飛ばない燕 ×1 +1

 

 

 週末になれば綱津がやってくる。
「ツバメさん。ブラックコーヒーで良かったんでしたっけ?」
「ああ。ごくろうさま」
 座椅子で小説を広げていた少年は、コーヒーカップを受け取るなり腕で綱津の頭を引っかけた。
「この部分、読めるね」
 くぐもった悲鳴をあげながらも、腕の間から綱津の顔がでる。
「ハイ……。なんとか」
 二人は、現在は小説の翻訳を介して語学勉強を行っている。二十センチの厚みに、綱津は最初こそ悲鳴をあげたものである。
「読んでみて」
 厳しいながらも、どこか楽しげである。
 綱津はゲームの開始を悟っただろう。ツバメはときおり、人を試すような形で一方的な遊びを押し付けてくる。こうなったら逆らう術はない。待遇が改善されたとはいえ、ツバメは、依然として絶対的な権力者として綱津の上に君臨しているのだ。
『それとも、読めないのかい? あれだけ練習したのに?』
 綱津の身体が強張った。問いかけはこの国の言葉ではない。
『読めます』緊張した声は、優雅な響きを持ってツバメの鼓膜を震わせる。
『「卒業おめでとうございます。次の進路は決めましたか。実は、わたしは」』
『僕はイタリアに行く。数年帰ってこない』
 ツバメにはわかりきった答えである。しかし綱津は勢いよく顔をあげた。
(そりゃそうだろうな。言ってないから)
 イタリアに行くとは言った。しかし数年とは言っていない。せいぜい一ヶ月だと考えていただろうとツバメは推論を立てるが、これが的中していた。舌ったらずな質問が飛ぶ。
『そんなに長いんですか。住むんですか』
『ああ。向こうで勉強をする』にやりと口角をあげた。
『それでも、ついてくるだろ?』
 綱津が目を見開く。ツバメは笑みを深めた。絶対にイエスと言わせる心づもりだった。少年は見つめられる間に肩を落とす。敗北を認めたらしい。
「めちゃくちゃですね……」
「向こうでもこれまで通りに尽くしてね」
「尽くす、って」苦笑する綱津だが、否定はしない。ツバメはコーヒーに口をつけた。浅い苦味が舌を転がる。綱津はまだペーパーでしかドリップできなかった。小説を閉じた。
「君ん家の近くにアパートってあるの? 高校はそっちだし引越そうと思うんだけど」
「ん〜……。あるけど、ボロいですよ」
「じゃあ綱津の家で空いてる部屋は」
「父さんが単身赴任してますけど……」
 いつかのようにニコリとする。裏に潜む思惑が感じ取られたらしい。綱津が口角を引き攣らせ、開け放った窓から風が吹き込んだ。
「だ、ダメですよ……」
「家賃と食費と光熱費。もろもろ含めて三十万までだすよ」
「た、高ッ」
(ものすごくいい案だと思うんだけど)
 狼狽する綱津をよそに、ツバメは再びコーヒーに口付けた。呆気らかんとした口調で当たり前のように宣告する。
「来週はそっちの家に行くから。母親に話しておいてよ」
「きょ、拒否権は」
「今まであったっけ」
 ツバメと綱津は同時に遠い目をした。
 それからしばらく無言になったことが事実を物語る。ツバメは、母親を懐柔するための手段を考え始めた。(やっぱり甘いもの?)イタリアに連れて行くなら多少の護身術も覚えさせなければならない。同じ屋根の下にいればそれも楽である。
「お、俺、困ります……。だってずっと一緒なんてそんな。俺たちまだ」
「?」真っ赤になったままブツブツと呟く少年を、ツバメは怪訝に見下ろした。

 

 

 

 

 

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