春まで2ヵ月
(凍えた秋が明けて)




 「…………」言葉が出ない。脂汗が全身ににじむ。
 ツナは悲観的な気持ちで影の中に横たわっていた。上に被さる少年が、しきりにツナの頭髪を梳く。彼との距離は数十センチしかない。ヒバリは、ソファーと自分の体とに挟まれたツナを満足げに見下ろしていた。
「綱吉……。くせ毛だよね。変なの」
 つむじ近くの一束を指で摘んで、くりくりと揉み合せる。
 ツナは戦々恐々と縮こまり、それでも両手だけはヒバリの胸に当てていた。
 圧し掛かってくる体重に抗おうと必死だ。ゆっくりと足が絡みついて、下半身の動きすら制限しようとする。彼の指先は髪を掻き分けて、頭の地肌を直接に撫ではじめた。ゆるゆる、揉み込むように撫でてくる五つの指の腹。ツナはいよいよ顔面を真っ赤にした。強く首を振って悲鳴をたてる。
「ひひひばりさ――んっ?!」
「何?」
「な、ななななんの御用なんでしょうかっ」
 下校時刻、ゴミ捨てに向かったはず。焼却炉にゴミを捨て、道を帰ってきたところで、
『綱吉。ひとりなの?』
 である。かくして、応接室に連れ込まれてソファーに転がされたわけだ。
 応接室に足を踏み入れたときから、どこか張りつめていた。今日のヒバリはどこかおかしい。ゾワゾワ、皮膚のすぐ下をくすぐるような……危険だ。
 危険なムードだ、と、本能が警告する、
「帰りますからねっ。ゴミ箱帰らないとウチの教室がゴミ捨てできなくてゴミだらけになっちゃう!」
 いささか論理の通っていないことを叫びつつ、体を滑らせる。する、と、ソファーをすり抜けて床に転げ落ちようというところで、ヒバリが止めた。ツナの両手首を掴んで、ソファーに押し付ける。
「…………っっ!」
 茶色い瞳を見開かせて、ツナは真上の少年を振り返った。
「綱吉さぁ……」黒目が細くしなる。
(すごい怖がってる。ぞくぞくしちゃうな。噛みたくなるよ)応接室は薄暗かった。下校を始めた生徒たちの話し声と足音が、ずっと遠く、くぐもりながら響いてくる。ヒバリは胸中との言葉とはちがう言葉を発音した。思い出したような言い方で呟いた。
「バレンタイン。僕にチョコくれただろ?」
「……あっ、あげましたっ……」
 もぞ、と、背中を捩じらせたが力を緩めてはくれない。顔の両脇に自分の手首があったが、それがふるふる震えているのがツナには信じられなかった。この状況ではまるで、あれだ。あれ。
(お。襲われてるみたい――、なんだけど)
 ツナが固唾を呑む。そうしなければ心臓が飛び出てしまう。
「教えてよ。なんで、くれたの? 他にはあげた?」
 じっと見下ろす黒目が猟犬のようだった。
「ゴ、ゴミ箱戻しにいかせてください」
 渇いた声で訴える。ヒバリは首を振る。ツナは半狂乱のような勢いで叫んだ。
「ほ、他にはあげてないけどっ。オレは貰いました! 京子ちゃんとかハルがくれたしっ――、ひ、ヒバリさんにあげたのは――、でもヒバリさんもくれたじゃないですか! 何でくれたんですか?!」
 ヒバリはニィッと口角を吊り上げた。
(かかったね。綱吉)
「綱吉のことが好きだから。だからあげたの」
「…………ッッ、お」
(オレもそれであげた! っていうかあげないと文句くるだろうし――、だって……)と、言いかけてハッとする。ヒバリが愉快そうに目尻を丸くしならせていた。
(は。嵌められてる? これって)
 ヒバリは小首を傾げた。黒い瞳、その奥がらんらんと光る。
 彼の白い指先は、ぐいっとツナの顎を掴むと上へ持ち上げた。
「もうすぐ半年経つね。お互いの気持ちも、もうわかりきってる。……そろそろじゃない?」
「なっ」(な、に、が!!!)
 いや――、わかってはいる。わかってはいるけど!!
 ツナは口角を強張らせる。どっと潤みだした一対の瞳を見下ろして、ヒバリが舌なめずりをした。黒尽くめの彼が不意に行う動作はドキリとさせるほど扇情的なことがある。とくに、黒地のなかにたった一つの赤が咲いた場合などに。ツナはギクリとして顎を反らした。
「綱吉――、口、開けて」
 見据える眼差しが、秘められた輝きが強い。
 操られたがごとく、ツナは震えながら唇を丸く開かせた。すっとヒバリの指が潜り込む。人差し指と中指を使ってツナの舌を直接なぞりながら、ヒバリはくつくつと肩で笑い出した。戸惑いなく指で摘んで、舌を外へと連れ出す。
 べろ、と、自らの舌と二回ほどこすり合わせてから、ヒバリが舌先にキスをした。別の、独立した生き物のようにツナの舌先がびくびく痙攣する。
「ふっ……、はッ」
 ツナは窮屈な呼吸を強いられていた。ヒバリが指を離す。咽こむ綱吉の頭上に、覆い被さりながらヒバリが言った。
「眠っててもいいよ」
(そ、んな、無理っ! っていうかわかっていってますよね――っ?!)
 雲雀恭弥は嗜虐に酔うような面持ちをしている。危険だ、まるで飢えた獣のような迫力だ。
(今日のヒバリさんヤバいっ!)震え上がるツナにヒバリは少しだけ申し訳無さそうな顔をしてみせた。額が抑えられ、顎は仰け反らされる。
「眠ってられるもんならね……」露わになったのは喉仏だ。ヒバリが歯を立てていく。動物じみた行為に、彼はくつくつと愉悦混じりの笑いをこぼした。
 その瞬間にこころは決まる。
 恥とか外聞とかその後の制裁はひとまずおいて、たった今の身の安全だ! 両手首を必死に揺すって、叫んだ!
「だ、誰かぁアア――――ッッ!!」
「で、まあ、こうなるのがお決まりだな」
「!」すぱぁん!! ヒバリが前方へと我が身を投げる。でんぐり返しのように転がって、取り残されたツナの顔面にハリセンが叩き落された。
「…………んなぁっ?!」
 ぶるぶると震え、涙目になるツナの腹の上にリボーンが落ちた。赤子ながらにスーツ姿、山高帽の上にはカメレオン、ボンゴレの家庭教師兼最強のヒットマンだ。
「ぐふぅっ!」
「チャオっす。ヒバリ、ボディーガードが雇い主を襲ってどうする」
 衝撃に身悶えるツナの上からはどかない。リボーンはハリセンをヒバリへと突きつけた。
「……プライバシーの侵害じゃない? これ」
 ヒバリは背負ったガクランの裏へと両腕を回す。体の前へ戻したときには、チャキッ! 夕日を浴びて、黄金色に輝くトンファーが添えられていた。
「ガキの遊びじゃないんだから。当たり前だろ?」
「ん〜〜。オレとしてはなァ、男よりも先にオンナを経験させてーんだよ」
「ツッコむのはそこか――――っっ?!」
 思わずツナが跳ね起きる。真っ青になって、ソファーのへりに着地したリボーンを指差した。
「おまえの貞操観念は変だ!」
「ハハ、テメー、ヒットマンに何を期待すンだオラ」
「ぎゃっ、ぎゃあああっ?!」バシバシとハリセンで鼻先をはたかれて、ツナはソファーから転がり落ちた。残念そうにヒバリが舌打ちする。
 ツナはハッとして扉を背にするヒバリを見た。
「ひ、ヒバリさん。何でこんなこといきなり……?」
「こんなことするとは思わなかった、って? 綱吉、そう本気で思うの?」
(お、思わないけどっ)
「僕はね、君が好きなんだけどな……」
 黒目は挑発的だ。逃れるように、ツナはそそくさへと窓辺へ逃げた。窓が空いている。いつの間に空いたかはわからないが、リボーンの侵入口はココだ。
「待て。ツナ、まだでるな」
「えっ?」
 窓枠に手をかけようとしたツナを止めたのはリボーンだった。さっと素早い小声だった。
 ヒバリがじりじりとリボーンとの距離をつめる。
「まぁ……。別に、いいんだけどね。フン。じゃあさ、このぐちゃぐちゃっとした衝動の処理には赤ん坊が付き合ってくれるの?」
(……あ)その物言いに、不意にツナは思い出した。このところ、ヒバリが第三者を甚振っている場面を見ない。ヒバリと親しくするようになって、どうやら彼は三日に一度のペースで校内風紀を正しに行く――、つまりは鉄建制裁をしにいく――、と、知ったのだが。
「ハン。まあ、オレの言いつけが守れるってことはわかったぜ」
「え。ど、どういうことだよ?」
 ヒバリがトンファーを水平に構える。
 そうしながら、どこか、厭きれるような色を瞳に灯した。自らの靴先を見下ろす。
「僕は綱吉のボディガードだからね。必要があれば、どんな腹の立つ輩でも殴るのを我慢するくらいのことはしなくちゃいけない。赤ん坊は、僕に練習して見せろっていうんだよ」
「おいおい、ちょっとだけだぜ? まあ……見張ってて正解だったけどな。テメー、充分花マルだったぜ。ツナさえ襲わなきゃ」
「ハ……。褒めてるの? それ」
 瞳がぎらりとする。ヒバリが僅かに前のめりになった。
「襲うっていうより……、相手になってもらおうと思っただけだよ」
「でもツナにはまずオンナを経験させるぞ。そのつもりでいろ」
 ああ――、ヒバリが感嘆のように呻き声をたてた。
(赤ん坊って好きだけど嫌いだな)やけに冷え冷えとして胸中で響くものだ。ヒバリは、フッと勢いをつけて呼吸をした。バァン!! ソファーの前にあったテーブルを、リボーン目掛けて蹴り上げる。
「僕も馬鹿じゃないけど……、絶対女より気持ち良くさせてあげるよ?」
「それが大問題だっつの」
「だあああ!!」
 ひょいっと窓の外へとリボーンが逃げる。ツナは文字通りにコケて難を逃れた。だだんっと頭上から跳ねたような音がする。
「馬鹿を殴り倒すのはやめろで綱吉と遊ぶのはダメ! 頭がどうにかなるよ! ねえっ赤ん坊、僕がいつ君を狙いだすか考えたことは――、ぶっ!!」
 ずだっ。奇妙な衝撃音と共に、聞いたことがないようなくぐもった悲鳴がした。
「ふ、ふたりともっ」深くは考えずにツナが窓へと身を乗り出した。状況は把握しきっていないが、とりあえず、リボーンの要求に耐え切れなくなってヒバリが自分を襲ったらしい、ということはわかった。
「ほどほどに――、?!」
 ぎょっとした。言葉がせき止められたようで、続かない。
 信じがたい光景があった。ヒバリが土の上に横倒しになって、しかも片腕にトンファーがない。吹っ飛んだらしい。……着地に失敗して。
「えっ……」ツナは身を乗り出した。
 足元。ヒバリの足元に黄色い物体――、バナナの皮だ。ヒバリがぶるぶると震える。そのすぐ頭上で、リボーンがハリセンを空中で振り回していた。
「フ。引っかかったな!」
 びし、と、ヒバリの頭頂にハリセンを突きつける。
「とりあえずペナルティだ。オレの特訓は厳しいんだぜ、ヒバリ」
「……こ、これが……ペナルティだって?」
 ヒバリは、完全に据わった目をして上半身を戦慄かせていた。精神的ショックが大きいようだ。
(バ、バナナの皮で滑る人初めて見た……)思いつつ、言ったら絶対殺されるのでツナは青褪める。固唾を呑みこんだ。その様子に気付いて、リボーンがにやりとした。
 飛び上がるほどにツナが仰天した。肝が冷える、どころじゃない。肝が凍る。
(ばかばか! オレに振るな! 振るなああ――っっ!!)
「こいつがコケにされるなんて滅多にねーぞ。どーだ、ツナ。感想は?」
(馬鹿やろ――――っっ!!)
(つ、つなよし)ヒバリがぴくりとする。
 少年二人は青褪め、おそるおそると互いに目を見た。
「あ、いや、あの」もごもごとするツナである。ヒバリは上体を起こすとあぐらを掻いた。苛立ったように眉根を寄せ、両目は胡乱にツナを睨みつける。冷や汗があった。
「なに。言えないようなことなの」
「いえそんなっ。ひ、ヒバリさんって――、コントみたいなこともできるんですね!」
「…………」「…………」
 じ、と、次に見詰め合ったのはヒバリとリボーンだった。無表情。目元も口元も、緩みもせず伸びもしない。その均衡が三十秒ほど続き、二人は同時に均衡を破った。
「ぎゃははははは!!」
「〜〜〜〜っっ」
 腹を抱えるリボーンに、グラウンドにのたうつヒバリ。ツナはもはや青褪めていない。真っ白だ。
「ご、ごめん……、ヒバリさん?」
 のたうったのは数秒だった。ヒバリは、暗い目をしながらすっくと膝を伸ばしてトンファーを構えた。構えたあとで、片方が無いことに気付いてキョロキョロとした。
「あ、そこ。茂みのとこ、ろ」
「うん」どこか、しおらしさのある返事をするとヒバリはトンファーを拾ってきた。両手に持って、触感を確かめるようにぶんと振る――、そのままの勢いで、リボーンへと飛び掛った。
「笑いすぎだ赤ん坊! 殺す!」
 ひゅんっ! ガキッ! トンファーが風を切る。リボーンは棍棒で攻撃を受け止めていた。しかし応戦しつつも赤子は口角をニタニタさせている。
「…………っ、赤ん坊ォ!」
 ついにヒバリが足をだした。リボーンが後ろに跳んで避けるが、ヒバリは追撃をやめない。
「甘いね! 僕は小さいころいろいろ祖父にやられているんだよ! これしきの恥じゃへこまない!」
「おお〜〜、だってよ。ツナ!」
(だからオレに振るなっての!)
 勘弁して、とばかりに涙目になりつつツナは頷いた。それを横目にして、一瞬、ヒバリの動きが止まる。――言い聞かせるように呟く声がした。
「そう、へこまないよ!」
「じゃ、じゃあ。そこくらいにして……。リボーン、ヒバリさんにまで迷惑かけるのやめろよな」
「ああん? 逆じゃねーの? テメーらがオレに教えを請うんだろ」
「赤ん坊……」ヒバリがうめく。
「でも怒るからね僕は」
 それと同時に、両手を振りかぶらせて、赤子をトンファーで挟み撃ちにした。あっ?! と、叫んだのはツナだ。だったが、リボーンはにょろんと延びる。ヒバリが打ったものは身代わりにされたカメレオンだった。
「チッ。君ってほんと何でもアリだね!」
「ふふん。さいきょーだからな」
 リボーンはヒバリの背後に立っていた。にょろにょろ、軟体動物のように伸びたカメレオンが素早く大地を張ってリボーンの帽子へと戻る。
「レオンも最強の片割れだ。テメー、ヒバリ一人で敵うかな?」
「はっ……。赤ん坊――」ヒバリがすぅっと目を細める。彼は、ツナを振り返るとその額目掛けて人差し指をたてた。えっ。不思議がるのはツナご本人だ。
「君の手腕は相変わらず素晴らしいけど。君の片割れがそのカメレオンだっていうなら僕には綱吉が片割れだ。ひとりで……。ひとりで中国にまでいってトンファーの勉強する気はない」
「…………はっ?!」
  目を見張るツナだが、リボーンはため息をついた。
「いい話なんだがな。レベルアップできるぞ」
「僕は自分の力で自分を育てる。君の手は借りない」
「ちょ、ちょっと待って。もしかしないでもオレが知らないところで重大な話してなかった? 二人とも」
 ヒバリが横目でツナを振り返った。わずかに、にこりとしならせる。
(迷わなかったって言ったらウソだけど。でも綱吉は僕から離れない。チョコもくれた)
 赤子に断わりの電話をいれたのはその直後だった。せっかくの若い時期だ、目を離したらツナはすぐに成長してしまうだろう。ヒバリにはそれを見逃す気がない。ゆっくり、囁くように――けれども、きちんと通る声で告げた。
「大丈夫。僕は綱吉の傍にいる」
「あっ?! え、いや……。あの?」
(よ、よくわかんないけど)
 とりあえず。愛されてはいるらしい。ヒバリはじぃとツナを見ると、決意したようにトンファーを胸の前で交差させた。
「例えばさ。赤ん坊、君相手に毎日仕掛けてみるとか、ねっ!」
「はっ。怪我してもしらねーぞ!」
「上等!」がぁんっ。金属同士が交錯して金切り音を飛ばす。ツナはおろおろとしていた。ゴミ箱を片手にしたまま、立ち去ることも窓からでることもできずに困惑している。
 弁明を求めるようにヒバリを見つめるが、彼は、振り返らない。好戦的に口角を吊り上げ、猟犬の眼差しでリボーンを射抜いていた。一度、ああなると滅多なことではこちらの世界に戻ってこない。
 あとで、二人きりになったときだ。そういうときのヒバリは口が軽くなることを経験的に知っていた。ガクランをはためかす少年の背中に向けて叫んでいた。
「ほっ、ほどほどにしてくださいねェッ?!」
 内心では、(夜まで続くかもしんないなこれは)と、覚悟するツナである。





おわり





>>>もどる