほとんど同じ顔立ちをしている。
 後ろの髪を一纏めに、今日は黒いリボンで結んでいた。
 上品な革靴に、ベージュ色の爽やかなジャケット着。いつもの千鳥格子のロングマフラーは首元に。
 長髪とマフラーをしっぽのように垂らしながら、ピストルを挙げて遅すぎる警告を発した。
「今のは目に余る行動でしたね。あんまり狼藉が過ぎると僕が直接、手をくだしますよ?」
「んなあああっ!! なああああ! んなああああああっっ!?」
 あわを食って叫びまくる綱吉だったが、そのうちに六道ガイの視線にも気づき、腹の上にちょんと乗っているぬくもりにも気がついた。
 綱吉のお腹の上には、黒い毛並みのちっちゃな兎がへばりついている。
 四肢を広げて死にもの狂いで綱吉に密着していた。
 うさぎ――、うさぎの目は、左側が青く、右側は赤くて『三』の文字が読み取れた。
 腹の上の生き物に手をやって、綱吉は愕然と目を剥く。
「こ、これ!! まさか――!?」
 ガイは、面白そうに、綱吉の腹上を覗き込んでからかった。
 簡単に、首肯する。
「科学の力です。六道骸」
「ぎゃっあああああああああああああああああああああ!? 骸ぉおおおお!!? 可愛くなったなああああああああ!!?」
 脇の下に手を入れて持ち上げて、いとも簡単にだらーんっと吊し上げが可能だ。
 体毛が、光の乱反射によって青く染まって見える。骸のちょっと変わった地毛の色といっしょだ。
 目蓋のない瞳は、ぷるぷるした白い光を泳がせていて、長い耳はぴーんっと後ろ向きに反り返っていた。
 信じがたい気持ちでガイへと叫んだ。
「が、ガイさん、魔法っ、ガイさんじゃ、どうにもできないって――!?」
「僕はあっちの能力は使えませんよ。それは、ト弾。うさぎだま、と言います。まあ僕も女性ホルモンの大量投与などを繰り返せば男を女に変えるぐらいはできそうですが」
「は、はいいいいっ……!? え、あ、じゃあオレを戻せるんじゃ」
「それは危険です。僕にできうることは重ね掛けです。いざ魔法が解けたとき、君がガチムチしてるとかはちょっとイヤですかね」
「ヒイイイイイイイッ!? ……ぁ、あ? え? どう、も?」
 気遣われた気がちょっとするが、気のせいかもしれない。
 近寄ってきたガイはなんてことなく、綱吉少女の服の乱れを整えては直していく。
 ぷちぷち、と脱がされかけたボタンも丁寧にはめ直してくれた。
 面を食らって上目遣いをすれば、そこには以前と同じような男が居る。
 骸の兄、歳のはなれた幼馴染みだったはずの青年。
 ――だが、以前は感じえなかったものにより、今はぞくっと背筋が寒くなった。
 こんな、女体化したり、骸を兎に変えたりしても、この人は前とまったく同じ態度で自分に接してきている。それはちょっと常人の感覚ではないはずだ。
 青い両眼が、底が深すぎて沼地のようだった。
 皮肉そうにガイは口角を上げた。
「……種をひとつ、バラしてあげましょうか? 綱吉くんの安全の為に」
「……おれの安全?」
 兎を抱っこする両腕に、力がこもる。
「ええ。骸の赤い目玉。それは、僕の発明品のひとつです。実は、僕はこう見えても高名な技術屋でしてね。その右目のカウントが『一』になったら宿主が死んでそれで終わりです」
「…………、…………はっ?」
 タイムラグが生じて、理解するのに時間がかかる。
 時間をかけても納得はできず、胃が沸騰したように塩辛くなった。ふさふさの兎の毛が指にこすれて、兎が震えてるのか、自分が震えてるのかも判断ができなくなった。
 ガイは強く凝視する。顔色も変えず、やっぱり彼はちょっと特殊なようで、以前のようにたおやかだ。
「うちの骸が沢田綱吉にある種の情をもよおした場合に限り、カウントを取る。万が一の為の保険でした。もっと長い目で見ての変化を仮定してましたが……、まあ、失敗とも言えそうですね? クロームの術とも合致してあっという間に逝ってしまう」
「い、イッ……? 逝く……ですか?」
(じょ、じょう!? じょう!? 骸が……今までに数字を変えた場面って――?)
 あれらのとき、発生するかもしれない骸の感情……?
 目をどんぐりのようにくりくりさせて、綱吉が考え込んだ。兎は胸中にて、ぷるぷるが増した。
 そんな兎と綱吉を見下ろしていて、ガイが、ぽつりと兎に告げた。
「綱吉くんに手出しはさせませんよ」
 感情のない声色である。
 なにやら、積年の恨みがあるように、根っこの太さと深さが感じられる。
「おまえなど、死ねばいいんだ」
「…………!?」
 ガイが手を伸ばし、ぷるぷる続ける兎の耳と耳の間に手を入れる。
 愛でる手つきは、やわらかい。羽毛でも擦るように優しくて慈愛すら見てとれる。兎の耳が左右へと掃かれた。
「絶望にのたうちまわって、自ら命を絶てば良い。死にたくなるように恥ずかしいでしょう? 死んでいいんですよ? 僕がゆるしてあげますよ」
「……ちょ……、ま、まってくださ……。ガイ、さんの、目的って……なんなんですか!?」
 言うだけ言って立ち去ろうとするガイに、慌てて綱吉も追いすがった。
 保健室を出る前に、上着の裾を捕まえられた。
「が、ガイさんも骸なんですよね!? クロームは、ガイさんがどこから来たかわかんないって言ってたけど――、でも骸ですよね? ガイさんって名前は便宜上のやつですよね? 骸が、なんで骸を殺さなきゃならないんですかっっ」
「骸が死んだら僕も立ち去りますよ。綱吉くん、僕は最初っからそのつもりでしたよ」
「ガイさん」
 綱吉は、もはや意味がないような名前をやっぱり口にしてしまう。
 どこかの世界の六道骸だなんて話は、本当なんだろうか?
 言葉を選ぶ余裕もなく追い詰められた。
「なんでっ……あんなに、優しく……オレには! こいつ、骸は、けっこう酷いやつだけどオレの大事な幼馴染みなんですよっ? そんな、死んじゃうなんて……、おかしいよ!」
「綱吉くん……」
 青い瞳はちょっとだけびっくりしたように拡がる。
 綱吉に改めて感じ入る。そんな視線が、下にきて、少女となった肉体を点検した。
 足首、ヒップライン。胴体ときて頭に戻ってくる。
 綱吉は、振る舞い方もわからずただ観察される。
「……が、がいさ、」
「怯えなくていい。僕は女に興味ない」
「……え゛っ……!?」
「いえ、性別に。ね」
 そう言う彼は、綱吉の頬に手を伸ばした。血の気が引き、体温が薄くなっているほっぺた。
 優しく笑顔を浮かべて、ガイは言う。
「僕は君に変わって欲しくない。だが、それだけに、この絹のような儚さは罪悪ですね……。罪が香る、罰のような誘惑だ」
(な。なにいって?)
 いつも通りのガイなのに喋っている内容が理解できなかった。
 意味がわからない事例はまだ続く。
「!!」
 両眼のフチがまん丸になった。
(な、なんで、えっ)
 青年の小指とくすり指があご先に引っかかって顔を持ち上げる。まったく唐突に始まったのはキスだ。
 口を合わせるなり唇を割る。無防備な上下の歯をこじあけ、口腔の壁をなぞって、綱吉の舌先にまで触れ合った。いいようのない刺激が綱吉の胎を直撃した。
 ややして、口の端から零れ出た唾液が、ガイの舌に舐め取られた。彼はうれしそうに微苦笑をした。
「――内側じゃ、男も女も関係ない。生き物ですからね」
「むっ…ぶっ…!!」
 溺れるように目を白黒させる。
「っ、」ガイが、はたと、自らの左手を見る。
 綱吉も、そこからブラーンと垂れ下がっている黒い生命体に気づいた。
「うさ、」
「クフ」
 手に噛みつく兎は、一振りで地べたに貼りついた。
 すかさずガイの革靴が踏んづける。綱吉はキスよりさらにびっくりして悲鳴を上げた。
「うぎゃああああ!? し、死んじゃう!!」
「死んでいいですよね」
「ダメですよおおォーッ!!?」
 しがみつくとガイの足は見た目よりもずっと細くて硬かった。これじゃ本当に踏み潰される。
 当の兎は、すきまが生じるなりダッシュして廊下に逃げ出し、その方角は一年生の教室だ。
 ざわわ、と騒ぎ声。綱吉の悲鳴などで誰かが様子を覗きにきていて、誰かは分からないが、叫び声をあげた。
「ぎゃ!! うさぎ!?」
「きゃーっ! 可愛い!」
 ざわ、ざわざわ、騒ぎはみるみるうちに拡大して廊下に女子たちが出てきた。
「うげええっ!? や、やばっ!!」
 慌てて追いかけようとする綱吉は、だが後ろ髪が引かれて瞬間的にガイを確認した。
 ガイはその場を動かず、駆け出す綱吉にただ視線を寄越している。が……。
 ふり払うようにして前を向き、綱吉は口をごしごしと手の甲で拭った。顔は伏せた。
 そうだ、と胸に呼びかけもする。
 どんなに非現実的でも、異常でも、彼を見捨てるわけにはいかない。たった一人の大事な幼馴染みだった。
「骸!!」
 うさぎを求めての脱兎である。




 ×××





  黄金色に馴染んだ空すら溶けて、すっかり辺りは冷えてきた。
 もう綱吉の髪も制服も乾ききった。先の尖った葉っぱがシャツ越しにちくちくと綱吉に突き刺さる。
 しかしようやく、綱吉は安堵の息を吐く。
「み、みつけた……っ」
 校舎の裏手である。
 植木の下生えの奥の奥にあたる場所で、黒い生き物はぷるぷるしている。
 丸くなって怯えている。女子に抑えつけられたり男子に耳から引っ張り上げられたり、散々な地獄から逃げてきたのを綱吉は知っている。逃げ惑う兎を追って綱吉もボロボロになった。
「おいでー、でてこい、ほら……!」
 生い茂る枝と葉。空間がせまい。片腕と頭がやっと入る。
「ほら。骸、骸ってば…っ」
 夜の冷気はじれったく背中を急かした。
(が、学校の門、しめられてなきゃイイんだけど……ッ。てか、骸もせめてオレのほうに逃げてくれればいいのに)
 文句は腐るほどある。骸が綱吉からも逃げ回らなければ話は短くて済んだ。オレ、こんなに頑張ってるのに、なんでよりにもよってこんなときに、お前は逃避行動に走るかなー、などと胸中にぼやく。
 だが、反比例して綱吉は胸が締めつけられてもいる。
 この幼馴染みとの間柄で、みっともなく逃げ回る役目は、いつも綱吉のものだった。
「…………っ」
 兎は、暗闇に隠れて本物みたいにぷるぷるしている。
「…………よくわかんないけど」
 草場に頭を突っ込んで体を寝かせながら、綱吉もどこか達観して呟いた。
 迷いながらの言葉になった。
「ガイさんの言ってたことを……。気にしてるよな……? なんらかの情とか、いうやつだよな。だからオレからも逃げてるよな? 骸。気にしないでいいよ。お前、今更……それに今オレは女の子なんだし、骸がなにか感じてたって仕方ないだろ。恥ずかしがんなよ、別にいいから」
 兎は、出て来ない。辛抱強くこらえて綱吉も地べたにて寝そべる。
「あのな」どうせ回収するまで帰れないんだ。腹を括るしかなかった。
「オレだって、その……、ちょっとは反応したし。お前に触られてその……男のカラダでいたら勃っててもおかしくなかったし……あぁあもう何言わせるんだよ、オレがバカみたいじゃないかっ? さっさと来い!」
 兎は、やっぱりぷるぷるする。が、両耳で綱吉をサーチした。アンテナのように。
 あごや手で土をたがやし、綱吉は右腕をさらに伸ばす。
「こい。ほらっ! オレなんとも思ってないから! 今も女だしお前はウサギだし! ほら!」
 腕を限界まで伸ばして、首をそらせる。
 と。
 ぷるぷるするぬくもりが、指先に触れる。
 死ぬ気でもう少し、手を伸ばすと整った毛並みを撫でることができた。
 やわらかいそれは綱吉の手のひら全体に寄り添ってきて、指四本で背中を、親指でお腹をおさえてむんずっと捕まえる。
 先に自分の頭を抜き、左手を差し込ませてゆっくりに、綱吉はオスの黒兎を引きずりだしていく。
「よぉーし……よしよし、恐くない、こわくないぞー。ほーら、な?」
 赤ん坊でも取り出すように、胸におさめた。自然と笑みがこぼれていった。
 幸い、校門にはまだ鍵がかかっていなかった。
 グラウンドに置いておいた二人分のスクールバッグを肩に引っ提げ、兎を抱っこして帰宅する。明かりのついた六道家は素通りして隣の自宅へと入った。
 真っ先に自分の部屋に向かい、荷物を捨てて仰向けでベッドに倒れている。
 兎の毛並みに鼻をうずめると微かに獣の匂いがして、それと土っぽさが濃厚に香った。
 うさぎ――、いや、骸は動かない。
 死んだみたいにして、恐らくは精神上の理由で力尽きている。
 そりゃそうだろ、オレもだよ、綱吉は内心にてしゃべりかけた。
(……まさか、このまま死ぬなんて、冗談だよな……?)
「あー……、めっっちゃ疲れた……、明日はさ、学校、休んでもいいよなー……? な、骸ぉ……?」
 しゃべれない兎に独り言を語らって、そして両目を閉ざした。
 不安を中和するぐらいには、兎は温かった。








>>ターン8 「今昔幼なじみ
>>もどる