朧の銀



 いつからここにいるのか、わからない。闇は深くて前は見えない。モヤが発生しているのだと湿っぽさで分かるが。
 カンカンカン、アルミ缶をぶつけあうような音がする。その後は決まって悲鳴がする。
「誰か……、いるんですかーっ?!」
 並中の制服を着ていて、カバンまで肩にかけているから登校か下校かどっちかの途中だろう。
(助けにいかなくちゃ!)
 つばを飲んでから覚悟を決めた。返事は一度もなかった。
 走りだしてみれば、肺に飛びこんでくる思わぬ重みに鳥肌が立った。異物が混じってるような、いやな大気だ。
「どうかしたんですか」
 やっと見えた人影に叫んだ。
 手を出したのは彼女のためでもあったが、それ以上にここに一人きりでいるのが怖かったからだ。ところが彼女は綱吉の手を鷲掴みにし返した。
 真っ赤に泣き腫らした両眼が綱吉を射抜いた。
「――――!!!」
 何かを怒鳴り散らしている。
 知覚が鈍って急に言葉が理解できなくなった。黒いモヤが足元から昇ってくる。綱吉がハッとしたときは喧噪の中に立っていた。
「人殺し!!」彼女はそう叫んでいた。
 初めは濡れ衣だと思った。怖くて後ろに下がろうとすると、男の声がして、どうして自分が糾弾されているのかが理解できた。
「ボンゴレ十代目なんだろうお前が!!」
 呑みこんだ酸素が、痛いほど喉で膨れあがって気持ちが悪い。まだ声がする!
「2年A組、沢田綱吉クン」
「子どもを返して!」
「この呪われた血を継ぐというのなら――」
「これがボンゴレの歴史だ……」そんなもん――、ぶっ壊してやる! 聞き覚えのある声も混じって、ふり返れば沢田綱吉がいた。
 冷や汗が噴きだした。張り裂けるような悲鳴が場に満ちる。狂ってると思った。でも何が狂っていてどこから間違っているのかがわからない。立ち尽くしているだけだった。
「何してるんですか?」
 涼しげな音色が、降って沸いた。手を握られていた。
 綱吉よりも色が白くて指が細長いが、だが大きくて逞しい男の子の手のひらだった。
 しっかりと握られていて、そこから黒いモヤが晴れていった。
 顔をあげれば一羽の鳥が飛んでいった。
 空は青くて青々した芝生がどこまでも伸びていく。大木の下で、木漏れ日に揺れる少年がいる。襟を立てて白シャツ、スリムな下半身はインディゴブルーのジーンズで包んである。
 綱吉は彼の傍らに立っていた。骸の世界だった。
 臓腑の底から、ゾクッとできた。
「む、骸……、なのか?」
「こんばんは」
 おざなりに挨拶してから、イヤミな口調で追撃をする。「他に、誰がいると? 君は誰にでもほいほいと股を開くように夢への門も開けっ放しにしているんですか?」
「そ、そんなことないけど」
 口角が引き攣った。六道骸で間違いないようだ。
 骸はまだ綱吉の手を握っていた。
「まぁ僕ほどの術師でもなければ、こうもほいほい侵入できませんけどね。はい、クリーンナップ終わりました」
 ぱ、と、綱吉にもよく見えるようにして手を放してみせる。
 もう繋いでいなくても悪夢は見ないようだった。自分の手のひらを凝視する。
「夢……、だったんだな。さっきの。あんなに、リアル、だったのに」喉を詰まらせていると骸は腕組みをした。あからさまなため息を吐き出す。
「そもそも夢の構造から話してあげたほうが早そうですね君には。いわば頭脳のクリーンナップなんですよ。パソコンでデフラグとかしませんか?」
「情報の整理ってことか?」
「その通り。その余波で、過去の事象を再構成したものを夢として視る……、方向性は精神に影響されますが、ね」
 後半にはニュアンスが付いていた。
 綱吉は目を伏せる。だが、骸は顔をあげて無遠慮な眼差しをそそぐ。
「精神的に何か? 僕に隠し事できると思います?」
「……大したことじゃ……って、うわ! ばかっ! 読まれるってわかってんのに触らせるかよ!」
「生娘じゃあるまいし。いいでしょう」
「やだよ!」手を握ってこようとする骸から逃れ、背中に両手を隠して飛び退く。綱吉は目をしばたかせた。
「不必要に記憶を読むことは絶対しないって前に約束しただろ! 忘れたのか!」
「綱吉くん。これはプライベートの侵害ではなくて援助ですよ」
「やってる中身が同じなら世話ねーよ!」
 だが、そう言いながら両手を見せてくる骸に心がまったく動かされないと言えば嘘だった。
 ――夢に侵入しあえる仲になっていた。
 骸の過去や言動はともかく、彼の心はこうした澄んだ世界を理想に据えるほど美しく出来ているのを知っている。
 降りそそいでいる日差しは、日光の香ばしさまでリアルに再現してあった。長らくこの空間にいると綱吉は鼻につんとくるような感動を覚えてしまう。懐かしいのだ。
「綱吉くん?」きょとんと、赤蒼のオッドアイが丸みを帯びる。
 綱吉が大人しくなるとそれはそれで気になるらしい。
「本当に、どうかしたんですか? やっぱり古里炎真は君には不要なんじゃ――」
「違う。そうじゃない」
 歯列の奥から、囁いた。俯いたままでも覗きあげてみると、綱吉の両眼にはうるりとした光が灯る。
「骸はオレがスキだって言ったよな」
「ええ」肯定はしたが、防衛線を張っているような硬い言い方だ。右耳の上から、髪のなかへと手を差し入れられたがいやらしい意図も記憶を引き摺りだすような邪悪な意図も何も感じられなかった。ただ優しい。
「……好きですが?」
「なら、いいや」
「いやよくないでしょう。何があったんですか。誰かに何か言われたんですね?」
「ううん。ホントに何でもないんだ」
 頭に、がんがんとした鈍痛が響きはじめる。
 落ち着いてきてみると、悪夢のなかにとある少年の声が混じっていたと気がついた。
 最近になって言われた言葉だった。
『逃げちゃえば』
 形容しがたい暗い目つきをしている少年で、古里炎真と言う。シモンファミリーのボス。
「綱吉くん?」無理やりに顔を覗き込んできて、両肩を掴んでくる。見上げながら綱吉は目の奥にある痛みを自覚した。泣いてしまいたい。
「骸は、強いよな……」
「は?」
「エストラーネオに酷い目に遭わされたのに。マフィアを憎んでるっていつも言うのに。でもマフィアと関わるのはやめようとしないよな。お前は逃げないんだな。何があっても抗うんだろ」
「そのときの戦術によりますけど。負け戦はしませんし……。つ、つなよしくん? なんでそんな顔をされるのか、分かりやすいように……っ、僕に説明してくれませんか?」
 オッドアイを瞠らせて、骸は喉を震わせる。さすがに動揺し始めているらしかった。
「好きですよ。愛してますよ。嘘ついてませんよ?」
「わ、わかってる。わかってるよ」
 目の下をごしごし拭いながら綱吉は下唇を噛んだ。骸が呆気に取られている。
「どうしたんですか」
「怖かったんだ。怖い夢、だったから。ボンゴレファミリーが殺してきた人達の声なんだ、あれは。継承の儀式で聞いたことがある」ごまかそうと思ってそう言ってみると、骸はホッとしたと見えた。
 後ろ頭を胸に抱き寄せて、かいなに収める。
「大丈夫です。今は僕がいるから!」
「……うん」
「君は恐がりなんですから」
 心なしか嬉しそうに喋っている。骸は何度も綱吉の頭を撫でた。
「君は、僕がいないと駄目なんですよ? 臆病でこわがりで、そのくせ戦おうとするから君の小さな頭ではすぐにパンクが起きる。僕なら君の心を守れる」
「オレだって、強いよ」
 呟いてはみたが、骸の強さとはまったく方向性が異なるんだろうと思うと辛くなった。
 抱きしめてくれている腕は、優しかった。声も優しい。
「そうですね。でも君には弱点がある。仲間を大事にしすぎるとつけ込まれますよ」
「オレには皆を守れる力がある」
「はいはい。そうですね。でも君は所詮は神でもないし天使でもない。人間なんですよ? しかも元々は駄目な子で」
「お前、なんで嬉しそうにそんなこと言うんだよ。怒るぞ」
 骸の腕に手をかけ、顔を出す。拗ねて見せても向こうは酷く楽しげだった。いつの間にか上機嫌になっている。挙げ句にこんなことまで呟いた。
「悪夢を怖がる綱吉くん、かわいい。僕はそういう精神ダメージはぜんぜん平気なんで。いくらでも縋ってくださいね」
「最悪だな」苦笑混じりに嘆息した。骸は言うことが何だか黒い。
(オレには)力と責任とがある。
 神かもしれないし、――なぜふざけた単語を出すのかは計り知れないものがあるが、天使かもしれない。悪魔かも。いずれにせよ人間とは程遠いものだと薄っすら分かってきている。
(だってボンゴレ十代目だもんな……)
 綱吉の服の下には、チェーンを通したボンゴレリングが感じられた。まぼろしであっても重かった。



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