この世に純粋なる破滅と崇高たる死を、すべての魂に絶望を。生きるのは、天使とか、清らかな存在だけでいい。そんなものはこの世にはありえない、
だから、
要するに、全員死んでしまえ。

 

前. 聖夜

 

 



「ナンバー、13! 4時間の休憩だ、食って寝ておけ」
  言葉とともに放り投げられたのは、乾いた平たいパンとペットボトルだった。背が低く、ガリガリにやせ細った少年は白衣の男に突き飛ばされた勢いで床に転がっていた。うつ伏せになった状態で、顎だけをコンクリートの床に乗せて、ぎらぎらした眼差しを扉に向けている。
 左の瞳は青く澄んでいて、右の瞳は赤く淀んでいる。
  赤色の瞳、その網膜には数字が刻まれる。アジアで使われている漢数字で、六の文字。瞳をぐるりとまわって縫合の傷痕がある。少年は、歯軋りをして低く唸り声をたてた。
  白衣の男は、冷徹に彼を見下ろしながらポケットを漁った。
「……あと、これは特別だ。今日はクリスマスイブだからな」
 キャンディーが少年の目前に落ちた。
 赤と白のストライプが飴の表面に走り、透明な包み紙に入っている。
「次はうまく右目を扱ってみせろ。年明けもうまく適合できないなら貴様は用済みだ。肝に銘じておけ」
  言葉尻と一緒に、ギィイイと蝶番が軋みだす。扉が閉まると、室内には二重ガラスの窓から入り込む月明かりだけが灯火になった。両手足を伸ばして寝転がり、ごろごろと動けるほどに広い部屋だったが、少年ただ一人の今ではがらんどうで薄ら寒い印象だけが強くなる。
  数ヶ月前は、これと同じ部屋に数人の少年たちと一緒に押し込められていた。
  少年は、もとは借金のために売られた人間だ。それも生まれる前、子宮に宿る前から売られることが決まっていて、母親は彼を売るために産み落としたのだ。
  物覚えがついたころから実験に参加していたためか、はたまた、全てを達観したような諦めたような態度を取っていたのが気に入られたのか、――日に数回しか喋らない無愛想さを面白がられたのか。命に関わるような実験は無数にあったが、決定的なものには参加することがなかった。
  それが、今回はどうだろう。もはや少年も理解していた。
  この、右目。右の眼窟に埋め込まれたもののために、自分は『取って置かれていた』のだ。
 少年は床を這いずった。ペットボトルを掴むと、半分の水量を一挙に飲み干す。二日ほど、睡眠も与えられずに実験室のイスに縛られつづけた。体が干乾びそうだ。
「ァッ、……」がつがつとパンを平らげると、糸が切れたように倒れこんだ。
 そのまま眠りにつこうとして、視界にキャンディーが入った。
「…………」
(目が、あつい。同じ色をしてる)
  螺旋状に赤色が、飴玉の表面をぐるぐると巡っている。
  キャンディーがどれほど甘いかは知っている。先ほどの男が言っていたクリスマスの意味も知っている。前まで住んでいたタコ部屋には簡単なカードゲームや書物が置かれていた。
 凍るような眼差しは、やがて、うっすらと閉ざされていった。
(なにが。クリスマスだ。なにが、……神? 天使? ウソだ。祈りは僕をすくわない)
  うすうすと、わかっていた。自分の死期が近い。もとから期待はしていなかったが、それでも、それを自覚するのは苦痛だった。少年は歯軋りをした。
  その苦痛をもたらす人間に施されたものを受け取ろうとは、
(中途半端な慈悲か。くそくらえだ。死んでしまえ。こんな世の中、消えてしまえ!!)
 その可能性を考えただけで途方のない痛みがぶり返す。右目がうずうずとして、奇妙な熱を訴えていた。まるで知らない人間が突如として自分の最も奥深い部分を暴きにかかっているようだ。そうして、まるで、重なろうとでも――同化しようとするかのように、体を重ねてこようとしている。
  自分が自分でなくなるような、自分に対して感じる途方も無い拒否感。これが、死を自覚するということなのか。少年にはわからない。
(死ぬのか。こんな、眼球に喰われて死んでいくのか。死だけが僕にあたえられた救いなら。クソ。誰も彼も不幸になれ、死んでしまえ。死ねよ、とっとと死んじまえよ)
  少年は自らの体を抱いた。そうでもしないと、気が狂いそうになる。 腕の震えは、寒さに震えるものでもあったし、全身を巡る拒絶感のあらわれでもある。
「……なにが……、適合……」
  それが唯一の生きる道らしい。
  そのときだった。彼は、ぎくりとして上半身を飛び上がらせた。
「でぇっ! げほっ! ぶふっっ」
  火事かと思うほどの煙が、突如として室内に湧いた。同時に、人の声も。
  少年は研究所のほとんどの人間と知り合いであるが、知らない声だ。緊張に鳥肌をたて、二色の瞳を丸くする……、煙の中から転がり落ちた人影は、黒いスーツ姿でしきりに堰をこぼした。
「ランボ……っ、いー加減にリボーンにケンカ売るのやめろよっ! 勝てないって学習は犬でもできるんだぞ! ヒトがせっかく仕事して……、ホラ、オレってばサインの途中! ランボ!」
 薄い茶色の髪をした、背の高い男性だ。
  振り返った彼は、怒った顔をしていたが、二色の瞳と目が合うなり悲鳴をあげた。ぎょっとして後退りして、次には、頓狂な悲鳴をあげる。その手から、万年筆が落ちる。彼は、両膝からずり落ちかけていたひざ掛けを、怯えたように両手で握りしめた。
「なっ……?! だ、だれ?!」
「……――――?」
  少年は二色の瞳を細める。
  その仕草にピンときたのか、男性はハッとした。
「骸? 六道骸か?」
「! どうして僕の名前を知っている」
「でもちっちゃい……。一応、骸も居たっちゃ居たけど。でも何で骸の過去に……、ここに、子供のころのオレっていたの? もしかして」
 警戒に眉を顰め、黙り込むと、男性は困ったようにはにかんだ。
「あー。まあ、よく誤動作するから難しいことは考えないけどさ。 ……骸、すごい顔してるけど」
「触るな」ぎくりとしたように、骸が目を見開かせた。
  依然として困ったように、曖昧に微笑みながら男性が距離をつめる。
  立ち上がろうとして、しかし体が思うように動かない。中腰のままで固まった骸に、青年はくすりとして手を差し伸べた。
「君、何歳? ここはどこなのかな」
「…………?」
「どうみても……。えーと、オレが23歳だから、骸は13歳?」
 不審を瞳にたたえつつ、少年は首をふる。
「あれっ。確かにもっと下に見えるけど――。まあ、誤動作とはいえ十年バズーカだから、五分で戻るんだろうけどさ……。戻ったら整備させないとなぁ……、あ。そうそう。こんにちは、骸くん」
 青年は興味を隠しもせずにまじまじと骸を見下ろす。彼は右手から下げていたひざ掛けを広げた。ウール製で、上質で細やかな白色をしている。
 ぱちぱちと瞬きをしたあとで、綱吉と名乗った青年は天井を見上げた。
「もしかしてエストラネーオの研究所? ココがうわさの」
「――あなた、新しい研究員ですか。今、どこから入って……」
 尋ねかけて、しかし、骸は口を噤む。いや、扉から入ってきたワケがない。そうすれば、すぐにわかるはずだ。青年は唐突に煙に出現したのだとしか言えなかった。
「…………」(馬鹿らしいな)
  自分には手におえない現象だろう。
  あっさりと結論をだして、骸は差し出された手のひらを撥ね退けた。じ、と、視線を骸に戻していた綱吉が戸惑ったように眉根を寄せる。
「? なんか、リアクション薄いね。もっと驚いてもいいんじゃないの?」
「馬鹿らしい……」
 ため息まじりに呟いた少年に、青年が言葉を失う。
  しばらく、痩せた体とぼろぼろの白いシャツとを見つめた。どこか思案げな輝きを灯した瞳は、ゆっくりと細められて、しまいにはニコリと微笑んだ。
「骸、今日は聖なる夜なんだよ」
「何を言って?」
「オレが何言っても混乱するだろうし、時間もないからあまりよくないんだけど……。何よりあなたのこころなんて、オレにはいつもよくわかんないし。でもさ、これも何かの運命なんだろうって思わない? ほら、こっちにきなよ。その格好でこんな地下室にいたんじゃ、寒くてからだも頭もどうにかなっちゃいそうだよ」
  ひざ掛けをばさりと広げてみせる。青年の腰から靴先までを覆えるくらいなので、ひざ掛けといっても骸少年にしてみれば全身を包める大きさだ。
  歩み寄る綱吉に、骸はあかさらまに警戒して腰を落とした。
  いつでも拳を繰り出すことができる体制だ。
  綱吉が、それを笑みで制する。優しい笑みで、邪気は見当たらない。
  綱吉の笑いかたは母親が浮かべるものとも父親が浮かべるものとも違っていたが、しかし、近いものがある。包み込まれたような錯覚がして、骸は眉根を寄せた。そうしたものに触れた経験がないため、対処が遅れたのだ。
 背中にまわると、綱吉は広げたウールを骸の肩にかけた。
「…………君は、本当になんなんですか?」
  上目で、驚いたような顔をしながらも骸が問いかける。
  今度はその質問を抑えることができなかった。首をもたげたものが、好奇心なのか――胸の真ん中が酷く高鳴ったような、不思議な感覚がじんわりと指先にまで広がる。
「オレ? 沢田綱吉。みんなは、ツナって呼ぶよ」
  朗らかに青年が笑いかける。
  骸が黙り込んで見つめていると、彼は、ぽんぽんと頭を叩いてきた。慰めるような、励ますような、労わりに満ちた触り方だ。骸はわずかに体を振わせた。青年の指が思ったよりも心地いい。
「小さいころは誰でもカワイイもんなんだなぁ……。想像つかないもんだ」
  くすくす、思い出し笑いをするように綱吉が笑う。
  その足元を煙が包みこんだ。分厚い煙だ。なかば、放心するように青年を見上げていた骸は、下半身が完全に隠れた頃になって我に返った。
「どこに消えるんですか?」
 曖昧に微笑んで、綱吉は首を傾げた。
  かっ、としたように少年は目尻を吊り上げて質問を変えた。
「――あなたにはどこに行けばまた会えるんですか?」
「また?」
  いささか驚いた声だ。
  考えるように綱吉はナナメ上の天井を見つめる。肩にかけられた膝かけ、自分自身を包み込むほどの大きさのそれを両手で握りしめながら、骸は追い縋るように叫んだ。
「ツナヨシ! どこに――どこにいくんですか!!」
「……骸……、うん、だいじょうぶ。また会えるよ。必ず。この先の、道のどこかで」
 青年の全身から煙が噴出した。っぐ、と、うめいて骸が後退る。顔面に吹き付けた無臭の煙。それが晴れたあとには、目の前には誰もたっていなかった。骸は、一人で地下室のなかで仁王立ちになっていた。
(バケモノ?)咄嗟に浮かんだ言葉は、しかし、肩にかかった温もりが否定したような気がした。呆然としつつ、しながら、骸がうめく。
「また?」
  たしかに、『また』といった。
 知らず知らずのうちに右目を両手で抑えていた。
(研究所の人間でないなら、この先――そうだ、この先と言った。この先のどこかで。この、さき? 僕はいま、まさに死のうとしているのに。それでも、この先で――会えると?)
  鈍痛を伴って右の眼球が骨と肉と筋肉とのあいだに納まっている。それが。この目があるというのに、それでも、この先があるというのだろうか?
  そこまで考えてから、少年はハッとし窓を見上げた。
  月の明かりが薄くなったような気がした。どれほど、時間が経ったのだろう。睡眠を取り逃したことは、なぜだかどうでもよく思えた。辺りを見回し、転がったキャンディーを見つけた。
 球体が月明かりで鈍い銀色にひかる。静かに見下ろしたまま固まっていたが、やがて、腰を据えると包み紙を開けた。少しベタつく表面に、慎重にツメをたてる。
(バケモノでもなんでもいい。また……。また)
  会えるものなら。いつか、生きてこの場をでることができるなら。
  この頃の記憶はいささか不安定だ。単独で複数人の記憶が込められた右の眼球が、いろいろとちょっかいをかけてくることもあったし、調整と称して記憶を結合させられることもある。仮に適合ができたとしても、人格を保っていられるかどうかは未知数だろう。少年は、そこまで考えて瞼を閉じた。
(また会えるなら。あいたい)
  肩にかかったままの膝掛けから、知らない人間の匂いがする。
  まだ彼のぬくもりが残っているように見えた。先ほどまで、青年が立っていた場所を見つめながら骸は透明に近い声音でつぶやいた。
「化け物……、まぼろし、幽霊か、天使か。人間か」
(十年バズーカと言っていた)
  何か、ヒントになるだろうか。
  人差し指で慎重に飴に言葉を刻む。
  忘れないように、忘れてもすぐに思い出せるように。
「……――――」
  例えるなら、それが一番似合うように思えた。
  何者なのか見当がつかない。記憶をさぐり、確かめるように声にする。
「天使……、エンジェル……。さわだつなよし。十年バズーカ……、黒いスーツ」
 飴玉に無数の引っ掻き傷が走る。いつしか深呼吸を繰り返すようになりながら、少年はガクリとして膝をついた。体が震えている。縋るように、また包み直した飴玉を両手で握っていた。
(クリスマスなら。祈ることで、……どうにかなるなら。僕は、生きる。適合してみせる。掴み取ってやる、生きてやる。僕をここまでないがしろにした世界に復讐してやる)
両の握りこぶしがぶるぶると震える。骸は低く呟いた。
「僕の……。僕は……」
(あなたに祈りをかける。そうして、生きてみせる) 
 また会えるよ。必ず。その言葉が何度も反芻する。右目の痛みも、地下室を包み込む死臭も――何人の子供がこの部屋に閉じ込められたまま死んでいったのか、五十人を越した辺りで骸は数えるのをやめた――もはや、全て信じない。
  信じるものは一つだけでいいのだと自らに聞かせた。
  飴の隠し場所を捜しつつ、薄ら笑いで肩が揺れる。全てが憎い、憎いけれど。
(――僕は、あなただけを信じることにする)肩に被さったままの膝掛けが温もりを灯しはじめていた。骸自身の体温で暖まったはずだのに、なぜだか彼がやったことのように思える。
  呟いていた。姿の消えた彼に向けて。
「メリークリスマス。サワダツナヨシ」
  虚空に解けた祝福に、少年は満足げに小さく微笑んだ。
「僕の、天使」


stop.