「――――?!」
頭から降り注いだものに、両目を見開かせた。
スミ。まっ黒いスミを被っていた。骸が、しゃがみこんだ綱吉の真向かいで愉悦に唇を歪ませて腕組みをした。
黒い液体は、彼の肉体から滲みでた。咽せるほどに甘ったるい香りをしたスミだった。
「ど、毒……?!」
「違います。水はどうとも弄れる。今は、ちょっと楽しむために一工夫を」
「ハァ?!」
仰ぎ見ていると、夜空を背負って立つ少年の姿が悪魔に感じられた。
破けたマントは脱ぎ捨てて、下肢のラインを浮き立たせたボトムスと、白いブラウスを露わにした。骸はねばついた目つきをして自らの上唇を舐める。嗜虐性を隠さない様子である。
「ただの民間人ではないと思いましたよ。目をみればわかる。君、ここに来たばかりなんでしょう? 連日、惨殺事件が起きているとはご存じですか」
「……知らない……」
「くふふっ。この都にハンターはいらないんですよ。今はね」
心臓が、筋肉も皮膚もすべてを突き破りそうだと錯覚できた。
軽く吐き気がくる。喉がカーッと痛む。
「……でも、構わないですよね。これから死ぬ人間なのですから」
「な、なにが……?」
にっこり。
両手を組んで、まるで乙女の祈り。先程とまったく同じ乙女のポーズを再現してみせながら、骸は上機嫌に宣告する。
「つまみ食いに決まってるじゃないですかぁ〜。やー、久々に愉しめそうです!」
ゾゾゾゾッ。吐き気も気持ち悪さも正体がはっきりした。地面で身悶える綱吉を置いて、もじもじするのは骸だった。
「一発で終わらせるのは勿体ないな。僕好みだと思ってましたけど、アネモネをけしかけたのは正解でした! いやー、嫌がるオトコの子を手籠めにするっていうのもオツですこと!」
「あ、悪趣味! 変態! くるな触るな近寄るな!!」
「ふっ……」
小馬鹿にした笑みを浮かべ、骸はブラウスに手をかける。
筋張った胸板が月明かりに晒され、すす、と、衣擦れの音がいやらしく聞こえてくる。こ、こいつ、本気か――、綱吉は顔面に殴りかかってくる現実に唖然とした。
先日、イソギンチャクの本体に銜え込まれたときの恐怖とは違う。ともすると悲鳴さえ心のブラックホールに吸いこまれそうだ。
真っ青になっているこちらの顔に、腕が伸びてくる。冷たい躰に、冷たい手がかかる。
「ぎゃっ……、ぎゃ、ぎゃああああ!!」
顎を掴まれたと同時に、消えた筈の悲鳴が復活した。
「動くな! 撃つぞ!!」
死に物狂いで振りかざしたものが、二人の間で金色に瞬いた。
骸が目を丸くした。好色に染まった眼差しが正気に戻る、それまで三秒もかからなかったが、彼は愕然と掠れた悲鳴をあげた。
「ボンゴレ?!」
「ぎゃあああああああ!!」
「っ!」
ばあんっと銃声がこだまする。
身を引くと、骸は瞬時に道の反対側まで飛び退った。
上半身のブラウスは脱いである。ぴっちりした黒のボトムスにコンバットブーツの姿。冷や汗を浮かべた彼は、賢明に平静を保とうとはしていたが震えた音色を漏らした。
「ま、まさか……。しかし金の散弾ですね――、きみが?!」
声を追いかけて、綱吉は銃口を向けた。
「お、おれの人生って何でこんなことばっか……っ。骸ォ! 覚悟しろ!」
「ッチ。こんなとこで死ねるか!」
通りを出たところまで走ると、骸は大股開きの片足を石畳みに引っかけてブレーキを踏んだ。
コンバットブーツのカカトで、巻きあげた砂塵が月色に光る。彼はふり向くなりナイフを抜いて――石畳へと突きたてた。
一瞬で事が歪んだ。小さな切っ先から溢れた黒い波紋は、石畳の小さなヒビ割れに合流すると、押し寄せる黒波と化してそこら中にヒビ割れを走らせた。
ナイフを抜き取りながら、骸が短く呪いをかける!
「醜く溺れ死ねえ!」
「うわぁあああああっっ?!!」
綱吉の足元にまで及んでいたヒビ割れが、その言葉をトリガーにして崩落を始めた。
反射的に手を伸ばしたが、当然ながら骸は手を掴むマネなどしなかった。厳めしく眉を吊り上げ、憎らしいエモノの末路をただ眺める――その表情を最後に、綱吉は冷たい水流に落ちていた。ばしゃんっ。
(冷たァッ。幻覚?! にしては――っっ、み、ミズっ、か?!)
空間すべてが、水に埋まる。
落ちた先はまるで水を溜めたプールのど真ん中だ。これが現実ならば転送されたことになるのか? 底の見えないほどの源流が、足の下にある。
見上げれば僅かな光が揺れている。月明かりか。口をキツく綴じて、泳ぎはじめてみたがしかし、いくらやっても浮上した実感が沸かない。
手足で水を掻きながら、焦燥感に奥歯を噛んだ。肺が苦しい。
(リボーンは、首都は水脈の中心に建てられたって言ってた。骸は地面に穴を開けた。今――、水脈に落ちてるの――?)
このプールは、骸が生みだしたものではない。それは多分、正解だ。
ミズは一切の穢れがない。神々しくすらある。
「……っぐ、ぶっ……」
口から出てきた気泡が、綱吉を置いて上昇する。
綱吉は泣きたいのをこらえてどれだけ高いところにあるかもわからない出口を目指す二酸化炭素を目で追った。泳ぐのをやめれば、躰は徐々に沈んでしまう。
窒息の絶望が、理性が描く期待を打ち消しそうになって目の裏が白んだ。綱吉は僅かな期待にすがって両の平手を胸の前で合わせた。
ここに穢れが無く魔の力が及ばないなら、管轄は精霊か神族になる。
(――――っ。まだ死にたくない……っ。平穏に生きる。そうだ。ボンゴレをやめるってみんなに言うんだ)
痺れた指先から壊れていく。ボンゴレとして殺すのはやめて、そんなの酷い、毎日どれだけ胃を痛めているか知っているでしょうと見えざる相手を責めるように祈る。耳の奥が痛んで、押し寄せてくる水の重みに喉が負けた。
一度、過って呑んでしまうと苦しかった。吐きだそうとして胃が引き攣ると、反射的に躰が呼吸を始めようとする。胃と肺に水が雪崩れこんで窒息のサイクルに突入した。がぼぼぼっ! 掠れてくる視界越しに、天上にある光を――仰ぐ。
「――っぷ、ぶはあぁっっ!!」
限界まで肺が広がり、衝動的に綱吉は呑んだ水をまるごと吐きだしていた。
「げほっ! げっほげほげほ! がっ、がはっ……うえっ……。ごほっ!」
べちゃべちゃとやってから、口元を拭う。
肩が弾んだ。信じられなくて薄目を搾るようにして開ける。見覚えがある光景だ。
「い、イングランドプール……」
アメリカ通りの真ん中だ。
耳元での太鼓みたいな頭痛音をガマンして眉間をシワ寄せた。目尻の水滴も拭ったが、涙かミズかわからない。
知らずに、綱吉は右手で耳の裏もまさぐっていた。
触ってからくすぐったさに気付く。
誰かに息でも吹きかけられたような、妙な感じが残った。
(……誰かがオレを助けたんだよねこれって……)
全身にかけられた筈のスミも拭われていた。毒々しいほどに甘ったるい香りもない。
鼻をヒクつかせて、入念に体をチェックした末に綱吉はその場に座りこんだ。
休息、というよりも脱力だった。
膝下の水位に、トランクスが丸ごと沈む。緩慢に、離れたところに浮いているナップザックと金の拳銃を回収した。
「こ、この仕事が終わったら、絶対にこんどこそボンゴレ辞めるって言う……言おう」
で、ダメだと却下されたら死ぬ気で家出だ。化け物に、命はおろか体まで狙われるとは聞いていない。
因果な職業だなぁとボンゴレの業に思いを馳せるが、しかし、綱吉はイングランドプールと呼ばれる噴水のへりに足をかけながら硬直した。
「止まれ。そこの変質者!」
凛とした怒鳴り声が、広場を揺らす。
漆黒を服として着込んだような、スレンダーな体型の少年が二本の銀を携えて立つ。銀色のものがトンファーだと気付くのにかかった時間は三十秒ほど。
彼は、綱吉の下着――星柄のトランクス――を、汚らわしげに睨んでいた。
「……へっ?!」
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