※ 下品でえぐめの表現がいくつかあります。
※ 有害と思われる描写もあり 了承のうえスクロールしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薄まる呼吸


 脳裏でバチンと爆ぜる音がした。
 いやらしい舌なめずりしたのが腹立たしかった。
「やめろよ!!」思っていたよりも数段、鋭い声。
 教室に響いても、彼は眉根一本動かさない。耳鳴りが聞こえた。
「許さないからな。京子ちゃんには手をだすな!」
「ハハ。あなたにそういう反応されると、ますます弄くってみたくなりますね」
 首を振っても、口角を斜め上へと吊り上げるだけだ。まるでコレこそ望んだ反応だって言われてるみたいで寒気がしてくる。同じ言葉を話してるハズなのに、通じてる気がしない。
 オレより背が高いから、骸の襟首を掴むためには背伸びしなくちゃならなかった。
「絶対にダメだ。京子ちゃんに何かするなんて筋違いだ。狂ってる」
「そう、そうしたら君が不幸になりますね。僕はその姿が見たくて堪らないんですよね。最近は、監視のある身なもので、遊ぶ材料も調達できずに退屈なんですよ」
 骸は並盛の制服で身を包んでいた。霧の守護者として並盛にやってきて、上学年の生徒として過ごすようになってから一週間が経ったか。
 一人で居残り掃除をしていた。
 獄寺くんと山本がいなくて、あれよあれよと言う間に班全員が急用を思い出したのだ。ていよく押し付けられた、そんな表現がピッタリだ。
 窓辺に影がある。オレが気がつくと、骸は室内に入ってきた。そして言ったのだ。
 夕日の逆光を受けながら骸が腕を伸ばしてきた。するするとした動きは目的がないようにも見える、肩口へと辿り付いた。手のひらを使って揉むように撫でてから、顎を親指で掬い上げてくる。
 すぅっ、と、色の違う両目が細くなって唇が笑みを消した。
「君が、僕の相手をしますか? それでも構いませんよ」
「バカなこと言わないでよ……」
 少年は肩を竦めた。指が離れていく。
「そういうことを言うしね。さて、彼女はいかほどのうつわかな」
「――――」ぺろり。見せつけるように、手袋の上から人差し指を舐めてみせる。
 甘ったるさと猥雑さが同居した仕草だった。
 ゾクゾクとした悪寒と体の芯から湧き起こる嫌悪感。目眩に似たものを覚えたけど、首を振って追い払った。楽しげに笑って、骸は人差し指の腹でオレの鼻頭を撫でた。
 唾液が塗りつけられたばかりだ、小突かれる度に滑った感触がした。
「触ん……ッ、な! 変態!」
「ここしばらく、君たちを観察してたんですけどね」
 くすくすと声がする。彼の振り払おうにも、瞳が放つ存在感が許してくれない。
「君はまだ想いを告げていない」
「……、趣味が悪いんじゃんか。放っておいてよ」
「君は、彼女の身体に触れるなど夢のまた向こう。わたしが何をしようが、正確には口出しできる権限などない。これは真実だろう?」
 反論はできない。そう、確かに事実だ。
 オレはひっそり京子ちゃんが好きなだけ。
 骸が本気で京子ちゃんが好きなら、手を出すなとか許せないとかは言えない。でも、そんな可能性は絶対にないと断言できる。これはイヤガラセなんだ。
 黙りこんで足元を睨みつける以外に、どう反応すればいいのかわからなかった。それをどう思ったのか。襟首を掴んだままのオレの手に、黒い手袋に包んだ五指が重ねられた。
「そう。君のそういう顔。その苦悩。見ていて気持ちいいですよ」
「おまえさ……、ダメだよ。オレに恨みがあっても京子ちゃんには関係がない。彼女が傷つくってだけでオレがおまえを止める理由はあるよ。絶対にやめろよ」
 ニッ。斜に笑って首を傾がせる。猫撫で声だ。
「沢田くんの、その怒った声も。掠れていて色っぽくて。好きです」
「ふざけるな! ヒトの話を聞く気があんのか?!」
「ええ。もちろん?」
 遊ぶみたいな声だ。
 埒があきそうもなかった。首を振った。
「この話はもう終わりだからなっ。京子ちゃんのことは忘れて!」
 襟首を揺すってもビクともしていない。骸はまっすぐ二本足で立ってる。
 黒と青の中間にあるような彼の頭髪は、今は赤に色を変えている。焼けた光が教室を満たして、机とイスとの間に無数の影を産み落としていた。オッドアイは思案しながら細くなっていった。
「そうですね……、じゃあ、こうしましょう」
 にこりとして、骸が鼻先まで拳を持ってきた。
「僕に勝てたらやめてあげます」
「……――?!」
 歯を食い縛るあいだもない。
 左のこめかみに熱の塊を感じた。すぐさま、破裂する。
 植木鉢を叩きつけられたみたいだった。熱のカケラは目蓋のウラまで飛んできて、そのまま脳みその裏側まで突き抜ける。赤色の閃光が飛び散る。
 床にリバウンドしてから、反射的に体を丸めていた。
 意識した動作じゃない。腹を抱えこんで数秒経って、ようやく殴られたのだと理解した。
「特別に右目の能力は使わないでいてあげよう。フィフティフィフティでしょう?」
 彼は一歩も動いていない。たった今、オレに叩きつけただろう拳には指輪が光り輝いている。
 視線に気がついて、骸はこれ見よがしに宝玉に口づけた。
「お、まえ……っ、何を考えて」
「処罰は覚悟の上ですとも」
 宝玉を舌先でねぶり、骸が口角を吊らせた。
「何を考えた? そうですね。君が必死なのを見ていて、殴りたくなったと、これが妥当なところですよ」
 六道骸に言葉は通じるのだろうか? 本気で、本気でこんなことを考えている。その事実が薄ら寒く、それ以上に目の前の少年が気味悪く。……恐ろしい。
 全身が震え始めていた。
 口に溜まっていた血液を吐きだす。別のものを吐きたい衝動もあった。
「おやおや。切っちゃったんですか。かわいそうに」
 パキパキと指を鳴らしながら言う台詞じゃあない。
 きれいに決まった一撃は、まだ目眩として体内に残ってる。
 無理やり、両足に力をこめた。こんな場面だっていうのに、京子ちゃんの笑顔が脳裏にチラついていた。
 彼女が蹂躙されるだなんて許せない。お兄さんが思い浮かんだ。この人だって悲しむ、皆が悲しむんだ。それに、それに何より、わかっていた。
「こ……っ、のやろう!」
 ここで逃げるワケにはいかない。
 オレが逃げたら、絶対に京子ちゃんに手をだす。骸はそういうヤツだ!
「あんたのこと苦手だけど、嫌いにはならないようにしようってずっと思ってた。でも、もう自信ないよ。オレあんたにどんなコト言えばいいのか少しも見当がつかない!」
「ああ……。僕も、ずっと君と仲良くなりたいと思ってますが」
「それでどうしてこうなるんだよ?!」
「さあ。わかりませんね」
 本気で言ってるのか?
 問い掛けて、やめた。もはや意味がない!
 駆け出しながら、京子ちゃんのお兄さんに教えてもらったものを思い返していた。硬く握って、拳を胸元まで引き寄せる。懐にもぐりこんで、上目掛けて拳を突きだす、――手応えがあった。
 目を丸くすれば、拳は骸の腹に食い込んでいた。
 でも硬い。筋肉にぶつかって、奥まで殴りつけてはいない。
 それどころか腕が痛かった。当たり前といえば当たり前だ。ケンカなんかし慣れてないんだから、ヒトを殴るなんてことをできるわけが……。オレの拳をめりこませたまま、骸がくつくつと笑いだした。
「ほらね。届いてないんですよ」
 愉悦とも悲哀ともつかない光が灯っていた。
 左右で色の違う瞳が細められていく。
「ぜんぜん、僕のところまで。君だって悪いと思いますよ、どうしてココまで来れないんですか」
 そんなに細くしたら、オレだって見えないんじゃないかってくらいに細く――。
 数秒だったと思う。背後に下がったと、それが見えた途端に肘で額を打たれていた。
 体が宙に浮いた。掃除のために、前に寄せておいた机とイスの群れに背中から落ちた。崩落が起きる。倒れた上に、さらにイスが落ちてきた。咄嗟に腕で顔を庇ったけど、悲鳴が抑えられなかった。
 崩落が収まって、でも動けなくてグッタリしていると足音が聞こえてくる。
 骸は、しっかりと後頭部を掴んで、自分の目線までオレの体を持ち上げた。
 まるでサンドバックだ。
 何度となく胴を打たれ頬を打たれ、思考すらまともにできなくなった頃、笑い声が響きわたった。骸、しか、いないはず。掠れていて、興奮に濡れていて、狂ったような発声の仕方だった。
 肩で呼吸をしながら、骸は襟首だけを掴みあげた。
 襟首に掴みかかったと言ったほうが近い。
 人の呼吸、気配。骸の顔がすぐ近くにあるようだった。右頬が熱く腫れ上がっていて、目を開けるのもつらい。震えた声が聞こえた。
「もう終わりですか、いいんですかあの女をレイプしますよ。僕を放っていいんですか?」
 首が絞まっていく。骸が叫ぶ。
「何か言ったらどうですか!」
「――――……だ、いきら、だ」
 オッドアイが、一瞬だけ驚いた。
「ゆるせないし、大嫌い、だ。京子ちゃんには――」
 表情の抜け落ちた横顔に不安を駆られたが、固唾を飲んで言葉を繋げようとした。
 けれども、骸はすばやく辺りを見回して、片手をオレの襟首を掴んだまま歩きだした。ずるずる引き摺られながら両足を踏ん張らせようとしたけど、ダメだ。逆らいきれない。
 骸が足を止める。振り返らない彼を見上げて、言葉を失った。
 二メートルほどのロッカーが、目の前にあった。
 扉を開け放ち、当たり前のように襟首を引っ張りあげる――、
 動かないと思っていたはずの手足が、独りでに跳ねた。
「やっ。な、何する気だよ?! やめろ!」
「折檻するには最適の場所と思いますが」
「なっ?! ヤッ――」
 背中が、アルミ製の壁に叩き付けられた。
 長方形で、縦に細長くてジメジメしていてホコリっぽくて薄暗い場所だった。モップやホウキを押しのけて、ぐいぐいと背中を奥まで押し入れようとする。骸はニヤリと笑った。
「君に相応しい場所じゃないか。マフィアのボスなんて社会のゴミには勿体無いくらいの入物だ」
「ざけん……なっ、よ。でる! ここから出るっ!」
「おっと」
 顔面に五指が伸びる。
 そのまま、頭のてっぺんをアルミの壁にぶつけられた。
 ぐわんとした音と熱と光とが頭で飛び散ってる、情けなさと恐怖で涙がでそうだ。
「やめ、て……っ。やめて! やめてよ?! やめてえっ!」
 骸が微笑んで後退した。教室に散らばっていたモップを拾い、さらに押し入れてくる。鳥肌がたった、胃袋がせりあがって吐き気がして目眩がして喉が引き攣って絶叫をあげそうだった。
「夜になったら迎えにきてあげますよ」
 動けなくなったオレを見下ろす瞳がふたつ。
 そして、扉が閉められた。全身が粟立った。心臓が破れんばかりに脈動している。
 おそるおそると内側から戸を押しても動かない。
 叩いても反応がない。夜まで。夜まで?
 夜まで、放置する気だろうか。こんな狭苦しいロッカーの中に一人で放っぽって。
 わずかなスキマから夕日が差し込む。縋り付いても意味なんかなかった。ツメをたててもスキマに指が潜り込まない。ガタガタと扉の向こうから机を動かすような音がする。
 扉が。塞がれているのだ。
「骸さん!! いるんでしょ?!」
 暗い。よくわからないキナ臭い。
 何か、虫でも詰まっていそうな雰囲気だった。見たことのない場所だった。今までに入ったことのない空間だった。昔、トイレの個室に閉じ込められたことが一度だけあったけど、それよりも怖い。
 取り囲んだ暗闇が首に手を伸ばすようだ。絞め殺されるような錯覚が。錯覚が。
「ねえっ。骸さああああん!!!」
 戸を叩くたびに強く反響する。
 頭がおかしくなりそう。耳鳴りが酷くて呼吸もままならない。
「だっ……」膝がガクガクとしている。もう扉はビクともしない。音も聞こえない。そこにいるかどうかも、わからない。彼の姿を必死になって思い浮かべていた。
「だしてえぇ――――っっっ!!」


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