飛ばない燕 ×1
大柄の男が壁に叩き付けられた。
襟首を掴まれていた少年が、ストンとコンクリートに落ちる。続く激しい堰音に、ベルトから細身のヌンチャクが引き出された。
「今、どうするつもりだったの。僕がこなければ? 殺す? 殺されたいの?」
言葉の端々に殺意が漂う。
青褪めたまま二の句が継げない大男。ベンツから、見かねた運転手が飛び出した。
「元哉さん! 私らはお父上に……っ」
「わかってる。こういう悪趣味なことはあいつの範疇だよ。来いって?」
零度の温度を伴う眼差しに、大男は狼狽しながらも頷いた。少年が舌をうつ。
「ツ、ツバメ……さん」
「綱津は気にしなくていい。先に学校いっててよ。僕は後から行く」
「それは、できません。元哉さん。あなたは、本日付で転校されることとなりました」
「えっ!?」
尻餅をついたまま、綱津は顔をあげた。
男とツバメとを見比べる。ツバメの眉目が怪訝に歪められていた。
「どういうこと。それ」
「私らは、田沢綱津を痛めつけ元哉さんを連れ戻せと、それだけしか聞いてないです」
「へえ。それはまた」
ヌンチャクが、ガシンと塀の一面をこそぎ落とした。男達が震え上がる。
「燕の家らしいやり口じゃないか!」
ツバメが綱津を振り返った。
無理矢理に腕をとりあげ、立ち上がらせる。
視線は栗毛の少年を捉えていなかった。切れ長の瞳は地面を睨む。早急に思考を進めているような、鋭利な光があった。
(父さんが綱津に気がついた。一緒に居すぎたんだ)
綱津は怯えた眼差しでツバメを見上げる。
見下ろしたまま声をかけた。
「僕を連れていけ。父さんに会う」
「つ、つばめさん。俺は」
「学校。気をつけていくんだよ」
ツバメがベンツに乗り込めば、車体はすぐさま発進した。綱津が叫んだ。
「お、俺っ。空教室で待ってますからね!」
通り過ぎざまに目が合った。
「聞こえてますか、ツバメさん!」
(きこえてる)と、胸中で囁いた。
燕と言う苗字はアクセントが『ば』にある。
ゆえに鳥類のツバメとは発音が違うのだが、そのシャープな佇まいと、夏季であっても黒のガクランを羽織り、その白黒のコントラストから、彼はツバメと呼ばれていた。
綱津はあっという間に車窓の欄外へと押し出された。
気だるさすら漂う簡素な住宅街。拒絶するかのように少年は目を閉じる。二日前の言葉が蘇った。『ツバメさんは、俺を気に入ってるんですか……?』
空教室で試験勉強に励んでいた。
『そうだけど。問題でも?』
『悪いって言ってるんじゃないんです。そ、そうなら、嬉しいなって』
綱津はモゴモゴとしながら目を伏せた。
(顔真っ赤にして。あの子の度胸でよく口にできたと感心したよ。怖がってたから)
(僕も覚悟を決めるべきなんだ)
(父さん。答えをだしてあげるよ)
――だから綱津には手をだすな。何度も反復する言葉に、ツバメは人知れず苦笑した。
少年との間にあるものは、始めはずいぶんと捻じ曲がっていたものだ。変化を思うと笑わずにはいれない。車は高速道路に乗り上げた。スピードがぐんとあがる。数多くの他車を追い越した。
その日は、いつものように寝転がっていた。
ツバメが公然と使用している空き教室である。机を三つ並べて、背中を横たえる。足音ひとつ聞こえなかった。目を閉じたままじっとしていた。
(二時間目の予鈴が鳴った後だった)
パチリと目を開ける。眼球だけを動かせば、窓枠に人の手かかかるのが見えた。現れた頭部は、小柄な男児のものだった。
栗毛をぼさぼさにして、充血した目を窄めさせている。上半身を乗せたのはいいものの、下半身がついてこなくて焦っている様子だった。
(三階だ。無理ならやらなければいいのに、って思ったのを覚えてる)
「手伝って欲しい?」
「えッ」
少年が、ギョッとして顔をあげる。
見知らぬ顔だった。しかし、向こうはツバメを知っていた。「つ、つば――っっ!?」
あんぐりと口をあけて、大きな瞬き。よほど驚いたのか、手を離してしまった。落ちるよりも、ツバメが腕を掴む方が先だったが。
片腕で、少年を教室へと引っ張り込んだ。
無造作に床に落とされて、小さな呻き声が聞こえる。
「あんた、僕を知ってるんだ」
「お、同じクラスですから。燕さん」
ツバメは意味深な微笑みを張り付かせた。
鳥類と同じ発音で呼ばれているのを知っているので、律儀にアクセントを矯正したのが面白かった。
「そうなんだ。名前、なんていうの」
「田沢綱津です」
「つなつ、そう。綱津ね。幼く見えるけど二年生なんだ? 今まで気づかなかったよ。授業にはほとんど出ないから」
ツバメが楽しげに独りごちる。
彼が、都内で幅を利かせる燕組の一人息子だというのは有名な話だ。
さらに、ヌンチャクを携帯していて、気に入らない輩を滅多打ちにするという話も。気難しくて笑顔のない人だという話も。田沢綱津が知らないわけがない。
案の定、少年は恐怖と戸惑いをごっちゃにした顔でツバメを見上げた。
「こんな時間に、どうして、こんなとこから入ってきてるんだ?」
察しはついた。進学校として名高い仲盛中は、校則がえらく厳しい。
この教室の窓を開けたのはツバメだ。その窓が、綱津には天の助けに見えたのだろう。窓辺の大木は学校外の敷地から生えていた。
「ち、遅刻したからだよ……」
近寄ってくるツバメにたじろぐ綱津。ツバメは笑んだまま、少年の襟首を掴んだ。
「教師に引き出されたら、困っちゃうね」綱つがごくりと生唾を飲み込んだ。ツバメは笑う。
「喉が渇いてるんだ。ちょっと、外の自販まで行ってジュース買ってきて」
「え、ええっ?!」
「できるだろ。また、引き上げてやるからさ」
「つ、燕さん……」
「ツバメでいいよ。さ、早く行け」
窓から上半身を押し出す。綱津が死に物狂いで枝を掴んだ。視線を腕時計に落とす。
にっこりとして、宣告した。
「スタート。五分以内だ」
(暇潰しの材料が手に入ったと思った)
タイヤがキュッと音をたてる。
車を降り、迷いのない足取りで屋敷へ踏み入った。
目指すは奥の書斎だ。すれ違う強面の男達が、ツバメを見た途端に頬をわななかせて頭を下げた。菖蒲が掘り込まれた木造の扉を、蹴るようにして開け放った。
「転校なんて、ずいぶんと唐突すぎない?」
天井までそびえる本棚が部屋の全面を覆っていた。
言葉が渦巻いてるような印象を訪問者に投げつける。しかしツバメは、読書家でありながらも彼の本を借りたことは一度もなかった。
「久しぶりの対面でそれか。変わってないようで、嬉しいね」
ツバメはくつりと喉を鳴らした。嘲るような含みだ。
部屋の真ん中で肘掛け椅子に座る男も、同じように喉を鳴らす。
「あそこが気に入っているんだ」
「今度は都内の私立校だ。品の悪いもんはおらんだろ?」
「僕ら自身が、どうしようもないほどに品が悪いと思うけど」
「ウチはこれでも行儀のいい方だぞ」
聞き分けのない子供はきらいだ。
小さく呟いて、男は自らのヒゲを撫でた。愉しむ時のクセだというのをツバメは知っている。少年は苛立ちを隠さなかった。
「僕は反対する。戻しておくから」
「ダメだ」
「何故」
「お前にこそホワイと問うべきだね」
部屋の隅に追いやられたデスクへ向かい、男は一枚の書類を取りあげた。調査書のようで、詳細な文字が書き込みされている。幾枚もの顔写真が、クリップで留められていた。
「田沢綱津。身長158センチ体重44キロ。現在は母親と二人暮らし。平凡な一市民だ」
足元に、調査書の束が投げつけられた。写真は隠し撮りだ。ぞうきん片手に廊下を歩いてるものがあれば、私服での横顔もある。
「おまえの友人は私が見繕う。この男はお前に相応しくない」
「僕が決めることだろう」
本当にただの暇潰しの道具だった。
怖がる反応がツバメには面白かった。怯えながら反抗しない姿が愉快だった。
変わったのは綱津の何気ない一言からだったようツバメは思う。
その日は、空き教室にいた。
綱津に絡むようになって一ヶ月が経った。
休み時間に連れ出すなど軽いもので、公然と授業をサボらせることもある。法外権力を恐れて教師からの文句はない。綱津が出席扱いになっているのを、ツバメは知っていた。
(僕といるのはマイナスにならない。わかってた。だから尚更、逃す気がしなかった)
授業時間が終わっても、ツバメは机の上で寝転んでいた。手には文庫本がある。
綱津は二人分の学生カバンを手にして、窓の外と動かないツバメとを忙しく見比べる。オレンジの塊が街並みに沈んでいた。ぽろりと綱津がこぼした。
「今日の放課後、ハヤマたちが遊びに来るのに……」
「ハヤマ? だれ、それ」
声音は冷え冷えとしていた。綱津は眉を顰めたが、なんでもないことのように答えた。
「友達だよ。ツバメさんも同じクラスじゃないですか」
「トモダチ? へえ、そいつらは、綱津の部屋に行くんだ?」
「そ、そりゃ、遊びにも来ますよ……」
「ふうん」ひくり、と、ツバメの口元がうごめく。横たえた上半身を起き上がらせると「帰る」とだけ呟いて空き教室を後にした。
週末に遊びに行くと通告したのは、その翌日である。
――カツンとした硬音にツバメは視線をあげた。男は椅子に戻り、仏頂面を向けた。
「育て方を間違ったとは思わん。しかしどうしたのだよ。この頃は本業すら疎かにして学校に行くでないの。そんなことより、お前がやらねばならんことは大量にあるだろ?」
「イタリアに行くとか?」
嘆くように、男は天井を見上げた。
天板には無数の植物の姿が掘り起こされている。完全に主の趣味である。
「転校はしない。綱津には手をだすな」
「ツナツね。そんなに彼が大事かね」
茶化すような物言い。ツバメは鼻の上にすべての感覚が収束されるのを感じた。全身が研ぎ澄まされていくようだ。粟立っていた上辺の感情が深い奥の底へと沈む。深淵にあるものは青色に燃えるだけで原型を留めていなかった。凍り切った眼差しが、男の待望していた言葉に重なった。
「そのかわりイタリアに行く。家の手伝いもキチンとやってあげるよ」
「……ほお。あれほど嫌がっていたのに」
「交換条件。綱津とのことは全て僕に通すようにしろ。それ以外での手出しは許さない」
「はっ……」驚嘆には、馬鹿にした響きも混じり入っていた。しかし男は了承した。
踵を返し、その背中を揶揄が追いかけた。
「なかなか、恐ろしい目つきができるようになったでないの。その感覚を忘れるなよ」
扉をでたところで、先ほどの運転手が控えていた。
都内から仲盛町まで一時間。数分のうちにツバメはベンツの後部座席に腰かけていた。
手探りでポケットの携帯電話をひっつかむ。
少年の声が聞きたかった。イタリアに行く。その意味をツバメは熟知している。ゆくゆくは組の後継ぎになるということだ。
(イタリアンマフィアと深い親交を保つことで、燕組は都心を牛耳るノウハウと戦力を手にしている)
(行ったら数年は戻らない。マフィアどもの信用を勝ち取って僕を覚えてもらわないと)
薄型の携帯電話は、すっぽりとツバメの手のひらに収まる。アドレスの『あ』行に綱津がいた。田沢の前にアを入れて最初にくるよう設定させたのだ。
(綱津はカタギだ)景色が後ろへ流れていく。ツバメは携帯電話を握りしめた。
その日。
同年代の男の家へ初めて足を運んだ。
いわゆる『休日』を体感したのも初めてだった。何かをやれと求められることもなく、一日をリラックスして過ごす――言葉として理解していてもピンとこなかった。
朝に電話があった。父親だ。
都内の某企業にゆすりをかけるという。
しかし、その日のツバメは手短に電話を切った。友人の家に行く。その言葉に、受話器の向こうで素っ頓狂な悲鳴があがった。
(言った後で自分でもおかしかった。この僕がそんな言葉を使うなんて)
綱津の部屋はごちゃごちゃしていた。
プラモデルやら漫画やらが無秩序に棚に放り込んである。学生カバンや教科書はフローリングに転がる体たらくだ。ツバメは、散らかった部屋を逆に珍しく感じて物色ついでに掃除をした。ひたすら戦々恐々とした綱津が、止めさせようと四苦八苦していたのも面白かった。
やがてツバメはクッションに体を預けて寝転がる。いつものようにしていい。言われて、綱津は肩をすぼめたままマンガをめくりはじめた。ツバメは、くすんだ天井を見上げる。
(友達ってこんな感じなのかと考えた)
この部屋にきたのはツバメだけではない。しかし今や彼はその一人に数えられる。そう思えば奇妙な満足感があった。クッションを鷲掴み、内部の綿を揉み解す。綱津は黙り込むツバメが気になるようだが何もいえないでいた。彼にしてみればツバメの訪問自体が、意味がわからないものだったのだろう。
「コーヒーが飲みたいな」
綱津が、ビクリと肩を揺らした。
「い、淹れてきます」
「ああ、いらない。そこにいろ」
「へっ?」
「言ってみただけだから」
怪訝そうに、綱津が覗きこむ。
その肩を引き寄せて、ツバメは自らの頭を乗せた。枕にした格好だ。
「ツバメさんっ?!」
「僕は寝る。動いたら、あとで酷いからね」
少年の身体が強張る。
内心でくつくつと笑いながら、ツバメは意識を闇に委ねた。
(本当に眠れるとは思わなかった)
彼は人前では眠りにつけない、はずだった。
親指で決定のボタンをプッシュする。何度かコール音が続いた。
途切れたとたんに、ツバメは早口に宣言をした。一秒たりとも待ってはいられなかった。
「綱津。イタリアに行くよ」
(君も一緒に)
続かずに言葉が途切れる。
受話器の向こうに気配がない。
自分からの電話には、どんな状況でも出るよう伝えてある。ツバメは眉を潜め、いささか強めに少年の名を呼んだ。
――荒い息遣いが、かすかに聞こえた。
「つなつ……?」
不穏な囁きが少年の唇に昇る。
運転手は肝を冷やしてルームミラーの燕元哉を見上げた。少年の顔色はみるみると白くなり目尻が吊り上がる。唇で微笑みを形作ろうとしていたが、ヒクリと歪んでいた。
「なにをいいたいのかな……?」
青年が受話器の向こうでがなっていた。
「だからァ、てめーさんの部下はゲットしたっつの。ツナツっていうの?」
脳髄にキンとくる。興奮に濡れた声音だ。
「あ、俺、だれだかわかる? 黒高の三年なんスけどぉ!」
数ヶ月前に病院送りにした高校生が脳裏に浮かび上がった。ミニスカートの女を連れていて、騒いで面倒だったのでまとめて殴り倒したのだった。
「復讐のつもりなわけ」
「あったりまえよ。とんだ大恥だぜ! フラれるわ校内中でハブられるわでよおー」
やあやあと囃し立てる声が重なる。
かなりの人数がいた。男は場所を指定すると電話を切った。ミラーを睨みつければ、青褪めた運転手と視線が交差した。
「県境の倉庫街に急ぐ。速度は気にするな」
「く、組の若いのにでも手伝わせますか」
「そんなことしたら殺すよ」
生唾を飲み込み、運転手はアクセルを踏みしめた。
グンと仰け反るような軽い衝撃。逆らわずに、背後へ体重を預けた。
(殺す)胸中で繰り返す。(一年は病院から出て来れないようにしてやる)
最初に聞こえた荒い息遣い。あれが綱津に違いない。ツバメは拳を握り締めた。
――ああいう声をださせたことが、一度だけある。その日も綱津はすすり泣いた。
(少しやりすぎたと思った)
リビングの隅から耐えるような息遣いが聞こえる。綱津の右頬は赤く腫れあがっていた。
綱津をアパートに引き入れた。そのアパートが普段のツバメの拠点である。物珍しげに綱津はタンスを覗きベランダに見える庭園を覗きこむ。十分もうろうろしたろうか。次第に眉を吊り上げ、ツバメは無言で少年を殴りつけたのだった。
ソファーに腰掛け、しばらく対応をあぐねたツバメだが、やがて腰をあげた。広広とした室内の端と端にいた彼らは、ツバメの接近により手を伸ばせる位置まで近づく。
ツバメは少年を抱き、その背を撫でた。
綱津がかすかに震える。
「そんなふうな君も好きだけど。そろそろ泣き止んでくれない?」
驚いた顔をする少年。ツバメは、ゆっくりと言葉を続けた。
「殴ったのに深い意味はない。ちょっと苛々しただけだから」
立たせて目尻を拭い、台所に向かった。ビニールに氷を入れるツバメに、綱津は始終、愕然とした眼差しを注いだ。ビニールはタオルで包まれた。
「珍しがらせるために呼んだわけじゃないからさ。はい」
ニコリと純朴に微笑む。
綱津がさらに目を見開いたので、ようやくツバメは自らを訝しんだ。頬の内側がピリと痛み、普段は使わない筋肉を動かしたことを主張していた。
(驚いたけど嫌だとは思わなかった)
その日を境に、ツバメと綱津は殊更にあやふやな関係となった。
目が合えば綱津が赤面する。ツバメは気がつけば少年を探し携帯をさぐる。
今までサボっていた授業にでるようになった。綱津は、ツバメとは反対の通路側にいた。ノートを取る横顔が新鮮だった。見ているだけで満足する自らをツバメは危ぶむ、が、やがて彼はそうした感情の正体に気がついた。
(甘ったるいもの。恋とか愛とか)
汗の滲んだ拳を、そっと開く。
倉庫街は静まり返っていた。ベンツを帰らせ、ツバメは最奥へと足を向けた。重々しい深緑の扉は鉄製だ。開け放てば、むせ返るような熱気とタバコの匂いが溢れだす。
奥に、逆毛の男が立っていた。
「ちゃんと一人できたようだな。イイ子でちゅな〜。ハハハ!」
くすんだ金髪を上下に揺らし、高校生が笑う。白を基調とした制服は黒高のものである。
数メートル上の位置で光る巨大な電球が、ただ一つの照明のようだ。
ざっと見て三十人はいた。黒高もいれば、野球バッドを手にする少年やカタギに見えないスキンヘッド男もいる。ツバメが表情を動かしたのは、一見して少年の姿がなかったからだった。
「綱津は?」
「そこに転がってるぜ」
男が顎で指し示す。酒瓶やらが転がる乱雑としたスペース。その隅で、綱津は背を丸めて蹲っていた。大股で歩み寄るツバメの背をいくつかの笑い声が追いかけた。
「綱津……」
ゆっくりと、抱き上げた。
口には煤けた色のタオルが詰められていた。取り出せば、唇が咳込むように戦慄く。
薄目を開けてはいるが、生気がない。意識があるのか、ないのか。それすらわからなかった。顔や腕・露出した部分の全てに青痣が滲んでいる。入院は免れないだろう。
(確か、仲盛中の期末試験って明後日から)
ざわざわ、と、背後からざわつきが聞こえる。
今のうちにやっちまえと、さざめく声が鼓膜を震わせる。ツバメの奥底も揺さぶられた。全身が総毛立ち、奥歯がガリと硬く合わさる。自らの淵にたまる毒々しい色の塊が、俄然と触手を広げた。ひとつの熱情が他の全てを凌駕して侵食していく。明確な指針を与えた上での鼓舞である。脳裏に肢体を引き裂くイメージが浮かび上がった。集団の気配がすぐ後ろに迫る。塊が膨れていく。
しかし焼け付く情動を抑え付け、ツバメは額を押し付けた。
綱津の額はひやりと冷えている。倉庫の床は穿きだしのコンクリートであるからだ。
(僕と関わらなければ)胸中での囁きもいやに冷たい。ツバメは体内に己が何人もいる錯覚を感じた。一人が、ひときわ大きい声で叫んでいる。『先を考えるな!』(こんなところで冷たくなったりしてはいなかったね)
ひゅん、と、後ろで風が悲鳴をあげる。
「僕がいけなかった。悪い……」
ベルトからヌンチャクを取り出した。
振り上げた棒から腕に伝わる手ごたえ。一息で立ち上がり、振り返る。鉄パイプやらナイフやら、獲物を抱えて暴力に酔いしれた眼差しを向ける少年たち。ツバメは笑った。
数時間前に父親に見せたものと同じで、いつか綱津にみせた微笑みとは正反対に異なるものである。
手前にいる男が口元を引き攣らせた。一足で彼の懐に潜り込み、顎にヌンチャクを叩きつけた。それを合図に一対三十二の乱闘が始まった。
「多勢に無勢だな。これなら、アンタでも逃げられないぜ!」
気がついていた。男たちに見覚えがある。過去、ツバメが病院送りにした連中なのだ。
(これは僕への罰かな)
あっけらかんとした口ぶりは、頭の中でだけだ。円を描いたヌンチャクは、同時に三人の顔面を強打した。けれど後頭部に振り下ろされた瓶底は避けられなかった。
「……――――っっ」
目蓋の下で泡が弾ける。
「もらったァ!」
たたらを踏んだ横から鉄パイプが掲げられる。その腹にヌンチャクが埋まる。拳は別の男を捉えていた。返ってきたヌンチャクが、風を切ってツバメに纏わりつく。片目を閉じたまま低く囁いた。
「おまえらだよ」
(逃げられないのは!)
荒い呼吸の合間に、咥内の血を吐き捨てた。
ツバメだけが二本足で立っている。呻き声もなく伏せる者全てが意識を手放しているが、制服の腹部に大きな裂け目がありシャツには血が滲んでいた。腕には一本線状の痣がいくつか刻み込まれている。
綱津のポケットから携帯電話を抜き取り、よろめいた足取りで倉庫をでた。
病院のダイヤルを回し、不良に絡まれた少年が重傷だと告げる。あとは番地をつげるだけで通話を切った。アドレス張をあければ、あ行に『燕さん』と文字があった。
「…………」
ツバメの口角が歪む。
指先は速やかにデータを抹消させた。自らの携帯で運転手を呼び出し、そうしながら少年の名を呼んだ。
(傷が残らなければ良いな)
いくつもの思考が重なる。(僕以外のつけた傷が残るなんて、耐えられない)
(父さんとの約束も意味がなくなった。今更反古にするつもりはしないけど)
「結局、残るものは何もないってワケね」
『はい? 元哉さん?』
「なんでもない。それで、最初のとこに来て……。途中で包帯を買っといて」
(残るのは綱津だけだと思った)
(それでも構わなかった)
ツバメはゆるく頭を振った。綱津の携帯電話が、指の間をすり抜けてゴトリと落ちた。眉間を皺寄せただけで、待ち合わせ場所へと足を向けた。
翌日。転校の手続きを訂正することなく、ツバメは仲盛中を去っていった。
ヘッドフォンから流暢な会話が聞こえる。
英語でなくイタリア語だ。ツバメは単語集を片手に外を見下ろしていた。
新しい住居は新宿にある八階建てのアパートだ。ツバメの部屋は最上階にあり、階下は、駅からも近いので人通りが多い。小柄な影を目に留めて、ツバメが囁いた。
「マッローネ。茶色、栗色」
(綱津と同じ髪の色だ)
長らく会っていない。病院に問い合わせ、退院を確認したのは二ヶ月前だ。
アッディーオ。決定的な別れと書かれた単語を呟いた。約束は放棄していない。じきに高校生になる。高校を卒業すると同時に、イタリアに行くのだ。ヘッドフォンを外し、ツバメは時計を見上げた。ジャケットを取り上げて空模様を確認する。雲は薄かった。茶髪の少年は、首にストライプの赤いマフラーを巻いていた。
(確か、赤いのを持ってたとは思うけど)
顔を近づければガラスが曇る。
モヤを拭き消すが、すぐにまた白が滲む。ツバメはため息をつき、踵を返した。足早に玄関をでてエレベーターに乗り込む。アパート前の通りに飛びだした。が、マフラーの少年はいなかった。
(……わかってたけどね)
自嘲の笑みが浮かぶ。
行きつけの喫茶店を目指し、駅とは反対の道へと足を伸ばす。
角を曲がって、
「あっ」
綱津と鉢合わせた。
びっくりした顔をして、胸に抱いたカバンがずり下がる。指の隙間からメモが落ちたが、カバンはすり抜ける前にツバメが支えた。咄嗟だ。見上げれば綱津の鼻先がある。
至近距離のままでツバメは硬直した。
「あ、あああの」綱津は口をパクつかせた。
「ハヤマが新宿でツバメさん見たって、そ、それで新宿に。組の事務所みつけて」
組員は怖かった。だが名前を名乗ったらツバメの住所を教えてくれたと綱津は続ける。ツバメの父親は約束を守っているのだ。
「俺、ツバメさんを探してて」
うっすらした切り傷がこめかみにあった。あの時のものか。しかしぎこちない微笑みの方に視線が引きつけられる。(まずい)と思うも体が動いた。抱きすくめればそんな思いも消えた。ただひとつの感覚が全てを握りこむ。以前にも似たことがあったが、今度のはもっとずっと暖かった。
ツバメは考えるよりも呟いていた。
「傍にいて。お願いだから離れないで……」
「こっちの台詞じゃないですか! 助けてくれたの、ツバメさんなんですよね? 声が聞こえて、なのに携帯のアドレス消えてるし学校にもいなくてどっ、ど、どうしようかと」
「僕も。綱津がいなくてどうしようかと思ってた。ずっと思ってた。イタリアに来てよ。勉強とかお金とか全部どうにかするから」
「イタリア?」
「来て。傍にいてよ」
黒目の裏で足掻くものが伝わったのだろうか。綱津はキュッと唇を噛んだ。
「わかってて言ってるんですか? 俺は」
「うん」返答を待たずに唇を合わせた。
「僕も好きだよ」
見開く瞳をツバメが見下ろす。
離した体の間に風が吹き、今度は綱津が抱きついた。
完
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>あとがき(反転でお読みください)
ページ制限を自分でつけたため急ピッチ展開です。
20×20原稿用紙30枚分。こんな話まで読んでいただけて滅茶苦茶に嬉しいです。
イメージとしてはヒバリさんが飛ぶ鳥です。着地地点がツナという。 ツバメの方は地上に住んでる鳥で、しがらみが強くて飛べないという。つなつさんは飛べるけど、飛ばないでいっしょにいますよ、と、そんなイメージです。パラレルにするべきかと悩みましたが、結局ツバメと綱津で書きました。いやはや。読んでいただけて、本当にありがたいです。ありがとうございます! 少しでも気に入っていただけたら幸いです。
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