リングとミリオン:ターン2 


「骸骨に倣う」





 当たり前の前提であるが、沢田綱吉は歴とした男性である。
 六道骸もまた、ちゃんとした男性だ。綱吉よりも地頭があって容姿も要領も遙かによくできた男である。
 ……男である。

 排気ガスをくゆらせてバイク便が去った。
 二軒の家々から、勢いよく少年が飛び出してきて互いに相手の出現にビクンッとなる。
「つなよし」
「むくろっ?!」
 声は戦慄と緊張が含まれている。
 朝陽に目を焼かれながらも綱吉は背伸びをする。骸の長身だと難なく顔が出せるが、両家の境にあるコンクリート塀はそれなりに高さがあるのだ。
 骸は、蓮のワンポイント入りのスウェットを着用する。寝間着だ、と綱吉にはわかる。綱吉は、見たまんまのパジャマだ。
 眼帯の掛かっていない方の青い目玉が、いかんともしがたい感情を漂わせる。
 彼らは揃ってポストを開けて、二人揃って封筒を開封した。綱吉はびりびり音をさせて封を破いた。
 ――『ウソなワケないでしょ! 弁護士さんに預けてた書類もあるのよ、速達でコピーを送ってもいいわよ? ふたりとも、ちゃんとした正式な――』……。
「……オマエの。なんて書いてある」
「…………。交換しますか」
「そうしよ」
 唇をへの字にする骸と、脂汗を浮かべる綱吉とが塀越しにやりとりする。
 書類は、書式すら含めてそっくり同じものだった。
 沈黙はそよぎ、風になる。
 白々しくも覗き合って牽制する、奇妙な間合いが生まれた。
「……確かに、父と母の字ではある」
「……オレんちの署名も……、本物ぽいな。父さん、昔っから日本語はヘタクソなんだ」
「君も下手でしょうが?」
「い、今、イヤミ言ってる場合か!?」
(あ、頭、マジでくらくらくる……っっ)
 両名の婚姻を祝福する――、と、親四人分の署名とともに一枚目に記してある。二枚目は弁護士による証明。完璧なお膳立てである。
 悪い冗談としても、手が込みすぎている。
 再び、沈黙し合う……、すずめがチュンチュンと鳴いて飛んでいった。
 顎先に汗を感じた。さすがの六道骸も青褪めて、綱吉と骸は警戒し合う獣さながらに間合いを取る。
 親同士に決められた許嫁を凝視した。
「念の為。質問するが」
「なんだ、よ」
「当事者の合意は必要だろう? 君、まさか――?」
「ない。ないないない!」
 ツッコミし返すごとく、手の平を左右にぶんぶんとさせる。
 骸が眉頭をすり寄せた。
「――もうひとつ、念の為に……」
 こいつの自信がなさげな声なんて、何年ぶりだろう。彼が中学に上がってからはとんと記憶がない。
 骸は、ナチュラルに証明書のコピーをビリビリに破きながら、
「君ってちんぽついてますよね!?」
 テレをごまかすように微笑みはじめた。
「わりかし小粒でしたよね。性転換なんていつの間にしたんですか!? やっぱり小さいのが苦でしたか!?」
「お、おまっ……オマエー!! お前こそっ、どっかのマンガみたいに水被ったら女の子になるとかっ、男装してる女の子でしたーっとかじゃないだろな!?」
「馬鹿か!」
「こっちのセリフだよバカ! 男だよ昔っから!!」
「僕もだ。奇遇ですね! 結婚するなどお断りだ!」
「オレのセリフだァああああああああ!?」
 頭を抱えて空に仰のく、そんな綱吉に証書のコピーだった紙くずが投げつけられる。
 俯き、骸はなにもない場所を睨め上げる。
「……悪夢ですかっ……!?」
 ブルーの眸が見開かれる。
「……奈々さんっ、こんな話は……、初耳だ。クソッ……、うまく取り入ってるはずだったのに。どいつもこいつも腐ってる。やってられん」
「おい敬語。けーご!」
「クソだな!?」
「オレに言うなよぉおっ!?」
「変態が!!」
「何から何までオレのセリフだぁっ!? !? アッ、ぼ、暴力反対ーっ!? オレに八つ当たりしてもどーしようもねぇえええええ!?」
「説明をしなさい」
 一応は丁寧語に戻して、しかし骸の右手は塀越しに幼馴染みの胸ぐらを掴み上げている。
 パジャマのボタンがぶちちっ、などと悲鳴をあげる。
「ギャアアアア!! 次から次に慌ただしいなオマエぇえええええええ!?」
「奈々さんって……あんなヒトだったんですか?」
「知らない!! …っ、れ、でも、あんなこと冗談でゆーような親とは」
「電話では本気としか思えませんでした。冗談ではなく、君との婚姻を望んでいる。と? 僕の両親までもが?」
「ンなんオレにわかるかぁーっ!?」
 綱吉も臓腑は冷え上がっている。母親の奈々は、一人息子を一ヶ月間も、幼馴染みに託して旅立ったのだ。
 ともに、ねばねばした怖気に襲われているのだと、ヒクつく骸の眉尻も報せてくる。
 揃って口をつむぎ、しーん、と静寂が落ちた。
 空だけが清々しく彼らを照らす、と。
 ――忍び笑いが割り込んだ。
「深刻に捉えすぎじゃないですか?」
 六道家。窓をスライドさせて、肘を置くようにしてガイが上半身を覗かせて苦笑していた。
 簡単にワイシャツを着て、清潔な出で立ち。
「親同士が決めた許嫁。いまどき、古風ですね……しかも男同士で――、魔法に化かされたような話じゃないですか」
「よく考えてみるのが、いいと思う」
 ガイを押しのけて、紫色の瞳がよいしょっと出てくる。
 ピンク色のパジャマ姿、六道クロームだ。フリルまみれのローブ男も出てきた。
「ン〜、事情があるのでは〜? 骸、破り捨てるなんて選択はもってのほかでしょう。我が親愛なる父君と母君、さらに沢田のご両人が誓った縁談ですよ? 今日明日に一発ヤッてしまえという話でもあるまいに、しばらく許嫁でいるのが一興でしょう」
「他人事だと思ってるだろ。死ね」
「ヒトごとだと思ってンだろデイモン!」
 抗議の声がかさなった。視線がはっと衝突する。
 こめかみを青くするが、骸は、三分の二ほど眼瞼をおろして、なまぬるい表情になる。人差し指を立たせた。
「君が、仮に女だとする。――許嫁なんて冗談じゃないな、マグロ女がせいぜいだろうが。ツナなだけに!」
「……うまいこと言ったつもりか……? あの、な、オレだってヤだよ! 究極のDVと浮気のダブルパンチで家庭崩壊しちゃうんだろオマエは!」
「ほー? 何ですケンカ? これってケンカですか!? 君から僕にケンカふっかけるとは実に久しぶりだ!」
「ひぎゃぁああぁあぁあぁああぁあ!?」
「仲、とっても良いのに」
 右手で頬を抱えて、クロームが嘆く。
 塀の向こうに上半身を伸ばしていた骸も、パジャマの胸ぐら引っつかまれながらも塀に手を立てて抵抗していた綱吉も、同時にふり向いた。
「これは違う」
「腐れ縁ってんだよ!!」
「そうです。君が腐ってるんだ」
「なんでオレが!?」
「君が――、っ」「!」
 綱吉の目に映るのは、一指ずつが長くしなやかな男性の指先だ。それが綱吉の前から骸をどかした。
「頭に血が昇っていますよ? 悩むのはあとでもできるでしょう。奈々さんが帰宅したのちに確認すればいい話ではありませんか。まだまだ、人生は先があるんですから」
 クロームが、デイモンを見上げる。
 デイモンは両肩を竦めさせて、手も「やれやれ」のポーズになった。ぬふーん、奇っ怪な唸り声も残す。
「綱吉。ごはん、もう作ってますので。あと、オハヨウゴザイマス。本日もよろしくお願いしますよ」
「は…? あ、そっちいきます、……」
 返事をして、気になって塀からこっそりと両眼を出すと、向こう側はいつの間にやら人数が減っている。骸が消えて、窓も閉まっている。
 デイモンの挨拶が、退散の号令になったようだ。
 たった独り、塀の傍にまだ居残るのはガイ青年である。
「……――、…?」
 彼と、目が合う。ずっと。
 しゃべることもなく見つめられるので、綱吉は両目をしばたたかせる。
 くたびれたパジャマ、朝は普段にも増してぼさぼさの髪の毛、おおきく丸い、光をふんだんに取り込む二つの眼球――、もやしっ子の手足からサンダルまで彼は丁寧に確認する。
 それは、青硝子のような眼球に嵌まる黒点がさがっていくから、綱吉も推測できた。
 ガイは、自分の頭の一箇所を指差した。
「ここ。寝癖ですよ。綱吉くん」
「あ。す、スイマセン」
「ブローしておきましょうか。ウチへどうぞ」
「あ……あ、ハイ」
 別に……、女の子じゃあるまいし……、そうは思う。言いづらいが。
 綱吉は、二十分後にはニットベストの大盛制服に着替えて、六道家にきていた。足元にはスクールバッグを寝かせる。
「奈々さんが話してくれない?」
 ドライヤーを片手に、ガイが骸をふり返る。
「電話したんですよ! キッチンの冷蔵庫に、留守中の連絡先が貼ってあるんです。なのにデートだからってすぐ切るときた」
「詳しい話は聞けない、と……」
「綱吉、許嫁がでてっちゃいましたよ?」
「い、許嫁っていうな!」
 玄関から派手にドアが閉まる音がする。骸が先に登校してしまった。
 綱吉は、気まずさをこらえて食卓に居残った。
 ベーコンエッグの半熟をまず崩す。
 オレも考えてみたんですけど、と、六道家の面々の視線を感じながらも、ちょこっと口にしてはみる。
「昨日、母さんは酔ってたとか……? 父さんが調子に乗って飲ませたとか。だって許嫁って――、しかも骸って。おかしいですよね絶対、あっ、第一、クロームちゃんだっているのに!」
 仮に許嫁なんて関係を容認するとして、なぜ、骸に矢面が立つのだろう。
「でも証書があるんでしょう。行き違いはあるのでしょうけどねぇ」
 困ったふうに、ガイ。
 ティーカップを見下ろし、ティースプーンを盛んに行き来させて砂糖を山盛りにさせている。
「ツナお兄さんは、おにーちゃんが嫌い?」
「そ、そおゆう問題かなぁ。男だって」
「トモダチ以上、恋愛未満! ぬふふー。そこを超えるために許嫁という口約束があるのではないですか?」
「デイモンはオレと骸に恨みでもあんのか!?」
 最年長ではあるが、キャラの濃さが故に綱吉は心置きなくツッコミができた。
 卓越しに、三分割してある髪の分け目が迫ってデイモンは前髪を揺らす。デイモンは自分で自分の頬を染めている。
「ヌフフフフ。色気づいた話は好きですよ? 恋バナの三つや六つ、ぺろりと平らげてみせましょう。綱吉でもサルなりのサルの色気があるものです」
「ふぉめろひも!」
「やめろキモい、ですって」
「骸おにーちゃんが許嫁なら自慢になるよ。格好良いもの」
 ガイがチラりとクロームを一瞥する。綱吉もデイモンも、時差はあれど、そうした。
 クロームは、風邪で本日はお休みだ。
 パジャマ姿でマグカップからスープを啜っている。
 にこにこ。無害なもので、楽しそうに、
「二人とも大事に思いあってる。結婚もできるよね」
「…………。あ。そろそろ行きま」
 す、お茶で語尾を濁し、綱吉はそそくさと退場する。
 三者三様に「いってらっしゃい」が、続いた。
 変なコトになってきたなぁ〜〜、胸中にぼやいてしまい、綱吉は通学路を小走りしていく。スクールバッグの肩ひもを指で扱くようにピーッとならした。
 青い空を仰ぎ見、幼馴染みの横顔も思い浮かべる。
(…………。骸、キレてんのかなー)
 確かめるの、怖いな、幼馴染みの経験値が忠告する。
 彼は目立つし、学年も異なるので避けようと思えばそれは簡単だ。問題は帰宅後だろう。
(アイツがオレの面倒みるコトになってるけど……あー、でもおかしいよな? なんでオレと骸が買い出しする予定なんだろ。あの主夫に任せときゃいいんじゃ)
 朝ごはんもデイモンが支度していた。考えてみれば買い出しだって彼がやるだろう。
 放課後になると、綱吉はケータイを片手に骸にどう連絡するかなと思いあぐねた。下駄箱にて上履きはスニーカーに履き戻して、一人で帰宅してしまおうとする、と。
 校門の前が、妙に賑わっている。
 綱吉は反射的に呟いた。
「……ガイさん?」
 彼は、集団から頭二つ分ほど突き抜けているので、遠目でもよく見える。
 駆け寄ろうとする綱吉は、だが女子の壁に阻まれた。
「どうしたんです、か、うおおあっ!?」
「ちょっと!! 沢田!! あんた知り合い!?」
「六道センパイのおにーさんって話マジなんですか!? 沢田センパイ!」
 圧力に負けて、仕方なく回答する。
「お、お兄さんだよ。えーと。ガイさんて言う……、っ!?」
「すいません。この子いただきますよ」
 女子を掻き分けて、ガシリと四指が二の腕に食い込んだ。
 心持ち、ちょっとびっくりして見上げる綱吉だが、当のガイは綱吉宛てに微笑んではいなかった。
 生徒会長によろしく。そう口にする。
(あ)
 掌が背中にかかって、胸へと引き寄せられた。
 ――これにもびっくりするが、はねのける理由は特には――、なかった。
(……ガ、ガイさん、でけぇ……ッ)
 自動販売機ぐらいに上背がある成人男性である。呆気なく綱吉が彼の胸下に添えられた。
 嘆く女子たちを置いて、ガイは綱吉を連れて歩き出した。
「大丈夫でした? 揉みくちゃにされてましたけど」
「え!? あ、はいっ!」
 鼓動をはやめてしまいつつ、綱吉は校舎を目でふり返る。慌てて青年の胸元からは一歩分の距離をとった。
「む、骸なら、まだ校舎かと思いますけど――、あんま目立たないところで待ってもらえたらオレ呼んできま」
「ああ、いえ。仕事が早く済んだので君に会いにきたんですよ」
「オレ?」
 素っ頓狂に目を丸くする綱吉だ。
 同様に、ガイもお茶目に澄みきった青色の眸を丸くさせる。
「きみです、どうですか」
「!? え? え……?」
「アフターのご予定は? 空いてます?」
「ええっ、オレ、ですか!?」
「用事がありました?」
「そおういうんじゃないんですけど……」
 要領の悪いセリフだなぁ、なんて自分でも嫌気が差すが、綱吉は歯切れわるく言葉に詰まることしかできずにいる。こんな立派な成人男性と、どう会話したら正解なのかがわからなかった。
 にっこりするガイの微笑みには、救われた気持ちがする。
「なら問題はありませんね。付き合ってくれませんか」
 少女をエスコートするように、ガイは綱吉の指先を掬い上げてみせる。
 二十五歳としても色気がある男性だ。
 以前と同じ、千鳥格子の鮮やかなマフラーを首元に巻き、派手なイエローのワイシャツ姿。白地のパンツに丈のあるブラックブーツも合わせて相当な色男でないと分相応なファッションだった。
 彼の務めるアパレルショップならまだしも、住宅街では異質に浮き立つような存在感。しかし彼にはその異国情緒がこれまた似合っているから、綱吉には困ったものだ。
 長髪の尾っぽとマフラーがひらひらして目の端に遊んでいる。
 綱吉は、なんだか信じがたかった。冷や汗する。
「お、オレがガイさんに? ……ええ……っ。オレが?」
「僕は綱吉くんと一緒にいたいんですが?」
「……でも……。……あ。……あ、あの、手ぇ、にぎ、握るのはどうかなって……」
「おや? 昔、よくこうしてましたよね?」
「そうですけどぉ!? ハズカシーですよもうさすがに!? オレもうガキじゃないです」
「懐かしいですよ。君はぐずって僕の手をふり払うんです、いつもそう」
「そ、そんな昔のこと覚えてないでくださいよーっ!?」
「忘れられませんよ」
 面白そうに声に色艶をのせて、ガイは両目を眇める。
 真っ青な眸がそうなると、深海に沈みゆく貴金属を思わされた。綱吉は怪訝に眉を寄せるが、ガイは目許のほかは、いつも通りだ。
「僕のお隣さんは可愛いから。ねえ?」
「……ガイさ、そっち、スーパーじゃないんですけど……」
「クフフ。不審者には、ホイホイとついていってはいけませんよ? 綱吉くん。まぁ僕は不審者ではありませんが」
「ガイさんっ!?」
(な、なんか、食えないヒトなんだよな!! 優しいんだけど〜!!)
 もう一度、手を放すように頼むとガイはようやく応じてくれた。
「骸になんて連絡するんですか?」
 ケータイを早速手にする綱吉を、楽しそうにガイが覗き込む。
 長い前髪、襟足の長髪が揺れて視界へと影を差しかけた。
「……や、いちおう。なんか言われたらヤなんで……」
 ――『お兄さんと帰ってるよ』
 十文字のみ、入力する。
 一瞬、骸は嫌な反応をするかなとも思う。
 ガイは彼の兄ではあるが……、綱吉がちょっと悩んでいると、人差し指が降りてきてポチッと改行ボタンを押し込んだ。
「えっ? ガイさん?」
「もうちょっと足しましょうか。外でご飯といきましょう」
「えっ。おごりですか」
「もちろん!」
 綱吉は率直に顔を輝かせた。ここにあるのは中学生の価値観である。
 ポチポチポチ、手早く文章をつくると、昔ながらの二つ折りケータイを畳んだ。
「やった、オレもうけっこーハラ減っちゃってます、ガイさん!」
「なにが食べたいんでしょうか?」
「お肉! お肉食べたいです!」
「焼肉ですか? それともステーキにしますか、綱吉くんは育ち盛りですもんねぇ」
 ふっと頬を緩めて青年は楽しそうにする。顔を見合わせると綱吉もへへっと笑った。
 そうして、
(ひい……っ。ぇえええええええええぇぇえええええ!?)
 まだ中学生である綱吉は、生まれてはじめてビジネス街の高層ビルなんぞに足を踏み入れるのだった。



 そこは、人通りの多い舗道に面しているのに、入り口がわかりづらいビルだった。
 のっぺらぼうの壁面は一面に輝き、夕焼けの東雲色に暮れる。
 綱吉はライオンに威嚇されるネズミのようになって青年の影に隠れた。
 ガイはホテルのロゴマーク辺りを気楽に指差し、最上階ですよ、なんて口にする。
「あ、あああああのあのあの、オレ、制服なんですけどぉっ!?」
「気にすることないですよ。僕もこんな服装ですし。それに制服は正装のうちじゃないですか?」
「なにも、こんな超高級な店じゃなくっていいんですけどおおおおお!?」
「せっかくですよ。ロマンチックに、ね?」
 脇に細い出入り口があって、なぜだか地下一階に下がってからエレベーターがある。
 一気に三十三階まで運ばれた。エレベーターを出てすぐ、ススキと薔薇と白い和紙のフラワーアレンジメントのアーチを潜った。
(ひいいいい……っっ!?)
 竹細工のカーテンがおろしてある窓辺の席へと案内されて、卓上にはグラス入りのロウソク。なんとも優雅なステーキハウスではないか。
 もっと、なんというか、ラーメン屋のような店を想像していた綱吉だ。眩暈がした。
「ほら、綱吉くん。今の時刻ですと町がきれいに見下ろせますよ。たまにはこういう時間も良いものでしょう?」
「は、……はひっ……!」
 かちんこちんになる綱吉は、終いには、じゅうわあああ、こんがり焼かれた牛肉などに感情移入する始末だ。
 オレみたいだ、と思った。
 ステーキは、餅みたいに柔らかく、かつジューシィだった。
 はじめて食べるような味がする、が、
(で、でででででもぜ、ぜったい、オレなんかが来てオッケーな店じゃーないよコレぇっぇええええええ……!?)
「――ですか? 君の学校生活は困っていませんか」
「あ。ああっ!?」
 がちゃんっ!
 手からナイフが滑った。
 綱吉の日常生活などを穏やかに話題にしていたガイが、なんてことなく拾おうとする。
 綱吉は、体全身で落としたナイフに飛びついている。
「っ痛い」
「いっだぁあああああ!?」
 額同士がぶつかって、ガイは青目を驚かせる。
 綱吉は泣きそうになってテーブルクロスを鷲掴みにした。
 すると、がしゃがしゃん! すべての皿とグラスが地震に見舞われる。割れたかと思って綱吉は絶叫した。
 他の客までざわめくなか、ガイは冷静だ。
 自分の額を片手に抑えつつ、転倒して転がるロウソクのグラスをナプキンでつつんだ手指でキャッチした。そのままくるんで消火も行う。
「お客様!!」
「――ああ、すみません。僕たちは大丈夫ですよ」
 駆け寄ったウェイターは顔面蒼白になっているが、ガイは綱吉にぶつかって驚いたときの表情をずっとしている。動じていない。
「あ、あ…」呼吸が震え、咄嗟に謝罪しようとする――が。
 綱吉の顔前にさっとガイが片手を立たせて制止した。
 彼は、すばやく綱吉のスクールバッグも自分の肩に引っかけた。
 硬直する綱吉の耳朶には、ふ、吐息が触れる。
 びくんっ! 怯えて肩を竦める少年に、あくまで静かに、彼は流水のように滑らかな誘導をしてみせる。
「移動しましょうか、綱吉くん」
「……あ……。は、……は、い……」
 ウェイターが総出でテーブルを清掃し、ひっくり返ったステーキ皿などを下げる。
 その間、綱吉は居残り授業のように、作業をいやな気分で見つめる……なんてこともなかった。
 綱吉は、ガイに手をひかれて速やかにその場を後にし、別席へと移動させられた。ガイはスタッフとなにやら話をつけた。一面の窓からは離れた席になるが、隣の壁におおきな白百合の絵画がかけてあるテーブルになった。
 先にイスに座らされた綱吉は、借りられたネコよろしくじっとなる。
 顔立ちの整った紳士のような青年が、向かいに腰をおろした。何事もなかったように柔らかに微笑んで、
「なに、僕が悪いんですよ。君を強引にこんな場所に誘っているんですから。そうやって泣きそうになりながら、ダメツナ、ダメツナなどと自責する必要はありませんよ。大人の僕が悪いんです」
「……ひゃ……、ひゃ、……っ、う゛っ」
 ポケットティッシュが差し出されて、綱吉はちーんッと鼻をかんだ。ついでに目尻をふいた。
 そんな中学生を前に、六道ガイは悪ぶるように口角をナナメに上げる。
 頬づえして、端然とした面差しを突きつける。
「――こう言ってはなんですが、寧ろ、期待通りかもしれませんよ? くふふっ。綱吉くんは本当に昔っからドジっ子でダメなところがあるんですから、でもそれが可愛いんですよね。くはは。僕は君が好きなんですよ、綱吉くん、仕切り直しといきましょう!」
 ウェイターに持ってこさせたメニュー表を飄々と受け取って、ガイはあれこれと綱吉に尋ねる。
 ゆるく口角を上げて、常に大人の余裕を漂わせている……ガイはそんな表情、そんな態度でいることが多い青年だ。が。
(う、うううう、天使かな!? ガイさんは!?)
 もう一回、鼻をかみながら、綱吉は何度も頷いた。
 再び焼いてもらったステーキは、先程よりもぐっと旨みが舌に浸透する。うまい。自然と呟きが漏れた。
「ひゃ、百円のハンバーガーなんてメじゃないぐらいおいひいれす……っっ」
「ああ。よく買い食いしてましたね? 百円のソフトクリームなんか夏場は君のお気に入りでしたよね」
「あれ、すっげー便利なんですよ」
 苦笑しながらほおばるステーキは、ますます美味しく舌の上でとろける。夢中になって肉にがっつく綱吉を前に、ガイは、追加注文したチョコレートを口に運んでいる。
 スープとパン一切れ。果実酒。チョコレートの盛り合わせ。あと少々のお水。青年の食事量は、それだけだ。
(……そういえば昨日も今朝も、ちょっとしか食べてないな)
 逞しい体格がよく維持できているものだ。
 中学生は正直にチョコレートの粒々を見つめてしまい、ガイが笑う。
「不思議ですかね?」
 磨かれた爪の先が、チョコレートの一粒を採り上げる。
 ダイヤモンドのようにカッティングしてあった。
「ガイさん、もしかして具合でも……?」
「いえいえ。実は、僕の主食はチョコなんですよ」
「――――」
 綱吉の目が点になる。
「カロリーはこれに依存してるんです。いちばんスキなものですから。美容面ではちょっと面倒ですがね。おいしいですよ、ちょこは。……愉快な顔をしますね、綱吉くんは」
「――が、ガイさぁんっ? からかってんですかっ!」
 相反する印象が、綱吉の喉につっかかる。
 クールかつ人を寄せつけない、伶俐な雰囲気のある美しい男性が、チョコが好きとな。いやオレもソフトクリーム好きとか話したあとだけど! と、ツッコミは実際には胸に引っ込めて、綱吉は声を上げて笑った。
 ふふふふ、ガイも同じように喉をくゆらせる。
「骸も偏食酷いけど、でもアイツ肉は別腹で食べてますよ! ガイさんってお茶目ですよね、骸のやつより」
「クハハハ。余裕がないですから、骸は。君は昔からよくお茶目っていいますよね、僕を……。君に言われてはじめて自分にそういう一面があるものだと自覚したものですよ。綱吉くんは人を見抜くようなところがあるから、ツッコミ癖があるんですよね」
「ははっ。んな、うまいんですから、ガイさんは」
 茶化して返すが、綱吉は眉をさげる。そんなふうに褒めて貰えるのは、はじめてだ。
 必要以上にステーキを小さく切ってしまう、と。
「みずみずしい…、あまさで」
 蚊の鳴くような囁き声。
 ガイは、口先にチョコレートを噛み、これを噛んで蕩けるガナッシュを味わう。崩落していくチョコレートの外殻が、綱吉の目にはスローモーションに映った。

 鏡に映る自分を見返して、ぼけーっと手を洗う。
 退店前に男子トイレに寄るそのとき、綱吉は、すっかり自分の失敗も忘れていた。
(骸のやつ……、どーしてあんなお兄さんがいるのにあんな性格が歪んでんだ? 完璧なのがイヤなのか!? 許嫁も骸じゃなくてガイさんだったらまだ……、あーあ、笑って済ましてくれただろーになぁ……!)
 少なくとも、骸のように鬼の角は生やさないだろう。そしてこんな与太な考えすら骸はキレるだろうな、なんて思う。
 昔から、おまえがオレを無視するんなら、じゃあオレも、などやろうものなら殴ってくる相手である。
(ガイさんは優しくて格好いいのにな、ほんと)
 水を閉めて、濡れ手はピピッとふって出ようとする――そのとき、若いウェイターにすれ違いになった。
 高級店舗としても、面積がさほどない飲食店である。スタッフも同じトイレを使うだろう。
 なんてことなく、フラワーアーチへと向かう、が。その前に綱吉はハタとなる。
 つい、いつもの癖で用を足した後に手をピピッと振るくらいで済ませてしまった。だが、今は、六道ガイと一緒にいるのだ。
 手くらい、ちゃんと拭かなきゃ、だからダメツナなんだよ、と自然と納得ができた。
 男子トイレに戻ろうとして、しかしペーパータオルのところに行くより先に、足が止まる。
「廃棄しちゃったんスか!?」
 若い男がおおげさに叫んでいた。
 誰かと、話している。そういえば個室が閉まっていた。トイレの先客はウェイター同様に従業員だったらしい。
 隠れてしまいながら、綱吉はそうっと洗面器の前の若い彼らを覗いた。
「ちょ、賠償請求もんじゃないッスか〜? テーブルクロス廃棄でムードもぶち壊しにされて最悪じゃないスか。ステーキまで焼き直させるし!」
「あっちのド派手な兄さんがな。ありゃ相当やり手だよ」
「ハラ立たねぇんですか? 先輩。あー接客業ってほんとくそ!」
「ンなこというんじゃねぇって。うぜえけどさ」
「せんぱーい、せめてあの中坊にガンつけるくらいしてやりゃよかったですよ、おれ」
「ははっ、客層考えて連れてこいってんだよなぁ」
(……オレのことだな……?)
 いやな汗がじんわりと滲み、耳のすぐ真横でばくんばくんと爆速の鼓動が聞こえた。
 綱吉の足は独りでにあとずさり、男子トイレから距離を空ける。
「…………、あ、……」
 ダメツナなりの思考回路が、ここに棒立ちしてたんじゃすぐに鉢合わせになると警告する。それだけは死んでもイヤだ。
 踵を返し、跳ねるようにエレベーターに戻ろうとする。
 そこではじめて、綱吉は真後ろの壁を知った。
「!?」
 百八十センチを超える高身長。ひっそりと立っていたガイは、別段、変化もなくただ眼球を下向かせた。
「……あっ……」
 変化があった。淡く微笑んでみせる。ガイのそれは内緒話のトーンだった。
「会計も終わったので様子を見に来てみたんですが。もういいですね?」
 ……はい、しどろもどろに、いらえる。
 トイレからはまだ談笑が聞こえる。接客業あるある話に移っている。
 出て行くガイに続きながら、なんだか、綱吉は自分の悪事でも目撃されたようで閥が悪くなる。
 エレベーターに乗ると、薄く笑っているような表情の男を改めて見上げた。高く通った鼻梁に、上背があって、外見もセンスも群を抜いている好青年。知らず知らずにダメツナと呼ばれる自分の矮小さを痛感してしまい、綱吉は目尻が涙ぐんだ。
「……あ……、が、ガイさん、ごちそうさまでしたっ! ありがとうございました!」
 ガイが下向き、綱吉に目を合わせるので綱吉は勢い込んで礼を尽くす。
 酸っぱい味が、口内に沁みた。
(んあ、やっぱり捻くれる骸の気持ちのが、オレは、わかるかも、ダメツナだからな……っっ!!)
「……どういたしまして」
 外は、とっぷりと日が暮れていた。
 舗道の街路樹に沿って歩き、ガイはタクシーを目で探す。探しながら何気なく綱吉に話しかける。
「君、僕のために一生懸命になってくれてたでしょう。僕に合わせようとして。それが楽しかった、なんて言ったら、君は怒りますかね?」
「……え……?」
 つばを飲み、ガイが自分の頭に伸ばしてくる手を阿呆のようにただ見上げる。
 頭をぽんぽんされた。
「僕は君が好きなんですよ?」
「ガイ、さん?」
「だからこそ言いますが。くだらぬ言葉など無視しなさい。彼らの言葉を服にして着るようなまねは、君本来の輝きを損ねます」
「……さっきの聞こえた、んですか? やっぱり?」
「彼らは教育が必要ですね。くふふ」
 洒落っ気を含み笑う彼は、小首を傾がせて真っ黒な街路樹の葉っぱを見やる。取るに足らないものを無感情に見るような、無感動な目つきがそこにあった。
 綱吉は、自分の言葉で精一杯になってしまい、気づけばダメツナそのものな僻みを漏らしている。
「が、ガイさんは、カッコイイからそうやって言えるんですよ……」
「そう思ってくれてるんですか」
 喜色ばんだ声をはずませて、綱吉の髪をわしゃわしゃと撫でる。
「……ッ」
 綱吉は、情けない、と自分を罵りながらも赤面症のようにまっ赤っ赤になった。俯き、しかし面を上げ、でもやっぱり俯く。
 ガイは辛抱強く、綱吉からの言葉を待っているようだった。
 鬱蒼と茂るほどの微笑みが彼の口角を彩る。
 ――なら僕に……。綱吉が予想だにしない囁きが、夜風に乗った。
「えぇ……っ?」
「君ではなく。僕のために。さっきの馬鹿げた言葉なんて忘れてください。失敗しても、ダメでもいいんですよ。君が好きだ」
 綱吉の呆ける視界はうるんでいる。鼻水が垂れてきそうで、必死に口呼吸を繰り返した。ハァハァ、呼吸音があえかに響く。
 心臓は裏側にひっくり返るような羞恥心と気恥ずかしさに晒される。すき。好き、と、母親以外でははじめて聞いた気がした。
 綱吉は歯の内側をゆるく舐める。梅干しのような刺激的な味がする。
 ながらく身に馴染んだダメツナの本性は、だが、思いがけずにガイを非難してしまう。どうしていいか、綱吉はよくわからない。
「ガイ、さん、ずるいですよ……」
「理にかなってません? 自分のためにできない、なら僕の為に。綱吉くんってそういう男の子じゃありませんか。君、そうしたらもっと自分のことが好きになりますよ」
「あ、あ――、あああの、おれ、か、からかわれて、も、よくわかんないですよ」
 冷や汗がこめかみを垂れた。
 青年は否定も肯定もせずに沢田綱吉をゆるやかに見守っている。目が、熱くじんわりと溶かされるようで、綱吉は居ても立ってもいられず、縋るように質問している。
 今まで誰にも言わなかった内容だった。
「オレ、なんで……なにがダメなんですかね……」
 ほんと情けない、自己嫌悪をひしひし感じながら、手の甲で目頭を拭った。
 ガイがほんの一言でまとめる。
「勇気」
 あと、と。
「あと愛。僕はそうでしたよ」
 低音の囁きが骨まで響くようだった。
 綱吉の頭を撫でまわした手は、下にくだって耳のつけ根を触った。いつの間にやら顎骨に指が伸びてきて、綱吉の半泣き顔を持ち上げさせる。
 鼻をぐずぐずさせる綱吉は、薄茶色の眼球を赤く充血させた。
 搾り出すよう、答える。
「……がっ、がんばり、ますっ……!!」
「いい子」
 ガイの人差し指が、綱吉の前髪を左側へと掻き分ける。ちう、額に赤子をあやすようなキスがくっついた。

 六道家のリビングは冷えていた。
 それに暗い。
 家族はそれぞれの部屋だろう。時計があるほうを眺め、鼻の上をこすっていると、風呂場を確認してきたガイが戻ってきた。
 ぱち、電気を点ける。
「僕らで最後ですね。綱吉くん、ピーッて鳴ったら追い焚きできてますから」
 桃色のバスタオルが渡される。綱吉は喉をがらがらにさせて「ありがとうございます」、殊勝に呻いた。
 ガイはマフラーを外していた。シャツのボタンも大雑把に開けて、寛ぎはじめる。
 馴染みの六道家に戻って、お隣のお兄さんを見上げる――そうしていると、綱吉の喉には熱い気体が上昇した。
 今しかない、急にそう強く思う。
「あ、あの。……オレのつまんない話、聞いてくれてありがとうございましたっ。む、胸が、かるくなったカンジが……します!」
「ああ。気が楽になったのなら、なんてことないですよ」
 目と鼻許を赤くさせてはにかむ綱吉に、平常通りだったガイが目つきを細める。
「にしても、そんなに苛められてます? 骸に。君の自尊心ぼろぼろじゃないですか?」
「あぇっ? あ、ダメツナはほんとのことなんで! オレ勉強も運動もダメで学校行く意味あんのかってくらいでほんと……骸はああだし、完璧主義だからオレみたいなのが幼馴染みなのが悪いんですよ。……、……ガイさん?」
「君は、大切な幼馴染みですよ? 僕にも骸にもそうでしょうよ」
 珍しく、柳眉を寄せて、微妙そうな表情になって、ガイがツッコミするように棘のある言い方をしている。
 ピーッ。給湯器が合図を鳴らした。ガイは何事もなかったように穏やかな表情に戻り、促した。
「…――ああ、久しぶりに一緒にお風呂入りますか? 綱吉くん」
「えっ。え!?」
「ちっちゃい頃はしょっちゅう一緒だったじゃありませんか。久しぶりに君とたくさん話しましたし、もののついでです。もっと仲良くしたい、なんて、ダメですか?」
「だ、だめ、って。が、ガイさん、そんな顔しないでくださいよっ!?」
 上目遣いに熱眸子を捧げられて、綱吉は一瞬で再び赤面させられてしまう。
 内心ではもう中学生だよオレは! なんてツッコミしているが、ガイにはそれが正面切って言えない。
 ガイは、そんな綱吉に、優しい表情をしながらも口角を上げる。
(あ…、やっぱ骸の兄さんだわ)
 なんて、このタイミングで反射的にそう感じる綱吉である。
 こちらの結論を見破られた、感覚でそう判断できる。
 一方の口角のみをナナメに吊り上げれば、確かに六道骸がそのまま十歳ほど加齢したような、実にあくどい顔立ちだ。
 けれどガイはすぐに反対側の口角もあげてにこりっとする。ダメ押しした。
「裸の付き合いも大人の嗜みのうちでしょう? ねぇ?」
「はッ……、恥ずかしいですよッ!?」
「僕と君の仲じゃないですか!」
 わ、と肩を抱かれて綱吉が前につんのめる。あれよあれよと脱衣所に放り込まれた。
「なんなら脱がせてあげましょうか?」
「ひぎゃああっ!? じ、じぶんっでっ、できますよおおっ!?」
 胸を両腕で隠し、耳たぶまで真っ赤にして綱吉が叫んだ。
 そうして。ふらふらして、綱吉は廊下に出て来た。
 スポーツタオルを頭に乗っけて、瞳の焦点をぽーっとさせる。身も心も湯立られて泡立てられ、現実感が欠けている。
 なにやら、どすんと音がした。
「なっ!」
「……むくろ?」
 階段の途中で、ペットボトルを片手から提げてる骸が、一段分を踏みはずしたようにして膝を曲げていた。
 蓮のワンポイント入りのスウェットを着ている。
 綱吉は、下は制服ズボンだが、Tシャツはガイのものを借りている。だぼっとお尻までが隠れている。
 眼帯つきの骸の、反対側の青い目玉がまん丸く拡がる。
 綱吉の後ろにはガイがいる。襟のある、渋いブラウンのパジャマを着て、彼は自分の長髪をタオルにはさんで水分を吸収させている。
 彼らの湯気に、ますます骸は驚く様子だった。
「……一緒にはいってたんですか?」
「……ん、……まぁ」
 なんとなく、何もない場所を目で探る。
 綱吉の後ろ頭に触れてくるのはガイだった。ドライヤーを引っ提げている。
「髪、乾かしてあげますよ」
「あ、あ、ありがと、ガイさん……」
「クフフ。僕が洗ってあげましたから――、その責任、ですかね」
「…………」
 注目されつづけているので、綱吉もちらちらと階段の骸を覗き見する。ガイの手に洗面所に連れ戻される刹那に、「へえ」と、冷えた声色が滑り込んだ。
「――不潔」
「なっ!!」
 顔を突っ返す綱吉だが、階段を昇っていく背中はすぐに消えた。
 ばたんっ! 勢いよく部屋のドアを閉める轟音が続く。
「なあっ!? な、何だよっ。な……何でそこでキレんだよっ!? 何なんだよ!!」
「断わりなく入浴されたのがイヤだったんじゃないですか?」
 ガイは上機嫌に綱吉の髪に指を通し、ドライヤーを当てていく。透かしたり質感を楽しんだりとする。
 綱吉は、頭を洗面所に戻した。すると鏡越しにガイと向かい合う。
 俯きがちのガイの睫毛の長さや多さが、ふんだんに見てとれた。彼は動揺ひとつせずに、
「嫉妬したんじゃないですかね。君、許嫁なんでしょうし」
「えっ!? えぇ……、でもその話、骸は――ッ」
「気にしてない、と? さてどうだか。綱吉くんは、骸のよーな、可愛げのない男を手本にしてはいけませんからね。あれは君を都合の良いオモチャにしてるだけです」
「アイツ、でもあんなんでも学校で人気あるんですよ」
「君がいてこそそう振る舞えるんです。甘えてんですよね。骸の甘え方は実のところワンパターンなんですよ」
「はあ……」
 なんだろう、アドバイスなのか? 戸惑いながら、綱吉は鏡の向こう側を見つめる。
 少年の骸と同じく、真っ青な眼球が眼瞼に包まれては睫毛を羽ばたきさせている。髪を乾かすのに彼はたっぷりと時間をかけた。
 肩にカーディガンを引っかけて、ガイは綱吉の自宅まで見送りに出てきた。
 沢田宅の玄関の扉は、青年がその手で締める。
「では。鍵、閉めるんですよ。おやすみ」
「おやすみなさい!」
 お土産にもらった乳酸飲料を台所で飲んで、飲みながらも、綱吉はしみじみ、反すうする。
(お兄さんは、昔から……そう、昔から優しいんだよな)
 ごくん。あまったるいミルクのような味わいが、口中に残る。
 沢田家は静かなものだ。
 六道家での賑やかぶりが、嘘のように。
「…………」リビングにて、なんとなくテレビをつけてみると、どこかのトイレで誰かが襲われて、二人ほど病院に搬送されたなどのニュースが流れていた。物騒なのでやっぱりテレビは消した。
 ハミガキして、制服のズボンを着替えてベッドに横になる。それから、
「……――――」
 カアアアッ……!
 綱吉の頬に、くすぶった羞恥心が集中した。
 四肢を丸めてセミの幼虫のように丸まって寝返りを盛んに打ち、綱吉は布団をひっかぶってミノムシと化し、もだもだ悶えまくる。
「ふ、……不潔っ……て骸おまっ!!」
(やぁっっっぱり変だった――んだよなあああああっ!? ガイさんといっしょにお風呂て!! 一緒に風呂って!! 押し切られちゃったけど許されるのは小学生までだよなぁぁああああああああああああああああうわあああああ骸にバレたあああああああああああああああ!!)
 ――『不潔』! 実のところ、表立った暴力よりも、六道骸は精神攻撃によるパンチのほうが得意技だ。
 あの目! 詰るような凍てついた視線!
(つ、次!! 次あんなら断ろ!! 次はァーッ!! ダメダメじゃんオレ、いくらガイさんが優しくたってこんなん真に受けてんじゃーオレはいつまでもガキだよっ!! ああああダメツナだああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁああ!!)
 布団ごとごろごろして挙げ句にベッドから飛び出して、綱吉は身を打ちつけた痛さにも悶えるハメとなる。夜は更けていった。