ギ。
と、扉が軋んだ。
仄かな物音が続く。机を引き摺るような。
弛緩しきった指先がピクリと蠢いた。血が流れ出して、もうそれも乾いたけれど、感覚はなかった。戸を叩きすぎて両手とも真っ赤に染まっていた。暗すぎて見えないけれど、匂いでわかる。
ロッカーの戸が開き、瞬間に感じたのは恐怖だった。
歓喜なんてない。教室はただ暗くて、すっかり夜がふけていて、開け放ったのが骸であるかどうかもわからなかった。
体を竦めたままでいると、頬に指が引っかけられた。
「む、骸さんだよ……ね?」
震えが。震えが止まらない。
叫びつかれた喉はしわがれた声音をひりだす。
鼻で笑う音がした。ロッカーの外からだ。頬を撫でる指が目尻まで這い上がる。すでに涙も乾いていた。茫然自失になってから何時間が経過したのか知らない。
ひどい気分だ。お腹はすいたし寒かったし、学校のどこかで物音がするたびに悲鳴を堪えていた。まるで刑務所にいれられた囚人か。誰かが自分を追いかけてくるような妄想を、ゆめに、みた。彼が言った。
「僕の名前……、どうして、一時間だけで呼ばなくなったんですか?」
影が身を乗り出して、自らもロッカーに上半身を突っ込んだ。
邪魔なモップとホウキとを張り飛ばす。ガラガラと大きな音をたてて床板を滑っていった。
「君を救ってあげられるのは僕だけですよ……?」
目の前から呼吸を感じる。骸さんはそこにいるのだ。
ふっと湧き起こった思考は甘美なものだった。彼の暗闇にすべて預けるのは、この腐臭じみた暗闇よりもマシに思える。冷えた体にとって、手袋ごしとはいえ暖かい骸の体温は恋しかった。
「沢田。沢田綱吉。覚悟は決まったんですか」
「……、京子ちゃんに、手、ださない……」
舌を噛みかけた。ぴりぴりしたものが全身を走ってる。
頬にかかるものとは、別の指が、腿を這いずる。
腰を抱え込んで持ち上げ、自らの膝の上に乗せる。まるで、まな板に乗せられた気分だ。アルミの壁に背中でよりかかって、ずるずると落ちていく後頭部を感じた。
「わかってるんでしょう? 返答次第ですよ」
顎に当たるものがある。骸の顎。
よっぽどの近距離に顔があるんだろう、息遣いが聞こえる。
あたたかいハズなのに。今度は、触れられた個所から熱が奪われていく心地がした。
「っ、あ――」腫れあがった右頬を撫でられていた。喉も疲れ果てて悲鳴がでない。
「僕に勝てないなら、それでも止めさせたいなら、方法はひとつでしょう」
「……、お、れっ。を、スキにすれば……、いいじゃないで、す、か」
――、くっ。笑い声。そう。
笑えるなら笑いたい、オレも。
ロッカーの壁に押し付けられながら、煤けた匂いと夜の冷気とに犯されながら、骸の口づけを受け入れていた。口のなかは既に大量に切り傷をこしらえている。
ひとつひとつを辿るように、抉るようにして。喉の奥まで舌が伸びてくる。
げっ、と、惨めったらしい泣き声に笑う気配が届いた。
「ツナ。そう呼べばいいですか? 退屈しのぎですからね、遊びには専用の名前をあげた方が楽しめるでしょう……」骸の舌がでていくと、血の芳香がロッカー内部に広がった。
傷口が広がったのだ。骸の影がようやく見え始めていた……。
ガラスの向こうで三日月が横たわる。首筋に噛み付かれていた。
オレの視線に気がついて、骸は両足を伸ばして立ち上がった。腰を抱えられたままだった。両足が宙に浮いて、腰を擦りあわせた格好になって骸とロッカーとに挟まれていた。
ぶらぶらと揺れる片足が見える。自分の体なのにオモチャみたいだった。
「なんだか、カエルの解剖でもしてる気分になってきました」
後ろ手にロッカーの戸を閉めて、骸が興奮した呻き声を洩らす。
冷めた壁に、浮いたままの両足がぶつかった。狭い。体が密着する。
「は、ははは。くははっ、聞いてあげますよ……。君の守護者ですから。ツナ、どこから解剖してほしいですか。望んだとおりにやってあげますよ。またそんな目で僕を見るんですから君は」
壊れていきそうな気がした。何もかも。抱かれて、押し付けられた腰が熱い。
全部が冷えてるのに。失った体温は、もしかしたら、二度と戻ってこないかもしれない。売り渡したものは戻ってこないのだ。枯れたはずなのに。涙がでていた。
彼女に伝えたい言葉が胸に沸くのだ。
オレは弱いけど。こんなことしかできないけど。
でもそれでも彼女を守れたっていうなら、少しは誇っていいんだろうか……。涙がでる。喉がひくひくとする。誇っていいわけがない。京子ちゃんにだっていい迷惑だ。
くだらない弱いだけのグズが何やろうとしても無駄だったんだ。
骸も最低だけど、最低なのはオレも一緒だったんだ。
「ツナ。胸の切開から始めちゃいますよ……?」
遊ぶみたいな声。前髪の付け根を辿る唇。
「う……」
いらない。この涙が。
勝手に考えつづけるこの思考も。全て投げ出してしまえたら楽だ。突き落とされて、這い上がる気力すらもなくなってしまえば楽になる。いっそ手荒くしてほしかった。
「……あ、たま、から。わって……」
おや。骸が唇をめくらせる。
が、彼は何も言わずに再び口づけた。
めちゃくちゃどんぞこな気分だからかもしれない、刹那に見せた微笑みが、今までに見たどの微笑みよりも嬉しげで、まるきり普通の少年で、初めて骸が人間らしく見えた。
暗闇がみせた錯覚にしても酷い。
人をここまで突き堕としておいて、しあわせ感じられるわけがないだろうに。
十分、二十分と唇を重ねられるうちに、ほんとうに、あたまが真っ白になっていった。
おわり