一満の桜がごとく!
エピローグ:さいごに咲くサクラ
肩を並べたままで棒立ちになっていた。海外へと出向する人波が目の前で流れていた。誰も彼もが大荷物を抱え、ガラガラと響くトランクの車輪にはしゃいだ黄色い声音。綱吉は目を細めた。
膠着状態のまま十分は過ぎた。いい加減に、背中が湿りすぎて気持ちが悪かった。
「あの……」
骸が、眼球だけを動かす。
「ま、またお金だしていただいて家に帰っちゃおうかなーなんて、思って」
オッドアイに灯る光は、鋭さを増した。綱吉はぶんぶんと頭をふった。
「いや! そーですよねっ、歩きますよね三日くらいでつけますかねっそれか母さんに電話してっ」
「話を理解してなかったんですね?」
馬鹿にした声音だ。骸が踵を返し、一本に繋がった人の流れから遠のいた。
「湯水のよーに消耗できる資金を手に入れたんですよ。おめでとうございます」
足を止めたのは、扉も窓もない、真っ白いだけの壁の前だった。
振り返った少年は、鎮かな炎を右目に灯していた。
「ただ、その蛇口は僕が調整する」
喉でうめいていた。彼が何を言わんとしているのか。わかった気がしたのだ。声が震えた。
「ボンゴレ……。マフィアには、使わせないって?」
「ええ。あくまで沢田綱吉個人への融資。この理解だけは徹底しておきなさい」
地面を這いずるような声だ。綱吉の瞳が下を向く――、(なんか、母親から小遣いもらう小学生みたい)、突き刺さるような眼差しが痛かった。
どこが苦しいのか? 問われても答える自信はなかった。
腕が、そろりと自らの胸を抑える。骸が俄かに嘲った。
「文句でもおありで?」
「ないよ」首を振る。すぐに間接が痛くなった。
「――……、骸さん。今ってオレと二人きりですよ?」
「君が望むなら、僕の手にかけてあげてもいいですけど」
そろりとした手つきで骸が自らの胸を辿る。そこに、あるのだろう。拳銃の輪郭が透けて見える気がした。今、彼がその気にさえなれば綱吉の身体は穴空き、あまりにあっけなく心臓の脈動は止まるのだ。骸はわずかに俯いて目蓋を閉じかけていた。
互いに同じ場所を抑えながら向き合う、両者の眼差しもまた同じく昏さを秘めていた。夜にふる雨の、一粒が放つ光のように。
「…………洗脳する必要性を」
薄くまみえる赤と青。途切れがちな言葉だった。
「今は、感じません」
「そう。です、か」
俯くしかなかった。綱吉の、開きかけの唇が震える。
搾られる心地がした。何に? 再び問われていた。こういったときの自らの声は、まるで知らない人だ。綱吉は答えた。寂しさと形容できる、そうしたもののハズだ。
(近くに誰もいないまま、ずっと悩むのはつらいよ)
雨の香りがした。ひとりで雨に穿たれて、ひとりで空を見上げて、ひとりで公園に入って、そうして胸に浮かべたものは何だったろうか。絶望のふちにあっても、人の名前は思い出せるのだ。
顔をあげれば、骸ははるか高みの天井を見ていた。
「リボーンに獄寺くんに山本にランボにハルにフゥ太にイーピンに京子ちゃんにお兄さん」
色違いの両目は、物憂げにすら見える眼差しを秘めていた。 訝しげに綱吉を辿る。
「みんな、オレにとって大事な人です。でもちょっと前まではオレだって一人きりだった」
「……?」「ダメツナってのがアダ名で、友達がひとりもいなかった……」
怪訝に眉を跳ねさせたまま、骸が腕を組んだ。綱吉は目尻を吊り上げる。
「今回の取引き、オレに相談してくれて良かったんですよ。別に気にしないから、骸さんが有利なように話を進めちゃえばよかったんだ」
「? どういう意味のことを喋ってるんですか」
「誰も彼もが敵だと思うなってことだよ!」
驚きで綱吉を見返す、骸の両肩がせりあがっていた。
「少なくともオレは骸さんの敵じゃない。敵にはならない」
「ボンゴレ十代目が?」綱吉は自らの胸を、両手でもっておさえた。
「おまえ、ヤケにこだわるけどそっからおかしいんだ。オレは沢田綱吉だよ」
「……、綱吉くんって」
途中で、その声は苦笑へと様変わりした。
「なんか僕には優しいですよね。どうしてですか?」
綱吉が驚く番だ。そんな意識を持った覚えはない――、強いていうなら、
(泣いてるガキを見てるみたいな、そんな気分になるときは、あるけど)
……、口にしたら殺されるだろうな。にわかに確信して綱吉はうめいた。
「幼稚園の先生にでも叱られてる気分になりますよ」
「ま……あ、そんな感じ……かな? オレは、ただ骸さんの仲間が早く帰ってくればイイなって……、オレのこと少しくらい信用してくれても構わないんだってコトを――」
「あの種の存在は愛情をもって相手を叱る。そうであると、僕は思っていますけど」
遮って、骸が言った。何を言わんとしているのか、わからないといった態度を崩さないまま首を傾ぐ。薄い微笑みが張り付いていた。
本能的なものだった。後退ったが、彼が襟首を掴む方が早い。
「――――っ」上へ引きずりあげられていた。
きゅっと首が絞まる。目を見開かせた原因は、しかしそれの鈍痛ゆえではない。
「君は無防備すぎますね」悪戯っぽく、クスリと笑う。
睫毛の先まであがってきたその唇を見て、綱吉は呆然とつぶやいた。
「お、まえ。何のつもり……?」
「前にもしたじゃないですか。一度してしまえば二度も三度も同じでしょう」
「へえ……?!」唇にまだ感触が残っている。ふにゃんとしたものが当たったのだ……。その正体が信じられずに、綱吉は骸を見上げた。
「ま、前のキスってオレを皆から遠ざけるためにやった、で合ってるんですよね」
「合ってますね」
「これは?」
「くふ」
「それだけで済ますな!」
暴れるが、存外に骸はしっかりと立っていた。
手足をバタつかせれば、その結果は自らの体重で自らの首を締めるというものである。青褪める綱吉へ愉悦の眼差しを送りつつ、骸が微笑んだ。
「気付いてます? 前回の取引きも今回も、僕は君から何も貰ってないんです」
「そ、それでどーしてこういうことに思考が発展するのっ?!」
「跳ね馬とは違うものをいただきたいところですが……」
「ぎゃあああ?! た、たすけて――っ。リボーン母さん獄寺くんヒバリさぁあああんっっ」
ふ。奇妙な溜め息と共に、骸は腕をおろした。
足がつくなり、綱吉はダッシュで遠のいた。ゲホゲホと咳込むのすら楽しげに眺める――、眩んだような目つきだ。手の甲でゴシゴシと唇を拭いつつも綱吉が頭をふる。殴られた後の気分だ。頭がぐらんぐらんとしていた。
「お、オレもう帰りますから! 母さんに迎えにきてもらうっ」
踵を返すが、しかし骸はついてきた。
「タクシーを捕まえますよ。当然、料金は僕が払います」
彼はニコニコとしたまま、爽やかに宣告した。
「それが君にとっての僕の利用価値だ」
「……なんか紛らわしい表現ですね」ウンザリとして、綱吉。真面目な面持ちで骸が言った。
「僕に付き合うつもりなら、このくらいのクセは知っておかないと。本当のところはね、僕だっていつ君を裏切るかなんて知らないんですから。その時になってみないとわかりません」
オッドアイの表面で白光が揺れる。
「だからそれまで、宜しくお願いしますよ」
「――……」骸の先を歩いていたはずだった。
歩調をゆるめた途端に抜かれていた。何食わぬ顔を保つ、それができそうでできない。短い階段を経てエスカレーターを過ぎたころに、戦慄きながらも告げていた。
「それで、いいよ、ここで『裏切らない』とか言われた方がウソ臭いから、オマエの場合」
「それはどうも」見透かすような笑みを浮かべて、骸がドアを見上げた。
外へと続く自動ドアが目の前にある。綱吉はひっそりと横目で少年を見つめた。
彼は前を見ていた。その時になってみないとわからない、それの主語は。
(未来)、綱吉が目蓋を下げる。(未来なんて、そのときになってみないとわからない――)
脳裏でさざめくのは桜だ。あの、花見の記憶は薄れずに残っている。十年後の世界、成長したリボーンとコロネロ、ボンゴレに加わっていた獄寺や山本たち、マフィアになって血の雨を降らしていた沢田綱吉。
(もしかして、あのオレも)
ヒバリの夢で邂逅を果たした。
しゃんと背筋を伸ばして、真っ直ぐで、微動だせずに前を見つめていた。
(決して、不幸ではなかったのか……な)
既に黒曜中の少年はドアをくぐっていた。回転式の自動扉だ。綱吉も後に続いて、しかしそこで思考が中断された。
ちょっとした地獄絵図だ。叫喚が響くなかを逃げ回る人々なんてものを空港で見ることになるとは。骸が素早く棍棒を取り出した場面だった。鎖が引かれて、三本が連結する。トンファーと小さな火花を散らした。
外人観光客がトランクを担いで逃げる、頭上を黒い影がくるくると回転しながら横切っていった。骸が弾いたそれは、弧を描いて一台の車の屋根に着地する――。
丸マークの中央に『並』の文字。
一昨日に見たばかりだ。並盛中学校のワンボックスカーである。運転席には、リーゼントの男。車内で、ドアを開けようと必死にガチャガチャ揺らすのは獄寺だ。肩にはリボーン。
「綱吉」はっとすれば、屋根の上で風紀委員長が立ち上がっていた。
「迎えに来た」
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