輪廻の盟
ぺろりと唇が舐められた。
くすぐったくて気持ち悪くて。どかそうとした。
でも手が動かない。戦慄くだけで持ち上がらなかった。閉じた目蓋も開かない。
誰かの吐息が鼻に当たる。体が言うことを聞いてくれない。何もみえない。誰かにいいようにされてる。その実感だけが一人歩きしてる。それでも緊張や恐怖はない。ぼんやりと受け入れていた。
「君は僕の術中だ。ボンゴレ十代目」
額に体温の持った何かが触れる。
相変わらず、鼻に息がかかる。
「沢田綱吉。ツナ君とでも呼べばいいですか?」
すごい至近距離で話し掛けてるみたいだ。
ぶつかってる額にさらりとした感触も混じる。
きっと、目の前の誰かの髪の毛なんだろう。その人の手のひらが後頭部を撫でた。躾のよい猫を撫でるみたいに、ゆっくり、往復して何度も何度も撫で上げる。
「返事は……?」
唇が震える。
失笑が聞こえた。
耳元に体温が潜りこみ、耳朶が引かれた。
その誰かは、鼓膜を揺さぶるように。息を吹き込みながら語り直した。
「へ。ん。じ。お返事できませんか、ツナ君」
喉が渇いていた。これじゃ声だってろくにだせないだろうに。
でもヒクヒクと戦慄く。喋ろうとしてるみたいだ。これってオレの意思なのかな。わからない。
ただその人の声が心地いいこと。それをゆるりと自覚しはじめた。視界は未だに開かないし身体も動かないけど、要望に応えたいって願いだけが広がって脳を食い尽くしていく。
何か。何か大事なものが先にあったはず。でもわからない。
誰かが耳の内側を舐めた。入り込む舌と濡れた感触に肌が泡立つ。
誰だ。弾き飛ばしたい。オレに触らないで。喋りかけないで。ダメにされそうだ。
背中のシャツが引っ張られて、隙間から手のひらが入り込んでくる。
密着した体温。誰かがオレを抱きしめてる。声がものすごく気持ちいい。頭が痛いのに気持ちいい。触られるだけで燃えるように熱い。脱力した身体が引き上げられて、ふかふかしたものに横たえられた。クッションの山みたいなのが後頭部に……クッションの山。
そう、たしか、あいつが座ってたソファーには、山みたいにクッションが積まれてた。
あいつ? あいつって誰だろう。オレは何をしてるんだろう。
皆と一緒に。みんな?
皆ってだれだろう。
オレは誰だろう。わかんない。触る指先が気持ちい。
頭痛くて気持ち良くてぐちゃぐちゃになっててもうわかんなくて。はらはらと濡れたものが頬を伝う。顎から垂れるものが、すっと指に拭い取られた。わかんない。今、誰がいるの。なにがいるの。どうなって。オレは誰だっけ。誰か。助けて。怖いわかんなくて怖い、助けて、誰かいるなら助けて。
両の頬が挟まれて顔を上向きにされた。
気持ちい。触られるだけで頭の芯がパッと弾けて何も考えられなくなって怖いって思いも薄らいででもやっぱりわかんなくておぞましい誰だよこのひと。
「おやおや。困った人ですね。そこまで不安なら従えばいいんですよ」
「……」唇が。唇がうごいた。
「怖い……」
「そうですね、怖いでしょう」
優しく語る声。鼓膜が震えすぎて破れそう。
「今のツナ君はすべてから断絶されてる。自分自身からもね。世界で独りきりだ」
「たすけ……て。こわい。なかからおかしくなりそ……で。オレ」
「このまま精神を破壊されるか、それとも声に従うか。二択ですよ」
心底から愉しむみたいな。悦に染まった声。
「どうします?」
「怖い……。ねが、おいてかな……で」
ぎゅうと縛めが強くなる。喉を笑わせた音がした。
「喋れるようになったのは一部を預けたからですよ。そう、つまり僕にすべてを委ねれば君は動けるようになるし自分が何者かもわかる。さあ、契約です。返事をしてみせてください」
「け、やく。いやだ……。それも怖い」
脳のなかを占める。ちがう閉めてる。
絞めて閉めて占めようとしてる。声と肌の感触に埋め尽くされる。
他のもの全部がおいだされてく。オレ自身も外に放っぽられて残されたオレはどうすればいいかわからない。声がきこえる。脳に強い残像がある。誰かのシルエットだ。彼は手をさしだしていて。
『泣いても何も始まりませんよ』笑ってる。笑顔だ。見たことのあるかお。
どこで見たのかわからない。その人は笑う。
外でオレの身体を触って、すごく気持ちいい指の感触してるあの人と同じだろうか。声がそっくりだ。
『そう。僕は今、ツナ君に触ってるその人と同じです』
『わかるでしょう? この姿が見えるということはもう半分は僕に委ねてる』
『返事と従属を。外で交わしてください。ここでの言葉は無意味です』
頭の中で語りかける少年は鮮やかなブルーの髪をして色違えの瞳をしてる。
見たことがある。これとそっくりのひとを。
思い返すことができない。
オレのなかに蓄積されてるはずのものがなにもない。からっぽだ。
『推察通り。僕がここに入り込んだというのは、すべて出したということです』声が。思考に割り込んでくる。『従属とはそういうことですから』
『大丈夫、すべて委ねてくださればお返ししますよ……』
やめて。怖い。すごく怖い。オレがなくなりそうで。『もうなくなっているでしょう?』
「でもここにいる君はなくなっていない。さあ、返事を。ツナ君」
びりびりと脳みそが揺さぶられる。身体が戦慄く。痙攣が。
『もっと面白くしましょうよ。さあ。返事を』
「返事ですよ、ツナ君」
『返事を』
「返事」
最後はオレの声。
へんじ。二人の誰かが繰りかえすおなじことば頭に響いてこびりついてとれなくて痛くて気持ちよくて『返事を。その後については絶対の快楽を約束しますよ』いたずらっぽく何でそんなに嬉しそうに言うの。わからない誰だ『返事を。ツナ君』
「返事を。ツナ君」
「ろ、くどう」
『そうその調子。続きを』
「六道の糧にこの身体すべてを」
喉が。一人でに震えて知らない言葉を喋ってる。
「運命のともに盟約を……。付き従い輪廻を共に」
「付き従い輪廻を共に」誰かの声が末尾を捉えて繰り返す。
「魂の隷属を許すべし」付け加えられた言葉にドキリとした。
「た……」がくがくと身体が震えた。
脳じゃなくて心臓じゃなくてもっと深いとこで。
『どうしました。良い子ですよ。繰り返して』
「魂の隷属を……」
そう、たましい。
魂が叫んでる。それはだめだ、だってそれをしたら。
『今ごろ気がついても遅いですよ。繰り返して』
「…………っ」
頭にビリビリとくる。
声が気持ちよすぎて逆らうやり方もわからない。
もう。もう。もうむり。だってオレのなか空っぽでこの人しかいなくて。この人に縋るしかなくて『わかっているようですね。さあ繰り返して』
「魂の隷属を、許してください……」
目が開いた。脳に焼きついていたあの人の姿が掻き消えて、かわりに、オレを覗き込む六道骸本人が見える。骸の背後からライトが照り付けていた。
つぎへ
>>もどる