自転車というものは、旧文明の遺物だ。
少年はゴクリと固唾を呑んだ。地球の海を模した、擬似海面から吹きつけてくる潮風で頭髪がはためく。おそるおそるとタイヤに腕を伸ばし、ペダルを探った。……数秒後には、頭を抱えていた。
「うっそォ――!! ペダルが取れたぁ!」
「おい、ダメツナがまた自転車壊したぞ」
「あーあ、留年決定か? 相変わらずバカだな〜」
「ちょっ?! お、置いてくな――って、ああああ」
後ろ手に手を振って、同級生たちはアッサリとペダルを踏みしめた。腰を半分だけ持ち上げて、どんどんと遠のいていく後姿に肝が冷える。今時、月はおろか地球でも自転車を足代わりに使う人間などいない。しかしながら、学校では初歩の身体能力の訓練のために乗り方を教えられるのだ。
「う、うう。サマーバケーションの返上だけは勘弁……っ」
手の甲で目尻を拭い、横倒れになった自転車を立て直す。その間にも、生徒たちが自転車で脇をすり抜けていった。中には、台車を使って四人ほどの生徒を運搬している者もいる。自転車は実生活では出番がないので、とにかく、どんな手段を使ってもいいから、時間以内にゴール――つまり、海の向こう側へと回り込むのが合格のルールだった。
「なんだぁっ? ダメツナ、リタイアか? 並盛月面校、前代未聞のダメっぷりじゃんかよー」
返す言葉がない。うな垂れながらも、しかし、自転車に跨った。
「と、とにかくっ。あと一時間! 向こう岸まで行けばいいんだろっ」
ペダルの欠けたまま走り出した。冷やかし混じりの同級生がギョッと目を剥いた。
「あっ?!」少年も同様だ。片足だけがペダルを踏んでいるため、自転車は簡単にコントロールを失った。ぐらぐらと蛇行する一台に、周辺の生徒が悲鳴をあげた。
「わ、わわわわっ。どいて――!!」
一番外側で、呑気にペダルを漕いでいた少年が目を丸くする。
赤い瞳と青い瞳、二つを同時に持っていた。吸い込まれそうな色をしている――、ブレーキを握りしめた。間に合うワケが、なかったが。
悲鳴と歓声が交差したのち、少年たち二人は砂地に転がっていた。
「あ、頭……。いったぁ」「何がどうしたっていうんですか……?」
互いに頭を抑え、上半身を起こす。ひゅんひゅんと自転車が駆けていく。その群れから外れたところに、ポツンと二台の自転車が落ちていた。
「他人の妨害まですンなよ、ダメツナ」
同級生のひとりが背中を蹴りつける。
うぐ、と、砂地に顔面からぶつかると、向かいの彼は両目を鋭くさせた。
「今のは。君が、僕にぶつかって? いい迷惑ですね」
「ご、ごめん……、なさい」
(オッドアイって、言うんだっけ)
まじまじと瞳を見詰める。潮風が少年たちの髪と衣服とも照らす。二人とも簡単な格好で、ジーパンにシャツを羽織っただけだ。しばらく経ってから、少年は気がついた。これだけ目を見つめても違和感を感じない。
視線も合いつづけている。つまり、相手も、自分もじろじろと見つめてるというコトだ。
「あ。あの……?」
「ダメツナ?」「あ。ツナって、愛称で」
「ふうん。僕の目が珍しいんですか」
奇妙な微笑みが口角にある。ツナはどきどきしながら頷いた。
「でもこれ、右目は見えてないんですよ。生まれつきでね」
そうなんですか。言いながら、チリと焦げ付くような感触がして鳥肌が立った。
腹の底の、ずっと奥のところで、誰かが嘆きながら喚いていた。自然と、手のひらが心臓まで延びる。向かいの彼は、目を細くさせて再びツナを覗き込んだ。
「今まで、会ったことが?」
首を振る。彼も首を振った。
同じように、その手のひらで心臓を撫でている。眉間がしわ寄っていた。
(ずっと。ずっと、会いたかった気がするのに)なぜだか視界が潤む。ツナは大きく首を振りたてた。(バカか。そんなこと。あるわけない。それに、こんな気分を、どう伝えればいいかなんてわかんない――)
「僕は」彼が囁く。
自転車がすぐ真横を通り過ぎても、潮風が前髪を掻き揚げても、一欠けらの動揺すら抱いていない。確信の篭もった声音だった。
「僕はずっと。会いたかった。いつか、こうして同じ立場で言葉を交わせる位置まで、辿り付くことを、永いときのなかで望みつづけていた。ずっと」
「…………オレも」
変な感覚だ。まるで、自分が自分じゃないようで。
見えない何かに頭を乗っ取られて、口を勝手に動かしたようで、同意しながらツナは何に同意しているのかわからなかった。きっと、彼も同じ心地だろうとツナは思う。
彼は、語りながら不思議そうに瞬きを繰り返していた。
やがて、ニコリと両目が笑いだす。納得したようだった。そうしてツナの腕を取る。
「行きましょう」「でも、オレの自転車は――」
「大丈夫です。ほら、ツナ君。乗って!」
砂地をくだって、自転車の荷台を叩く。
驚くあいだに、再び腕をとられた。砂地を登ると、彼は腕時計を確認した。
「まだ、急げば間に合うはずです」
すでに他の自転車はない。最後尾だ。ツナが荷台に足をつけるのを見届けて、彼も自転車を跨った。
「あの、オレ、こーやって乗るの初めてなんですけど……」
「平気ですよ。僕も初めてですから」
「でっ、げえ?!」
ペダルを漕ぎ始めている。
慌てて、肩にしがみ付いた。蛇行だらけの、危なげな走行だった。
が、最初だけだ。すぐにバランスを取って、少年は中腰になりながら自転車を前へ前へと進ませる。潮風が横から照りつけるのと、前から生まれる突風と、あちこちから吹く風に煽られてツナは小さく悲鳴をあげた。
「前世での行いが悪かったのかなとか、よく思うんですけど」
「えっ?!」声が聞き取りづらい。少年の頬で汗が光っていた。
「まだ捨てたもんじゃなかったみたいだ」
「な、なんですか――?!」
唐突に、少年が振り向いた。
オッドアイにドキリとしてツナは息を呑む。
「地球がきれいだと思いませんか?」
「え……」見上げれば、頭上の彼方に青い星がある。先ほどまで、太陽光シールドの影に当たって隠れていたものだ。(地球。……今は、人間はごく一部にしか住んでない。ほとんど全域が保護区域に指定されてる)先日、テスト範囲になっていたので、地球に関する知識はまだ頭にあった。星は青く、うっすらとした白いものが所々で輝いている。あれが雲といって、雨を降らせたり日差しを遮ったりするのだ。
「地球が――、地球がどうかしたんですか?」
暴風に負けずに、ツナも声を張りあげた。彼も叫び返す。
「サマーバケーションのあいだ、一緒に観に行きませんか? ホンモノの地球の海を!」
(海)「……――――」
ぞくりとした。指先が熱くなる。
「あ、あれ」目尻がひとりでに滲んでいた。
ゴシゴシとすれば、肌が濡れる。潮風が目に染みたワケではないた。オッドアイが地球を追いかける。そうして、彼を見て、色の異なる左右のものが潤みを帯びているのに気がついた。
「本物の、海へ。どうですか? まだ、チケットは取れると思います」
わずかに震えた声だ。前方に、他の生徒たちが走らせる自転車が見えた。
「……うん。行こう」震える。全身と、声と視界の全てが震える。
一直線に丘をくだった。星が輝いていた。
「海に!」
終
>>もどる
>>トップにもどる