変な音がした。
そう、例えば、右隣のベッドで寝た筈の子どもが転がり落ちたような音だ。
「おい。ツナ?」
イタリアについてまだ調べている。しかしその手を止めて、ベッドとベッドの狭間に落ちているライトブラウンの癖毛を見下ろす。
ふるふると、微細な震えに毛先が乗っ取られている。様子がおかしい。
「……どうした?」
綱吉は、抱き起こされても目を開けなかった。呼吸が荒い。
どうした。マジメなトーンになって繰り返して、肩を揺すってみる。
窓の外は暗くなっているがカーテンはかけていない。月明かりが綱吉の頭より上ではじけている。
「おい。ツナ。水が欲しいか」
こくこく。小さく首を縦にしてくる。
水差しの中身をコップに注ぎ、口元で傾けてやると、これまたコクコクと飲んでいく。顔が汗だらけで、必死に、水を得ようとしている。
しゃべれるか。この問いかけには反応が得られない。
「……どっか痛いのか? 胸か? 骨がおかしくなってたか? 変なモン拾い食いしたんじゃねーだろな。妙な時間に帰ってきたのと関係あるのか?」
弱々しく名前を呼んできて、綱吉は息苦しげにパジャマの首元を指で掻いた。
「からだ……あつい……」
「熱い?」
宿のパジャマは具合が悪かったのかと、急いでボタンを外してやる。
と、中身が湿りすぎて濡れているではないか。
改めて意識をすれば、綱吉の頬は林檎状に真っ赤になっているし、目も潤んでいるし、声も掠れていたし、まるで体内の大熱に悶えているように苦しげに息を繋いでいる。
(…………中毒症状?!)
思い当たるものを大急ぎで考えながら、リボーンはうるうるしている瞳の中を覗きこんだ。
「オレの声は聞こえてるか?」
綱吉は、うっすらと唇をパクつかせる。
「聞こえねえよ! おい。クソ。外出先だぞ、薬草もねーし医療書もねえ」
「は……っ、むね、どくんどくんって……いってる……」
「心臓がおかしいのか?」
ギョッとして発見時の綱吉を思い返す。ヒバリに治癒されたあとは元気にしていた――が、まさか後遺症でもでているのか?
可能性を考え抜こうとする合間にも、綱吉はハァハァしながらしゃべった。
「さっきから――ねれなくて――、おじいちゃんに……、睡眠薬……、のんだのに。おれ……あれで何かに感染したのかな……」
あれ。綱吉も、胸を蹴られたことで後遺症でも出来たのかと恐れているようだ。
己の声が怒りでわななき震えている。その自覚が持ててもリボーンは問いかけた。氷柱で固めた声になる。
「クソジジイにいつ会ったんだ?」
「ひるま……」
「それで? 睡眠薬もらって? 飲んだのか? 苦しいか。どんなふうに苦しくなるのか洗いざらい喋れ」
「…………りぼ……?」
詰問は、今の綱吉を怖がらせるだけだった。
戸惑いがちに震えている瞳を睨み、リボーンは舌打ちしたくなるのをこらえた。辛抱強く、今度はゆっくりと抑揚をつけて尋ねてやると、綱吉は呻いて帰す。
熱い。体中がじんじんして疼くみたい。めまいがする。喉がかわく。どくどくして、あつくて、苦しい。
「……大丈夫だ、死なねえよ」
弟がいちばん気にしているコトを教えてやってから、リボーンは踵を返した。
ベッドに寝転がらせた綱吉がリボーンを呼び止めたが、背中だけを見せる。
「ちょっと待ってろ。すぐ解毒できるヤツが隣室にいるから」
「ど、どく……?」
嫌悪に駆られた囁きが、最後に聞こえる。
連れてきた少年は、綱吉を看る前に念を押した。これはツケだからね。
「いーからとっとと眠らせろ」
「…………っ」
「ツナ、おめーが寝てる間に解毒しとく。大丈夫だからヒバリに任せろ」
よく聞こえるように大声で言ってやると、綱吉は潤んだ眼差しでリボーンとヒバリとを見比べた。ヒバリは、ローブは脱いで、薄い黒衣に細い五体を包んだ姿だ。
そうして、まぶたを伏せて体を丸めたので、リボーンはヒバリに向けてあごをしゃくった。頼むという合図だ。
綱吉の額に手を差し込んで、ヒバリは肩で笑った。
「人間って面白いな」
「余計なおしゃべりは後にしろよ」
「リボーン。君のこと、許したつもりはないけどやっぱり気に入ってるんだと思うよ、僕は。人間は面白いね。魔術といいヒトガタといい、くだらない研究を積み重ねて、どうにかこの時代を生きようと足掻いてる。僕が魔王になった曉には人間にも棲む場所を与える気でいるんだけど?」
「オレはどっちの味方もしねえ。中立だ」
「素直な子だね。眠ったよ」
淡く光っている右手を、額から離す――そうと見えたが、人差し指が無遠慮に突っこまれた。
咥内粘膜を指の腹で探りながら、ヒバリはただ読み取れる情報を口にする。
「この媚薬、強力だね……。骸がいたいけな女の子に大量投与してるのと似てる。魔物から採れる成分だ」
リボーンは微動だにせず聞き流した。緊迫してくる大気の流れを楽しむように、ヒバリはまだ喋る。
「勃起はしてたの? みていいかな」
「してねえよ」
咥内を掻き混ぜていた人差し指が、濡れている。
普段は勝ち気で傍若無人な雲雀恭弥が、暗闇に思いを馳せた陰気な笑みを浮かべた。
唾液に光る指先をリボーンに向ける。挑発の『チョイチョイ』といった仕草をつけながらだ。
「面白いよね……。これ、舐めてみる?」
「ぶっ殺すぞ」
矢継ぎ早に、言葉が漏れた。
「そいつがまだ何歳だと思ってやがる」
「怒ってるの? リボーン」
指先をベッドシーツで拭い、ヒバリが意外そうな顔でふり向いてくる。綱吉が寝ているベッドに浅く座った。
リボーンは、壁に寄りかかりながら、思ったよりずっと低い声がでてくるのに自分で舌打ちしたくなる。
「クソジジイ。オレにツナをけしかける気でいやがる」
「君ンとこの総督は会ったことないけど君の五倍は性格が歪んでそうだね。ボンゴレ九代目ねえ」
さしたる興味もなさそうに繰り返しているヒバリが、いくらか気になった。
「会うなよ。話がこじれる」
「僕の抹殺指令を綱吉に渡した男だろ。僕に殺される道理はあるよ」
「アレはオレのもんだ」
魔性は、ほくそ笑むだけで何も追求をしなかった。代わりに大事なことを遅れて教えてくれた。
「この媚薬さぁ。あと八時間は抜けないよ。今、かけてあげた催眠だと、効き目は朝まで――。朝までは六時間だね。さて、延長料金はどうしたいかな、おにいさん」
「テメーに兄呼ばわりされたかねーよ。耳が腐るわボケが」
「骸がいなくてよかったね? 朝になってこんな綱吉を見つけたら何をするのか見物だ」
「ウチは貧乏だ」
「新車代を貯めているのを僕は知っているんだよね」
「ヒトの通帳を勝手に見やがったな?」
適当な応酬をつづけながらも、リボーンは浅いため息を吐いた。
気がまぎれるのは助かる。
煮え立つ胃液が妙なところを昇ってきて脳を沸騰させかねない。沸いたが故の湯気は殺気となってあたりに立ち込めるが、ヒバリは呑気だった。
「こういうとき、人類ってお酒を飲みたくなるものかと思ってたな」
「魔王サマの息子とは馴れ合えねえなぁ」
外の景色を映している窓ガラスに、カーテンを被せに行った。怒鳴り込みに行きたくなるから外の景色は目に毒だ。
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