ねずみの綱吉
1.
(さて、どうしたものでしょうかね)
少年は人差し指の第二関節を自らの下唇に押し当てた。ふっくらした感触がする。彼は本来、自制心の強い人間であるにも関わらずその感触にワザと気を反らして現実から逃げたくなった。それほど、今の事態は、六道骸にとって認めがたいものだった。
「ちゅー!」
「ちゅーちゅー!」
「ええい、まとわり付かないでください」
一歩二歩と前に進めば、ねずみはチューッと悲鳴をあげて逃げ惑う。一匹がびしりと骸の顎に向けて人差し指を突きつけた。
「態度がでかいよ! なんだお前! こっから先は通さないぞっ」
「ここから先ねえ」
額を抑えかけて、ハッとした。自分はそういうキャラじゃない。そう思うと、骸はまた沢田綱吉への憎しみを深くするのだった。逆恨みが混じっているのだが。
「また妙な夢を見て……。はた迷惑なんですよ。沢田綱吉。起きろ!」
「あぁあああ! 起こさないで!」
手のひらサイズの沢田綱吉が骸の足元にたかっていた。皆、ねずみの耳にねずみの尻尾をつけてチューチュー鳴いている。今年の干支はねずみ、そして今日は一月一日。骸は最初の感想を再び繰り返した。
(変な初夢。幼稚園児レベルというか変態的っていいますか、おかしすぎる)
水牢の中でごぼごぼとするだけで新年を迎えるのも味気なく、引力の方に歩き出してみたら、これだ。味気ないというか、不意打ちすぎて骸は対応に困っていた。平和に学校に通っているような夢ならば、まだ破壊する楽しみがあったものの。
「そこにいますね」
足元をたかるねずみの群れがぎゃあぎゃあと騒ぐ。空は白く大地も白く、地平線も白いが一箇所でドアが棒立ちになっていた。扉だけが立っている。
「こんなつまんない夢、さっさと醒めてしまいなさい」
面倒臭くなって骸は適当に夢を打破することにした。この奇妙な夢を終わらせるなら、沢田綱吉は自分に感謝するべきだとすら思った。
「だめ! だめだよ! やめてよっ」
「おまえ馬鹿! かってなことしないで!」
耳と尾を生やした少年達がキィキィ騒ぐ。
「いつっ」骸は思わず眉間を皺寄せた。怒りを込めて、チノパンの裾をよじ登っていた一匹を摘みあげる。尻尾の真ん中をつままれて、ネズミ綱吉はばたばたと手足を暴れさせた。
「何すんだーっ! はなせよぉ」
「よくも噛んでくれましたね」
「あっ?! いぎゃああ尾がちぎれる! ぎゃああ!」
「あっ! オレが危ない! みんなー、オレを助けるんだーっ!」
「コイツーっ! このっ、この!」
「…………」
六道骸は今度こそ、本気で額を抑えた。付き合っていられない。
ねずみを摘んだとは別の手でドアノブを回した。
「沢田綱吉! 茶番はもう終わりで――」
す。最後までいえなかった。夢は、そこで唐突に終わった。
ごぽっと水泡が昇った。骸は、左目を薄く開けて周囲を確認した。水筒の中で自分は雁字搦めにされて浮いている。右目にはホースが繋がれ鎖で戒められ――この中では、指の一つも自由に動かせない。
(? 何が起きた……)
しばらくジッとして、不意に、骸は悪寒に襲われた。精神世界の引っ込むとすぐさま両手を広げた。ねずみを一匹、連れてきたままだ。ねずみの耳と尾をつけて沢田綱吉はぐったりとしていた。
「おい。生きてるのか?」
軽く揺さぶると、ねずみの綱吉は薄目を開けた。
「ここはどこだろ? オレは?」
「君は沢田綱吉だ。その破片かもしれませんが」
骸の精神世界は木と湖で出来ている。清らかな風に吹かれて、ねずみの彼は不思議そうに鼻をひくひくさせた。そして言う。
「随分、きれいな世界なんだな」
「……それで? 沢田綱吉。君の本体がどうなっているか、わかるんですか? あの夢は?」
「あれは変なクスリ嗅がされて……。いきなり誰かにやられたんだ。元旦の朝に起きなくてずっと寝てる。そっか。オレは綱吉っていうんだね。じゃあ、みんなが心配してたのはオレなんだ。ずっと声がするけど、誰だかわからなくて……オレ、不安で。そっか」
安堵したように、ねずみは肩を下げる。
骸は逡巡した。どうやら、ボンゴレファミリーと敵対する誰かが仕掛けたトラップを自分が掻き回してしまったようだと理解したからだ。
(クスリ。眠り続けている)
症状を繰り返して、骸は容易に結論に達した。彼自身が幻覚を扱う分、この分野の精神攻撃には精通している。
(なるほど。睡眠下での意識を拡散させて――例えば百匹のネズミに分離させるなど――本体の意識を砕いて、覚醒を防いでいるのか……。なかなかやる相手だな)
ふと、視線を感じた。ねずみの綱吉が、手のひらの上から不安げに見上げていた。
「お前は、オレを知ってるんだね」
「まあ、一応ね」
「オレの友達なんだ?」
「……ええ」
骸は打算の意味でもって頷いた。ねずみの綱吉は縋るように両目を潤ませた。そして骸の薬指をがしりと両手で握り締めた。ねずみの耳と尾がふるふるしていた。
「お願い! オレを助けて」
つづく
2.
少年は黒く塗り潰された世界にいた。上下も左右もなく道しるべもない世界を、迷う素振りもなく直進する。少年の肩に腰掛けて、ねずみの耳と尾をつけたミニサイズの少年が不安げにきょろきょろとした。
「ここがオレの夢世界なの?」
「ですね。あのドア……、から出てきたんでしょう。この闇は。恐らく君は」
やや間を挟んで、骸は言い直すことにした。
「君たちは、直感的にあれが幻術の核だとわかっていたから近づかなかった。あのドアが開いて初めて悪夢が始まるんですよ」
考えながら口にして、まあ、大体はそれで正解だろうと骸も確信を強くする。と、前分けにした前髪の左側をツンと引かれた。ねずみの綱吉がブルーブラックの髪の毛を握って目を潤ませている。
「悪夢が、って、そんな世間話みたいに言うなよ。オレは死んじゃうの?!」
「覚醒できない状況に追いつめ、悪夢をトラップとして仕込んで、君の精神破壊を目論んでいる……というところでしょう。永遠の悪夢で中身を壊すという作戦なんでしょね」
冷静な分析に綱吉が立ち上がった。顔を真赤にして骸の髪を両手で引っ張る。いたい、と、六道骸がぼやいた。それでもねずみはグイグイ髪を引っ張ってくる。オッドアイで睨んだ。
「振り落としますよ?」
「おまえがドア開けたせいで綱吉が死んじゃうじゃないか!」
「ふ。意外と、僕は、その状況を喜んでるかもしれませんよ?」
「なっ?!」
ねずみの綱吉が絶句した。
骸はつんとして前を向くが、内情は自分でも把握しきれていなかった。ねずみの願いを聞く気になったのは、一連の精神攻撃の結果と効力を自分の目で確認したくなったからだ……。言い聞かせてみると納得した。まだ、助けると決めたワケではないのだ。
「行きましょうか。君以外の沢田綱吉は悪夢に囚われているでしょうから」
「おまえ、名前は……?」
「おや。今更、聞くんですか」
綱吉は下唇を噛んで目をそらす。骸の肩に腰掛けなおしてそっぽを向いた。骸は低く呟く。六道骸だと。綱吉は言った。
「本名を言えよ」
「――なんで偽名だと?」
「? 偽名だろ」
ねずみの綱吉が目をパチパチとさせる。
(このねずみも精神体だったか。僕の霊体を見てる?)
一瞬、オッドアイが躊躇いを浮かべたが、しかし六道骸は口角で嘲笑した。頷いて、肩に乗ったねずみ少年の頭頂部を人差し指でぐりぐりと捏ね回してやる。
「いたっ、たたたっ。チュッ!」
「くはは。偽名ですけど? 君には関係ないでしょう、そんなこと」
「そ。そうか? 骸でいいの? てっ、この! やめろーっ! ちゅー!」
小さいなりに威嚇してくるのを面白がって、ねずみの耳を引っかいてやると綱吉は如実に痛がった。両手で自分のねずみ耳を押さえて骸の後ろ襟首に隠れるようになる。それでようやく、骸は手を引っ込めた。
「ナメた態度しないで欲しいですね。今すぐ道を引き返しても、僕は、ぜんっぜん痛くも痒くもないんですよ」
「なんだよっ。オレの友達なんだろ!」
さてね、とばかりに肩を竦める。ねずみの綱吉は困惑してうめく。
「変なやつ。死体の名前がいいなんて」
オッドアイで少年を見返して、骸は一言だけ告げることにした。
「目に見えるものだけを信じては真実が紛れますよ」
「そうか? だってお前は生きてるぞ」
「体と心は、別――。さて。お出ましですね。沢田綱吉。そこにいると落ちますよ」
「?!」
骸は後ろに体を投げた。
真っ直ぐ進むのでまるで道があるように見えるが、実際は、縦横無尽に空間が伸びて重力もないのだ。骸は右手で虚空を掻いて得意の幻術を作り上げた。蓮のつると三叉槍。
「ちゅーっ!!」ねずみの綱吉は大慌てで骸のジャケットにしがみついた。潜り込むところを探して、胸ポケットに身をねじ込む。そのときには、骸の鼻先数十センチのところを赤い刃先が通っていた。宙返りの要領で距離を作って、骸は敵の姿を確認した。五メートルはあるかという赤鬼だった。
(仕掛けた幻術士はアジア系の人種か。あちらでの高名な幻術使いは――)
記憶にある名を一つ一つ取り上げ、鬼と斬り合いをする。程なくして腕の一本を蓮のつるで捻り落とした。オッドアイは素早く捻り口を確認した。
(血は、出ない)無重力空間でステップを踏みつつ、骸は勝利の予感に口角を吊り上げた。(幻覚は不完全っ)確信を持った。
(実力は僕が上だ!)
「待って!」
「!」
脳天目掛けて三叉槍を振りかざしたが、骸は体勢を崩して奈落に落ちた。胸ポケットからねずみの耳が覗いている。綱吉が顔を出した。
「声がする! オレの声だ。骸さん。あのお腹っ。お腹の中!」
「腹ァ?」
剣呑に呻いて、ハッとした。
消えたねずみの行方だ。悪夢に呑まれただけなら、この無重力空間で感知が効かないのはおかしい。躊躇いをスキと見て、赤鬼が残った左腕で六道骸の胴体を鷲掴みにした。
「あっ! 骸!」
ねずみの綱吉が叫ぶ。
衝撃で胸ポケットからはみ出ていた。
「――――っ!」両手は戒められてる。咄嗟に体を前に圧した。ねずみの尻尾を歯で咥える。その途端、ぐいっと上に持ち上げられて、ねずみそのものが骸の口に落ちてきた。
「ちゅー?!」
綱吉がばたばたと手足でもがいた。
瞬間的に算段をつけていた。骸はミニサイズの少年を咥え込むとしっかりと口を閉じた。暴れるので少々痛みが走る。口角からねずみの尾を垂らした姿のままで強く念じた。鬼が獲物を得たとばかりに腕を掲げて咆哮を響かせる。肌にびりびりときた。
(大人しくしろ! このまま行く!)
「ど、どこにーっ?!」
咥内からもごもご叫んでいるが。決まってるだろと胸中で罵倒した瞬間、鬼が大口を開けて、六道骸の右肩をぱくっと食べた。噛み砕いた。
*****
「うわーん! うわあああ!!」
泣声で意識を取り戻した。少年は目を開ける。片方の視界は赤く、片方の視界は青い。
「ごめーん! オレが変なこと頼むから! うわあああん、骸が死んだー!!」
やがて体が馴染んで、色覚異常のない世界が感知できた。黒い色をした無重力空間だ。六道骸がのそっと起きると、傍らで号泣していたねずみの綱吉が目を丸くした。
見詰め合うこと二秒。
ぢゃーっ!!! とそれまでにない金切り声をあげて、ねずみは彼方に向かって逃げ出そうとした。骸は尻尾を指で摘んで引き止める。
「待ちなさい。元から死んでないですから」
「うぎゃああああ! ゾンビィー!!」
「ここは精神世界ですよ? 気力が競り負けなければ再生も思いのままだ」
ねずみの綱吉は混乱に目尻を濡らして骸を見上げる。ようやく、漏らした一言は、骸を脱力させるのに充分だった。
「おまえ、タフなんだな?」
「身もフタもない言い方してくれますねええ。食の痛みにも耐える強靭な精神力、痛みの中でも我を失わない自制心――、もろもろとね、多大な才能が、必要なんですよ」
それはエストラーネオファミリーの扱う禁弾・憑依弾を使用するときにも必要な才能だ。骸は肩を竦めた。バラバラになったパーツを集めて無造作にくっつけていく。
「ひ、ひいいい?!」
綱吉は隅で丸くなって震えていた。ぐちゃぐちゃに噛み砕かれた体を再生し直すと、六道骸は仕切り直しだと言わんばかりに背伸びをした。ねずみの綱吉に向けて手招きもした。
「さ、体から血はとりました。行きますよ」
「ちゅ、ちゅー……」
物怖じする姿に、骸はいささか傷ついた。そんな気分がしたのが少し不思議ではあった。
「僕は恐いですか」
「うん」
綱吉は素直だった。
「お前、本当に、変だよ……」
「まあ、ね。さあ。君の破片を探すんでしょう」
(なんでこんなコト、言っているんだろう、僕は)
少しだけぼうっとしたが、その間にねずみは骸の足元に戻ってきた。靴によじ登って、手助けして欲しそうに懇願の眼差しを向けてくる。
「骸。ごめんな。無茶をさせて」
「…………」
「それで、また迷惑かけるけど、手を貸してもらっていい?」
ねずみの綱吉が両手を広げる。骸はくすりとした。
手のひらを差し出すと、ねずみの綱吉は人差し指を掴み、よじよじと手首まで昇る。肩まで手を動かしてやった。綱吉は喜んで骸の肩に移り、着席するとはぁっと安堵の息をつく。ブルーブラックの髪を一筋掴んで体を安定させた。
特に痛くはないが無感触でもない――軽い握り具合だ。眼球だけを伏せた。
(沢田綱吉っていうより、なんだか人の言葉を話す妙なペットを相手にしてる気分になりますね)
ふ、と、嘆息して骸は鬼の胃袋の探索を始めた。
つづく
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