神さまはいないんだなと分かりきっていたことを思った。
 魔王さまはいるのに。
(魔王を――抹殺する――、それが、オレがここにいる理由で、ボンゴレの仕事だ)
 頭がはち切れそうな熱気が、塵に混じって鼻腔の奥を刺す。誰かの断末魔が聞こえていても綱吉は頭を抱えて動けなくなっていた。
「死に晒せ!!」「クハハハハハハハハハハハハ!!」
「殺せ!」
「皆殺しだ!」
 ……ぴくっ、ぴくっ。綱吉の薄ピンクの背中が痙攣をはじめて、やがて、がばりっと上半身を飛び起こした。
「だあぁぁぁあっ!! ムリ! ムリだ――――っっ!!」
 叫んで、目尻の涙を両手で拭った。
「みんな命あってのモノダネとかゆー言葉知らないの?! 何コレッ。リボーン! おじいちゃん?! 魔王を殺せって、あいつら内紛のド真ん中じゃないか!! こんなんオレにどーにかできるわけがっ……ないっ。生まれて十五年の子どもだぞコッチは!!」
 帰りたい。こんなに家に帰りたいと思ったのは初めてで、もう逃げ帰るんでいいやと自暴自棄に結論すると内臓がひしゃげた。
 と、綱吉は屋上の入り口で転がっているものに目を留めた。
 ヒバリ配下の魔物が、死んでいる。見覚えがあった。ホテルに連れて行かれたとき、綱吉に毛布を差し出した老婆だ。
 おそるおそると、声をかけたが復活の気配はなかった。
「……意味わかんないよ……」
 名も知らないし、人間ですらないし、親しいわけでもなんでもないのに涙が出た。
 決断は穏やかで、まだ何もしていないのに胸を抉られる痛みがあった。失敗が怖いとは薄っすら感じられた。
 街に飾られたたくさんの国旗が、灼けたり千切れたりしてそこら中に落ちている。
 綱吉は、階段を駆けおりると喧噪の中を走っていった。
(わからないけど)
 視界が狭くなっていて、でもおかげで人間の死体が見えづらい。助かった。
(でも、どうにかできるかも。できるのか? わかんないな)
 アネモネがウネウネしている道は迂回して――争いが酷いところも避けて、蹲っている幼児を見かけたら助け起こすくらいのことはして、火を噴く民家の消火活動は参加せずに心中で応援だけして――、イングランドプールまで辿り着いた。
 息があがっていた。何かあったのか、噴水の後ろでは二メートルの怪鳥がクチバシから舌を垂らして死んでいる。
 すっ。深呼吸をして、綱吉は自らの胸に手を当てた。
(オレの力は小さい。どーしようもなく。だから、いつでもリボーンがいてくれた)
 イングランドプールと呼ばれる噴水は、もう水が止まっている。
 噴水の口を見上げながら告げた。
「……こんばんは!」
(可能かな? 未知との交信なんて)
 心臓が狭い暗室を跳ねている。破られそうだ。
「精霊か親族か何だかよく知りませんけど……っ。オレは一人じゃ何もできないんです。でも、だからって呆然としてるだけなのもイヤなんです。何もできないのは事実だけど何かをしたくて、」
 ぶつぶつと早口でまくしたてながら、こぶしを握った。こうじゃない。
(……オレが知ってるやり方はひとつだけ。今までもそうだった。だから……)
 だからっ。へにゃりと眉根を八の字にして、綱吉は腹の底から叫んだ。
「お願いっ!! 助けてええ――っ!!」
 両手を合わせて拝みながらだ。膝もついて教会でお祈りするのをマネした。
「オレひとりじゃどうにもならないんだ。助けてくれませんか?! あなたは二回もオレを助けてくれた!! あなたの力がまた必要なんですっ。オレは沢田綱吉って言います。ボンゴレ十代目、を、襲名する予定でしてっっ、首都にきたばかりの新参者でございますがっっ、ッ」
 喉に痰がつまる。言葉が途切れると泣いてしまいそうで綱吉はその場に土下座した。
「助けてください!!!」
 次には、ハッとして面をあげた。
 バケツの水を返したような音がして、水面が荒れた。飛びでてきたのは淡く白光を帯びた生き物で、細長くてウロコがあって、たった一つの青い真珠を狼のようなかたちの頭に嵌めている。
 真珠の瞳がぎょろりと下向いて、三つの爪足が、噴水のへりを踏んだ。
「古来より、精霊は人には力を貸さないものだと知っているか」
「……は、はい」
 重い、しかし澄んだ音色に驚いた。
 綱吉は力強く頷きながら繰り返す。カァアッと喉が灼ける。声が震える。
「あ、兄に習いました。知っています」
「ならばなぜ呼んだ」
 神々しい光に体が萎縮する。
 都を囲ったモヤは、例外なくイングランドプールにまで及んでいたが龍の出現と同時に霧は晴れている。綱吉は、息を止めて、まだ濁っている噴水のミズを見据えた。
「――、ち、違う」
 立ちあがって大見得を切ってみせる。
「精霊さん。アナタがオレに力を貸すんじゃない」
(震えるな。今だけでいいから)
 気を抜けばすべてが終わる。喉が熱くて目玉が飛びだしそうで、息を吸うのだけでも一苦労だった。
「お。オレが――、アナタに、力を貸すんだ……!」
「……ほお……?」
 青い真珠の瞳が、歪んだ。
 訝しんで長い胴首を揺らしている。汗でびしょびしょの両手を握りしめて、綱吉はハンマーのように全身を激しく打ち鳴らしてくる心臓からの痛みに耐えようとした。
「頭の上で暴れている、やつら……、邪魔でしょうっ? オレにできることを手伝います。そのミズの穢れを取りましょうよ」
 龍が、足の爪を持ち上げた。水が粘っこく糸を引いた。
 二つの鼻穴が、大きく広がった。
「……。ふん」
 綱吉の前髪がぶわっとするほど大きなため息がくる。臭くはなかった。
「ヒトはいつの世でも狡猾だな」
「え? ……すみません」
 冷や汗が噴き出てきて、本気で謝罪したのだが龍はまた嘆息をこぼした。
「背中に乗れ」
「……い、いいんですか? 今ので?!」
 リボーンと祖父から聞いたことはあるのだ、精霊の説得には一時間も二時間もかけるのがふつうだ。
「今は時間がない」龍は物わかりがよかった。
「それに、初めからこうなる予感はした。おまえが水に落ちてきたときからだ」
 タテガミを掴めと言われて綱吉は困りきった。ウロコで覆われた背中は昇りにくいので、仕方なく言われたとおりに一房を握った。
 頭のてっぺんまでくると、ウロコから飛びでている小さなツノと出会えた。
「わ?!」前触れもなく、白龍が浮き上がった。
 世界が、飛んだ。綱吉は落とされないようにしがみついた。髪がはためいて、頭の皮膚を痛いくらいに引っぱった。
「どうする。ツナヨシ。お前は魔王の遺児に禁の酸弾を打ち込むのか?」
「えっ――」
 青い真珠の瞳は綱吉が身を乗りだした先にある。
 その真珠球ひとつで、綱吉の頭部と同じ大きさだ。龍は哀れみながら二つ子の名を口にした。
「彼らの羽根が、何でできているかわかるか」

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