AM.5時から
(光覆のあしあと)
薄っすら、瞼を持ち上げた。
この瞬間は恐ろしい。目覚めを自覚してから数分は過ぎた。深呼吸を繰り返し、汚れた天井を見つめる。それを続けると、ようやく張りつめていたものが切れた。
(よかった……。朝だ)
手足が、自由に動く。
キングサイズのベッド。その傍らには人が寝ていた。覚えのある後姿だ。綱吉は怯えた眼差しを送った。彼は、肩を晒して規則的な呼吸を繰り返す。寝ている……ように見えた。
(手錠もされてない。首輪は――、あるか)
声をかけようとか。一瞬だけ浮かんだ思考に、ゾクリとして体が震えた。骸より早く起きたことは、初めてだ。彼はおそらく快く思わない。
堂々と人間一人を監禁できるような男だ――、さらには首に毒まで仕込むほどの徹底ぶり。この男が精神的におかしいことを綱吉は既に知っていたし、徹底的に自分を支配しようとしていることも知っていた。
ベッドを降りた。骸から離れるように、そろそろと裸足のままで寝室を後にする。
ひたすらに巨大な屋敷だが、地下室をでてからは骸の寝室に連れ込まれる頻度も増えた。自分の部屋までの戻り方は知っていた。
以前の地下室とは別に、最上階に一室がこしらえてある。
綱吉は、階段をあがりながらも自然と体を抱いていた。冬の朝だ。まだ肌寒い――が、それ以上に、昨晩の記憶が全身を蝕んだ。
『綱吉くん。ほら、――ほら? 逃げ場なんてない。おや震えてますね? くふ、ふふ、怖かったら、僕を抱きしめていいのに』卑屈に笑みながら、骸が腕をだす。
それに縋るしか道はなかった。泣きながら縋り付く少年に笑みを深めて、骸はさらなる暴虐に及ぶ。そうした暴力を子細に思い出すたびに綱吉は歩けなくなる。壁に肩をずるずると押し付けて、両手で口を抑えていた。猛烈な目眩がして、体が冷たくなった。
「…………うっ」
途中で失神したことだけ、明確に覚えている。
慎重に腹を撫で、深呼吸を繰り返した。額には脂汗が滲む。屈辱感は、そのままダメージになって心身をひどくボロボロにさせる……。深呼吸を繰り返した。
(あいつが最低なの、今に始まった話じゃない……、から。うっ……)
しばらくその場で呼吸を繰り返して、やがて綱吉はシャワー室へと向かった。浴び終えたところでも、時刻はまだ朝の六時すら迎えない。
やがて、少年は困惑した面持ちで台所と向かいあっていた。腹が空いた。これだから、人間というのは惨めだ。
どうあっても生理的な現象には逆らえない。
(火を使うのは……、ヤダな。昨日の夜を思い出す。野菜だ)無造作に、冷蔵庫の棚を引き出した。そして絶句する。野菜室の半分ほどをニンジンが埋めていた。
『ろうそく固まっちゃいましたね。掻き出してみましょうか? これで』
彼は微笑みながら末恐ろしいことを言うのが得意だ。綱吉は固唾を呑んで首を振った。
レタスとキュウリを取り出して、冷蔵庫からウィンナーと生卵を引っ張り出した。普段、家事を取り仕切るのは柿本千種だが、綱吉も簡単なモノの配置なら理解している。難なくフライパンを探し出して、まな板に包丁を置いた。油を敷いて、ウィンナーを並べる。
切り目を入れなかったので丸くなっていった。
焼けたところに、卵を落とす。ポトンと音がした。
「うん。うまそう」
しばらく見守り、フタをした。
レタスは千切ったので、あとはキュウリを切るだけだ。しばらくはトントンとまな板を叩く音だけが響く。と、じゅうっとフライパンが煙を立てた。
――そこで、ふと、手にした包丁に目を留めた。
(――何やってんだオレは?)首には従属の証が巻かれているし、そこに仕込まれた毒は絶えず綱吉を脅迫する。従わなければ、自分は殺され無関係の何百という人が死んでしまうのだ。
手元に視線を落として、がく、と、膝にくるほどの衝撃に身震いした。
小口切りにしたキュウリが信じられない。丸々一本分を切るつもりでいた。一人で食べるならば、そんなに量はいらない。反射的にコンロの火も消した。
「な、んで――、こんなに!」
黄身が四つ。四つだ。言葉がでてこない。視界が震えた。ゴミ箱にも、平然と四つの殻が放り捨てられていた。
(気付かないあいだに骸たちの分まで作ろうとしてた? 馬鹿な。なんで――、オレ監禁されてるのに。そこまで……いつからそこまで諦めて――)
額を抑えようとして、ギクリとする。包丁を持ったままだ――。
綱吉の喉が戦慄いた。今ならば、死ねる。
そう思ったのとほとんど同時だった。する、と、指先が右耳に触れた。
「!!」「シャワー、浴びたんですね」
その指先は濡れて固まった毛筋をひとつ、つまんだ。
顔のすぐ真横で息遣いがする。
「なかなか、良い加減じゃないですか?」
背後から腕が伸びて、フライパンのフタが開けられた。
あ。くぐもった呻き声が、口をつく。横目だけでも。横目だけでも、振り返るのが恐ろしかった。綱吉は凍るような思いで肩越しに振り返る。六道骸は、上半身裸のままで後ろに立っていた。
気配はおろか物音も感じなかった。骸が、横目で綱吉に挨拶を告げる。
「……おはようございます。綱吉くん。今日はいやに早く起きますね」
「骸さん……、あ、あの。これは」
オッドアイに如何なる感情があるのかは、綱吉には読めない。
「…………え」
骸が無言で差し出した手のひらは、包丁に向けられていた。
「い。いつから見てたんですか?!」
戦慄した問いかけに、骸は答えなかった。包丁の刃を人差し指と中指でつまんで、捻りあげる。低い悲鳴と共に綱吉の指が解けた。淡々とした声が告げた。
「あとは僕がやります」
「…………っっ。骸さん?」
酷く冷めた眼差しがあった。
綱吉が言葉を飲み込む。何を言うつもりであったのか、把握しきってはいない。ただ、骸が衝動的に全身を貫いた――希死願望のようなものを見抜いたことだけはわかる。奥歯を噛んでいた。ひどくむしゃくしゃした気分になる。否定したかったのかもしれない。曖昧に首を振った。
骸は、綱吉に興味を無くしたようにまな板へと視線を降ろした。慎重な手つきで、キュウリに向けて刃をおろす。
「暇ならトースト作っておいてください。そろそろ千種と犬も起きてくるでしょうし。四枚です。ああ……、皿は三枚ですよ。わかってますね」
骸の推測通り、十分としない間に制服に着替え終えた千種と、パジャマのままの犬とが顔をだした。上半身裸の骸とパジャマの綱吉を見て、二人はギョッとする。
普段は、この二人こそまだ寝ている時間だ。
「な、何やってるンですか?!」
「たまにはね。はい、もう用意できてます。目玉焼きは十代目の手製ですよ」
「ええっ……?」
疑わしげに犬が綱吉を睨んだ。骸の足元で、抱えた膝に顔を埋めていた。顔の上半分だけを覗かせて、緊張の面持ちで三人を見上げる。
「新しいプレイとか?」
千種は、まじまじと半熟の白味を見つめた。
「千種は酷いこと言いますね。ただの好意ですよ。十代目の」
フォークでウィンナーを突付き、骸。頬杖をつきながら食事をするので、その心中は決して穏やかではないのだ。それは千種と犬はおろか綱吉にもわかる。
犬が、合点がいったというように拳を叩いた。
「わかった。アキバで人気のメイドプレイだびょん」
「あ〜、これは独りごとですけどね」
済ました顔で骸が首を振った。
薄目で犬を睨み、足元のツナの髪を掴んで手繰り寄せる。
「今日は家庭教師とボンゴレ十代目が面談する予定でしたがね」骸の膝のうえに、胸をつけながら、綱吉は困惑して主人を見上げた。
「優秀な右腕として、僕は彼に休養が必要だと進言しますよ。そこで、夜は犬の折檻をするとしてそれまでは綱吉くんの世話でもしてます」
「なっ! 骸さ――」
骸が、その口にウィンナーを突っ込ませた。
「ぐっ、げほっ、っう」
「い、いいんですか……。リボーンうるさいのにただでさえ」
「後半おかしくなかったれすか!」
千種と犬が引き攣った悲鳴をあげる。骸は、膝の上に乗せなおした綱吉の頭を胸に抱いて、今度は、ゆっくりと顎をくすぐる。綱吉は苦しげに眉根を寄せた。
「綱吉くん、トーストに何つけます?」
「骸さま、ペットに構うのは後にして……」
不承不承と、千種の呻き声。綱吉は、傷ついたような顔をしたが、千種には動じた様子もなかった。骸が、感情の混ざらない声音でキッパリ言った。
「決めましたから。リボーンに連絡いれておいてください」
綱吉には箸を握らせる。この場合は、食べてもいいという合図だ。骸の前に置かれた皿には、元から二つの卵焼きが並んで二人分のサラダが盛り付けられてあった。
しばしの間のあとで、かちゃ、と、食器が鳴りはじめた。こんな状況でも、腹が空いているのだから食べるしかない――。それが、今の綱吉の現状である。
支配者が、実に愉しげにクスクスと笑っていた。
「怒り狂うでしょうねえ。前もくだらない理由でキャンセルしてやりましたから」
「怒られるのは……」
「千種ですね」
呆気らかんと言い捨てる。
うぐ、と口ごもる千種の横で、犬が背筋を伸ばした。片腕をテーブル越しに骸の前まで伸ばす。骸当人は、迷惑そうに犬を睨んだ。
「意義アリれす! オレ虐待するの決定れすか骸さま?!」
「虐待なんて人聞きが悪い。ボンゴレが誤解します」
綱吉の頭を抱きこみ、骸は唇をしならせた。
「教育的指導です」
「骸さま同じ意味で言ってるびょん!!」
その腕の中で黙々と食事を続けつつ、綱吉は胸中でリボーンに詫びを呟いた。それが彼に届くことは無い。綱吉とリボーンのあいだにある信頼関係をうざったく思っているような節が骸にはたびたび見られたし、何より彼にそれを隠す意思がない。伝言など、とうてい伝わらない。
結局、綱吉が遅くから食べ始めたために、最後までテーブルに残ったのも骸と綱吉だった。綱吉の食事が終わってもしばらくは、骸も少年の髪を梳くことで満足していた。
「……お仕置きしますよ。理由はわかりますね」
変化は唐突だった。指先が、首輪に触れる。
「っ……、骸さん。い、痛いのはいやだ……。骸さん?」
「君は僕のウサギでしょう?」綱吉の首筋にツメをたて、撫でながら、静かに呟いた。「死んだら食べるって言ったじゃないですか……。忘れたわけでもないでしょうに。ひっどいな」
ぞくぞくしたものが背筋を駆ける。骸に教え込まれてきた数々の暴虐は、時に綱吉から思考する気力すらも奪い尽くす。完全に硬直する体を背後から撫でまわしつつ、「けれど」と骸が言った。
「美味しかった。綱吉くんの作ったもの」
「あ、れは。……忘れ……て……」
「どうして? 初めて食べましたよ」
骸が立ち上がる。綱吉を肩に担ぐと、冷蔵庫から二本のペットボトルを取り出した。寝室に向かう傍ら、揺れながらも綱吉は顔面を抑えつけていた。
「違うんだよ……! オレそんなつもりじゃない。忘れて、お願いだから」
「…………それも違いますね。綱吉くん、馴れてきてるんだ。人間ってどんな環境でも順応しちゃうんですよ」
骸の寝室までさほどの距離はない。ベッドに叩きつけるように綱吉をおろして、骸は、ニコリと双眸を歪めさせた。一対の眼球の底をほのかに濁らせて、愉快そうに上唇を舐めた。
「でも、君はね……。穢れた分が大きすぎて意思が納得できないんでしょう?」
綱吉が両目を見開かせた。耳を抑えようと――して、骸に両手首をつかまれる。骸は綱吉の上に跨ったままで語気を強めた。
「綱吉くん。憎き十代目。僕の至上の敵だ、あなたは。僕が右腕でいるのって、どんな気分ですか? 最っっ低で堪らないでしょう……、ボス」
綱吉の目尻に涙が浮かんだ。じぃと光る雫をオッドアイが凝視する。底の見えない眼差しは、なにか、不可視の凶器を突きつけられているような気分にさせてくる。彼の語る言葉はときに刃先以上に鋭利になるのだから、綱吉は辛抱がきかずに首を左右に振りたてた。
「やめてください……、オレはっ、十代目じゃない。骸さんじゃないか。……全部。ボンゴレファミリーもあんたのもんだ」
涙が伝い落ちていった。くすくす、笑い出しながら骸が首を傾げた。
「僕はいつでもボンゴレファミリーの不幸を願っているのに? 堪りませんね……。僕の業務はあなたのサポートですよ。それ以上でも以下でもない。ねえ、ボス。綱吉くん。今までの僕を見てわからなかったんですか?」
「うっ……」徐々に骸が本気で体重をかけてきた。
「くは……、君ほど泣かせたくなる男はいませんよ。目が赤くなるとウサギみたいになる。綱吉くん……、今朝、僕に断わりもなくベッドを降りましたね。いつから君はそんなに偉く?」
畳み掛けるように骸が付け足した。
「ねえ、君の飼い主は誰ですか?」
「……む、骸さん……」
さら、と、衣擦れの音がした。綱吉の上半身を脱がせると、骸は肩に顔を埋めた。片方の拳で首輪を締め上げる。
「ぐっ!」
「十代目の飼い主は?」
「ろ、六道骸」
「そう……。正解だ」
首輪にはニンジンを模したアクセサリーヘッドが付けられている。笑みを深めて、骸は鈍く光る金属片へと唇を押し付けた。ギクリと強張る背中を抱いて、毛布を引っ張る。独りごとのように骸が言った。
「君っていう存在を覆すのが僕の悦びですよ」綱吉と自らの体に被せると、体を丸める。すぐ横に落ちてきた顔を直視することはできない。綱吉はかたく両目を閉ざした。
「僕はまだ眠い。君は日中ヒマかもしれませんがね、これでもイタリアの連中にメールだしたり電話したりとか……、日本から離れられない十代目の意向を伝えたりとかで忙しいんですよ」
無論、綱吉はボンゴレ十代目としての意向を訊かれたことなど無い。
思わずパチリと両目を開くと、鬱蒼とした笑みがあった。ひっかけられた、と、気付いたが、言葉はでなかった。
「…………」思考が止まる。カーテンを締め切ると、室内は薄い膜を張られたように奇妙に色褪せる。薄闇につつまれたオッドアイがある。眉根を顰めたきり、硬直して縮こまる綱吉に骸は気を善くした。両目に好色げない色を灯しながら、綱吉の胸をまさぐってみせる。
ギクリとして後退りかけると骸は綱吉の手を取った。同時に小さく呟く。
「たまには眠るだけにしてあげますよ。あなたも寝ればいい」
「そ、れ、なら。オレは部屋に戻っ」
「ウソつくんですね。ウサギさん。寂しいくせに」
からかうように骸が指を絡めさせた。恋人がするような愛撫とは決定的にちがう。明らかに、骸はエモノをなぶって反応を愉しむ者の目つきをしていた。
「寂しいなら、この手を取ればいい。あなたは最高のボスなんだから」
綱吉はゆるく首を振る。それなら、骸さんは最低の右腕だ。胸中での言葉を透かし見たように骸が喉をクスクスと言わせる。綱吉は鼻腔から深く息を吐き出した。手足が冷たくなる。諦めの感覚に馴れたことが、どうにも辛かった。気を紛らわせようと部屋を見渡して、時計が朝の九時を示すのが見えた。起きたのは五時ごろだったはずだが。
(もう一日が終わる気になる――。違う、オレは寂しくなんかない)
心臓が痛んだ。長らく幽閉されたこの身体でも、まさか、肌が触れ合うことを独りでに喜ぶだなんて思いもしたくなかった。相手は、自分を幽閉した少年その人である。
「……おやすみなさい?」
それが、挨拶してみせろという意味だ。
綱吉が薄く両目をしならせる。彼が疑問符をつけて喋るとき、抵抗する手段など何も持ってない。かすかに頷いて返した。数秒間、視線が交差すると彼は唇だけで囁いた。
(よくできました。お仕置きは、あしたですよ)
カウントダウンのようだ、と、綱吉は思った。
おわり
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