顎を掬われて、綱吉は信じられずに目を剥いた。
 眼前にいるのはベスト姿の風紀委員長だ。彼の両手にトンファーはない。手刀のように指をピンとさせて、爪先で綱吉の顎に触れていた。一秒よりも、ずっとずっと短い時間での出来事だ。
 悲鳴もあげられないほどの素早さで、綱吉は後方へと吹っ飛んだ。
 ストンと垂直に着地して、ヒバリは腕を組んだ。
「……弱い。足蹴りだとでも思ったの?」
「は、は――」
「歯切れよく返事」
「はぁい!」
 涙しつつも綱吉は上半身をあげた。
 顎が、まるで一度割れたみたいに酷く痛んでいる。ヒバリの蹴りを寸でのところで避けたハズだった。ハズだったが、掬った顎にめがけて、ヒバリは手のひらの甲を思い切り叩きつけたのだ。林中にヒバリの淡々とした声が響く。綱吉の欠点を機械的にあげつらねたものだ。見上げた彼は、頭のうえに雨雲を背負っているように見えて悪魔さながらだ。
 う、う、と涙ながらに頭を垂れる綱吉である。
 一週間に二回は、指輪所持者の誰かと対戦を組まされていた。
 獄寺や山本が相手なら、ほとんどハイキングみたいなものになるが、ヒバリが相手の場合はホンモノの戦闘なのだ。ヒバリは一切の容赦をしない。リボーンが、やたらと対戦相手にヒバリを指名するのも、それが理由になっている。
(オレにはいい迷惑だよリボーン……!)
 涙目で、枝の上にいる赤子を見上げる。
 膝のうえに載せていた本を閉じて、リボーンは大地に降り立った。
「よし。骸を呼んでおいた。後は変わっていいぜ、ヒバリ」
「ふうん、助かるね。この子の相手ってアクビがでそうだもん」
「ひ、ひどい……。本当のことだけど」
 ヒバリに睨まれて、綱吉が背筋を反らす。
 あくびを噛み殺す彼とは反対の木立のあいだから、少年が姿をみせた。
 綱吉とヒバリが目を丸くする。それは確かに六道骸だった。だったが、そうとは思えなかった。頭髪がボサボサで目は淀み、頬はコケて、くたびれた灰色のシャツに身を包んでいた。
「む、骸?」返事はない。綱吉とヒバリの間に立つと、オッドアイは、惰性を帯びた動きで赤子を追いかけた。足元がおぼつかず、たたらを踏んでからの呼びかけだった。
「大概、君も鬼畜ですね。また呼び出すなんて」
「お疲れだな。できたか?」
「はい」
 あ。綱吉が喉でうめく。
(また、やってきたんだ……)
 眉間にシワがよる。綱吉の口中で、酸っぱいものが溢れ出していた。ヒバリは物珍しげに骸を眺めたが、赤子の目配せを受けると頷いた。声もあげずに音もたてずに、ヒバリは木立のすきまに身をいれた。
「あっ……」
「ハイハイ。君の相手は、僕です」
 据わった目つきで、骸が立ちはだかった。









 三十分もしないうちに雨が降りだして、綱吉はぬかるみに足を取られた。
 林のなかを逃げ回っていたときのことだ。赤子はいなかった。追跡者たる骸だけがその場に居合わせた。彼が槍を手放すのが、ブラウンの瞳に映る――、綱吉は目を閉じた。背中が水面に叩きつけられ、水飛沫があがるなかで叫ぶ声が聞こえる。名前を呼んでいるようにも思えたけれど、正確なことはわからなかった。
 綱吉が、むくりと身体を起こした時には、骸はライターを片手にして顰め面をうかべていた。
 川べりだ。見上げれば、崖が頭上の五メートル上ほどに聳えてたっていた。ジャリの上に寝そべっていた為に身体のそこここが痛い。綱吉の全身がびしょ濡れだ。
 同じく濡れそぼった姿で、骸はあぐらを掻いていた。
 彼の膝に乗っていた枯れ枝を見つめると、骸は指先で枝を払い落とした。首を振る。
「ダメですね。どれでやっても点火ができない」
 川の水面には多量の円が描き出される。にわかな、雨だ。
 ライターを懐にしまう骸に、綱吉は声をかけた。両目が霞んでいて、背中がヒリヒリと痛んでいた。
「骸って、タバコ吸うんだ」
「なんでそんなことを聞くんですか」
「ライター……」
 雨粒が水面に当たるたび、ぱしゃぱしゃと音がする。
 体育座りになって、綱吉は膝の上に顔を乗せた。ひどい倦怠感は、川に落ちたせいではない。修行の疲れだ。ヒバリのやられた顎の痛みがゆっくりと蘇ってきた。
 眉根を寄せてから、骸は口角を下げた。
「吸いません。持ってると便利なんですよ」
「便利、って……」
 舌足らずに繰り返した。
 少年は肩を竦めた。面倒くさそうに首を振る。
「燃やす、という手段も有効だということです。死体は残りますが、他の証拠の大方は抹消できる」
(あ……。そっちの仕事で便利って……、ことか)呆けままで呟いて、しかし、数秒後に綱吉の意識は覚醒した。骸の言ったことの意味がようやく理解できたのだ。蘇ったハズの痛みが吹き飛んで、代わりに胃袋が締め上げられて喉にこみ上げるものがあった。
「オレ、それ、やっぱ馴れない……」
 そうですか。無機質な返事に顔をあげると、骸はいつもの薄ら笑いを浮かべていた。勝気で、自分に敵うものはこの世にいないとでも言いたげな眼差しがある。頬がコケたまま、憔悴を滲ませたままの瞳で、そんな顔をする骸の姿は幽鬼そのものに見えた。
 雨が降り止まない。リボーンがやってくる気配もない。
 綱吉も骸も、立ち上がろうとしなかった。三十分も経つころには、綱吉もその理由に気がついた。自分は疲れているから立ち上がりたくないのだ。骸も、疲れているから動こうとしないのだ。
 やや猫背になって、骸は空を見上げていた。顔面を雨が叩く。
 流れていく粒のひとつを、視線で追いかけながら綱吉が口をあけた。心臓がばくばくと脈動した。
「なぁ、ピオーヴェレ――」
 オッドアイがびくりとする。
 綱吉は、顔面に視線がくるのと感じながら膝に力をこめた。
「寝ていいですよ。寝てないんでしょ?」
 手探りしてくるかのような眼差しを避けて、綱吉は目を閉じた。彼にそれを強要する人物が誰であるのか、予測はついている。
「今ならリボーンもいないし、誰もアンタを見てない。オレは気にしないし」
「そんなことを言っていいんですか。君はボンゴレ十代目になるのに?」
「いや、な、なりそうなムードだけど、オレはなるって決めたワケじゃ……」
 もごもごとしている内に、骸が喉を震わせた。
「くっ。投げやりだな」
 小馬鹿にしたようなニュアンスのある言葉だ。
 けれど、それ以上に呆れが色濃かったので綱吉は顔をあげた。その呆れは、罵倒ではなく、親しいものに向けたからかいを含んでいた。
 驚愕のまなこを返されて、骸は照れたように苦笑した。
 そのままで空を見上げる。細かな雨が空中に広がって、一斉に、あるいはバラバラに落ちてきては水面を波立てていた。それでも川の流れは続いていた。
「僕は」雨に混じって、骸が呟くのが聞こえる。
 彼の視線を追いかけて、空へと視線をあげていた。雨雲から骸へと視線をおろす、穏やかな笑みが骸の口角に張りついていた。
「殺される」
「…………え?」 















>>つづく