零に触れる
(天濫・群青・空孵)



 
「チュラシー? オーケー?」
「あー、えーと、ツナヨシ。ツ・ナ・ヨ・シ」
 冷や汗を浮かべつつ、綱吉は自らを指差した。伸ばした襟足はゴムで束ね、すらっとしたコートに身を包んでいた。似合わないイエローサングラスは変装のためにつけている。
 田舎町の物資配給を一手に担うような大型スーパーだった。
 小さな詰所で、従業員と向かい合って座りつつ、綱吉は迎えがくるのをひたすらに待っていた。
「……チュナヨシ?」
「イエス!」
 従業員はエプロンの下にキャミソールをつけていた。Dカップはあろうかという豊満な二胸をテーブルに載せて、気だるげにペン先を走らせてメモを取る。紫のアイラインは、褐色の肌に映えて美しかった。
(な、なんか見えそうなんだけど……)胸の谷間まではバッチリ見える。寧ろその頂にあるものまで見えそうだ。綱吉は耳を赤くして、申し訳のない顔で従業員を窺った。
 青年から滲みでるテレの気配は従業員にも伝わるらしい。彼女は、微笑んで振り返った。
「…………っ?」
 ゴク、と、固唾を呑んだ。
  間近に胸の谷間がある――、ペディキュアのついた指先は、鬱蒼と自らの唇を指差した。
 グロスで艶めく唇で、従業員は自らの名前を告げた。
「キャルラ。オーケー?」
「へっ? あ。オーケー……」
 問答無用で腕を組まされ、ぐいぐいと胸を押し付けられた。綱吉は言葉を失う。かといって下を見るわけにもいかない――、イタリアンマフィアのボスにまでなったが、特殊な事情を抱え込んでいたために女性経験は豊富ではなかった。女性とベッドを共にしたことがない。距離を作ろうとすると、女はそうはさせないとばかりに腕を引っ張った。
「チュナヨシ?」鼻にかかった、甘ったるい言い方だ。
  綱吉は喉の渇きを覚えずにはいられなかった。
「あ、ちょっと、そんな。あっ、あっ。や、そんなにっ、柔らかっ――て、あああ、やめてくださいぃっ」
 二十歳を過ぎた美丈夫が真っ赤になって拒否してくるのは楽しいらしい。美女はニヤニヤとしてフウッと耳に吐息を噴きつけた。
 ひぃいいっ。
  喉で悲鳴をあげると共に従業員を引っぺがした――、と、音でも立てるほどの勢いで綱吉は硬直した。
 詰所の前で、紙袋を抱えた青年が立っていた。
 彼こそ、元・ボンゴレ十代目こと沢田綱吉が女性経験を持つには至らなかった直接の原因であるが。そんなことは、この場では大した意味がない。
 サングラスをつけ、長く伸びた襟足を肩に掛けている。コートの襟首についたフェイクファーがちょっとファンシーに彼を彩っていたが、そんなファンシーささえぶち壊しにするような冷笑が唇を彩っていた。
「……い、いつから居たの?」
 綱吉は目の前の美女を抱き寄せた。
 アン、と、驚きつつも甘えた声があがったが、そんな場合ではない。相手は六道骸だ。彼の頭の中ではこの女性を殺す計画を立てているに違いなかった。サングラスのせいで視線は隠されていたが、骸は押し殺した声で告げた。
「二時間ほど探した。アナウンスもないからどこにいるか全然わからなかった」
 いつもの敬語が無い。一切の感情も無い物言いだ。
(か、かなり、怒ってる……)ヒヤりとしつつ、綱吉は抱いた美女をさらに強く抱きしめた。相手の身の安全というより、恐怖のためには抱きつかないではいれなかったのだ、が。サングラス越しでも骸が両目を細めたのが見えた。
「…………」ふぁっく、ゆー。
  か細く呟かれた言葉も、確かに聞こえた……。



 沢田綱吉と六道骸、二人がヨーロッパの田舎町にやってきてから一ヶ月が経った。現在の住まいに腰を落ち着けてからは二週間。
 骸の発言に驚いた店員が騒ぎだすのは、まあ、当然の反応だった。二人は転がるようにスーパーを後にした。レンタルカーに綱吉が乗車すると間もなく、断わりなく車体が動き出した。
「うわっ」慌てて、綱吉は座席に座りなおした。横目で骸を見るが、彼は眉間に皺を作るだけで文句は言わなかった。
(あ、意外とそんな大嵐にはならないかも)と思った綱吉だが、二軒目の大型量販店で買い物をするに至ってようやく間違いだと気付いた。既に相手はしかけてきている。
「骸さん、これ……、買ってもいい? 骸さん」
「…………」カートを押しながら骸は知らん顔をしていた。
 洗剤を手にとって、裏の表示を読み始める。
 綱吉は生唾を飲み込んだ。予感が確信になろうとしている。青年二人はしばし無言のまま、互いが手にした洗剤をジィと見下ろした。
(骸がオレを無視する、って、いうと――)
 実際、それはかなりの有効手段だ。言葉も通じない異国の地、さらには逃亡者という身分。一切のお財布事情も相手の手中だ。骸に無視をされてしまえば、綱吉は完全に孤立してしまう。
 ぞく、と、怖気が走った。綱吉は二度目のチャレンジを試みた。
「ねえ、手洗いしたいんだ。ホラ、日本じゃ外に洗濯物干す習慣があるの知ってるだろ? あれ、やりたい。一回づつのパックになってないやつが――」
「…………」青年は冷徹な眼差しをチラりとだけ送ってくる。
 そして、応えないままで踵を返した。カラカラとカートの車輪が音を立てる。
「む、骸さーんー……」
 綱吉が弱り果てた声で呼びかけた。
 が、やはり無視だ。くそう。思わず内心でうめきつつ、洗剤を棚に戻した。
 釈然としなかった。時折り、骸が仕置きじみた振る舞いをすることはあったが、今回はそれほど自分に非がないではないか。そりゃ迷子になったのは綱吉に責任はあるが。
(でも無視って。子どもじゃないんだから!)
「骸さんっ。怒ってるなら口でいえばいいじゃないですか!」
 店を出る前に、綱吉は骸の肩を掴もうとした。
「!」が。相手のが実力的には上である。
 彼は掴まれる前に綱吉の手首を掴み返した。ギリッと即座に骨が軋むほどの力を加えてくる。紙袋に購入品を入れ替えていた途中だった。
「……口で?」
 いつもよりも圧倒的に低い声で、骸。
「あ、……そ、その」綱吉の口角が引き攣った。眉間にありありと皺を作った憤怒の形相がある。骸は、ゆっくりと自らの両眼を隠していたサングラスを外した。
 ベキリッ。無残に、へし折ってから綱吉の手に渡した。
「あげます。今の僕の気持ち」
「あ、……うん」
 なんとなく受け取ってから、綱吉は額に脂汗を光らせた。声帯を震わせつつ、告げる。
「……やっぱり、あの、収まるまで黙っててもらっていいかな?」
「そうします」振り返らないまま、骸は顎だけで頷いた。
 オッドアイは忌々しげに歪められ、今にも人を呪い殺しそうな目つきをしていた。
 こ、これは。相当頭にキテいる。
 先に車に行ってる、と、口早に告げると綱吉は自分の両手を塞ぐ分の荷物をまとめて店をでた。――しかし、冷静になってみれば車のキーを持っているのも骸だ。
 パーキングエリアに並べられたベンツの一つに腰かけ、綱吉は大きくため息を吐いた。彼が自分勝手だとかワガママだとか非道だとか、そんな問題は今更過ぎるのでぶり返すまでもない。ただ嵐が過ぎるのを待つだけだ。あまり考えたくないが、
(多分、今夜酷い目にあって終わりだろうな……。ついに刺されなきゃいいけど)
 たまに骸はナイフを携帯したままベッドに上がるので、注意が必要だ。フゥ。鼻腔でため息をついて、辺りを見渡した。遠くに山々が連なっているのが見える。雲はまばらだった。
 ――と、綱吉は眉根を寄せた。パーキングエリアの片隅にワゴン車が止まっている。見事な緑色だ。
 買い物袋を抱えたまま近寄ると、それは花屋だった。
 老人が古びたパイプ椅子に座り、膝の上で雑誌を広げている。
 ふうん、と、さしたる興味もなく綱吉はワゴン車のてっ辺から車輪までを見回した。かつて、ボンゴレ十代目として――、皆に囲まれていた頃には。
(花とか、プレゼントする機会もあったけど――)心臓が、バクンと鼓動した。犯した罪を後悔しろと、誘うように痛みを伴って跳ね上がる。
 冷や汗が浮かんだ。綱吉が俯く。まさか、骸が花をあげた程度でごまかされるとは思えなかった。寧ろ彼なら余計に怒ることすらあり得る。できるだけ、女性的なものを連想させるような演出は避けるべきだ。
 自分の靴先に見入ってしばらくすると呼吸が穏やかになった。綱吉は肩を落胆させる。踵を返そうとして、そこで、車輪の傍に置かれた小鉢に気がついた。
 サボテンだった。根本は細く、先端がぷっくりと丸い。
 売れ残りのようだが、それはサボテンであるからこそまだ生存しているようだった。鉢には泥がこびりつき、緑も褪せていた。茶色く変色した部分すらある。
(打ち捨てられてボロボロ、枯れる寸前……か。何だか似てるかも。オレに。……あるいは骸さんに?)まぁ、もっとも自分たちは捨てた側だが。自嘲気味に胸中で呟いて、買い物袋を下ろす。ポケットを漁れば、まだ小銭があった。綱吉はサボテンに声をかけた。
「おまえ、オレんとこに来る?」
 ――数時間後、やはり骸とは会話がないままだったが、二人はすべての購入品を収納し終えた。さっそく、綱吉は裏庭を目指した。
 現在の住屋は庭付きの一軒屋だ。
 といっても、数年間も住む者がいなかったらしく、うらぶれている。庭も雑草が伸び放題だ。骸は、隣人の家までに数十メートルの距離がある、ということでこの家を選んだらしかった。
「よし。ここなら日が当たるね」
 裏庭には、最初から木製のテーブルが置いてあった。サボテンは夕焼けを浴びながら丸くなっていた。
 うんうん。なかなかシックリとくる。
「今、水あげるよ」
 微笑ましい気持ちになりつつ、綱吉は玄関に戻った。
 ジョウロはないがコップで代用できるだろう。台所には先客がいた。相手が泥棒とか強盗とか、そういったものでない限り姿を確認する前に誰だかわかる。
 六道骸は夕食の準備を始めようとしていた。
「…………」室内の暖房をつけたため、黒い半袖に迷彩柄のスラックスをあわせた姿だ。綱吉はコートを着たままである。何か、推し測るように綱吉の靴先から頭までを見ると骸は包丁を握り直した。
(な、なんか今の状況でそういうの持たれると怖いんだけど)
 そろりと後ろを通る。が。コップを持ち出したところで骸が綱吉を振り返った。包丁の煌めきが見えて、ギクリと動きを止めていた。――そのスキを縫ったような動きだった。
 懐に入り込んだ青年は、するりと両手を耳の裏にまで潜り込ませてくる。ガチャッ、綱吉の手からコップが滑り落ちた。
「むっ……?! んんっ!!」
 ダンッ。後頭部が壁と衝突した。
 ぬめりを纏ったものが唇を割った。舌を咥内で一周させると、先っぽを若干に尖らせてさらに咽喉の奥を舐め回してくる。
「ぐうっ……」苦しさに耐えかねていた。
(まさか、このままここで抱くつもりじゃ――)
 綱吉の両手は無意識の内に骸を引き剥がしにかかった。剥き出しの腕を掴んで突っぱねる。彼は、その抵抗を容認した。濡れそぼった唇を舐め拭きながら、脱兎のごとく素早さでコップを拾う綱吉を見下ろす。推し測るような視線だ。
「でかけるんですか」
 おまけに声には抑揚がない。
 肩でぜえぜえといわせつつ、綱吉は信じられないように骸を見返す。ショックの余韻で呆けた声が出た。
「すぐ戻るから」
「どこに」
「す、すぐ近く……」
 眉根が剣呑になった。何かを言いかけるように唇が薄っすらと開く。
 ――危険信号だ。即座に踵を返した。
「綱吉くん。今日を君にとっての厄日にしてあげてもいいんですよ」
(脅迫かそれは――――っっ!!)
 実に五時間ぶりの会話だったが余計に疲れた。
 サボテンの前に戻りつつ、綱吉はホロリと涙を忍ばせた。水を頭から浴びて、サボテンは夜露のような神秘的な光をトゲ先に乗せていた。
 つついてみると、トゲがチクチクと指の腹を押してくる。
 まるで返事をするようだ。長いこと、骸以外に話し相手がいなかった身だ。それにサボテンの全身を包んだこのトゲ。どこか、日本で同居していた頃の六道骸を連想させる。
「骸さん……、じゃあ、そのままだな」
(それにさすがにろくに相手して貰えないからってアイツの名前つけるのは癪だな)
 雲で薄められていたが、辺りは月明かりで白く発光していた。綱吉はポンと自らの膝を叩いた。
「サボテンのテンちゃんって名前にしようか!」
 ぷにぷに、トゲの少ない付け根を突付いてみる。綱吉はニッコリとして繰り返した。
「テンちゃん、よろしく」



 綱吉の予想を裏切って、その夜、骸はベッドにやってこなかった。シャワーを浴びた後で外出したのだ。一抹の不安を覚えたので、
「骸さん、まさか、キャルラに報復しに行ったりしてないよね……」
 朝食の席、綱吉は尋ねてみることにした。本気で恐ろしかったので自信のない声になった。向かいのテーブルに座っていた彼はトーストを齧る手を止めた。
「キャルラって誰ですか」
「あ?!」
 悲鳴には濁音がついた。
 そういえば、と、思い返す。骸はあの女性の名前を聞いてはいなかった。
(しまった。やぶへびだ……!)
「え、えーと、大したことじゃない……、あ、ああっ。テレビの人! そういう女優さんいなかった?!」
「…………」骸は頬杖をついた。
 さも、疑ってます、という顔で綱吉を睨みつつ食事を再開させる。冷や汗がどっと噴出した。あは、はは、あはは。自分の笑い声が、やたらと乾いて聞こえるのは久々だ。
 と、いうわけで、その日も綱吉は心の慰めをサボテンに求めたのだった。
 骸は骸で何やら思うことがあるのか、外出が多かった。サボテンを片手に周囲の草原を散歩などしてみるようになって三日が経ったころ、骸は、唐突に綱吉を呼び止めた。
 外出帰りで、レインコートを脱ぎながらの質問だった。
 それは実に三十二時間ぶりの会話だった。
「隠し事してるんならタダじゃ置きませんよ」
(ひ、久しぶりなのにいきなり脅迫?)
 内心だけでツッコミつつ、綱吉は半眼を返した。
 外は雨だ。サボテンの様子を身に――必要なら、家の中に仕舞おうと思っていたところだ。
「骸さん、オレと口聞かないんじゃなかったの」
「時間の問題ですよ。僕が君に関することで尻尾を掴めないことなんて有り得ると思いますか?」
「…………は?」
 雨のためか、いささか髪が濡れていた。骸は前髪を選り分けつつ、腰に手を当てた格好で綱吉を憎らしげに睨んでいた。
「キャルラっていうのは先日の色ボケ従業員ですね。まあ、……彼女は君より僕の方が好みだそうですけど」
「え。は、話したの?」
 骸が頷く。二日前だと彼は悪びれもせずに言った。
「む、骸さん? 最近、何していたんですか」
 根本的なところにゾッとして綱吉は尋ねてみた。骸は遠い目をした。雨の降りしきる屋外を見つめる。
「隣近所も当たってみましたが……。僕らの姿すら知らないものばかりだ。君の外出時間から考えるとこの筋が一番有力だったんですけど――、でも、無いなら、僕に気付かれないまま、何らかの移動手段を用いてここまで忍びに来ていることになりますね?」
 綱吉はよろめきつつ骸と距離を取った。
「ま、まさか愛人でもいると思ってるんですか?!」
「そうじゃなきゃ何なんですか? このところ、よく外にでてるでしょう。君の靴とかコートとか調べればそれぐらいわかる。それに、先日、女性にやたら積極的であったようでしたけど。君ならあれくらい撥ね退けることは――」
「ひ、一つ聞いていい?!」
 綱吉は拳を握った。
「なんですか」骸は腕を組む。威圧的な態度だ。
「……骸さんって、ペットOKな人?」
 不可思議そうにオッドアイがパチリと瞬いた。それから、何を言ってるんですかとばかりに歪められる。その反応で充分だ。骸は動植物であっても間に介入することを許さないだろう、そんな予感は綱吉も前々から感じていた。
 彼が二の句を告げる前に、扉に飛びついた。
「外は雨ですよ」
「だ、だから行くんだよっ」
「……まさか、今もいるんですか? 君は僕よりもその愛人の方が大事だとでも?」
「だ、大事も何も――、馬鹿なこと言うなよ! 女に色気だすとか、オレが今までそういうことできなかったのは骸さんのせいじゃないか!」
 昔から――、正確には、学生時代以来からだ。自分は綱吉の恋人であると言い張り、骸は綱吉に触れるもの全てを排除すると宣言した。
 六道骸は平然とした面持ちで頷いた。だから?
 とでも言いたげに腕を組む。彼の発した言葉は綱吉の想像を越えていた。
「当たり前すぎるくらい当たり前ですね。それは今でも変わらない。綱吉くん。今、ここで相手を白状するなら殺すのだけは勘弁しましょう。まだ隠す気なら、」トン、と、骸は自らの右側頭部を人差し指で小突いて見せた。
 発声はしないまま、骸は銃声の口真似をした。
「こうです」
「なっ……、鬼ですか骸さん!」
「今更ですね」(あああっ、もう、この人ってホントに!!)
 ほんとに手に負えないっ。 口の中だけで叫んで、綱吉は扉をノブを回した。雨の中に走り出したと同時、
「綱吉くん!」腕が伸びた。
 が、綱吉も伊達にボンゴレ十代目を世襲していない。ばさりっとコートを翻し、骸の顔面目掛けて叩きつけた。っつ、と、彼が足を止めたスキに庭の柵を乗り越えた。
 家の裏手にある林に入ってしまえば追跡も楽ではないだろう。
 綱吉くん! と、切るように叫ぶ声を背中にして、雨中に突っ込んだ。
(テンちゃんを隠そう。骸さんの様子じゃ見つかったときに逆ギレしかねないしっ。それから勘違いだって教えても手遅れじゃないはず――)にしても、サボテンとの逢瀬がどうして愛人との逢瀬になるのか。
 綱吉はズキズキと痛むこめかみを意識しつつ、適当なところで方角を変えた。裏庭に飛び込むまでにはさほど時間はかからなかった、が。
「テンちゃん!」
 揚々と声をかけてから、硬直した。
 古びたテーブルの上に小鉢はなかった。雨がバシバシと表面を叩くだけだ。なっ、と、うめいてから綱吉はテーブルの下を覗き込んだ。
「ぁっ――――!」テンちゃんと名付けた彼は、横転して真下に転がっていた。風で飛ばされたのか、雨に殴られたのか。膝と両手をつくと、びちゃっと泥がシャツに飛び散った。落ちた衝撃が酷かったのだろう。根本から折れている。恐る恐ると、綱吉は丸みを帯びた上半分に手を伸ばした。が。
 チクリとした痛みで震えた。トゲが刺さった。
「…………」ぷつぷつ、連続してトゲが肌を刺した。
 サボテンを握りしめつつ、テーブルから這い出たところで呼び声がした。足跡を辿られたようだった。骸は、さすがにギョッとしたようで裏庭の柵を飛び越える前に足を止めた。
「……な、何してんですか? 君……」
 珍しく、骸は動揺していた。綱吉が涙目で振り返る。
「む、むくろさん。……テンちゃんが」
「てんちゃん? 愛人の名前ですか? それが」
「いつまで馬鹿なこと言ってンですか! テンちゃんボロボロになっちゃったんだぞ!」
 骸が柵を乗り越える。綱吉が握りしめているものを見て眉根を寄せた。我が目を疑うように、そろそろと食み出た緑色の物体に人差し指を向けてみる。
「……サボテン?」
「あ、雨の大馬鹿野郎……っっ」
 ぐずぐずとする綱吉を前に、骸が呆然とした。
 思考が停止したようなちょっと間の抜けた面持ちをすることは実に珍しく――、綱吉ですら初めて見るのでは、というくらいだったが、生憎、今の彼はそれどころではなかった。サボテンが死んでしまった。



 ベッドの上で座り込み、向き合う形だ。カーテンも閉めて、ランプの仄かな明かりがそれぞれの横顔を照らしだしている。疲れた声と共に、骸は綱吉の右腕を引き寄せた。
「愛人じゃないなら愛人じゃないって言えばよかったんですよ。紛らわしい……、本当に」
 軽くシャワーを浴びた後だ。綱吉も骸も、バスローブに着替えて首からタオルを下げていた。
「手、開きなさい。いつまで閉じるんですか」
「開けたら……、骸さん、捨てるだろ」
 警戒を込めて綱吉がうめく。
 骸はしばらく黙り込んだ。
「やっぱり捨てようとしてただろ」
 確信を深めて、綱吉は右手にさらなる力を込めた。骸が薄くため息を吐き出す。
「……まるで僕を悪者みたいに言うんですね。手当てしてあげようとしてるんですよ。どう見たって、それ、トゲが刺さってるじゃないですか」
「そういう問題じゃない」
 頑なですらある声音で綱吉が告げる。
「骸さんに無視されてる間、オレがどれだけコイツに慰められたと思うんですか。ダメですからね。捨てるっていうなら、開けない」
「綱吉くんって時々ものすごく憎たらしいこと言ってくれますけど……」
 そろ、と、左側から髪を掻き揚げるように骸が手を差し入れた。頭部を撫で擦る動きに、綱吉は眉根を寄せる。雨に打たれた直後か、あるいは可愛がっていたものを失ってしまったショック故か、慰めようとする意図をもって触れる指先が心地良かった。
 露わにした左耳に唇を寄せると、骸は唾液で濡れた舌先でフチをなぞった。
「それは、要するに僕が相手をしないから寂しかった、ってことでいいんですよね」
「〜〜〜〜っっ」綱吉が赤く腫れたまなこでそっぽを向いた。
「理不尽だよ。何でオレばっかこんな想いして――、勝手に勘違いして勝手に怒ってるばっかじゃん、おまえ。骸さん自分勝手すぎる!」
「はいはいはい、そうですね。今更すぎますけどね」
 まるきり棒読みで答えつつ、首筋を舐めて辿る。綱吉はひくりと目尻を戦慄かせた。唇は肩を辿り、腕をなぞって、サボテンを握りしめたままの右手を捕らえた。
「僕の代わりに綱吉くんを慰めたっていうこの塊が……」
「塊っていわないでよ!」
「綱吉くんねえ……。たかが植物ですよ。人ですらない」
 骸が不機嫌を眉間で主張した、が、綱吉も負けじと睨み返す。
「そりゃ骸さんは元々他人なんかどうでもいいだろうけど、でもオレはそうじゃない。オレを慰めてくれたって事実は変わらないんです。丁重に扱ってください」
「ほう」声音は平坦だったが、骸の眉間にはますます深い皺ができた。
 考えるように、やや仰け反って呟いた。
「ある意味ヘタな人間より厄介ですね。 綱吉くん、人間なら多少警戒するくせに――植物には無防備なんですか? 知り合って数日くらいでしょう?」
「そ、そうだけど……」(知り合って数日? サボテンに?)
 段々と話がズレていることには骸も自覚しているらしい。彼は、静かに喉を鳴らした。
「――まあ、もう死んでますから不問にしましょう。この植物がそんなに大事ならいいですよ。墓でも作ればいい。トゲの一本くらい取っておくのもいいでしょうね、遺品代わりに」
「も、燃やしたりしない?」
「……綱吉くんって僕を何だと思ってるんですか?」
 憮然として骸が顔をあげる。そこで、ようやく綱吉は右手を開けた。
 青年の興味はあっさりとそちらに移る。トゲが手の平中に刺さって血が滲んでいた。いたい、と、小さくうめくと骸は呆れた顔をした。
「そこの床に転がっててください。ベッドシーツにトゲが混じると面倒です」
「あ。待って。皿も持ってきて――、テンちゃん乗せておく」
「・……君の口から僕の名前以外の名前がでると……」
「も・や・す・な・よ!」
 オッドアイを半眼にして、骸は小さく頷いた。
「いくら僕でも植物にまで嫉妬しませんよ、くふふふ」
(しそうだからさっきから心配してるんだよ!)
 サボテンの亡骸はサイドテーブルに安置された。ピンセット片手に、どこかいそいそと――しているように、綱吉には見えた――、骸がトゲ抜きを始めた。いちいち、痛いですか? とか、これは? とか、聞いてくるので骸は愉しんでいるに違いないと綱吉は確信したが。
 一時間ほど後に、ようやく、綱吉は多量にくじられた手の平を抱えつつベッドに倒れこんだ。
「い、ったぁ……っ、サボテンってけっこう刺さるんだね」
「ああいうものを鷲掴みにした上、握りしめるっていう根性が僕にはわかりづらいですがね」
  救急箱を戻してきた骸がベッドルームにやってきた。ダブルベッドの中央に寝転んぶ綱吉を見て、オッドアイを細くしならせる。背後からゆっくりとベッドに乗り上げてきた彼の意思は数秒で綱吉にも伝達された。
「今日は疲れましたからね。雨の中、走ったし」
「そうですね。君にコートぶつけられましたし」
 綱吉はドキリとして骸を見返す。彼はにこにことしていた。
「ま、まさか、恨みに思ってたりとか――」
「くふ。そこまでセコイ男ではありませんが。しかしね、綱吉くん、さっきから思ってたんですけど、何でサボテンなんかに慰みを求めるんですか? 僕がいるのに」
「だ、だって。喧嘩してたじゃないか」
「そう。いつも折れるクセに、今回はなかなか折れないと思いました。てっきり、別の要因が――浮気とかがあるのかと、だから、考えたんですけど」
「…………」
 中央からどこうとした綱吉の足首をしっかりと掴んで、骸が手繰り寄せる。ずるずると引き寄せられながら、バスローブの裾を押さえつけていた。
「骸さん、あの……」上に圧し掛かる青年に、何と言えばいいのか。上手いことを思いつかねば。でなければ、これは、相当しつこく相手を強要される。綱吉は鳥肌をたてていたが、骸はその肌をうっとりとして撫で上げていた。
「すっかり体冷えちゃいましたね。暖めてくださいよ」
「あの――、あ、見られてるしね!」
 ハッとして、綱吉はサイドテーブルに安置されてるサボテンを指差した。
 骸が指の先を辿る。数秒ほどの沈黙。……ふ、と、小馬鹿にしたような笑みの後で骸は綱吉の体を抱えあげた。枕の上に落とすと、その両手首を捻り挙げる。
「い、っつ!」
「じゃあ見せ付けるとしましょうか」
  骸は、ここにきて上機嫌に首を傾げてみせた。
「君が誰のもであるかとか、誰と一緒にいるのかとか、教えることはたっぷりありますね」
「む、骸さん?!」不穏な雲行きに綱吉が悲鳴を飲み込む。くす、と、軽く笑うと共にバスローブに手がかけられた。肩を剥き出しにされた。即座に、カリと歯が立てられる。
「ちょっ……、あっ、ど、どんなマニアックなプレイですか、それ!」
「大丈夫、綱吉くんはいつも通りにするだけです」
 腹の上を二つの手の平が這いまわる。綱吉はぞくりとしたものを覚えて唇を引き結んだ。久方ぶりに――、人肌を直に感じる。徐々に弱まる抵抗に気を善くしたのか、はたまた、彼なりの謝意であるのか、盛んに顔中に口付けがあった。眉根を八の字にしながら綱吉が胸中でうめいた。
(骸さん、やっぱ嫉妬してるじゃないかぁっ)
 

 


おわり




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