無感覚――一切合切、感覚が何もない。途絶えている。
 何らかの切っ掛けで、引き潮で引っこんでいた痛みが感じられるようになった。押し寄せてくる感覚にたまらず肩をよじる。
「う……」
 抱き起こされているらしい。
 体内臓器のどこかが傷ついているのかもしれない。痛みで閉ざした視界が明滅する。
 自分の体勢に、疑問を持てた。横たわっている。動けない。息苦しい。鼻や口に砂がかかっていて呼吸が難しい。
 唇をかすかに開かせてゼェゼェと喘いでいると、向こうは何を思ったのか上着のボタンに手をかけてきた。
 面白そうに、重いトーンで呟く。
「ひづめの痕……?」
 指先は晒された胸の上で一文字を縦に引いてみせる。
 五本指を伸ばすと、揉み上げの手つきで薄い胸の造形を探った。肩まで昇ってくるとするりと衣を落とす。
 喉仏から――下顎の先っぽまで、皮膚の下の組織を押出すようにしながら指先でなぞられた。気持ち悪い。
 そのまま、顎を持ち上げられた。
「…………」
 ほぼ同時に綱吉は眼瞼を開く。
 いつの間にか夕陽がでている。オッドアイは煙った灯りを赤と蒼の下地に浮かべている。この目は、見覚えがある……。
 瞳の虹彩は、いやに鮮やかだ。
 それが目に焼き付く。己の姿も映り込まない超至近距離だ。しばし原色に脳裏が独占される。
 ……数秒を見つめあい、オッドアイが目尻を緩める。
 身を乗りだす。ただでさえ触れそうな位置にあった唇がさらに近づいて、相手の吐息が、口元にかかった。
「……っっ、ぎゃ、ギャアアア――――ッ!!」
「おはようございます」
 顔を一ミリも後退させずに、骸。
「?! な、なんでっ?! むくろ――、うァッ」
「動かない方がいいですよ。肋骨が、五本ですかね。イカれてますよ」
「なぁ……っ?!」
 視線を下にやれば、剥き身の胸をベタベタした手つきで触られていた。
「む、骸さんっ?!」
 動揺して震えあがったが、他人の手の感触を気持ち悪く思ったせいもある。スニーカーの裏で土を掻いたが、どんな些細な刺激も、体内に伝わってしまえば痺れから始まる激痛へと成り果てた。
「ぐぅっ……、ちょっ……ぎゃあああっ?! どこを触ってんだよ!」
「クフフ。思わぬ拾いものですね。あんまり暴れると、わざと痛くやっちゃいますよ?」
「んなっ、あっ?! そ、そこ押すなバカやろっ――、ぬ、脱がすなっつの!」
「怖くありませんよ〜。大人しくして下さいね。初めてでも気持ちよくさせてあげますから!」
「誰がンーなことを問題にしてンだ?!」
「ぼ、く、が」色気たっぷりの含み笑いを滴らして、骸は綱吉の左耳朶を咥えた。いつもの黒灰色のフード付きマント――、今日は下にV字ネックの紫服とブラックパンツを着ているみたいだが、足元は硬いブーツで締めてある。その硬い両脚の膝が、さりげなく、綱吉の両足を割ろうとする。
「……おいっ……?! まさか本気かっ」
 ぞおおおおおおっと肺が宙返りを決めてくれる。
 覆いかぶさってくる相手から逃れようと、綱吉は、傷んだ体を暴れさせた。
「やめろっ! し、死んじゃうよ! っつ、う、痛ァッ……、ろ、肋骨が折れてるってたった今言っただろーがお前―っ?!」
「早めに終えてあげますよ」
 どこ吹く風で陵辱者は抗議を受け流す。白々しいほど爽やかに歯を見せた。
「ま、大丈夫です。肋骨程度、数日は確実に生きていられる……」
「ひぃいいいいいいい?!」
「平気ですって! 君なら、恐らくはヒバリがヒトガタとして遺体を再利用するでしょう。死んでも役に立つなんて人間としては最高のめいヨッ」
 ごがっ!
 語尾が引きつけを起こす。それから一秒ほど速く、ピストルマガジンが骸の頭部に叩き下ろされていた。
 綱吉は骸の肩に抱きつく体勢になったとしても上体を起こした。
「リボーン!!」
「……ちっ。何です。思ったよりは早いですね」
 ごく自然に綱吉の背中に腕をやって抱き起こすのを助けたが、リボーンが手をだしてきて骸と綱吉を引き剥がしにかかった。
「テメー、人の弟を勝手に殺してンじゃねーよ」
「蜜月を邪魔しないでくれます?」
「アホか。世迷い言は死んでから言え。銀弾入ってるぜ」
 銃口を右頬に宛てられながら、骸はまったく応えていない様子で、ただ眉を寄せる。
「僕が見つけたんですよ?」
「おい、ヒバリ。連れてきてやったんだから恩義のひとつは果たせ」
 無視してリボーンが後ろに声をかける。
「あ、あああっ。りぼーんっ!」
 意味のない『あ』の羅列は、仔犬が親しい人間の出現を喜ぶようなものだ。
「リボーンっ!」
「ふん。仕方がないな」
 手を貸してもらってヤブの下を這いでると、雲雀恭弥が立っていた。
 黒のローブ姿だが、下には薄い素材の黒い服を着込んでいる。両手首先の地肌と、顔の肌とが見えるくらいの衣装だった。
 黒衣の彼は、綱吉の前にしゃがみこむと剥き出しの胸に手を当てる。
「貸し借りはチャラ。いいね?」
「文句ナシ」
 リボーンとの短い会話で納得した顔になるヒバリだが――綱吉は躊躇いがちに呼びかけていた。
「ひ、ヒバリさん。いいんですか」
「ヒーリングくらいはね」
「人間の技術なんか研究してしまって、酔狂ですね。狂ってる」
 興味を失った少年の捨て台詞は、骸のものだ。
 フードを頭に被り直して、彼は、白い紋様を浮かべているマントをゆらめかしながら歩きだした。
 そこらへんを散策――といったように見えるが、ヒバリは横目で骸の背中を追っている。アレでいて何かしているんだろう。
(?! どういう展開なんだ、これは)
 大人しくしながらも、綱吉は、体内に染みこんでくる波動を感じた。
 夕焼けは――降り注いでくる。綱吉の記憶は夜で途切れているから、落ち着かなかった。
「……何があったんですか?」
「それを聞きてえのはこっちだぜ。どうした? 予定を二日もオーバーしてる」
「二日?!」
 ギョッとしてから、元から一日はオーバーしていたのを思いだす。気絶していたのは松一日分のようだ。
「さ、探しにきてくれたの?」
 信じられなかった。リボーンはともかくもヒバリと骸はアウトローというか、人間でもないし別次元の思考の持ち主だ。
 二人は、綱吉の目をふり返ったが、特別には何も言わなかった。
(え、ええええ?)
 と、だが、リボーンの黒い瞳は期待するなと物語っていた。
 肩を竦めて、黒スーツのポケットからタバコを取りだす。口に咥えてから火をつけた。
「ふもとの村の依頼人に会った。出発は予定通りだったそうだな。カトブレパスの子どもっつー話だろ? 蹴られたのか? サングラスは落としたのか?」
「ち、違うよ……。蹴られたのは、多分、そうだけど」
 淡々とした叱り方に、本気の怒りを垣間見た気がして綱吉はおっかなびっくりな喋り方になってしまう。
「カ、カトブレパスじゃ、なかったんだよ。足が早くて知能もあった。サングラスは役に立たなかったから、す、捨てて……散弾も当たらなくて……」
 言いながら、涙ぐみそうになった。
 手痛い失敗をしてしまった――もう何度目だろう――しかも、死にかけた。今回のは、手紙で祖父に頼んで難度の低いものを選んでもらったというのに。
 ヒバリは、手元に生みだした淡い光を眺めながらお気楽に言った。
「これ、牛の蹄かな」
 リボーンが眉を顰めた。綱吉の体を覗きこむ。
「ん〜?」
「ちらっと見えたのは、犬みたいな……感じで……、暗くて確かなことはわからなかったけど」
 綱吉は、ヒバリの言葉を肯定するつもりで喋る。
「カトブレパスではありえなかった。村の人が見間違えたんじゃ?」
「……牛の蹄ってどんなんだっけか?」
「ちょっと違うんじゃない? 形がこうさぁ」
「似たようなモンじゃねーの?」
 リボーンが、疵痕を指で触った。綱吉の目尻はヒクリとする。
「痛うっ……」
「ア。スマンな」ついといった感じで謝罪を声に出されて、綱吉は眼を丸くした。
 普段の兄は綱吉に謝るなんて滅多にしない。例え本当に兄が悪いケースであってもだ。
(んあ……?!)
「ヒバリ。なんか知ってンのか?」
「いや。知らない。知ってても言わないね」
 互いを視線の真ん中に置いて、少年と青年はしばし無表情で見つめ合った。
 綱吉が、慌てて声を張りあげる。
「ふ、二人とも。きてくれてありがとうございます!」
 綱吉は、ボタンを締めながらヒバリに頭を下げる。体内治癒ができるとは、さすがは五つ星と認められた実力を持った魔術師である。
「カトブレパス――ねえ」
 からかうように言っているのは六道骸だ。
 足元に眼をやる。どうやら蹄の痕があるようだ。
「だから、違うと思うんだよっ」
 骸にはいささか強気に言い張って、綱吉は自分の足で立ちあがった。
「綱吉。しばらくは安静に」
「は、はいっ」
 綱吉の上着は、胸のところに黒蹄の痕がくっついている。
 カトブレパスは、見た目もサイズも牛によく似ている。顔面が醜く爛れていて、その眼をみると石化の呪いにかかってしまう。サングラスが対抗策になる。
 逆に言ってしまえば、サングラスさえしていれば暴れ牛なレベルの相手である――だから綱吉もさほど心配せずに一人で遠征する気になったのだ。
「手がかりは何かねェのか」
 獣道から山道に戻ろうとする傍ら、リボーンがうめいた。
(あ、やっぱ、解決しなきゃ帰らせてくれないのか……)
 怖いし痛いし、ギブアップしたいのが綱吉の本音だが。
 やはり、ボンゴレ十代目の看板はそれを許してくれそうになかった。
「今日は、もう下山していいんだよな? リボーン」
 これだけは確認したかった。リボーンが頷く。
「そ、それ聞いて安心した……」
「弱虫」
 小さく呻いたのはヒバリだ。綱吉は聞こえないフリをしておく。リボーンは後ろをついてくる化け物コンビに軽く尋ねる。
「お前らも下山していいのか?」
「綱吉くんには喋ってもらいたいことがありますから」
「な、なんかイヤな言い方だな」
 茂みを掻き分けながら、綱吉は夕暮れに上目遣いを向ける。
「なんか喋ってたよ――、おかしな言葉だったなぁ。……あ……、あっでぃーお……かな? そんな感じのを」
「へえ。イタリア語ですね」
「え?」
 予想外の返答だったので綱吉は足を止めた。兄も立ち止まっている。
「い、いたりあご?」
 何のことかわからない綱吉とは違って、リボーンは知識があるらしかった。イタリア? 胡散臭そうに、尋ねる。
「骸。説明するつもりは?」
「んー? この僕にモノを尋ねるんですか?」
 薄笑いを浮かべて、少年は最後尾をついてくる半身を見やった。
 ヒバリと骸のアイコンタクトは、綱吉にしてみれば異様なやり取りだ。二人と知り合ってから、親しげなコミュニケーションは初めて見るかもしれない。
「え」そんなに大事なコトなのかと、呻き声も強張る。
 黒衣の彼の返答はシンプルだ。
「面倒臭いな」
「じゃ、僕はひとつだけ。意味は『さようなら』ですよ」
 ふいと眼を逸らしあう化け物兄弟とは正反対に、綱吉とリボーンは互いの顔を見合わせた。
(な、なんだ?)
 眼で尋ねながらも、神妙な顔をして黙るリボーンはもう喋ってはくれないと綱吉にはわかっていた。



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