空一面を、赤いヘビの腹が飛んでいる。
薔薇色の真っ赤な腹を見せつけて――よく見れば灰色の腹もある――、スキマ細く天を覆い、九割は遮光されたかのように太陽を遠く感じさせる。ばさささささ!
けたたましく羽音が響き渡る。
ばさばさばささささっ!
うねるさまに圧倒されて唖然としていたが、綱吉はふと勘違いを悟った。
羽音をこれだけ聞いていて、羽と羽のすき間からの陽灯りを感じながらも蛇だという第一印象を捨てられなかったのは、現実離れしているからだ。
(蛇じゃない。赤いお腹の……羽毛が、きらって光るから、鳥だ。……ハト?!)
何千羽だろう。
彼らは、羽がこすれるほど密集しながら一様に同じ方角を目指す。
薄くて馬鹿っぴろい雲の下に居るかのように、暗い。
「…………?!!」
足元には草が生い茂っていた。
地平線の向こうまで、草原が続いている。しかも草原はどこまでも真っ暗だ。鳥の波がどこまでも空を覆っている。
あごを高く持ち上げたまま、横目で辺りを窺い――。
また、規格外の鳥群に視線を戻す。
ばささささっ。ばさっ、ばさっ、ばささっ。延々と奏でられる轟音が、思考を止める。
何から仰天すればいいのかすら綱吉にはサッパリだった。
「な、なに、これ……?」
「リョコウバト」
「ひぃ?!」
いつの間にか、右ナナメ後ろに一人の少年がいる。
腰の高さにせりだしている岩石によりかかり、空を飛びゆく大群を仰ぎ見ながら、重いけれど透き通った声が呟いた。
「美しい鳥だろう?」
「い、今、誰もいなかったのに?!」
「腹の毛並みは薔薇の花びらと同じ鮮やかなレッド。羽根は高貴なるブルーグレイ。尖った尾をなびかせて飛ぶさまは、鳩のくせに雅で麗しい」
「え、え? なっ、なに……を?!」
疑問は募るばかりだが、綱吉は一歩も動けなくなった。
――類い稀な緊張で縛られる。
かの少年は前髪が長かったから顔の上半分が隠れがちだ。
けれど動悸がした。
(ディーノさんは。ヒバリさんは?!)
頼れる友人を捜すも、地平線が伸びているだけで、空にも途切れることのない鳩の大群がつづくだけだ。
立てた片膝に腕をかける少年は、白いシャツに黒のスラックスで、声と態度の割りには華奢で少女のような体付きをしていると見て取れる。
そういう点もひっくるめて。
綱吉は、その少年とよく似ている人物を知っている。自分だ。
「繁殖と越冬のために旅をつづける彼らは、かつて、アメリカ大陸に五十億羽以上が生息した。三日の間、鳥の群れが途切れもせずに空を飛び続けたと記録が残る。十八世紀の時点では、間違いなく彼らこそが地球上でもっとも数の多い高等生物だったのだ」
ばさばさばさっ。大気に反響しまくる鳥の羽音に、五十億との単位が重なる。
「う、うえええ……?! ごじゅうおく?!」
ぎょっとしながら空に臨む。
「そんなにいんのコイツらーっ?!」
ばっさばっさとした轟音の最中で彼は綱吉をふり向いた――面白そうに犬歯をのぞかせた。
「!!」綱吉は、絶句した。
やはり――容姿が――目を疑うほどに自分に似ている。
しかし、金髪っぽい髪もそうだが、目の色は大幅に違う。太陽のアースカラーだ。
「これだけ居ても無意味であったのだよ。アメリカに移民が押し寄せるようになってから、リョコウバトは百年を待たずして姿を消した。記憶に残っているものでは千九百年。野生の最後の一羽が撃ち落とされた。種の根絶だ。リョコウバトは絶滅した」
ばさばさばさっ!
鳥は、大空を横断していく。
二人して黙ると、互いの頭上や肩に、羽ばたきのスキマから弾き出された陽光がくるくると乱暴に舞い散るのが目立つ。
綱吉はいつの間にか少年よりもその光を見つめていた。少年の肩に光が踊る。
光は、旅行鳩のシルエットの大群でもあった。
背中が湿る。なぜだか息ができない。
本当は、もっと――あなたは誰ですかとかここはどこですかとか。
そういう問いかけがしたかったが、少年の気迫と鳥の勢いに圧倒されてしまって、綱吉は震えながらただ一つの問いかけを口にする。
「な、なんで、絶滅したんですか……」
「移民は鉄砲を持っていた。親鳥は殺さないという気遣いもなかった。鳩を貪り喰い、肉を塩漬けにして売り払い、狩り遊びで撃ち殺した。これだけ飛んでいればここは捕食者の楽園だろうな」
「いなくなる前に誰か気付かなかったんですか」
「学者が気付き、警告をだした。しかし欲望は停まらなかった。言っただろう、最後の一羽も撃ち落とされているんだよ」
乱れた光が、すっくと立ちあがる彼をすすぎ清める。
「そうして、ただの一羽のリョコウバトも空を飛ばなくなった――。俺の時代でさえ数体の剥製が博物館に残る程度だ。これほど見事な旅行者の大群を、この目で見たかったものだ……」
知らずに綱吉は固唾を呑んでいた。
激しい轟音をあげながら空を飛んでいくこの大群――例えば自分がその時代に生きる少年だったとして。おじいちゃんになる頃には一羽もいなくなっているなんて。信じられないかもしれない。少年の寂しげな語り口が胸に沁みた。
「これと、似たようなものだ……」
後悔は必ず後からくる。何気ないように言って、そうして、綱吉に向かって歩いた。
「……あ」
口が、酸欠気味にパクつく。
今や目の前に居た。
瞳が陰鬱な翳りに犯されている。
俯いていたが、彼よりほんの少しだけ背が低い綱吉から見れば、彼の前髪越しに覗く太陽の瞳にかえってドキリとさせられた。
「空を埋め尽くした鳥がごく短期間で死に絶えたのと同じく――地表を埋めた筈の我らとて、住めうる場所を、ある日、唐突に失うだろう」
「! それは」
右手の中指に嵌めているものを見せられて、さらに仰天する。
「ボンゴレリング」
驚きが大きすぎて、呟くだけになった。
(当主がつけるっていう……、大空のリングじゃないか、しかもこれ――!)現物はとっくに無いが、実家の資料室でデザイン画の写しをみたことがある。
「俺は――」
憂うつそうに、彼も綱吉と揃ってボンゴレリングを見下ろした。
「それが星の歴史だとしても、助けてくれるのならば……何でも構わないんじゃないかと思った。この指輪が魔性に認められた証であると、俺は知っていた」
だから。この世界に呼んだ。
「あ、あなたっ……、本当にボンゴレなんですか? 初代の? ボンゴレプリーモ?!」
「学者達は警告を出した。人々は逃げ惑った。大規模地核変動によりすべての大陸はアトランティスの二の舞となる。だから……、俺と俺の周囲のものはある選択をした。結果、二ヶ国だけが助かった」
厳めしい顔のままで少年がリングにキスをする。
綱吉はハッとした。
鳥の――バサバサッ――羽音のこだまが、もう自分の頭にしか残っていない。
世界は無音に包まれる。
次の瞬間は唐突に訪れた。音もなく、綱吉は冷たい流れに沈んでいた。
がぼぼっ。悲鳴をあげたのは、袖や服の下に潜んでいた酸素で、泡になって海面を上昇していった。
目を剥くが息苦しくはない。呼吸ができる。泡に取り憑かれて藻掻く綱吉とは正反対に、少年は静かな目をして――落ち着き払った仕草で、マントを翻した。
ストライプスーツ。大げさで重たそうな真っ黒のマントを羽織り、少年はまるで偉大な権力者の態度だ。
「なっ……あっ?!」
少年の背後に、いくつもの人影が浮いた。
「我らは確かに……救済はされた。しかし、助けてくれた筈の彼らが、我らを貪り喰い、我らを標的に狩りを嗜もうとするのを……どうして予測し得なかったのだろう……、いや、問いは無意味だった。リョコウバトも我らに問いかけることもなく死滅したのだから」
水中ダイブで落ち着かなかった手足が、ようやく居所を得て――ただ浮くだけという居所を得て、綱吉は深呼吸をやった。がぼぼっ。
ディーノが伝えたかったこと、自分が知ろうとしたことは、コレだ。感覚で理解する。
「……初代ファミリー?」
水面がはるか高みで陽に揺蕩う。
少年少女は悲しげな目をしてボンゴレプリーモの傍らに立っていた。
目がくりりとしたショートカットの美少女に、黒髪を結ったボーイッシュな少女。グレイヘアに咥えタバコで目つきの鋭い少年。黒髪に精悍な顔立ちの少年。それにディーノと似ている金髪の青年。
他にもたくさんいたが、人影が陽炎の歪んであとは顔を見分けられない。
綱吉は、まじまじと、水の流れの奥でマントを揺らめかせるボンゴレ初代党首を見つめた。初めて見る。
「ただ、俺個人の意見を言っても赦されるならば、俺の決断は間違いだった……。ボンゴレファミリーは死んだ。仲間はイタリアに残して祖国を目指した。予期した通りに祖国は食い荒らされていた」
水滴を零すように、途切れることだけは避けて彼は語りつづける。
「俺は、その土地で、新たなファミリーを作った。崩壊したヒトの秩序を取り戻し、世界再興をはかるため。人類の敵を倒すため。それがボンゴレファミリー。そしてお前がデーチモ。そうだな?」
「! は、はい」
必死に、ディーノのセリフを思いだそうとしている途中だった。魔力の塊を使って彼は自分の魂に触らせると言っていた。
ボンゴレプリーモは、自分にも他人にも厳しそうな目をしながら吐き捨てた。
「デーチモ。……所詮は俺も過去にすぎん。今までよく生き延びた。滅びるも栄えるも好きにするがいい」
「プリーモ……、さま」
本心を見透かされた気がして鳥肌がゾゾッと走る。プリーモは髪やマントを揺らめかせながら黙った。
と、そこで、綱吉は自分達の足元に――水中深くに沈んでいるものに気が付く。
アスファルトの道路。車。ビルの群れ。水没都市がまっ黒くなって沈んでいる。ビルは藻で覆われて魚の巣だ。
「うわ……」
――首都で飾られている国旗の、国々は、今は、こうなっている。想像で理解できていても実際に目にすると鳥肌が立った。
そちらに目を奪われていると、出し抜けにプリーモが何かを言った。
後から思えば綱吉に対する感想だったのだろう。
「子どもだな。発展途上」
「えっ……。あ」
不意に名案が沸いた。大きな声をだすと口からコポンッと空気が出て行った。
「プリーモさまっ。知恵を貸して下さい。どーやったらボンゴレをやめるってみんなに分かって貰えますかね?!」
「欲望に走るな」
非難でも何でもなくて、浮かんだ単語を口にしているといった、奇妙な雰囲気だ。
プリーモは独特な人だったんだなと綱吉が思う間もなく、彼のオレンジの瞳は、自分の肩に差しかけられた綱吉の手を見つめた。
「あと心を乱すでない。…………酸素不足になるぞ?」
「オレは綱吉って言って代理で――っ、……っ?!」
「ホラな。しかも、みたところ負荷が高すぎるようだ。もういいだろう……、キャバッローネの求めには応じた。さらばだ」
(んなぁっ……、うがっ。がぼっ)
急に水が口に入ってきた。
水中で藻掻いている綱吉の額を、冷たい手のひらが触った。すると全身に酸素が浸みてくる。エラ呼吸ってこうだろうか。
――水の向こうで、プリーモが呟いた。
「……らにせよ……――くるぞ。もうすぐ……」
プールの水面から飛びでるようにして、綱吉は上半身を跳ね起こした。
「っぶはああ!!」
「お。起きたか。どうだった?」
と、ディーノが呑気に尋ねてきた。
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