一満の桜がごとく!
第13話:百満のさくらのなかで
「ワザとだろ!」
「そんなことはありません」
「ウソだろう」「ぐうぜんですよ」
ふ、と、明らかな侮蔑を投げて骸が目鼻で笑った。
「怒ってやるから正直にいえよ。ワザとだろ〜。ワザと急ブレーキ踏んだだろ!」
彼はカード型の機械を持ってはいなかった。
「あれはロマーリオの形見なんだぞ?!」
「いや、ディーノさん、その日本語はちょっと用法が正しくないんじゃないかと思います……」
骸は嘲笑を浮かべつつもドアを閉める。校舎裏の駐車場から奪取してきたワンボックスのドアである。用務員を洗脳して、鍵を取ってこさせたのだ。思わずグウとうめいた綱吉の隣で、ディーノはあからさまな顰め面をした。
「オレはテメーを信用してない。オメルタも忘れてない。先に言っとくぜ。ツナを裏切ったことも泣かせたことも許さねえ」
「何にでも許可がいると? く、ふふ、馬鹿らしい」
ちゃらっと音をたてて、骸はキーホルダーに人差し指を引っかけた。くるん、一回転をする。
「一度は言おうと思ってたんですけど」
瞳は細く伸びた。底冷えのする光が灯る。
「綱吉くんはツナヨシでしょう。ツナツナって、それは日本語では別の呼称に――」
「ツナ缶だとでも言いてえのか!」
信じられないと金色の瞳が上向いた。
「そこまでは言ってません。僕はマグロと」
侮辱をうけたと言わんばかりの表情で見返され、青年は首を振った。
「よけーなお世話! ニックネームはロマンだろうがよ」
「そういう態度は世間さまではオヤジ臭いと言いませんかね」
(…………)思わず遠い目をしたが、風が吹いてハッとした。額で揺らめくものがあるのだ。
それは独自の鼓動をもっていた。熱はない。ないが、生命の躍動そっくりに脈拍をくり返す。
(胸に一つ、額に一つ。心臓を二つ持ったみたいだ)
肩に腰掛けるリボーンへと視線を振り返らせた。言葉はでない。
何をいえばいいのか検討がつかない。リボーンは、ハットの下から微笑みを返した。
「信じた道をいけ。それがボンゴレだ」
「……、ボンゴレにはならな」
不自然に途切れたのは、リボーンが首を振ったからだ。
「テメー自身の思いが重要なんだぜ?」
ゆっくりと、言い聞かせるような声色だ。
「いつもの死ぬ気状態と違うって言いてぇんだろ? そりゃあ当然なんだぜ。テメーの意思に反して無理に死ぬ気にさせんのと、テメーから進んで死ぬ気になるのじゃ丸きり違うに決まってる」
「――……オレ、行っていいのかな」
「は。ダメツナの言葉だな。信じた道を行けって意味がわかってンのか?」間があった。しかし、リボーンは告げた。「自分が、自分の信じた道をいけって、そういう意味だ」
綱吉は両手を見下ろした。
服は破けていない。かつてのように自意識が吹っ飛ぶこともない。
沢田綱吉、ダメツナと呼ばれる自分が、額に炎を燃やしたまま立っていた。
(――ヒバリさんに、何て言えばいいんだろう?)
彼を追いかける。十年後を変えるために走りだした。ヒバリとの間に何があったのか。それを知ろうとして、綱吉は走ってきたのだ。
(今は知ってる。でもヒバリさんは全部を忘れた)ぎゅうと指を引き合わせれば拳ができる。
――オレが動くしかないんだ! 夜桜を前に誓った言葉だ。蘇ったその音は綱吉の内側で何度も反響した。今度も、だ、知らずにうめいていた。
「今度もオレが動くしかない」
(そうだよ。オレのことだもん。オレが動くしか、道の先に行く方法はない)
リボーンの占いは、桜が散る前に全てが決まると告げていた。桜は花びらを散らせてしまった。額の炎はいまだ枯れる気配はない。両手が、十本の指が、胸を掻き毟った。何時間も泣いたあとのように、瞳の奥が乾いていた。
「桜は散ってなんかいない。まだ咲いてる」
「? 何をいってるんですか」
不思議げに眉を寄せて、骸はポケットにキィを落とした。
「ここに咲いてる――」
空は晴れていた。まだらな雲が四方から伸びていた。太陽は高く輝く。肩を竦めたのちで、骸は色白の指を上向かせた。
弧を描いてくだる。テナントビルの足元が指差された。
「急ぎますよ。彼が動いてしまったら、きっともう僕にはわからないでしょうから」
「そろそろ、その超能力のタネ明しがほしーな」
「サイコパワー?」
うめくのはディーノとリボーンだ。
骸は目尻だけで笑った。小馬鹿にしたようにも読みとれる。綱吉は、取り合わずに駆け出した。
(ヒバリさん。――何を言えばあなたにオレの気持ちが伝わるかわからない。だから!)
「そのまま言いますっっ」
テナントビルの一階は駐車場になっていた。その真前で、歩道の真ん中で立ち尽くす影が独り。
シャツの襟首に引っかかったネクタイが翻る。綱吉は踊りでた。
「ヒバリさん、オレを思い出し――っ?!」
しかし、ギクリとしたのは綱吉だった。
風紀委員長は瞳を虚ろにしたままでテナントを見上げていた。唇を半分だけ開いたところで止めて、頭髪をはためかす。這うような呻き声が誰のものであるのか、すぐにはわからなかった。それほど弱かった。
「公園」「えっ?」
ヒバリは呆然としたままでうめく。
「あったはずなんだけど。ないね」
「公園、って、あの……。夢で見た、桜で囲まれていた――?」
ゆっくり、肩越しに振り返る。眉間には深々としたシワを刻んで、ヒバリが言った。
「どうして、君はここまでやってくるの」
パニックを自覚していた。綱吉が大きく頭を振る。握ったままの拳を開くことができなくなっていた。自分の体だのに、固めたまま、どうしても開くことができない――。「どうして、って」
「決まってるじゃないですか?!」
愕然とした悲鳴は駐車場に反響する。
「忘れないでほしいから!! それ以外にどんな理由があるってンですか?!」
ヒバリは微動だにしない。「お願いです。ヒバリさん、それだけはわかって……! オレはあなたを苦しめようとして追いかけてるんじゃない」
「来るなァッ!!」
ジャリを踏み、距離を縮めたとたんに絶叫が轟いた。
前のめりに上体を倒す姿に背筋が硬直する。応接室をでるまぎわの、草壁の言葉が蘇った。
『風紀委員長は、半年に一度は検診を受けている』
『生まれてすぐに心臓を悪くされてるのだ。何かのきっかけでまた悪くされるとも限らんからな。もし、様子がおかしかったら救急車を』
「い、痛いんですか」冷たい汗が背中を湿らせる。
さらなる一歩をつめる。ヒバリが激しくかぶりを振った。
「くるなくるなくるなくるなくるなァッッ!!」
駐車場の奥まで届く。再び反響。少年の五本指は自らの心臓へと伸びる。
「君を見てると古傷を抉られるよ!」
忌々しげにヒバリは呪いを吐いた。
「僕に関わるな。目の前から消えろ!!」
ゆらりっとヒバリの姿が大きくブレる。跳躍した。両手を拳にしたままで突きだした。
「イヤだよ……ッ」――きぃきぃと耳鳴りがする。悲鳴かもしれなかった。
勢い込んだ風が全身を叩く。何か、懐かしいものを覚えた気がした。風。この風に桜が混じる、と、夢想はひたすらに甘美に思えた。蜜の香り春の香り桜の香り、もうひとつ、動物じみた生き物の香り――。
『群れって大嫌いだよ。白い壁に囲まれながら君達を見てて、何を考えたかわかる?』
――バカもきらいだ。黒いパジャマに身を包み、幼い少年は跳躍する。そして左右を取り囲んでいた子供全てをなぎ払った。
『そこに立っていられる、それだけがどんなに幸せなことか。わからないの?』
綱吉は彼を知っていた。知っていたのだ。
(目が逢った。何度も。病院の窓の、桜の木のすぐ上の窓から、黒い二つの眼がオレをじっと見下ろしてた――)すう、と、深く息を吸い込む。
『噛み殺してあげるよ!!』
初めて、彼が喋るのを見た。甲高い。けれど泣いているようにも聞こえる声。
『そうして傷だらけになれば、 病院って場所にいってみれば、痛みがどれほど辛いもんかってよくわかるだろうっ?!』
あの時も、無意識のうちに拳を握っていた。そして解けなかった。ヒバリから目が反らせなかった。
(どうりで、今まで思い出せなかったわけだ……)空高く跳躍した風紀委員長、そのトンファーが陽光を反射して光り輝いている。懐かしい光景に思える。光が、まるで羽根のように少年を彩る。
(鳥だと思ったんだ……。人間じゃなくて、翼の生えたちがう生き物だって)
「オレを噛み殺すのは無理だよ」
――ボウッと額の炎が勢いを増す。
緩慢に動いているように見えた。一歩を下がれば鼻先をトンファーが掠める。ヒバリが憎憎しげに睨む、その瞳を出逢う――反らさない。反らしたら、負けなのだ。
「いや、そりゃ実力的にはめちゃくちゃできますけど、でもそうじゃない。ヒバリさん。オレは、そこに込めてる思いをもう知ってる! だから無理だ!」
「何がわかるっていうの……! 君に! 僕の何が!!」
「っっ」空から舞い降りた一撃は、しかし直撃の寸前で停止した。
ヒバリ目掛けてのびる銃口がある。リボーンだ。
帽子の下でニヤリと笑ったままで、赤子は歩道へと降り立った。
「頭に血が昇ると損だぜ。ここで争ってどうなるってゆーんだ?」
「リボーン……」「赤ん坊」カメレオンが口をあける。
丸まった舌先に包まれていた弾丸を摘んで、新たに装填させた。
「死ぬ気弾っ?!」ディーノが後ずさりをする。一同が身構える中で、小さな腕が掲げられた。拳銃が見据えるのは、ビルだ。聳え立つテナントビルだ。
「なっ?!」リボーンが引鉄を引きよせる!
「――死ぬ気弾ってのは、撃ち方によって効果が違うんだぜ。言ったことなかったか?」
弾丸が白壁にぶつかる、途端に、まばゆい光が散らばった。
叫びながら視界を覆って、しかし綱吉は絶句した。指のすきまから桃色の花びらが見えた。
「これって――っ?!」桜があった。ひらっと舞い散る桜。
ビルの一階が、駐車場が桜で埋め尽くされていた。車体も消えうせてブランコや滑り台、遊具がある。時計台もある。下生えの緑と天上を覆う桜の枝葉とで目眩がした。ヒバリがトンファーを下げて、信じられないと呟いた。
「とりかご公園……」
「こ、公園は潰されちゃったんじゃ――」
よろめきながらもヒバリが公園へと踏み入る。
追いかけながらも、目を白黒とさせた。
「どういうことだよ?!」
「人も建物も何にでも空間がある。空間ってのにはスキマがある。スキマに詰まるものがわかるか? 夢だぜ」
「夢――」(どういう意味だよ?!)横から顔をだしたのは、骸だ。
「僕らが踏みつけているこの大地が持った夢であると?」
「ご名答」むちゃくちゃだなァと囁いたのはディーノだった。
「相変わらずトンデモねーな。アルコバレーノ……、虹色の家庭教師、本領発揮か」
「あっ……?!」風紀委員長が公園の真ん中で立ち止まっていた。
一本の桜花の下で、顔を寄せ合う子供たちがいる。
「君と僕は少しだけ似てる。少しだけ弱い」
パジャマ姿の少年は自らの胸を抑える。黄色い通学帽を被ったままで幼稚園児が頷いた。泣き腫らした目をしながら、必死に言葉を紡いでいた。
「うん……、うん、おれも守るね。弱いけど、がんばるね」
「約束だ。僕は君の体を守る。きみは、ぼくのこころを守る……」
これは約束の証だよ。クスリと悪戯っぽく唇が笑う。
黒髪の子供が、園児に口づけた。触れるだけの幼い口づけは数分にわたって続く。
厳かな儀式であるかのように――、二人は、目を閉じたまま微動だにしなかった。舞い散る花弁ですら、空を泳ぐだけで二人のスキマに入り込むことすらできない。
「なんか、ずいぶんとおアツくねぇ?」
不満をこぼすのはディーノだ。
綱吉は後退りした。(こ、れは)反射的に、自らの唇を抑えていた。
(忘れてたなぁ――っっ!!)もちろん、濡れているわけがなく、カラカラと乾いているのだが。骸が半眼を浮かべた。じろりと剣呑なまなこで見つめてくる。そして感慨深く囁いた。
「幼少のころから、そのケがあったんですね……」
「あああああっ! 広がる誤解っ?!」
耳も首も真っ赤にしたままで、綱吉はブンブンと首を振る。
「いやこーゆーことがあったよーななかったよーなものっそいびみょ――、うっっ?!」
綱吉が硬直する。空気がビリビリとした。直後に響いた戦慄きはヒバリのものだ。
「っっっあぁぁ、あ、あ、あああ!!」
両手で自らの頭を鷲掴み、吼える!
「ヒバリさ――?! っ、でええ?!」
「チッ。逆効果だったか? 浸蝕がくるぜ!」
「しんしょくぅ?!」鸚鵡返しにした直後、地面が揺れた。
頭上にあったはずの鉄筋が消えていた。指先はか細く振動したが、それは自分が戦慄いているせいだ。耳鳴りだけが酷くなる。イヤな予感がした。
「ヒバリには骸に殺された分のスキマが――、夢のなかに穴があるからな。それが共鳴してやがるんだ!」
「さ、さくらが」
うめいていた。ビルも街並みも消えた。
雲雀恭弥を――、公園を包囲するように無数の桜が生えた。
その数は数万はある。目を見開くうちにもまだまだ増えていく。顔をゆがめて、冷や汗で全身をぬらしたまま、少年が再び絶叫した。ヒバリはまるで台風の目だ。彼を中心にぐるぐると風が渦巻き桜が渦巻く。笑いあう子供二人の姿が掻き消えていた。綱吉は必死になって頭を庇った。暴風が桜を舐め一同を舐める!
「ぎゃああああ!!」
リボーンがディーノの首にしがみ付いた。
「跳べ!」「ああっ!」タンッと軽やかな音が続く。一瞬で、彼らは滑り台の上にいた。
一舐めごとに、桜の花弁が塊となってぶつかってきていた。数千万の花びらは、見る間に綱吉を下半身を埋め立てる。
「ちょ、マジ?! 窒息するってば!!」
目を閉じかけた――。その数瞬前に、綱吉は両目を見開かせた。
肩を掴まれていた。左右で色の違う瞳と、視線が、交差した。
「――――!」「っっ」彼らは、同時にぎくりと硬直した。
オッドアイの表面で白光が明滅する。ア、と、掠れた呻き声が綱吉の口をつく。わずかな間を挟んだのちに、骸が跳ねた。両手で綱吉を抱え込んでいる。
時計台に降り立つと、叫んだ。
「アルコバレーノ! どうにかしろ!」
呆然と見上げれば、骸はキツく眉根を寄せていた。綱吉を見ようとはしなかった。
「オレのこと、助けていいの」声にだすつもりはなかったはずだ。が、綱吉は囁いていた。骸が唇を噛む。
「まるで助けて欲しくないみたいな言い草ですね?」
「そういうわけじゃない! けど、おまえ――」
「ツナ!!」「前!」
引き裂くような叫び声は二つだ。
リボーンとディーノが同時に叫んでいた。多量の花びらに足を取られて、ディーノがすっ転ぶのも見えたりしたが――、その瞬間に感じたものは、恐怖だ。
骸が舌打ちした。風が止んでいる。台風の目が、牙を剥いて目の前にいた。
「その子に気安く触るな」
ヒバリは、一直線に骸の喉を掴んだ。
「ぐっ?!」ギッ。狭い足場だ、ヒバリが乗り上げたことで骸の片足が滑った。
「や。やめなよ?!」降り立ちつつ、綱吉は必死で黒曜中学のジャケットを掴んだ。それでも、なかば宙吊りの格好になる――、彼を見下ろすヒバリの黒目に、燃え上がる炎を見つけてゾッとした。
「ひ、ばりさんは、どこまで覚えてるんですか……?!」
「これのせいで苦しい。それはわかってる」
頬も額も濡れている。汗でびしょ濡れだ。苦悶を眉間に刻んだまま、ヒバリはもう片方の腕も加えて首を締め上げる!
「ち、違うよ! やめてよ!」
その腕に縋れば、ヒバリが憎しみを燃した。
「どうして庇うの」声音に感情はない。
桃色の海が下にある。首を絞められたままで少年は上目遣いに綱吉を見遣った。くしゃりと顔を縮めままで少年は首をふる。瞳の奥が燃えそうに熱い、そんな錯覚を覚えながら綱吉がうめいた。
「こんなの、ヒバリさんの正義じゃない。やめて……。手を離して。骸はオレを裏切る。でも、だから骸を信じないってことにはならないんです。やっとそう思うんです。仲良くなれそうだって思ったとこなんです!」
「……――――」
オッドアイが大きく見開く。
震えながら綱吉へ焦点を合わせた。
はゆるく頭を振った。糸が張りつめる、その上を歩いているような気分だった。
「ヒバリさん、骸さんを怒らないで――」つなよし。細くうめくのは骸だ。じりじりした眼差しを向けながらもヒバリが頭を振る。何かを懸命に否定するような、縋り付くような。黒い瞳にはハッキリした混迷が根を張った。
「なら、僕は」
グラリと地面が揺れる。
「僕は、誰を恨めばいいっていうのさ……!」
「だれも。誰も恨まない、でぇっ?!」
続けざまに地面が波打った。ヒバリの動揺を映したようなタイミングだ。
骸が足を滑らせ、ヒバリと綱吉も引き摺られて放り出された!
「うわぁああっ?!」
「沢田!」「つなよしく――」
花弁の海へと落ちながら、二人の少年が別々に腕を伸ばす。
しかしオッドアイが僅かにけぶる。その間に、ヒバリが綱吉の腰を掴んだ。
「うっ!!」花びらが空へと舞い上がる。三人は頭から花弁に落ちた。黒髪に桜の花びらを大量にくっつけながらもヒバリが綱吉の肩口へと顔を埋める。綱吉は四肢をバタつかせた。
「ちょっ! 沈んでる沈んでるっ。いや――っっ?!」
「お兄ちゃん、だれ?」
「?!」足元から聞こえた。
視線をやれば、桜の海のなかで二人の子供が向き合っていた。
夢はまだ続いていたのだ――。幼稚園の制服を泥だらけにして、涙で両目を潤ませつつも、子供は首を傾げる。向かいに立ちながら、パジャマ姿の少年は腕を組んだ。
「雲雀恭弥」足元には、ノシたばかりの児童が転がっている。
「……いじめっこ?」
幼い少年は、俄かに口角をあげつつ首をふる。
それと同時にヒバリが絶叫した。綱吉が背後からの叫び声にビクリと体を跳ね上げる。
「やめろ!! わかんないんだよ。そんなもん見せられてもわかんないんだよ!! 痛いんだ胸が――」
「胸っ?!」ぎょっとした。
(まさか、病気が――っ?!)
「穴がある。空虚な穴があるんだ。君のことを思うたびに穴が痛む……。風が通りぬけるたびに穴が軋む。痛いんだよ!!」
桜のかさが徐々に減っていった。やがて大地の上へと降り立つ。
頭上を取り巻く嵐も止んでいた。ディーノが思いのほか近くにいた。気付かぬ内に同じように海に落ちていたのだろう……。
ヒバリは、綱吉を離さなかった。
「君はだれなの……っっ」
「ヒ、バリさん――、もしかして」
(ずっと、思い出そうとしてくれてたんですか?)
声にはならなかった。喉が震える。――額の熱が完全に消え去るのを感じた。
代わりに、目尻から、はらりっと熱が滑りでた。
「あ、ご、ごめ。なさ。気付かなくて」
「どうすれば思い出せる?」ヒバリの背中を抱き返しつつ、リボーンを見遣る。
返答は短い。声もない。ただ、首を左右に振るだけだ。
「っ……」ぎり、と、奥歯が鳴った。
ふるえた声をだしながら、ヒバリは綱吉を抱く腕に力を込めた。
「おしえて」風が鳴ったような、細い、小さな声だ。
「知りたいんだ。思い出せないなら、何をしても無駄だっていうなら」
わずかに躊躇ったすえ、ヒバリが続けた。
「きみのことぜんぶを教えて……。今から」
「あ」一瞬、言葉がでなかった。頭が真っ白になる。彼から、そんな言葉を貰うとは思いもよらなかった。ヒバリの背中に回した腕が、指が、ぶるっと戦慄いた。
「は、はい――っ。お、教えます! はい!」
「うん。きちんとね。全部、覚えるから……」
心臓が早鐘を打っている。鼓動は、ぴったりとくっ付いた風紀委員長の体からも届いてくる。桜の花びらが口に入った。
(苦い。香りは甘いのに)かすんだ視界の向こうで、桜がさざめている。
百万本はあろうかという桜の群れだ。
海は大地に飲み込まれたが、未だに桜はある。綱吉は目を閉じた。夜桜に誓ったのが、もう何年も昔のようだ。ヒバリがうな垂れれば、呼応して風が吹く。綱吉は、少年の首を撫でた。仄かに熱がある。肌も赤い。
離れたところから、咽こむ声がきこえた。骸が桜にむせたのだ。
リボーンが丸い瞳を歪曲させた。鋭く、細く。
「自分の犯した罪がおそろしいか?」
「まさか」強張った声色だ。
「じゃあ、なぜ泣く」
「……?!」
少年は、愕然とした面持ちで赤子を振り返った。
目尻を拭って、さらに驚く。
「これは……?」彼らしくない呆然とした口調だ。
綱吉も目を丸くした。少年は左右の目頭を親指と人差し指とで抑えるが、とめどなく、ボロボロと顎から垂れていった。
「……ぐ……」
「骸さん……?!」
少年が膝を折る。目頭を抑えていた。
「あ、つ――」「なぞが解けたな」
フウと鼻腔で溜め息をつくのはリボーンだ。
「どうしてテメーにヒバリの居場所がわかったのか。……砕けたヒバリの心はどこにいった? 解けてたんだ。テメーの中に」
涙が大地を濡らす。丸いシミが淡く光りだした。向かいで、ヒバリが顔をあげた。
ビクンと震え上がっていた。その頬にも涙があった。光を宿して、きらきらと輝く光の粒。涙した姿を隠すでもなく、ヒバリはゆっくり目蓋を閉じた。何かを噛みしめるように。
「……つなよし」
「え?」
「さわだつなよし。十四歳。泣き虫で鈍臭くてろくに泳げない小動物」
ふるえる。身震いが止まなかった。懐かしい口調だ。沢田と、呼んだときと明らかに違う。違う物言いだ。顎を伝った涙が、綱吉の襟首まで零れてシミをつくる。
光っていた。黒い瞳が再び姿をみせる。
「不思議だね」ひたりと、光る粒を見据えていた。
「泣いた分だけ、綱吉のことがわかる気がする」
「ヒバリさん……!!」綱吉が腕を広げる。指先の感覚が消えていく。全身から力が抜けていく。
「わかるんですね?! オレのこと!」黒目が、にっこりと目尻を細くした。
「うん。ただいま、って、言えばいい?」
「はい。はい! おかえりなさい!!」
笑っているのか泣いているのか。
熱いのは目尻だけではない。胸も額もそこかしこが熱い。辛抱しきれずに、綱吉が飛びついた。
「自分から帰ってく、と」リボーンが苦笑した。
「執念だな」「涙が媒介になって、記憶を戻してるってわけか……?」
ムゥと怒気をこめた唸り声。ディーノだ。一度、呆れた顔のあとで赤子が笑った。
「嫉妬か? 放っておいてやれよ。よっぽど元の場所に帰りたかったンだろー」
「わぁってるけど。弟弟子の幸せはオレの幸せでもあるからな」
「よかった! 本当によかった!」
うん! 小さく返して、ヒバリが綱吉を抱き上げた。
満開の桜が一斉にさざめく。風すらも日の光すらもヒバリとリンクしているようだった。穏やかな風が頬をくすぐる――。振り返れば視界のすべてが桜で覆われていた。世界中が桜で満たされたような錯覚。
百万本はあるだろう――、すべてが満開で。
う、と、呻くのを皮切りにして、声を大にしていた。涙も嗚咽も止まらなかった。
ヒバリの体温がすぐ近くにある。その熱も声も、労わりをもって自分へ向けられているのだ。
「あのまま、忘れられてたら、どうしようかって……。ほんとにどうしようかって!」
うん。ヒバリが笑みと共に頷く。
「僕もそう思った」少年をおろす。桜の花弁だらけになっていたが、それはヒバリも同じだ。この場に居合わせた全員が、服にも髪にも顔にも桜をくっつけていた。
くたびれた面持ちで見回してから、ヒバリは肩を竦めた。
「やだね。……みんな泣いてるなんて」
「バカやろう。オレはないてねーぞ」
「オレも」「僕も」
「もういいよ。何だって!」
骸へと集中しかけた眼差しが、綱吉へと引き戻る。
「ばんざいでもしよう! やった――っっ!!!」
「…………」赤子が遠い目をする。青空に黒い点がある。
鉄筋だ。百万の桜も奥のほうから姿を消していく。フンと鼻を鳴らした。
「ま。上出来だぜ。部下ゲットだな」
「ホラ、ヒバリさんも! 変な顔してないで!」
「おー。ばんざーい!」「ディーノさんっ」嬉しげに手を叩く綱吉。
骸がこそこそと隅へと逃げる。ヒバリが逆方向へと逃げる。盛大に両腕を突き上げた。
指先が花びらに触れる。優しいさわり心地だ。夜桜が胸をよぎる。桜並木がよぎる。夢で出会ったとりかご公園の桜がよぎる。無性に言いたくなった。
(ありがとう!!)
エピローグへ!
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